2006年12月31日日曜日

おせちつくってま


オレは2人兄弟ですが、先にオレが家を出て、7年くらいまえに妹が嫁いで、13年前にオヤジが亡くなって、今では実家はオカン一人。なので、オカン、おせちをつくらんようになったんですわ。
でも、正月は親戚一同、実家に結構集まるし、いつの間にやらオレがおせち&正月料理担当。。。
鏡餅の飾付けは、15年前くらいにオヤジに教えてもらったのがノートに書き記してあって、今でもそれを見ながら、ですわ(笑) 年に1回のことやから、全然覚えられしまへん。。

ほいで、昨日、天満市場でしこたま食材を買い込んで、昨日今日となんやらつくってますわ。オレ、こんなことやって何年になるんやろか。。。。

自分の家と実家と2軒分の大掃除もしてるし。。はぁ。

元旦の夜は徹夜麻雀大会に出向くから、親戚連中で焼肉でもしてくれ、ってかんじで、焼肉関係の食材を買い込みやした。
2日目は、鍋やな。とりあえず、タラバガニ買ったし。
3日目は自分の家に戻るやろから…、知らん。

おせちは…、
昆布巻きつくって、お煮染めつくって、数の子漬けて、紅白なま酢つくって、キンピラつくって、エビのすり身入れた伊達巻きつくって…。
栗きんとんと黒豆、棒ダラは、面倒なんで、出来合いのを買いました(笑)
最後、赤飯炊いて、鯛の塩焼きやな。

そのあと、電燈やらを拭いて、大掃除を終えたら、初詣に出かけます。京都、どこへ行くやろか?


年の瀬につじあやの☆

今年最後の本日の1枚:
『BALANCO』
つじあやの

YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=i96UBRB8eaQ

2006年12月30日土曜日

今年の読書


商売柄ってこともありますが、毎年、年間で300冊オーバーは本を読みます。1日に1冊というわけではなくて、同時進行で何冊も読むから、1週間で7冊前後って読みかたです。
それが、今年は200冊に届かんかったです。
理由は簡単で、本を読む時間がmixiに費やされているわけで。。

ほいで、今年の読書を振り返ってみますと…、

まず、小説は、ほとんど新作を読まんかったですな。読みたくなるような新作小説がね、ほとんどなかったですわ。
年明け早々の発売された瞬間に買ったのが、劇団ひとりの『陰日向に咲く』。
モチーフ自体は、ちょっと変な人のちょっと変な話で、純文学ではよくある手法。それ自体は手垢まみれで面白くもなんともなかったけれども、文体のリズムがね、淡々としていてよろしかったですな。ちょい体温低めで、2006年のリアルを上手く体現してました。お笑い芸人だからこそテンポを考えるだろうし、それが文体に上手くいかされていて、そこが新人離れと呼ばれる所以。この人の書くものは、好きです。

テンポやリズムのよさをもっとも感じさせるのは、舞城王太郎ですな。
2年前の『煙か土か食い物』から大注目していて、いつブレイクするか!と待ってるんですが、今年も小ブレイクで終わった作家。それでも、新作の『好き好き大好き超愛してる』は、グイグイ読ませましたけどね。その饒舌さ加減は、諦めから来ているのだと思うので、音楽でいうと、ハウス・ミュージックのノリに近いですかな。快感の中枢神経を刺激するのよね。というか、それが目的で書かれているような気すらします。そこがね、かなり新しい。マニアの愛玩物で終わってほしくない作家なので、来年も期待します☆

そしてオレの大好きな平野啓一郎は、今年は新作を発表してくれませんでした。文庫化されたのがいくつか出たので、そっちで我慢したけれども、来年こそは新作を読みたいですな。ただ、文庫化された『高瀬川』は、これまでの作品よりも読みやすい文体にはなっているけれども、詩と小説のあいだを繋ぐかのような実験がなされていて、改めて読んでみても刺激的でしたな。

新作の小説で目を見張るようなのは、それくらいでしたかね。
あとは、梁石日、白石一文、横山秀夫ら現代作家の作品の読み返し、松本清張の復刻シリーズ、山田風太郎の旧作、プイグら南米の作家の旧作、『ゲド戦記』と、再読したのが多かったですわ。再読が多いということは、それだけ新作で面白い作品がなかったということですが。

次から次へと新しい作家は出てくるんだけれども、定型文のバリエーション違いばっかりで、これまでの物語定型をぶち破るような試みをする作家がほとんどいないのが残念。それと、描写の妙がね、どいつもこいつも陳腐すぎます。
その意味で、物語の定型をぶち破らんとし、かつ新しい描写の試みを繰り返している平野啓一郎はこれからも注目だし、舞城王太郎は新しい描写を獲得してますな。

漫画は、ほしよりこの『きょうの猫村さん』、西原理恵子の『毎日かあさん』のそれぞれの新作、ジョージ秋山の『アシュラ』の再発あたりを。あと、夢枕獏の『神々の山嶺』を谷口ジローが漫画化したのを。ハッとさせられるコマ割りをするのは、今んところ、この3人くらいですかな。あとは惰性で、くらたまの『だめんずウォーカー』とか読んでます。

こうして見ると、今年は、物語関係では、オレの心にドカンと突き刺さってくるものには、出会いませんでした。

翻って、ノンフィクションは、相変わらず、たくさん読みました。

サッカーの日本代表監督にオシムが就任して、昨年の発売直後に買った『オシムの言葉』はソッコーで再読。ついでにストイコビッチを軸にしてバルカン半島情勢を読み解いた木村元彦の『誇り』と『悪者見参』、宇都宮徹壱の『まぼろしのサッカー王国 スタジアムから見た解体国家ユーゴスラヴィア』『ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー』も再読。
ユーゴ出身のサッカー選手を扱うノンフィクションは、ユーゴ紛争に触れないわけにはいかないから、勢い、大きな視点で書かれるものが多くて、バルカン半島を俯瞰出来る楽しみがあります。このあたりの本、いつ読んでも面白い。

あとは、司馬遼太郎の対談集が文庫で刊行され続けたので、出るたびに。未収録部分が少ないので、大半はどこかで目にしたものばかりだけれども、それでも、改めて読んでみても、その彗眼には驚かされっぱなしです。ナショナリズムについての話は、オレは、彼の言葉を指針にしてるし。今もって、一番、言葉を聞きたい人で、鬼籍に入られたことがまだ寂しいです。。
歴史物は、NHK教育で放送している『知るを楽しむ』やら『歴史に好奇心』のテキストを何冊かと靖国関係、満州関係、ペルシャの歴史について、アイルランドの歴史、バスクの歴史、ジプシーの歴史…、そのあたりを。
あ、京都の庭、寺、仏像関係も、何冊か読み漁りましたな。

あと、早川文庫から出てるノンフィクション・シリーズから、ココ・シャネル、マタハリ、マリア・カラスあたりの女性偉人伝めいたものを。

高山なおみさんの『日々ごはん』シリーズ(こないだ、第8集が出ましたな☆)、『記憶のスパイス』も、もちろん購読。調理器具を極力排し、自分の指先の感覚に頼っていこうとする彼女の料理観は、やはり刺激的です。さらに、音楽と料理が分ちがたく存在しているその生活ぶりも。

辺見庸はブッシュ政権に対抗軸を築くときのオレの拠りどころの一人ですが、今年は恥について重点的に書いてましたな。『いまここに在ることの恥』にまとめられ、そっちで一気読みしました。マスメディアの堕落っぷりについての現状報告が主でしたが、まあ、目新しいところはなく。

んで、今年一番刺激を受けたのが、梅田望夫というweb技術をメインにコンサルしているオッサンが書いた『web進化論』。ちくま新書の1冊ですが、これが、オレにとっての今年のナンバーワンですわ。
googleという起業のユニークな点の紹介にはじまって、amazonがもたらした市場の激変、オープンソースのこと…、知の秩序の再編成と富の再分配にまで言及した論考は、どれもこれもが新鮮で、とんでもなく刺激に満ちてましたわ。
で、この本に真っ先に反応したのが、作家の平野啓一郎。この2人が対談した『web人間論』は、ついさっき買いました。明日、読むかな。

ま、今年はこんなかんじ。来年も、いろいろと読んでます。

2006年12月28日木曜日

デジカメのおまけ


仕事用にデジカメを新調したのでした。
カシオの1000万画素の最新型がさ、ヨドバシで思いっきり値引いてあって、しかも古いやつを3000円で下取りしてくれて、ポイントが15%付いて、液晶保護シールも付けるというから、これはお得だわ、と。

そしたら、もいっこおまけが。

ペットボトルを三脚に見たてて、キャップに装着出来るアジャスター。
便利グッズの一種でしょうが、こんなもんが商品化されてるんですね。
1980円って値札に、誰が買うねん!と思いましたが、ま、タダでくれるというなら(笑)

年越しの宴会で、早速活躍しそうです☆

2006年12月27日水曜日

ジェームス・ブラウンの思い出


この話は一回書いたかも知れんのですが…。

20年前の1987年、沖縄はコザで、ジェームス・ブラウンのコンサートが開かれたのでした。
このコンサートが、今思い出すだけでもゾクゾクするほど、素晴らしかったですな。ジェームス・ブラウンのコンディションは上々、そして米軍基地の黒人兵が大挙して聴きにくるという、時代も場所も最高のセッティングだったです、はい。

細野晴臣さんがこのコンサートをプロデュースしていて、そんとき、細野さんといえばYMOのテクノの人としか知らないオレには奇異に映ったのですが、そのコンサートをきっかけに、細野さんがいかにブラック・ミュージックを愛し、造詣が深いのかを知ることになるのでした。

コンサート終了後、市内のクラブ『なんた浜』に、嘉手苅林昌の琉歌を聴きに出かけたのでした。ジェームス・ブラウンをナマで観るためだけに沖縄までやって来たのだけれども、当時、ブラック・ミュージックに負けず劣らずで沖縄民謡に深く潜行しようとしていたオレにとって、嘉手苅さんやらの大御所をナマで観る絶好のチャンスでもあったわけです。
ジェームス・ブラウンのライブのあと、嘉手苅さんが毎日のように来ては歌っているお店で、騒いでいたのでした。午前2時過ぎ、夜更けもいいところだというのに、店内はコンサートから流れた客などでいっぱいでしたわ。このとき、オレは、嘉手苅さんの歌う八重山民謡を初めて聴いたのでした。普段、彼は八重山民謡ではなく、沖縄民謡を歌う歌い手さんだったし、沖縄民謡と八重山民謡は違いますからね。
嘉手苅さんが八重山の民謡『とぅばらーま』を歌ったとき、客席から、つんださや、つんだーさー、と、名調子の合いの手がかかったのでした。なんと、山里勇吉! 気づいて周囲を見てみると、いるわいるわ、照屋林助、国吉源次、登川誠仁など、琉歌の大御所各氏が。みーんな、ジェームス・ブラウンのコンサートから流れてきていたご様子で。
琉歌とジェームス・ブラウン、関係がないようだが、琉歌の各氏は、コンサートに感動し、対抗意識を燃やしたものと見えましたよ。そして、各氏を交えた琉歌ジャム・セッションは、夜が白むまで続いたのでした。いや、とんでもない夜だったな。
ジェームス・ブラウンと琉歌のダブル・メインのようなステージを体験したこの日は、今現在に至るまで、オレの音楽体験史上五本の指に入る体験でありますな。

このときの歌の多くは、八重山民謡だったのですが、今にして考えると、ジェームス・ブラウンのソウルに対抗しての八重山民謡だったに違いないのです。
八重山の音楽は、民謡と流行歌が未だ分化していない「原・うた」というような状態にあり、唄本来が持っている情感や躍動感を失ってはいません。だからこそ、ジェームス・ブラウンに対抗して、各氏が直感的に八重山民謡を選んで歌ったのだと考えたいのですね、オレは。

なんちゅーか、グルーブが荒削りで、全然ソフィスティケートされてなくて、でも、ちゃーんと、ショーアップされたものになっているという、じつにじつに、不思議な不思議な音楽。

死んだら皆聖人にされるのが常だけれども、ジェームス・ブラウン…、このオッサンはやっぱ、そんなところに収めてはイカンような気がしますよ。
粗暴でさ、独善的で、横山やすし的で、ジャンキーでアル中で、女好きで(笑)
その全部をひっくるめて、ファンキーだったんですよ。
公民権運動だとかグラミーとか、関係ないね。
正しく、どうしようもないロクデナシのためだけの、聖人でしょ。
享年73歳? 勝手に決めてんじゃねーよ。ずーっと、年齢不詳だったやん(笑)
嘉手苅さんも、そうでしたね。風狂人がまた一人、天に召されました。でも、クリスマスってところが、ジェームス・ブラウンらしいですな。

合掌。


本日の1枚:

James Brown /『Gettin' Down To It』

2006年12月25日月曜日

何事もなく

メリメリクリスマ~ス☆

と、浮かれることもなく、まったく関係なく、何事もなかったかのように仕事してます。

先月、ぱなぬふぁさんにおそわった餃子鍋(コンソメスープに、餃子&キャベツを投入。ポン酢で食す。あっさり&ちょいコク)、最後はラーメン投入(←ここは、すぎさんの案をいただき)。。。
はい、15分の一人鍋ですわ。

で、また仕事。

はい、励ましのお言葉、お待ちしております(笑)

2006年12月24日日曜日

ご祝儀のお札はなぜ3つに折るのか?

先日、『デザインにひそむ<美しさ>の法則』という本を読みまして、その本のオビに書かれていたのが、この日記のタイトル。今、ソフトバンク新書から出てますが、amazonのURLは異様に長いので、リンクは貼りません。。。

工業デザインについて、一般にもわかりやすいように噛み砕いて説明してくれている本です。
オレは平面のデザインしかしないし(パッケージのデザインすらしたことがないくらいですから)、そもそも独学ゆえにデザイン理論を体系づけて学んでいるわけでもないので、重くならない程度に、この手の本をときどき手にします。

んで、ご祝儀のお札はなぜ3つに折るのか?ですが、この理由が奮っていましてですね。ちょっと面白かったので、要約して抜粋。

まず、千円札を例にとると、
寸法は、縦76mm×横149mm
これ、比率に直すと、ほぼ1:2ですね。
この比率自体は、日本でむかしから好んでよく使われる比率で、畳やら建具やらは、この比率でつくられてます。
んで、この千円札を2つに折ると、縦76mm×横74.5mmとなるから、ほぼ1:1の正方形。
で、これをさらにもう一度2つに折ると、縦76mm×横37.25mmとなって、縦横比は逆転するけれども、おなじ比率のほぼ2:1になる…。
なかなかよく出来ていますな。さすが、世界に冠たる日本のお札☆

ところが、ですな。
ここまでで感心していたのも束の間、今度は3つ折りにしたときの縦横比を計算してみると、これがまた、すごいことに。
3つ折りにしたお札は、縦76mm×横49.6mmで、約1:1.5の比率に。これ、ほとんど黄金律の比率ですやん!
黄金比というのはヨーロッパでむかしから美しいとされている比率の代表格で、日本の工業デザインにも、多数取り入れられていますわ。
一般的なトランプがそうだし、クレジットカードなんかのカード類、ハイビジョンテレビの画面、名刺、タバコのパッケージ、果てはiPodまで、身近なところだけでも拾っていけば、なんぼでも使われているのがわかります。

デザインを考えるとき、問題にするのは寸法ではなくて、比率です。バランスを考えるので、そうなるんですけどね。だから、千円札が、広げた状態だと1:2の日本伝統的な縦横比なのはうなずけるとして、3つ折りにしたときに黄金律になるように、そこまで考えてつくられているのは、なかなか優れたデザインだと感心します。

ここで最初の疑問、ご祝儀のお札はなぜ3つに折るのか?ですが、この本の著者は、推論を出してます。
日本のお札の縦横比が1:2になっているのは、この比率が古来から日本人に愛されてきたからだけど、同時に、普段から使われている日常的な雰囲気もあるので、ご祝儀を出すような非日常のハレの場には似合わない。一方で3つに折ったときの1:1.5という比率には西洋的な雰囲気があり、ちょっとオシャレで非日常の場に相応しい雰囲気がした。ご祝儀のお札を3つに折ることが定着していった背景には、こういった理由があるのではないか、と。

この推論自体は、千円札の縦横比と3つに折ったときに黄金比になることを発見すれば自ずと出てくるものでしょうが、3つ折りにしたときに黄金比が現れることを発見したのは、なかなかの着眼点やと思いますな。
そして、きっとそのことを意識して作成したであろう千円札を作成したデザイナー! 誰ですかいな? 完全に脱帽です☆



カエターノでも聴こうと思ったら、カエターノ&ジルベルト・ジルのとんでもない映像が! 『Tropicalia』から30年のときを経て発表された大名盤『2』の、PVですよ。映像も音楽も、ヤバすぎます。脳も下半身も、とろっとろになります♪

2006年12月23日土曜日

風俗店取材☆


じつはオレ、7、8年前、なんの因果か風俗店情報誌の編集長をやっておりました。
エロは嫌いでないどころか大好きですが、風俗店にはなんの興味もなく、それまでにも、そのときも、そして今に至るまで、一度も風俗店はおろかキャバクラですら遊んだことがないのですが、風俗店を取材するのは、なかなか面白いです。

女の子を取材→誌面で紹介
お店の特長やメニューを取材→誌面で紹介

ちなみに、風俗店の広告・広報は、不動産、パチンコと並んで、超保守的。新しい試みや実験的な試みなど、ちょっとでも通常パターンと外れたことにトライしようものなら、即・却下ですわ。なので、実作業自体は、味気ないもの。ほとんど流れ作業のようにルーティン化してます。
だから、ギャラも安いしね。

今は完全に離れてしまってますから、まずその手の仕事をすることはないんですが、急遽、ピンチヒッターの代打を頼まれました。風俗店の取材、何年ぶりやろか?
風俗店で遊びたいと思ったことが一度もないオレにとって、その手の情報を専門に扱う雑誌の編集長に就いた当初、当然のことですけど、面白くなかったんですよ。
でも、風俗店のことを知れば知るほど、面白くなってきましてですね。最後はかなりのめり込んでやってました(笑)

風俗店はともかくとして、エロは大好きなオレです(笑)
男の子のエロの本質は、妄想の具現化にあるんですが、もうね、これを専門に突き詰めていけば、人間、ここまで考えることが出来るのか!という、アイデアに満ち溢れた世界なんですよ~。

たとえば、
風俗嬢さんに、待機している時間を使って、簡単なニットスカートを編ませるんです。
それで、お客さんの相手をするときに、そのニットスカートをはくんですが、裾のニットは留めておかずに、引っぱればほつれるようにしてあるんです。そいで、お客の男は、その毛糸の端を引っぱって、ニットスカートをどんどんほどいていく、と。そうすると、あら不思議! 全部ほつれ切って影もかたちもなくなったニットスカートの下からは、妖艶な下着が♪

こんなことをね、四六時中考えては具現化していくのが、風俗店です。

個室の天井から、どこから用意したのか知らないけれども、電車のつり革をぶら下げて、OLさんに扮した風俗嬢さんが、立ってるわけです。ちゃんと、つり革の前には、電車のシートを模した椅子もあります。
んで、お客の男はですね、彼女の背後に立って、あんなところやこんなところを触れてみたり撫でてみたり、さらには…、ってかんじで、普段はしたくても絶対に出来ない痴漢プレイを存分に楽しむ、と(笑)

なんてのもあります。。

エロ妄想を膨らませ膨らませ、それを具現化していくパワーって、すごいですね。

今はどんなのが登場しているのか。明日の取材が今から楽しみです☆

それにしても、来月から教育に携わる!と昨日の日記で書いたオレは、こんなのを取材していてもいいのだろうか(笑) 教育方面、クビになったりして(笑)

2006年12月22日金曜日

中間報告

先月から引きずってるサイトのリニューアルのお仕事が変更につぐ変更の荒らしのせいもあって、この年の瀬、ヒーヒー言わされてます(笑)

そんなときに、やめておけばいいのに、某コミュにトピ立てしたんですわ。
mixi歴1年以上で、きっと3つ目くらいのトピ立てなんですが、よりによってこの時期に。。。
えらいことたくさんコメントをいただきまして、どれもこれも真摯なコメントなので、真面目にコメントを返していたら、それだけでえらいことパワーを使ってしまいました。

クリエイター&デザイナーのコミュですが、お暇で奇特な方は、日記がわりにでもご覧くださいませ。

そんなわけで、今、今日の日記を書く元気すらありまへん。
前日日記では、momoさん、ひらりさんにいただいたコメントも、じつはまだまだ丁々発止やりたい気は満々なんですが、コメント返す気力もありまへん。。。ほんま、悪しからずです~。

だから今日は真面目になにかを書く気はなくて、ダラダラといろんなことを脈絡なく書いていくつもりなんですが…、

まず、マイミクさんの寧楊さんが、中崎町でカフェをオープンさせます。日曜限定やったと思いますが、オレん家からチャリで5分の場所なんで、オレはちょこちょこ覗くんやと思います。また、時間が合いましたら、みんなでワイワイ出来たらな、なんて思ってます。
ついでに、寧楊さんに頼み込んで、「ロゴつくらせて~」って、ロゴをつくってしまいました。あ、上記コミュのトピ立てはロゴの話なんですが、寧楊さんとこのロゴとはなんの関係もない話なので、読まれる方は、完全に切り離して捉えてくださいませ。ややこしいことですが、これだけは言うとかんと、変に誤解されてもイヤなんで。

寧楊さんの日記とオレのコメントに必要な情報のリンクが貼られてるんで、これまた興味がある方はご覧くださいませ。

次、この夏あたりから、教育問題に入れあげてまして、いつぞや長文日記をあげました。
相前後して、次の10年、自分が進む方向が見えてきて、来年は動く、という日記をあげました。
これ、じつはリンクしてまして、
来年から、次の10年、教育に身を置こうと思ってます。具体的なことは書けませんが、今、ある都道府県の教育委員会と掛け合ってまして、来週あたり、なんらかのポストが与えられます。
そこを手がかりにして、いじめ問題といじめ苦による自殺問題と、学校と社会の結びつきやら、世代間の結びつきやらなんやらかんやらと、自分なりに取り組んでいこうと思っています。来月のオーストラリア出張も、その一環です。
オレは、この国の国家にはなんの敬意も払ってませんが、日本が育んできた文化や伝統は好きですし、その恩恵も受けてきたし、そうしたものの消失も含めて、自分なりに、この国の未来に危機感を持っています。それをどうすればいいのかというシュミレーションが自分なりに朧げながら見えてきたので、やる!と決めました。
といっても、オレは商売人ですから、商売を通じて、それをやっていきます。
さらに、広告や雑誌の仕事も好きだし手放す気もないので、同時にやっていきます。
マンパワーや時間の問題で、出来ない仕事も出てくるでしょうが、自分の出来ることもかぎられているし、そのあたりは消えていく仕事は自然と消えていくだろうし、いずれどこかに落ち着いていると思います。

ま、そんなこんなの年の瀬です。
つらつらと、中間報告代わりに書きました。

2006年12月21日木曜日

どいつもこいつも

平井堅というアーティストにはなんの興味もないんですが、彼、「Ken's Bar」というコンセプトで定期的なライブをやってるらしいです。
ステージをバーに見立てて、そこにお客さんを招待して歌ってる、という設定のライブ。
デビューのときからずーっとやってて、彼がライフワークにしているステージらしいです。
アルコール有りのライブらしいんですが、警察が、それにちょっかいを出したらしいですな。
酒はアカン、と。
昨今の飲酒運転による事故を危惧しての予防措置というか警告というか、そういうもんらしいですけど。
なんの点数を稼ぎたいのか知らないけれども、なんでこんなことに、いちいち国家権力が警告してこなならんのか…。表現の自由に抵触するんやないですかね。
こーんなことまでいちいち禁止してたら、全国のライブハウス、全部閉鎖に追い込まれますがな。

もいっこ。
京都の有名なお寺さんの知恩院で、お坊さんに対して、警察による講習が行われました。
暴力団が葬式を頼んできたときの断りかたの講習やそうですわ。
警察の人間がヤクザに扮して、実地の講習。
これもなあ…。暴力団は葬式出したらあかんのですかね?
香典やらが資金源になるからアカンという理屈なんでしょうが、それは警察の理屈として、宗教界はなにをしてるんですか?
不幸な人も悪い人も救う、手を差し伸べる、葬式を出してあげるのが、宗教じゃないんですかね。
警察の講習を従順に受けてる坊主どもの写真を見て、なんとまあ情けない姿やなと思ったもんですわ。

仕事ばっかりでネタないし、新聞読んでたら、以上2点がちょっと気になったので書いてみました。

2006年12月20日水曜日

除夜の鐘と煩悩と


除夜とは、旧年を除く夜という意味で、12月31日の大晦日の夜を言います。
この夜、除夜の鐘を108回、撞く。
除夜の鐘を撞き、その音を聞くことによって、この一年のうちにつくった罪を懺悔し、罪をつくる心を懺悔し、煩悩を除き、清らかな心になって新しい年を迎える行事だということは、まあ、誰もが知ってますな。べつに、姫納めと姫初めの日にしても、いいんですけどね(笑)

ところで、人には108の煩悩があると言われています。煩悩とは、愛着、執着のことで、自分にとって離しがたい、捨てがたい感情や感覚のことです。我ながら、それは常々思うところで。

それではなぜ、煩悩は108なんですかね? ウロ覚えだったので、ちょいと調べてみました。

その数えかたには、次のようなものがあります。
まず、人間の身体全体の働きを表すものとして、六根があります。六根は、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つであり、それぞれに好、悪、平の3種があり、6×3で18個。
次に、人身に入って本来の清らかな心を穢すものとして、六塵というものがあります。色、声、香、味、触、法の、これも6つがあり、それぞれに、苦、楽、捨の三受があるので、これも6×3で、やっぱり18個。
以上をすべて足すと,36個になり、この36個は、三世 (現在、過去、未来) のすべてにわたって存在するから,36×3で、108個。
これが、煩悩が108ある由縁ですわ。ほとんどこじつけのような話ですが…。
こじつけと言えば、四苦八苦→4×9+8×9=108というのもありますが、あれこそまさにこじつけ(笑)
んで、それらを、除夜の鐘を撞くことによって,取り除いてしまおうというのが,除夜の鐘の行事です。

さて、除夜の鐘といえば、なんといっても知恩院のそれが有名です。TVでも、毎年、「ゆく年くる年」で中継されてま。(今もやってるのかしら?)
試し撞きまでがニュースになるけれども、もっとも試し撞きそれ自体が歳時記のようなものです。

知恩院の鐘の撞きかたはかなり独特で、親綱を持つ僧1人と子綱を持つ僧16人で撞木に勢いをつけ、親綱の僧の、「えーい、ひとーつー」の掛け声で、子綱の僧が、やはり「えーい。ひとーつー」と応え、そのあとに「ひとーつー」と声をあげながら、手を緩め、親綱の僧が綱にぶら下がり、撞木の勢いをさらにつけて、鐘を撞く。全体重をかけて、鐘木を鐘にぶつけるのだ。撞いた瞬間に、鐘の音が大きく京都中に響きわたります。
鐘を撞く僧は、命がけというほど大げさではないものの、親綱を離すとどこかへ吹っ飛んでしまうので、大変です。失敗すると恥ずかしいだろうし、無論、そうならないように練習するための試し撞きなのでしょうが、なんせ、70トンはあろうかという鐘ですからね。
僧侶にとっては、鐘を撞くことは修行でもあるけれども、ハレの舞台でもあるわけですね。ここで鐘を撞くこと自体が、選ばれることですから。

知恩院の鐘は、1636年 (寛永13年) に鋳造されたものですが、あまりの重さに、鐘を吊るための環が何度も壊れ、刀匠村正・正宗によってようやく吊るすことが出来た、という話も残っています。その撞木は、長さ4メートルの代物。
なにもかもが、桁外れにデカいですな。

最近は、初詣といえば地元の天満宮に行くことが多いので、知恩院はおろか清水寺にも行ってまへん。
あ、でも、除夜の鐘はお寺さんで、初詣は神社か…。

ほいで、なんでこんなことをツラツラと書いているのかというと、じつは来月、オーストラリアに出張になりそうなんですわ。ほんまは今月アメリカのロスに出張予定があったんですが、それはなんとか逃げ切りました。でも、来月のオーストラリアは、きっと行きます。
きっと行くんですが…、問題は、
オレ、これまでに行ったことのある国は108ヶ国なんです。そこでストップさせてるんですわ。これ以上増えると、煩悩を超えてしまうんで(笑)
オーストラリアは未知の国。行くと、109ヶ国目になってしまいます。
さて、どーしたものやら…。


最近、こればっかり聴いてます。

Jane Birkin / Erisa

2006年12月15日金曜日

夜の音楽


夜の音楽、というジャンルがあります。

夜の静けさのなかで着想された、夜の感覚で音を表現した、夜の孤独者にふさわしい音楽、というほどの意味ですかね。ショパンやフォーレが、そういう微妙な音楽をよく書きました。マーラーの第7交響曲も、夜の音楽としてつくられています。バルトークは、ルーマニアの山村の、深い夜のしじまのなかに聞いたカエルの声から、神秘的な彼の夜の音楽を作曲しました。けっして、尾崎豊がどうとかという話ではなく(笑)

夜の音楽は、不思議なジャンルです。

人々が寝静まって、あたりは深い静けさに包まれる。人間の意思や欲望が掻き立ててきたノイズが消え去ると、かわってそこには、べつの種類のノイズ、自然の内部から湧き上がってくる、たくさんの微妙で、豊かな音楽が、聞こえてくるようになります。しかし、夜のなかで人は眼が見えないから、それがどこから、また誰からやって来る音なのか、わかりません。
そのために、夜のしじまの全体が、この複雑で微妙な音を奏でているような気がするのですね。
人はその体験をもとにして、夜の音楽をつくります。かすかな震え、いつまでも続くかと思われる反復のなかから発生する微妙なうねり、最小限度の要素だけから生み出される、宇宙にも匹敵する複雑さ…。

夜の京都の庭で聞こえてくるのは、このような夜の音楽です。百鬼夜行の音楽とは、まさにそのような音楽です。

京都には、ナマのままの自然は存在しません。どんな小さな自然でも、そこでは、人間の精神によってたわめられ、手を加えられなかったものはありません。
庭園の設計者たちは、ナマのままの自然から、最小限度の要素だけを取り出し、宇宙と生命のすべてを表現してみようとしたわけです。

一面に敷きつめられた砂、その砂の表面に、反復する模様だけが描かれている。月明かりのもと、その反復のなかから、微妙で、豊かな音楽が発生してくる。静かに、渦が巻き起こり、空気がうねっていくような、眼に見えない動きをはじめる。そうすると、さらさらの、抽象的な砂だけでつくられた庭が、精妙な生命を持つもののように、感じられてくる…。
そんなかんじです。

また、べつの庭では、地面を覆い尽くす苔が、あたりをふかふかの緑に変えています。隠花植物である苔には、花はありません。そこでは、生命の花は、眼に見える植物の表面にはあらわれては来ず、見えない生命の内部空間に咲きだします。
そのとき、夜の庭にいて、無数の苔に囲まれたオレは、生命のあでやかな花を見るのではなく、まず、聴きます。表面の彩りは否定され、そのかわりに、植物の内部からは、生命が華麗な夜の音楽に姿を変えて、庭のすみずみまでを充たしています。

京都の町中の、市民の芸術家たちも、負けてはいませんね。
彼らは禅宗庭園を造ります。この抽象の原理を、騒がしい町のなかに持ち込んで、もっと現世的な魅力を持った、彼らの庭を造り出してきました。家並みのひしめきあう京都の町屋の内側に、市民は小さな坪庭を造ってきました。

坪庭は、町屋のパテオに出現する、一種の空中庭園です。
夜、柔らかい灯りに照らされて、その小さな庭は、家屋の中央に、すっぽりと抜けた空虚をつくり出します。そして、この空虚のまわりを、人間の生活の暖かさや賑やかさが、ぐるっと取り囲みます。水を含み、静かな音楽に満たされている小さな庭が、人間の暮らしの中心に、無を穿ちます。
京都の町は、いたるところにこのような小さな無を穿たれることによって、軽さを身につけることが出来たように思うのです。

この軽さは、夜の音楽に特有のものですね。
夜の音楽では、人間的な感情が大きく盛り上がったりはしないし、意思や欲望の強さによって、あたりが息詰まる感覚に充たされることもありません。そこでは、自然にフィットしてつくられた生命たちが奏でる、微妙な音楽があたりを包み込み、人間の世界の騒々しさを、気化してしまいますから。

もしも都市が、人間の意思や感情だけで造られているとしたら、京都のような狭い空間に開かれた都市は、すぐに息が詰まってしまっていたと思います。
ところが、ここでは、いたるところに庭があり、そこでは抽象的な砂だとか、植物の見えない内部空間から発生する微妙だとか、家屋の中空に穿たれた無だとかから、夜の自然の音楽が、生まれています。

そして、静けさと、反復の美と、なにかが月に向かって立ちのぼっていくような感覚に充たされた、この夜の音楽は、この世界がすべて人間のものなどではなく、ここは大いなる流れのただなかに浮かぶ浮世にすぎないという事実を、人に告げようとしているように、オレには思えてなりません。

この、どうしようもない諦念こそが、侘びや寂びの本質か、と、近ごろ思ったりします。
今日、ジェイムス・ホイッスラーの画集を見ていたのですが、ふと、そんなことを思いました。
彼の絵画もまた、夜の音楽の様相を呈しています。


Van Morrison / 『Enlightenment』

2006年12月14日木曜日

有罪無罪を問うまえに


Winny開発者に対する判決が出ましたな。


著作権法違反(公衆送信権の侵害)幇助罪に問われ、求刑が懲役1年で、判決は罰金150万円。。。
被告は即刻控訴し、原告の検察も量刑不足で控訴を検討中だとか。
被告、原告の双方から不服を申し立てられる判決って、なんじゃらほい!ってかんじですが。。。

被告は、
開発した技術を頒布し、そのことで見知らぬ第3者が違法運用したことまでが罪に問われるのなら、リスクが大きすぎて技術者はなにも開発が出来なくなってしまう、と言っています。
要するに、包丁をつくった人は、見知らぬ第3者が包丁で殺人を犯した場合、殺人幇助の罪に問われなければならないのか、と言っているわけです。

原告は、
著作権侵害目的で使われることが大であると認識しながら開発し、頒布したのだから、幇助罪にあたる、と。

そして地裁の判決は、
双方の言い分に配慮するかたちのものになりました。

2ちゃんあたりでは、被告の言い分に分があるとする意見が、圧倒的ですね。もっとも、2ちゃんに書き込みしてる人たちは、Winnyのヘビーユーザーだから、そうなるのも当然でしょうが。

結局のところ、問われているのは、技術者のモラリティです。
ある技術を開発するとき、それが世のなかに与える影響を、技術者がどこまで考慮しなければならないか、ということです。

技術者はそこまで責任を負わされるとリスクが大きすぎてなにも開発出来ない、と、言いますが、でも、技術者がなにかを開発する動機って、自分の開発したもので世のなかをより良い方向に変えてやろう、って動機が出発点になってるんじゃなかったですかね。

より良い方向に変わることもあれば、悪い方向に変わることもあり、開発者が思いもよらなかった運用方法を誰かが見つけることもあり、そのダイナミズムこそが、開発の醍醐味だと思うんですがね、オレは。

たとえば、ノーベル賞。
これは、工事現場での岩盤の破壊を容易にするためにダイナマイトを開発したノーベルさんが、それが戦争で人を殺す爆弾として使われるようになった現実を嘆き、平和貢献のために設立したものです。
ノーベル賞というのは、批判もあるけれども、いち技術者が、自らのモラリティに照らして設立させたものです。
自らが自らに対して裁判を行い、おまえは資産を運用してノーベル賞を設立し、ダイナマイトの誤った運用に歯止めをかけなさいと命じた、ということでしょう。

また、アインシュタインは、自らの研究が原子爆弾の開発に繋がることを怖れて、ウランに関する技術開発を原子炉開発に集中させるよう、あらゆる政府機関に手紙を送り、平和運動に身を投じました。

オレは、こうしたことは、技術者のモラリティに照らして行なわれるべきだと思いますけどね。

そして改めて思うのだけれども、
Winnyの開発者もまた、自らの開発した技術が、著作権侵害に使われる可能性を考慮し、そうした運用をしないよう、広く呼びかけてきたと言っています。
検察が主張するとおり、認識はしていた。しかし、それを奨励したことはない、と。
そのうえで、あらゆる技術者に、幇助の罪に問われるようなリスクを負わせてはならない、と。

これはたしかに難しい問題ですね。
なぜなら、モラリティが問われているのだから。
また、モラリティに属する問題に法が関与するであれば、そこだけをとってみれば、憲法に抵触するだろうし、基本的人権を侵害している可能性すらあります。

それを考えると、刑事裁判に問う問題なのか、というふうに、オレなんかは考えてしまいます。

著作権を侵害された人が、Winny開発者や運用者に対して、損害賠償請求の民事訴訟を起こしたほうが、話がスッキリするような気もします。
そうした民事裁判が全国で行なわれれば、判決が出そろう過程で、技術開発や運用に関するガイドラインめいたものが出来るんではないか、と、思うんですけどね。というか、そうなったら素敵やん、と思います。


ほら、契約書の作成がそうなんですよ。
今どきの契約書は、あらゆる運用方法を想定して、そうした使いかたはしないでください、との但し書きが延々と書かれています。日本語だけじゃなくて、数カ国語で書かれています。
それが書かれていなかったために、損害賠償請求の民事訴訟を起こされてきたからです。
そうした経験を踏まえて、今日の契約書のスタイルは出来ているし、技術開発の場面に、そのプロセスを応用出来ないのかな、と思います。

いずれにせよ、今回の判決は、玉虫色のはっきりしない判決ですが、落としどころとしては、そこしかないようにも思います。
ただし、今回の判決では、ではどうすれば罪にならないのか、に、ついて、まったく触れられていません。そこにこそ踏み込むべきだろうと、そこだけは不満に思いました。

2006年12月13日水曜日

残すものと残さないもの

相方さんが、ほぼ日のホワイトボードカレンダーを買うか買うまいか、悩んでいるそうです。

これ、オレは知らなかったんですが、けっこう優れものですね。


1枚1ヶ月タイプのよくあるカレンダーボードですが、紙がホワイトボード仕様になっていて、消せるんですよね。

んで、これを買おうかどうか、って話なんですが。。。

オレだったら買わない、と、オレは答えました。

予定が変更になって書き直したりするのに威力を発揮するカレンダーで、それこそが、このカレンダーのセールス・ポイントだと思うんですが、オレは、変更になった予定もキャンセルになった予定も、消しゴムで消しちゃうのがイヤで、棒線2本で消して、ボツも変更も残しておくタイプです。

消しゴムで消しちゃうと、忘れちゃうでしょ。
予定が延期になって、しかもいつになるのかが未定だったり、キャンセルになったりしたものを、忘れちゃうのが、イヤなんです。ToDoリストとして残しておきたいというか、完全に終わらせるまでは、頭の片隅に残しておいて、気がかりも後悔もきっちりと受け止めておきたいというか、ま、そこまで大げさなもんではないですが、とにかく、消しゴムで消して、なかったことにするのは、ちょっと抵抗あります。

こんなことは人それぞれだから、その人にあった方法を見つけてやればいいと思うんですが、オレはそうしてる、と、相方さんに言うと、相方さんは、それも一理ある!みたいなかんじで、またまた悩んでました。なんか、悪いことしたかも(笑) ま、悩むだけ悩んで、試行錯誤もして、自分にあった方法を見つけてくださいませ。

逆のものも、あります。
たとえば、写真。オレは、どこに行っても、写真をまず撮りません。
若い頃、バックパッカーをやっていた頃、それこそ何年も旅をし、意気込んで、フィルムも100本程度は携帯してたんですが、途中から、パタッと撮らなくなりましたわ。
今、手元には数枚程度しか残ってません。
ここ何年かは京都のお寺さん巡りばっかりしてますが、それにしたって、写真を撮ったのは、気まぐれにほんの1、2回程度。資料として残したいと思わないこともないけれども、それもやっぱり、気まぐれにほんの1、2回程度ですわ。
素敵な風景と出会ったとして、それを写真に撮ったら、撮った尻から忘れちゃうんです、オレは。
匂いだとか、空気の澄み具合だとか、温度だとか、鼓動の動きとか、感情の揺れとか…、写真を撮っちゃうと、写真に写らないものを、全部忘れちゃいます。
だから、撮らないです。
んで、撮らないから、はてさてどんな景色だったかなと、忘れちゃうことも多いんですが、それはそれでいいのだと、思ってます。
忘れちゃうような景色なのだから、オレにとってはどうでも景色なのだろう、ということで。イベントもしかり。
でも、何年経っても忘れない景色、場面というのは確実にあって、いつまでも色褪せることなく、昨日のことのように思い出せるものも、たくさんあります。
オレは、それだけがあればいい、と、思ってます。100の写真よりも、そうした記憶が1つあるほうが、オレにとっては、大切です。
だからね、写真はほとんど撮りません。

カメラやレコーダーといった記録装置は、忘れるためにあるのではないか、とも思います。
どっちにしろ、どんな高性能カメラの被写体深度よりも、どんな高性能のレコーダーのレンジよりも、自分の目と耳を信用しているってことです。

ま、これも人それぞれのやりかたでしょうから、オレはそういうやりかた、ってことですけど。

少し違う話になるけれども、10代に観た映画で『ストリート・ワイズ』というのがありまして、主題歌をトム・ウェイツという人が歌っていました。その歌がね、ものすごく印象に残ってるんです。そのときの自分の置かれた状態なんかも、すごくよく覚えています。
トム・ウェイツという偉大な酔いどれ詩人をきちんと知ることになるのは、ずっと後年のことで、彼のアルバムはほとんどすべて聴いているのですが、それでも、あのときに映画で聴いた彼の歌がなんだったのか、未だに謎のままなんです。
きっと、これまでに聴いてきたアルバムに収録されている曲のどれかだと思うんですが、思い当たる曲はなく、それ以上は調べていません。
きっと、オレの頭のなかで、別種の曲になっているんでしょうが、それでいいと思っています。
もしかしたら、映画で主題歌を歌っていたのは、案外、トム・ウェイツではなかったのかも知れないですが、オレのなかでは、あの映画の主題歌はトム・ウェイツが歌っていたことになっているし、その歌ははっきりと覚えているし、ある印象とともに、自分の胸のなかで生き続けています。
事実を確認するよりも、自分の記憶のなかにあるそうしたもののほうが、オレにとっては大切です。

話を戻します。

仕事でいろんな人にインタビューも、します。
しますけれども、レコーダーをまわして録音することは、滅多にありません。
出来るだけメモをとるんですが、会話のスピードに追いつけるわけはないから、全部が全部メモれているわけでもないです。
でも、インタビューが終わって、後日、メモを見ると、メモに書かれている言葉の断片がきっかけとなって、インタビューの全体をぱーっと思い出しちゃう。
3年前に、生涯で最長の18時間インタビューというのをやって、それこそノート丸々2冊分をメモったんですが、そのメモだけでノーカット版のインタビュー原稿をちゃんと完成させることが出来ました。
逆に、録音してると、録音してる安心感があって、なにも覚えてないんですね。テープを聞いても、こんな話だっけ?ってくらいに(笑)

これも、ライターさんによってやりかたはいろいろだから、結局のところ、記憶のメカニズムは個人によって違うってことになるんでしょうね。
こうしてみると、オレの記憶のメカニズムは、どうやら、文字情報が記憶の引き出しを開く触媒になってるみたいです。
さて、では、記憶とはなんなのだということにもなっていくのですが、話が難しくなってきたので、ここらでお開きに(笑)

2006年12月12日火曜日

ルミナリエの夜に思う


ルミナリエ、行ってきました。


去年同様、今年も長田のオジィやオバァを引き連れての、参戦ですわ。
改めて思うのは、年に1回の墓参りみたいなもんだなあ、ということ。

墓参りというのは、死者のためにあるのではなく、生き残った人間が、これからも生き残っていくために、死者と語らうためにあるのだと思うのですが、オレにとってのルミナリエというのは、そういう場になってしまってます。

もうあまり思い出すこともなくなってしまったけれども、震災と震災以降に亡くなってしまった長田のオジィやオバァたちと語らいながら、その一方で、今もまだ生きる気力を漲らせているオジィやオバァと、ボケとツッコミの漫才のような丁々発止のやりとりで、ワーワーキャーキャー言ってます。

鎮魂、といっても、湿っぽくならないところが、長田のオジィやオバァのいいところです。

コリアンのオバァは相変わらずウチナンチューの悪口言ってるし、沖縄は本土と島とで差別があるみたいで、その出身地によってデカい顔したり小さい顔したりしてますわ(笑)
くだらないからやめろ!と言っても、生まれたときから染みついてることだから、聞く耳を持ちません。。
そういう、剥き出しの感情を露にしながら、生き延びてきた人たちを目の当たりにするとね、もっともっと生きることを一生懸命にやらないとダメだなあと、思うのです。
オジィやオバァは、いくつか修羅場をくぐり抜けてきて、それこそ残りの人生はグリコのオマケみたいなもんだとうそぶいたりもします。そうなんだと思うんですが、オマケにしてはヴァイアル・メーターはいつも振り切れっぱなしです。

いつからか、生かされているのだという感覚が、自身の裡に芽生えてきています。
天に召されたオジィやオバァと語らうたび、生かされているのだと実感します。
愛らしくもうるさいオジィやオバァと触れ合うたび、この人たちはなんだかんだ言って、オレを生かしてくれているなあ、と思うのです。
力があるからこそ、触れる人に自然と力を分け与えることも出来るのでしょう。

ロックンロールは、そこへ向かう憧れの音楽であり、ベクトルの音楽ですが、ソウル・ミュージックは、ただそこにあるだけで成立してしまっている、存在の音楽です。タフですね。

この、オジィやオバァを見ていると、ソウル・ミュージックが聴きたくなってきて、仕方ありません。
ルミナリエの夜、そういえば、毎年、なにかしらのソウル・ミュージックを、どっぷりと聴いています。


そんなわけで、今、久しぶりにこれを聴いてます。
これもまた、そういう意味でのソウル・ミュージックですね。誰がなんと言おうと。


小沢健二 / 痛快ウキウキ通り

2006年12月11日月曜日

小学校4年まで、サンタクロースが実在してました


お歳暮がてら、知り合いの子だくさんデザイナーさんのご家族宛にクリスマス・ケーキを発注しようとしたら、すでにご自身で発注済みだったことが発覚し、さてどうしたもんかと、ちょっと困っているルイスです。

そういう話を仕事仲間としていたら、いつまでサンタクロースの存在を信じていたか、という話になりました。

まあ、ウチはオヤジもやり手やったんで(笑) オレは、疑うことなく、素朴に信じてましたわ。小学校の4年生くらいまでは信じてました。。。。


クリスマスの1ヶ月くらいまえに、オヤジから、欲しいもののリサーチがあるんですわ。
オレ、ちっこいころはなぜか鉄道少年やったんで、毎年毎年、鉄道模型と線路がセットになったやつを、プレゼントにねだってました。
それも、大中小とあって、線路の本数と車両の数が違うくらいなもんですが、やっぱり、大が欲しいから、「大!」って言ってたように思います。
でも、そんなリサーチを1ヶ月もまえからやる必要があるんかいな?と、子供心に思ってたんですね。それ、オヤジに言ったことあるんです。
そしたら、オヤジ、オレをトイレに連れていってですな、トイレの壁に貼ってある世界地図を見ながら…、そう、我が家では、世界地図と日本地図と大阪府の地図がトイレの壁の3面に貼ってあったんです。幼少時代のオレが鉄道少年やったんは、きっとそのせいやと思うんですが。

えーっと、その世界地図の、グリーンランドを指差して、サンタクロースはここに住んでいて、日本はここやから、遠いやろ。1ヶ月くらいまえから知らせておかんと、間に合わんのや、と、嘘のようなほんまのような話をオレにするんですよ。
といっても、世界の大きさも、グリーンランドと日本の距離の遠さも実感として持てるような年齢ではないので、そーなんやと口では呟きつつも、メルカトル法で描かれた世界地図のおかげでバカみたいに巨大になったグリーンランドとちっこい日本を比べて、日本はあかんな!とか、腹のなかでは全然関係ないことを思ったりしてたオレでした。

それからクリスマスの1週間くらいまえになると、電話がかかってくるんですわ。今となっては懐かしい黒電話ね。今でも、実家はその当時のままの黒電話ですが。。んで、オヤジが電話に出て、今にして思えばきっとデタラメな英語やと思うんですが、なんやしらん、喋ってるんですよ。んで、電話を切ってから、今、サンタクロースから電話があった。今年は24日には間に合わんかも知れんらしい、とか、オレに言うんですわ。いい子にしとったら、24日に間に合うように頑張ってくれるとも言ってた、とか、ちゃっかり付け加えてね。

とにかく、あの手この手で演出されてたんで、普通に信じてましたな。
でも、信じてるといっても、実物を見たことがないわけですから、会いたいですやん。
学校で小耳に挟む、サンタクロースの正体はオヤジや、という噂の真相も、確かめたいですやん。

だから、24日の夜は頑張って起きてるんですよ。
オレが起きてるうちにオヤジは家に帰ってくるんですが、プレゼントらしき包みを持っていないかどうか、オヤジが家に帰ってくるときにちゃっかりチェックするオレがいてたりするんですが、どうもそれらしい包みは持ってない。
この時点で、サンタクロースはオヤジである説は、オレのなかでは一蹴されるんです。
あとは、実際にサンタクロースが現れるまで起きていて、現場を押さえるのみ!(笑)

と、意気込むんですが、毎晩10時にはぐっすり眠っていた幼少時代のオレの悲しさですわ。毎年毎年、ソッコーで寝てたような…。枕元には、ちゃんと靴下とか置いてね。
んで、気づいたら朝ですやん。
朝、しまった!とか思いながら、枕元を見ると、鉄道模型と、新品の下着が置かれてるんですわ。
新品の下着は、正月に下ろす用のやつなので、その時点では見るだけなんですけどね。

サンタクロースがオヤジやったことをはっきりと知るのは、小学校5年生のとき。
親の口車に乗せられて、中学受験に燃えていたオレは、すでに深夜まで勉強する小学生になっていたのですよ。
その晩、寝たフリしていたオレの枕元にそっとプレゼントを置きにきたのは、紛れもなくオヤジでした。

それにしても、1週間前にかかってくる電話、誰に頼んでたんやろか?(笑)

2006年12月10日日曜日

モノヅクリさんに告ぐ、営業を怖れずに!

相方さんがチラシを編集部に送りつけたり足を運んで持っていったりした甲斐があって、ちらほらといろんな雑誌社から反応が来るようになりました。
すでに実際に掲載されたものもあるし、これから掲載が決まっているものもあるし、今は予定がないけれども、合致する企画のときはよろしく!と挨拶があったり、いろいろと反応が出てきてます。いいかんじです。

んで、先月の25日、第1発目としてエルマガジンに掲載されたわけですが…、

その後、です。
掲載のお礼メールや電話はちゃんとしたの?
と聞くと、なにもしていない、と。。。。

んで、今月の15日には知恩寺さんで再び手づくり市に出展するわけですが、それは編集部に言ってあるの?
と聞くと、これまた、なにもしていない、と。。。。

ったく、なにをやってるのか!って話ですよ。
なんのために、雑誌とのパイプをつくったのか。。。
せっかく自分で足を運んで築いたパイプをですな、単発で終わらせようとして、次に繋げていこうとする発想がないんです。

掲載のお礼をもっと早くにやっておけば、お礼と手づくり市のお知らせと、少なくとも2回は編集部と連絡を堂々と取れるのに、今からだと、お礼とお知らせと一緒にやるしかないから、1回しか接触出来ない。。
もったいない話ですわ。

と、少しお小言を言ったんですが、まあ、初めてのことだし、そこまで気をまわすのは難しいのかなぁ、とも思います。

どーもね、編集部に何度も何度も掲載のお願いをするのが、あつかましい!と思われないか、とか、ウザイ!と思われないか、とか、考えてしまうらしいのですね。

これ、モノヅクリさんが陥りやすいワナですね。
10人いたら9人までが、このワナにハマるんじゃないかな。
やっぱ、営業が苦手なんだな。

これ、以前にも日記で書いたんですが、繰り返します。
営業とは、売り手と買い手の双方がハッピーになる商取引のことです。あくまで、双方が五分の、取引です。
売り手は、相手がハッピーになることで、つまり儲かることで、自分も儲けるんです。
オタクの店にオレがつくったこれを置いてくださいよ、バンバン売れて儲かりますよ、オタクが儲かってくれたらオレも儲かるから万々歳です。だから、一緒に儲けましょう☆
これが、営業です。

もっと簡単に言うと、atricotさんの服を、それを欲しい人が、納得した金額で買った。買った人は、欲しいものが納得のいく金額で手に入ってハッピー、売ったatricotさんも、納得のいくお金が儲かってハッピー。これが、商取引です。だから、売り手も買い手も、五分と五分。イーブン。だって、取引だもん。これが、健全な商売。
だからね、売り手がへりくだる必要は、まったくないんです。マナーとして、テクニックとしてへりくだることはあっても、腹の底で、そんな意識を持つ必要は、どこにもない。むしろ、相手をハッピーにしてあげたんだから、自負を持っていい。
売り手も、ありがとうございました!だし、買い手も、ありがとうございました!なんです。

その意識をね、モノヅクリさんは、上手く持てない人が多いですね。特に、駆け出しのモノヅクリさんは、10人中9人がそのワナにハマってるかんじです。

雑誌に話を戻します。
雑誌の編集部は、そこに掲載の協力をしてくれる人や店がないと、成り立たんわけです。また、編集部員は、常に、読者にとって有益な情報を、掲載に値する人や店を、探しているわけです。インタビューを受けてくれるミュージシャンがいなければ、音楽雑誌なんて成り立たないでしょ。
そこまでは、誰でも想像出来ますよね。
そしたらさ、私はこんなことやってます、次はこんなことをやります、って情報を、自分から編集部に向けて発信してあげたら、編集部は喜ぶに決まってるじゃないですか。たとえ今回は企画に合致しない情報であっても、いつかは使える情報として、ストックしておきます。ストックは、多ければ多いほどいいわけです。情報なんて、場所をとらないんだから。

私がやっていることは貴誌の読者が知りたいことだから、お知らせします。貴誌は、私の情報を掲載し、読者を存分に満足させてあげてください。貴社の価値をさらに高めてください。そうすれば、私もハッピーになれます。
と、そういう意識でいいんです。これが、五分と五分です。
もちろん、これをストレートに言うのではなく、言い方はいろいろありますが、意識は、これなんです。
いい話を持っていってるのにね、あつかましいもウザイもないですから。いい話なんだから、喜ばれます。どんどん、持っていけばいいだけです。

けっして、掲載してもらえませんか?という意識ではダメなんですね。
それだと、「どうか掲載してください、お願いします」「おおそうか、そこまで頭下げるなら掲載してやろう」にしかならない。すでに五分と五分の関係ではなくなってます。こんなのは、商売でもなんでもないですね。

この意識が持てれば、売り込みに行くときの売り込み文句も、声のトーンも、顔つきも、姿勢も態度も、すべて変わります。

私があなたをハッピーにしてあげる、してあげたい!
そういう意識でモノをつくっているモノヅクリさんは、多いはずです。
それをね、商売にもあてはめてみれば、上手くいきます。

モノヅクリさんは、貪欲な人ほど、自分の作品に自信が持てませんね。
それはそれで、いいんです。それが、正常。
完璧なものがつくれたって思うことなんてないし、どっかしら不満があるから、次こそは!ってなるわけです。
才能のある人ほど謙虚だし、自分の才能を疑うし、それは、モノヅクリにおいてはとても大切な必須事項です。
でも、その意識をそのまま商売に持ってきちゃうと、ダメなんですよね。
あなたをハッピーにしてあげたい、モノヅクリの動機になっているはずのその意識こそを、商売にも持ってくる。それをしなければなりません。

2006年12月9日土曜日

バカバカしい結婚

登場人物は、嫁、夫、舅(夫のお父さん)の3人。

嫁31歳。
夫31歳。
舅、58歳。長らく勤められていた会社を辞め、現在は自宅にて自営業。

嫁31歳は、オレの知り合いなのだけれども、広島出身で大阪で働いていたのでした。派遣で、ブランドものの販売店で、店頭に立って仕事をしていたのですがね。

んで、彼女が、その店の店長と付き合ってすぐのこと、店長が生まれ育った横浜に転勤で帰ることになって、今すぐ結婚してほしい!ほいで、横浜に一緒に来てほしい!と、プロポーズされたわけです。
付き合いはじめて、1ヶ月経ってないんじゃないかな。

元来、結婚願望が強かった彼女は、降って沸いたような話に、舞い上がるだけ舞い上がってホイホイとその話に乗り、彼氏さんのほうもプロポーズを二つ返事で受けてもらえ、ま、万事順調に進んでいたわけです。

彼氏のお父さんも横浜から大阪にやって来て、彼女のご両親にお会いし、話はあれよあれよという間に進んでいきます。プロポーズがあった3、4日後に、そういう展開でしたわ。

なんでも、彼氏さんは、早くにお母さんを亡くされ、お父さんの男手ひとつで育てられてきており、家庭というものに飢えていたとのこと。お父さんも、一人息子が嫁を迎えるのだから、出来るだけ嫁さんの居心地がいいようにと、あれやこれやと話していかれたわけです。

まず、横浜にはすでにお父さんと彼氏さんが連名でローンを組んだ持ち家があります。2階建てだけど、べつに2世帯仕様ってわけでもない。
ところが、彼氏さんは家が建ってからほどなくして転勤を余儀なくされ、その間、数年前から今に至るまで、支払うべき家のローンを、すべてお父さんに任せていたわけです。最初の話では、2人で応分の金額を分けて、って話だったらしいのですが、ま、息子さんの経済事情からでしょうが、その話は反古にされ…。でも、今度その家に3人で住むにあたっては、ちゃんと毎月のローンの分を、応分負担すると。

ところが、です。
彼女は、そもそもが彼氏さんのお父さんとの同居などもってのほか、という考えの持ち主でして、ここらへんから少し雲行きが怪しくなるのでした。
その話を、両家で集まったときに彼女がすると、彼氏さんのお父さんは、自分には今、結婚したい女性がいて、ゆくゆくはその女性と一緒に暮らすつもりだから、家は出る、と。そのうえで、ローンの支払いは続けていくつもりだから、しばらくは3人で暮らすことになるとしても、ゆくゆくは若い夫婦2人で好きなようにやればいい、と。
さらに、です。お父さん、彼女に向かって、自分のご飯はつくらなくていいし、なにもしなくていい、と。

そういう話なので、彼女は、こりゃいいわい、と、これまた二つ返事で横浜行きを決断したわけですが…、端でその話を彼女から聞かされていて、そんな上手いことコトが運ぶか?と、オレは、一抹どころか大きな不安を抱えていたのでした。抱えていたといっても、オレにとっては所詮は他人事なので、異国の火事をテレビで見る野次馬程度のもんですが。
それよりも、彼女は料理がまったく出来ないので、これからオレんところに電話がかかってきて、あれこれとレシピを教えなきゃならんのやろな~、ってことが頭によぎっていたくらいで。

そんなこんなではありましたが、付き合って2ヶ月経たないうちに、入籍。2人ともお金はないから、結婚式はしない。で、身のまわりの荷物だけ持って、彼女は晴れて妻となり、夫と舅の待つ横浜へ旅立っていったわけです。

それから半月後!
結婚しましたハガキが来ることもなく、早速電話がかかってきましたよ(笑)

まず、
横浜の新興住宅街の新居の周りは、夫側の親戚がたーくさん住んでおり、なにやらどアウェーに単身乗り込んできてしまった感があって、しんどい、と。
夫の帰りは毎日深夜、一方で自営業の舅さんは終日家にいて、なにかと居心地が悪い、と。
出来ない料理を一生懸命頑張って、舅さんのぶんもつくってるのに(ほら、当初の話とすでに違ってる。笑。)、その料理によくケチをつけられる、と。
舅さんの洗濯物も、洗濯させられる、と。

レトルト買って晩ゴハンつくっては、舅さん「またレトルト?」、彼女「すいません…」ってな具合らしくて。
まあ、これまでの31年間、まったく料理をしてこなかった彼女も、自分のゴハンなどは一切用意しなくてもいいからと言った舅さん、どっちもどっちですが、このようなことがね、延々と続いてるわけですよ。
そこへきて夫は帰りが遅く、帰ってきたら帰ってきたで疲れてるから、すぐに寝ちゃう。。。あんまり、間に入ってないみたいなんですね。

そんな状態で、オレんところに電話がかかってくるわけですが、んなもん、それみたことか、としか言いようがない(笑) せいぜい、料理の勉強でもするしかない(笑)

そうそう、舅さんがこれから結婚しようとしている相手の女性というのは、飲み屋さんで働く若い韓国人女性さんで、今、舅さんが別で部屋を借りて、彼女を住まわせているらしいのですよ。
なるほどね、とオレは思いましたよ。
んなもん、舅さんは金づるに思われてるだけで、その女性は結婚しないでしょうね。結婚話がどの程度進んでるのか知らないけれども、きっと潰れるわ、と。

それからまたまた半月後、入籍してちょうど1ヶ月後、またまた彼女から電話がかかってきました。

夫が休みの日に、夫を横に座らせて、彼女は舅さんに、最初の話が違う!と、ぶちまけたそうです。
引っ込み思案であまり社交的もない彼女にしたら、けっこうな蛮勇ではあるんですけどね。でも、んなもん逆効果に決まってる(笑)

案の定、舅さんは、嫁に来るというのは、そういうもんだろう!と、逆ギレ。
しかも、3人同居がスタートしたのにもかかわらず、この若夫婦は、未だ家のローンの応分負担をしていないらしくて、そこも突っ込まれたらしいです。

ほいで、いよいよ泥沼になり、彼女は家を飛び出し、彼女にとっては横浜から一番近くにいる、東京は市川の親戚の家に、とうとう家出。
なんでも、なんにも出来ない嫁、いてもいなくてもいい嫁、と、舅に言われたのが決定的だったらしく、彼女は家を飛び出したのだとか。

んで、この間、夫はなにをしていたのか。
彼女に聞いても芳しい言葉は返ってこず、どうやら傍観していた模様(笑)

それからほどなくして、
舅さんが、件の韓国人女性と結婚して家を出るから、若い2人で家のローンを払っていきなさい、と、そう通告してきたそうです。
もちろん彼女は家出中ですから、舅さんは息子である彼女の夫に話し、夫経由でそれを聞かされるわけですが、彼女としては1日でも舅とは一緒に暮らしたくないらしく、舅が出ていくまでは家に帰らない、と。
おいおい、市川の親戚さんのところは、そんな長居出来るところなのか?(笑)

それからほどなくして、
舅さん、そうは言ったものの、やっぱり、韓国人女性には結婚を断られたご様子で。なんでも、けっこんするなら、最低限これくらいの生活はしたい、と、結構なコストがかかる生活水準を要求してきたらしく、要するに、金づるってことでしたよ、やっぱ。

それで、舅さんが家を出ていく話も、頓挫。
彼女のお父さんはというと、戻ってこい!の一点張りらしいです(笑)


なんか、甘い考えの人が3人集まって、好きなこと言って、誰ひとりとして落としどころを探そうとしていないみたいなので、完全に部外者でしかないオレなんかになにかを相談されても、どうにもならんですけどね。

とりあえず、
彼女と夫は、どっかに部屋を借りて独立する。
最初に取り決めたローンの応分負担は、彼女と夫で責任を持って支払う。
彼女は働きに出る。

とだけ、提案したんですけどね。

そうすりゃ、そのうち舅さん年だし弱ってくるだろうから、向こうから面倒をみてもらいに頼んでくることもあるわけで、そんときは、面倒をみてあげる立場として、彼女も上から接することも出来るわけですよ。そのときに上から接するのではなくて、下から接してあげれば、それなりに上手くいくんではないか、と。

今さら3人の考えや覚悟を改めさせるのは難しいだろうから、それくらいしか言えませんわ、オレ(笑)


ここんところ、こんな茶番にも付き合わされていました(笑)



口直しに、SIONを聴いてます。いいわ、これ☆
SIONについては、いつか、きっちりと書いてみたいです。最近、無性にSIONが聴きたくなってます。


本日の1枚:

SION /『俺の声』

2006年12月8日金曜日

庭を掻く



初めて石の庭に対面したのは、10代の終わりころのことでした。

夏の夕方で、今よりはずっと監視が緩やかだったから、オレは、ひとりで、長い廊下に座ったまま白い庭のモノクロームが暮れなずむのを眺めていたのでした。退出を促す若い僧侶がやがて現れ、オレが立ち上がるのを見届けると庭に降り、白い小石の表面を整えにかかりました。
それをゆっくりと拝見することはそのときのオレには許されなかったのだけれども、竹の道具で掻く、という文様のつくりかたを垣間見たことが、ひどく心に残ったのでした。

それからずいぶんと時間が経って、アフリカ・ザイールのクバのテキスタイルを見た折りに、はからずも、その石庭の印象がよみがえってきました。

クバ族はアフリカの優れた染色の仕事のなかでもとりわけ独創的な文様をつくり続けてきたことで知られ、画家のマチスがそのコレクションを愛蔵していたことが、写真家アンリ・カルチェ・ブレッソンのカメラ・アイに収められています。
クバ族のテキスタイルは、草ビロードと呼ばれるカットパイルの布と儀式用の礼装から成り立つのですが、いずれも驚くべき幾何学的なパターンを表現しています。とりわけ葬式の供えものであるカットパイルの四角い布に捉えられた図柄の抽象性は、彼らが、世界を幾何学的な記号の組み合わせとして解釈する、という研究家の言葉を如実に表していますね。

その研究家、メアリー・ハント・カレンバーグが、興味深いエピソードを披露しています。

かつて宣教師がクバの王へ贈りものとしてオートバイを持参したが、王はなんの関心も示さなかった。そこでオートバイを引き上げようと動かしたとき、王の眼が輝いた。タイヤの残した模様が、新しいパターンとして取り入れられることになった…。

この話は聞く者をさまざまに触発しますが、オレは小躍りして、ひとつの持論を出したのです。文様は、まず、動詞がつくってきた、と。
平面あるいは表面に、彫ル、刻ム、などの動詞がかかわって生まれる文様について、古代からの文化遺産の例を引くまでもありません。仏像のまとう布は、畳ムことによって生まれる襞の文様の神々しい例です。
そぎ落トス、削ルなどの意味を持つ、ハツルという動詞もあります。
1988年のヴェニス・ビエンナーレでフランスを代表したダニエル・ビュランは、自国のパビリオンでの建物の肌を見せることを作品としましたが、それはほぼ1世紀前に建築家が残した文様、すなわち石壁のハツった面と、動作を加えない面とが構成する、美しい縞模様の素肌を剥き出しにして見せることでした。

水紋、風紋は、自然が仕掛けた動詞のつくりだす文様と言えるのではないか?

では動詞でなく名詞で文様を見るなら、これまた花、鳥、草、樹、動物。自然界を模したものだけでも無限に存在しています。

そこでまたオレだけの定義になるのですが、名詞からは模様が生まれていきます。

バラの模様、つる草の模様、鯉の模様、ライオンの模様、のこぎり、かんなの模様、サムライの模様、子供の模様。すなわち、かたちと名のあるものたちの模様。

枯山水もまた、自然を模したものではあるのだけれども、そこにある文様の力は、ほとんど謎です。
小石の海の表面を掃くことで水の流れを現出し、小石を円錐形に積み上げることで山を表すと、初めに案出した人は宇宙の再構築を無意識のうちに行っています。日本の庭園で心が静まるのは、プリミティブ・アートを前にするのとおなじと言ったら突飛すぎるかも知れないけれども、根源的な力を捉えた文様、という共通項があります。

クバ族は自然の事物を単一の記号に省略し、抽象化します。
オレが見た一枚は、村落や田畑と思われるものが線による幾何学文様として地面をつくり、その随所に一段と厚みのあるモノリスのような長方形のパターンが浮き出たもので、それは、東福寺光明院の印象を思い起こさせるのでした。

四角いクバの布は死者の霊に捧げるものなので優れたデザインでなければ昇天出来ない、と、クバ族は図案を競い合います。成果をあげた文様は、未来的なイメージさえかき立ててくれます。

12月に入ったばかりのころ、急遽、仕事で早朝の東福寺に行くことになったのですが、その折、超がつく名庭の、文様を掻かせてもらいました。

寺院の庭の文様にも、鎮魂の思いは込められています。
無心にそれを掻く人になりたいと、その後、場所を重森三玲の作庭した昭和の名庭に移し、眺めながら、ずーっと思っていました。

いい体験をしました。

写真(左)オレが掻かせてもらった、東福寺方丈前庭です。
写真(右)重森三玲が作庭した昭和の名庭、東福寺方丈北庭、市松の庭です。

東福寺

2006年12月7日木曜日

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」

ふう~、特急仕事の突貫工事、無事に終了。
ただでさえ忙しい12月に余計な突貫工事が割り込んでくると、エラい目に遭いますな。

といっても、mixiで遊べないほど忙しいわけでもなかったのですよ。
徹夜徹夜といってもそれはいつものことだし、なんだかんだで深夜4時には仕事を終わらせてたので、まあ、とんでもなく忙しいというわけでもない。ちゃっかり飲みにも遊びにも行ってたし(笑)

なんかね、mixi、あんまりやる気にならんかったんですわ。書きたいことがないわけではないけれども、気分が乗らないから書かないだけ。

いつもは仕事で複数のウインドウを立ち上げ、複数のソフトを起動させ、賑やかにやっているけれども、ここ数日は、mixiにログインすらしてませんでした。
何人のかの方が、忙しいのか?とか、日記を書いて!とか、いろいろとメッセージをくれたのだけれども、それもスルーしました。
mixiはオレの仕事ではないし、慈善事業でもないし、趣味ですらなく、単なる息抜きなので、忙しくて書かない日もあれば、忙しくなくても気が乗らなくて書かない日もあるのですよ。
なので、気にかけてくださる方には、それはそれでありがたいし申し訳ないなとも思うのですが、オレも子供じゃないので、そういうご配慮はなさらぬよう、よろしくです。

さて、その間、なにをしていたかと言いますと、じつはやっぱり忙しかったのですね。
仕事の合間合間に、将来の身の振りかたについて、考えていたのでした。

この夏くらいから漠然と考えていたのだけれども、いろいろときっかけがあって、猛烈に考えるようになったのでした。そのせいで、mixiやってる時間も気力もなくなっちゃったんでしょう、きっと。

オレは大学をプイと辞めて、20歳から売文屋として商売してきたわけですが、そっから現在に至るまで、売文屋だけじゃなく、企画もすれば企画の製作もするし、デザインもすれば撮影現場を仕切ることもするし、予算がなけりゃ自分でカメラを持つこともスタイリストの真似事することすらあります。印刷工場の職工さんに口を出すことすらありますな。オフセットの機械、操作出来るし(笑) だから、印刷物と名のつくものならなんでもするし、今じゃweb製作だってやってる…。そこへきて、商売が好きだから、いろいろと仕掛けていくことも好きだし、一方でクリエイターでもあるわけで、モノヅクリの現場にも相変わらずウロウロしてるし。しかも、その守備範囲は、右足は商工会議所で左足はアメ村に突っ込んでるってくらいに、広いわけです。そのうえで、アマゾンで農場経営もやってる(笑)
女子高生のコギャルを取材して、市町村のトップの会議に出席して、アーティストと打ち合わせして、銀行とカネのやりとりで丁々発止して、風俗店の求人広告つくって、農場栽培のレポートつくって…、なんてことを、1日のうちにやったりしてるわけです。その合間に、寺に昼寝に行き、相方さんと遊ぶ…。
出版社と編集プロダクションと広告代理店とビジネス・コンサルタントと農場経営と貿易業と、1人で6役やってるみたいなもんですわ(笑) そりゃ、忙しいはずだわ、と、我ながら思うけれども。
たぶん、日本中探してみて、オレみたいな業態で仕事をしている人って、いないんじゃないですかね。少なくとも、オレは、オレみたいな業態で仕事をしている人を見たことがない(笑)

どれもね、おもしろいからやってるわけです。やりたくて、どれもやってきたわけです。
だから、しんどいことは全然ないし、24時間やってろ!といわれたら、やるんでしょうね。

よくね、何屋さんなの?と、聞かれるんですよ。
そんなの聞いてどーするんだ?と、オレは思ったりもするんですが、まあ、わかりやすさというのはひとつの価値ですから、そうなるんでしょうね。
でも、初対面ならともかく、一緒に仕事をしたこともある人がね、オレのアイデンティティを確認するかのごとく、何屋なのか?と、問うてくるほどに、いかほどの意味があるのか…。
その人との仕事で、オレがライターとしてかかわれば、その人にとってはオレはライターさんでしょう。デザインをすれば、デザインを書いて文章も書くことの出来る人ってことでしょう。それ以上でもそれ以下でもないと思うんですけどね。
いくらオレが、ライターだ!と叫んだところで、オレの仕事を見て、あんなもんライターの仕事じゃない、と判断されたら、それまで。
だから、何屋さんか?と問われても、その人が見たものが、オレの職業ですとしか、言いようがないじゃないですか。オレのアイデンティティ? 知ってどーする(笑) んなこと、オレだって知らない(笑)

話はとめどなく横道に逸れていきますが、じつはここまでは、前置き。
そして、なにを書きたいのかも、じつはまだ定まっていない状態で(笑)

えーっと、まあ、そうやって仕事をしてきたわけです。
んでね、今、40歳なんですよ。来月で41歳。
実年齢よりも若く見られることがほとんどなのだけれども、それはきっと、しなければならないことには一切見向きもせずに、したいことだけをしてきたことと、常に若い人と接してきたからこそなのだと、思うわけです。
年齢的にね、行政レベルの仕事をしていくほうがギャップが少ないし、でもオレは、サブカルチャーが大好きだし、若い人と触れ合うのも大好きなので、そっちの仕事もしていきたいのですよ。

ところが、だ。
この3、4年かな、ネットを中心とした物事の変化のスピードのあまりの速さに、ちょっとついていけなくなってきてるんですよね。
そのため情報収集に汲々としてしまっていて、それだけで結構な時間をとられちゃう。そこのさじ加減は割合と難しいのですが、それでもそれは、経験則でなんらかの方法を見つけるだろうな、と、自分では思っています。
問題はそんなところにはなくて、若い連中がおもしろがっていることが、オレにとっては、だんだんとおもしろくなくなってきていることなのですよ!
昨日今日出てきた連中の音楽で、心を動かされるものは、さっぱりありません。
若手芸人? おもしろいと思ったことがない…。
新しいビジネススタイル? 驚愕したのは、googleがやってることくらいです。
新人漫画家、小説家、詩人、絵描き…、興奮した人は…、やっぱ、いないわ。
そんなかんじなのですね。

これがね、いち個人としてみた場合、全然問題じゃないんです。
おもしろくないんだから、オレには関係ないから勝手にやってくれ、でいいんです。
でもね、職業人としてみた場合、これはちょっと由々しき問題だな、と思うわけです。
軸足をね、社会的に年齢相応の場所に移せば、それでもいいんですが、それだとね、おもろくないんですよ。
毎日毎日ネクタイ締めてスーツ着たオッサンと顔つき合わせて、カタい話ばっかりなんて、やだわ。
どっかの参与や顧問に迎えられるのなんて、もっとイヤだし。
そっちに軸足を移したいと思うときがきたらそうするだろうけれども、今は、そんなこと思いません。

そういう状況でね、3年先の目標を像として結べていないのが、ここ最近、悩みの種なのですよ。
中長期の目標が立てられないから、短期の目標が立たない。
このままのんべんだらりと惰性で仕事をしていくしかないのなら、こんなアホらしいことはないですしね。

で、さてどうしたものかいな、ということを、いろいろとシュミレートしつつ、漠然と考えていたんですね。

そういう折り、出会ったのが、今、マイミクさんの寧楊さんで。
ようやく本題に入りつつあります(笑)

寧楊さんは、オレのマイミクさんのmomoさんのマイミクさんで、今年の時代祭のときに、momoさんが引き合わせてくれたのでした。
ひと目で大好きになって、そのあたりのオレのはしゃぎようは、何度かこれまでの日記でも触れたので苦笑されている方もいらっしゃるでしょうが、なんちゅーかね、久しぶりに、出会ったな!っていう感覚を感じたんですよ。

んで、家が近いこともあって、何度かお会いして、オレはすっかり寧楊さんになついてるんですが、そうするなかで、じつは彼女も、将来像を模索していることを吐露されて、それがきっかけになったんです。

漠然と考えていたことを、真剣に考えるようになったわけです。
ここ数日、mixiにログインすらしなかったのは、忙しい仕事の合間を縫って、3年先のシュミレーションを、あらゆる角度からやってたんです。
ただ、どの角度からシュミレートしてみても、あんまりおもしろい地点に行ける道筋が、見つからないんですよね。だから、答えはまだ出てないんですが。

出てないのだけれども、
ひとつ、再認識したことがありました。

それは、じつはもうひとつのきっかけがありましてね。

えーとね、藤原和博さんが書いた『リクルートの奇跡』がいつのまにか文庫化されているのを本屋さんでたまたま見つけて、単行本でも読んだのですが、今回、文庫を買って再読していたんです。
オレは成功のケーススタディにはほとんど興味がなくて(成功要因はたいていの場合いろんなことの複合なので、あまり参考にならんのです)、読むとすれば失敗したケースタディの、なぜ失敗したのかというほうに興味があるのですが、この本だけは別。
まず、オレも長いことリクルートにかかわってきたので、リクルートの成長物語であっても、その裏の失敗も山ほど知ってますから、これはリアルにわかる話なので。第一、知っている人がいっぱい出てきます。

ここでリクルートの話などに触れていたら、この日記は際限なく長くなっていくのですが、行きがかり上、触れないわけにはいきませんな(笑)

オレの、社会人としての出発は、リクルートと縁を持ったところからはじまるんです。
べつにリクルートの社員でもなんでもなく、最初に開いたコピーライターの事務所で、売上の70%以上占めていたのが、リクルートの仕事だったんです。
今から20年もまえの話だけど、おもしろい会社なんですよ。社員も契約社員もアルバイトも、オレみたいな取引先までが、平等に扱われていてね。上から下まで、役職で名前を呼ぶ人は誰もいなくて、全員が、さんづけ呼んでるし。
自分が社会に出た一番最初の時期に、黄金期を迎えようとしていたあの会社とかかわりを持てたことは、今振り返ってみても、とんでもなくラッキーなことでしたね。オレの会社観というものはそのときに決定づけられたし、自分が会社を興すたびに、会社を経営するたびに、どれほどの知恵を、あの時代に学んだものから取り入れてきたことか。
以降、7000~8000社ほどの会社とかかわりを持ってきたけれども、今もって、あの時代のリクルートに並ぶほどの魅力的な会社に出会ったことは、ないです。

会社の財産は、人であるということ。
そのために、採用には、狂っているとしか思えないほどの予算を注ぎ込みます。
1人を採用するのに、800万円ほど注ぎ込みますから、あの会社は。1000人採用したら、80億円ですよ。そういうカネを、人材を確保するためだけに、注ぎ込む会社です。
当然、最優秀の人材が来ます。
アルバイトをとるのだって、2次面接までして、最終面接者は支社長ですから。
人がいれば、事業は後からついてくる、そういう会社なんです。しかも、それを、強烈に実践してきた会社。全社員がリクルーターだし、優秀な人材を引っぱってこない社員は、それだけで評価が下がります。
そこが、最優先の会社。

いや、こんなことから書きはじめていたら、それこそ藤原さんが1冊の本にしたように、1冊の本が出来てしまうから、話は大幅にはしょらざるをえないんですが…。
えーっと、なにが言いたいんだっけな?(笑)

リクルートには見えない財産が無数にあって、たとえば、
そのなかのひとつに、社会に対して常に独自性のあるユニークな情報システムを創出し、世に問うことを仕事にしている誇り、とでも呼ぶしかないプライドのなかで、多くの人が仕事をしている点が挙げられます。
給料だとか人事だとか、そういうところにはほとんど関心がいかない会社でした。
んで、そういうことを誇りに持って仕事をしているのがリクルートとかかわった人間だから、誰しもが経営者感覚を求められるんですが、それにしたところで、闇雲に求めたところで生まれるものでもなく、それこそ超優秀な人材を狂気とも思える予算を突っ込んで確保し、そのうえで、経営陣の親類縁者を一切入社させず、社員持株会を筆頭株主にするところまで、徹底してましたね。
ダイエーに買収されたとき、そのフェアネスが損なわれることを怖れた社員たちが立ち上がって、リクルートの企業風土を守ろうと躍起になったんですが、それも頷ける話で、そこが損なわれたら、この会社は、たちまち地に落ちてしまったでしょうね。そうなれば、優秀な人材ほど真っ先に抜けていくでしょうから。とにかくね、人事だとか給料だとか、そういうことに関心が向く人がほとんどおらず、多くの人が、お客さんのほうを見て仕事をしてきた、そういう会社だったんですわ。
飲みに行って、社内の話をするよりもはるかに多くの時間をお客さんの話をしているような会社。
うん、誇りのなかで仕事をしてきた人たちの集まりだったですね。

そのつぎ、これまたスピリッツの話になるんですが、
この会社の古い社訓に、
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」というのがあるんです。

創業者の江副さんが考えた社訓ですが、今に至るまで、オレの仕事観の中心に近いところを貫いています。
ずーっと、それを実践してきたからこそ、今のオレの仕事は、何屋か?と問われるほど守備範囲の広いものになってしまったわけだけれども、そのことをね、今回、藤原さんの本を再読して、思い出したんですよね。

おもしろくないのなら、おもしろくすればいいんや!って。
ちょうどね、寧楊さんと出会ったことと、この本を読んだことと、時期がピッタリ重なってね、そうだそうだ、機会をつくろう、そういう機運だわ、と、確信出来るにいたったとのが、今日(笑)

今、さっそくいろんなことを仕込みにかかってます。
来年、動きますよ!

そんなわけで、すっきりしたことだし、mixiの日記もぼちぼちと書いていくのでした。


たった今、これ聴いてます。やっぱ、かっこいいわ☆


ani difranco / Pick Yer Noise

2006年12月2日土曜日

いくらなんでも…



いくらなんでも。。

オマージュでも真似でもなくて、単純にパクリですやん。。。
どういう経緯でこんなことになったのか、知りたいですわ(笑)

ちなみに、ドリキャスが先で、ソフトバンクが後。

んで、どっちも「自粛」と謳ってますが、我々の世界では、どっちも「差替」と言います(笑)
「自粛」どころか、じゅうぶんに「新聞広告」として成立し、一定の成果をあげているではないか(笑)

2006年11月30日木曜日

火曜日と水曜日

火・水曜と京都で遊んでました。
といっても、今回はお寺さん巡りはナシで。

なら、前日の大原日記はナンなんだ!という話ですが、あれはまあ、むかしに大原は行ったけれども、今年の冬はその奥まで行きたないなあ、というお話(笑)
ま、雪は年を越さんと降らんでしょうから、今からそんな話をしても鬼が笑うだけですが。

火曜の夜は、オレ、相方さん、相方さんの友だちでもある先斗町ナンバーワンの芸妓さんの豆○さんとドンチャン騒ぎをしておりました☆
ほとんど、豆○さんの恋愛相談の場と化してましたが(笑)
プライベートとはいえ、話し上手気配り上手が身についてるから、気持ちいいのよ。座る席順からお支払い時まで、さりげなくオレを立ててくれるんですわ。プライベートでまでそんなことしてたらしんどいと思うんですが、もう、染み付いちゃってるんでしょうね。

芸妓さんと飲み屋のおねーちゃんを一緒にしたら怒られちゃうけれども、オレ、そういう人たちが、仕事明けの夜中やプライベートの時間に、ある夜の出来事や男の稼ぎや家族の話をしながら、ウダウダとグチを言っているのを聞くのが、むかしっから大好きなのでした。
その瞬間、仮面の下の素顔が見えた気がしてね、すごく好きなんですね。悪趣味だとは思うけれども(笑)

でも、豆○さんは、そんなことなかったな。そりゃね、お座敷では絶対に使わないような言葉使い、振る舞い、姿勢で終始いたけれども、それでも、長年されてきたお仕事で身に染みた品がね、あるんですよ。あれは、いい意味で一種の職業病ですな。芸妓さんと水商売のおねーちゃんを一緒にしてはイカンのか、ナンバーワンゆえのことなのかは知らないけれども。

豆○さんの話は、枕に持ってくるには面白すぎるので、また今度にして。
今回は、シチロさん。そう、オレが愛してやまないマイミクさんのシチロさん20歳♀ですわ☆

シチロさんは、相方さんの友だち。

前々から、相方さんに「ぜひ紹介したい!」と言われていたのですが、それからどれくらいの時間が経ったんだろうか。相方さんがシチロさんをmixiに引き入れ、シチロさんが密かに(笑)ちょこちょことオレの日記を覗きにくるようになり、面倒くさいから「オレのマイミクになりなさい!」と無理矢理マイミクにして、それからオレもちょこちょこと彼女の日記を覗きにいくようになり…、

んで、この日記がね、いいんですよ☆
なんちゅーかね、天才!
おなじクレヨンを使っても、天才がそのクレヨンを使うと、たちまち蛍光色になっちゃうんです。そういうかんじ。
文才があるとかないとか、そういうことでは全然なくて、とにかくね、全然違う!
なんの説明にもなってませんが(笑)、ロックンロールの天才とでも言えばいいんですかね?
それでも、なんの説明にもなってませんな(笑)

ロックンロールというのは、ロクデナシの音楽なんですわ。ロクデナシのためにある音楽ではなくて、ロクデナシの音楽。べつに向上心もないし、有益なもんなどでは、絶対にないです。でも、人は、正しいことばかりで生きていけるほど理性的には出来ていないし、ある種の人にとって、ロックンロールは、生きていくためには絶対に必要な音楽なんです。
ここらへん、感覚の問題なので、わからん人は絶対にわからんでしょうけれども、ロックンロールとは、そういう音楽なんです。
んで、シチロさんは、そういうロックンロールにおいて、天才なんですね。

さらにすごいことに、彼女は、その天才性に加えて、触れる人を幸福にするなにかをすら、持っているんです。彼女の日記を読んで、幸福にならなかったことなど一回もないですから、オレは。

そのシチロさんとね、本日、やーっとご対面☆
月曜日に、相方さんが働くルッカに電話してみたら、今、シチロが来てるで、と。
その日はオレは仕事がパンパンだったから、行けるわけないし、水曜にルッカに行くから、シチロさんの予定を聞いてくれ、と。
そしたらシチロさん、水曜は大学の授業がある、と。
でも、オレは、相方さんがルッカを辞めるまでに3人で会いたかったから、「学校とオレとどっちが大事なんや?」と(笑)
そしたら、オレ、ということに相成りまして(笑)
はい。手帳に、「水曜昼、ルイスさん」と、しっかりと書き込んでくれたらしいですから(笑)

そんなこんなで、やーっとご対面と相成ったわけです。
相方さんから、いろいろと話を聞いていはいたのですが…、
なんせね、シチロさん、喋らないのよ(笑)
そいで、終始ニヤニヤニカニカニヤニヤニカニカしてる(笑)
「なにを食べてどんな育てられかたしたら、あんな日記が書けるんよ?」
「普段、どんな音楽聴いてるの?」
「今は、なんのバイトしてるの?」
「バンドはどんな音楽やってるの?」
「シンガポールに住んでるときはどんなだった?」
…、もうね、オレが聞くばっかりで、聞いたことには答えてくれるんだけれども、彼女から問いかけられたことは、ついになにもなく(笑)
ほいでやっぱり、終始ニヤニヤニカニカニヤニヤニカニカしてる(笑)
ほいで、マフラーの端をいじったり、飴が入ってた缶をいじったり…、とにかく落ち着きがない(笑)
すんごく挙動不審でね、オレは誘拐犯みたいだったですわ(笑)

でもね、全然わからんかもしれませんが、素敵な時間だったのですよ、これが。

シチロさん、また遊ぼうな☆

2006年11月29日水曜日

この冬、大原の奥を狙ってます


雪月花、という言葉がありますな。

万葉集の大伴家持の和歌に出てくるし、枕草子にも村上天皇の一節に挿話されていたように思います。

季節を代表する雅景の最初に、雪が置かれています。ゆき、という発音の清らかさも、その白い結晶にふさわしい。古人の美感覚が、美のもっとも高い存在を清浄としたことが、雪への尊敬になったのではないだろうか、と、思うのです。
美しさは、さまざまにあります。
あでやかな、はなやかな、うるわしい魅力から、あやしい妖艶、魔性の美まで。それこそ、かぎりなく。

そんななかで、浄といえば、雪です。

京都の冬は、どことも違う美しさがある。少なくとも、大阪の冬とはまるで違う。よく冷え込む盆地のせいでもあるだろうけれども、ふと、しんしん、しんしんとあたりの深く静まる気配に外に眼を向けると、雪が降っていることが、よくあります。

京盆地の気象は、ほんの少し場所が異なるだけで、雪の模様が違います。北限はほとんど北陸なみの豪雪となり、そのとき南限には雪が降らなかったり、雪みぞれだったりします。

ずいぶんとまえに、大原三千院の瑠璃光庭の雪を見にいったことがあります。裏の音無滝を聴きに、また大原の里を彷徨いに足を運んだのだけれど、折りからむっくりと積もった雪に、薬師如来の浄土を表現する宸殿前の庭の、雪保ちの杉の大木が、はっとするような美しさで根をおろしていました。

ここは、懺悔の懺法道場です。
余分な雑念は振り捨てて、自分の裡に渦巻く諸悪を自浄する積極的な懺悔、懺法。
そう出来れば、どんなにか清々しかろうと夢想します。自分の悪から離れることが出来たら、どんなにか、自由は輝くのだろうかと思うのだけれども…、
けれど、なかなか、そうはまいりませぬ。
せっかくの自由が、みっしりと諸悪に満たされて、自分ばかりか他の存在を苦しめているのが実態ですな。そして、やがては逝く。お迎えの阿弥陀三尊が柔らかく座っておいでの往生極楽院に、ひっそりとこちらも座って、雪灯りの阿弥陀を見つめていたのでした。

オレは、不自由さを抱えながら、ジタバタと格闘しているほうがいいわ、と(笑)

京は遠近を美しく、借景の知恵に活かされてます。とくに、北山、東山、西山を背景として造られた庭にとって、雪の降り積もった山の稜線は、雪の醍醐味とでも言いたいものです。
山はむかし、濃い自然の霊気を放つ神秘をたたえた聖地だったはずですが、ところがどうです。互いの視界を大切にしあってきた借景の約束は、現代の利益追求の景観変化で大きく破壊されてきました。見たくない風景が、京のあちこちに進んで、さて、どうなるのか…。

雪は、すっぽりと荒れた山をも町をも包み、雪の日に名庭を訪れた人々の心を和ませます。木立も、石も、土も雪に覆われて、池の水面が半ば凍っている。そんな寂光院のさびしさは、他では得られません。

大原よりさらに北に小高い、古知谷の阿弥陀寺へは、まだ行ったことがありません。
農民自身の発見した修行の弾誓上人を開基として、村人集って一寺を建立したという阿弥陀寺には、石窟が多く、行場としていたようです。行とは寒も通してのことだろうから、その厳しい様子が偲ばれます。

この冬、大原の阿弥陀寺に行ってみようと思っています。
さらにその先、これ以上はないとまで言われた、渡岸寺(向源寺)の十一面観音菩薩立像とのご対面を果たしたいと、考えています。
んで、さらに、相方さんがもうすぐお別れする職場、ルッカのおばちゃんに、月心寺の精進料理を食べにいこうと、誘われたのでした。


ちなみに、雪深い京都奥深いの景色を音楽にすると、こうなります。


ASA-chang & 巡礼 / 花

2006年11月28日火曜日

コレハ、カンジデスカ?



http://www.geocities.jp/f9305710/henkanji.html


ほんまに、あるんですか?
白川静先生の辞書が手元にないので、真偽のほどすら確かめようがない。。。

オレ、ひとつとして読めなかったんですけど…(笑)

あ、

龍龍
龍龍

は、知ってた!



途中、なにげにアルファベットまで部首に入ってる。。。


誰か、嘘だと言ってください。



それはそうと、ロバート・ロックウッドJr.が亡くなりましたな。
かのロバート・ジョンソンからギターの手ほどきを受けたという、それこそ上記漢字群に匹敵する生きる伝説。
オレ、高校生のころ、聴いていて退屈やったのを隠しながら、背伸びして聴いてましたわ。
享年91歳。合掌。

2006年11月27日月曜日

交換と交歓の時間について

まだ、霞が立ち込めている早朝だった。
虚ろで冷たく、薄暗い街角のあちらこちらには、夜が名残惜しそうに去り切れずに這っていた。

神戸で朝を迎えるときには必ず行く喫茶店は、裏通りにある。徹夜明けで朦朧している私は、いつもそこに向かう。今朝も。
通りには深い緑色の大きな影がどっぷりと横たえ、喫茶店にはピンクのネオンサインが輝いているけれども、壁は寒々としていて、夜と朝がひっそりとせめぎあっていた。女と男の横顔は、珈琲カップの縁で皺に閉じ込められているか、吐く白い息に掻き消されている。

私は席をとると、火傷しそうなほど熱く沸かしたチャイを注文した。数種の香辛料を仕込んだ熱くコクのあるチャイの滴が、香りを立てながら、くたびれて柔らかくなった腸の襞に沁みていくと、一滴一滴、花が開くようだった。澱んだ疲労の下で、期待が冬眠から目覚めたように、もぞもぞと蠢きはじめる。それは急速にチャイと混じり合い、犯されたものが浄化されていくさまが、たしかな感触でわかった。チャイは、身体よりも精神に、即効力があった。私は、覚醒してきた。

彼女は、横浜からやって来ることになっていた。
どれくらいになるのだろう? 8ヶ月? 9ヶ月? 朦朧として、捉えようがない。
今月の半ば、彼女から連絡があった。突然の連絡だった。横浜に住む彼女が、所用で神戸に来る。会えないか、ということだった。

mixiとは不思議なものだな、と思う。
ネットワークを介して男女が会った、という話は、よく耳にする。その先、誘拐沙汰、監禁沙汰、殺人沙汰、家出沙汰、詐欺が、新聞紙上を賑わせる。
あたりまえだ。人間は、元来、卑しい。その卑しさは、匿名を装ったとき、存分に発揮されるからだ。
ネットワークを介した出会いになにかを期待するほうが間違っている、と、私は長いあいだ思ってきた。
そこは、夜のとまり木のように、誰もが仮面を被り、その仮面の彩りや表情を楽しむ場だ。そういう場なのだと、私は思っていた。
だから私は、最初、mixiに消極的だった。懐疑的だった。
それが、どうだ。
過剰であり欠落しているのが、その人の指先から放たれた生の肉筆の文字だと思うのだが、そうしたものはキレイさっぱりと洗い流され、余白は削がれ、繁っているところは剪定され、整備も整地もされたものであるはずのメールの文面やネットワーク上でのやりとりは、やはり、つるんとしている。
そのはずだった。
そのはずだったのだけれども、私は、大きな見落としをしていたようだ。考えてみれば、活字がそうだ。
ある作家が書いた物語は、そもそも物語が巨大な虚構の構築物であるのにもかかわらず、そこに刻印されている活字はそこにしか収まりようがないと思われるほどの精緻さで収まっているのにもかかわらず、私たちは、その隙間からすら零れ落ちてくる某かを掬い上げて、その作家の人となりに思いを馳せる。
思いを馳せたその人と、幾ばくかの期間、私たちは多少の不自由さも感じながら、それでも大通りを闊歩するような自由さで、某かを交換させてきた。交歓をさせも、してきたのだ。
それが、私にとっての、mixiだ。

洗練された記号に堕しかねないネットワーク上の文字に、私たちは、いびつでしかないはずのナマの声を込め、顔を突き合わせることでしか得られないはずのものまで、手に入れてきたように思う。
そうやって、ネットワークを介して袖を摺り合わせた何人かと、実際に会ってもみた。いや、会うことへの不安はすでに払拭され、実際に会うことで手に入れられるものへの期待と希望で膨らんだとき、縁があれば、私は会ってきた。こちらからという場合もあれば、あちらからという場合もあった。
会ってみて、変わったものもあれば変わらなかったものもあるけれども、日なたと思っていたところが影に変わってしまうのは変わりかたをした人は、ひとりもいなかった。

大丈夫、ネットワークを介してでも、交換や交歓は、出来るのだ。
そして、今日、私は彼女と会うのだ。

*

その日の午後、風が強く、風の強さに比例するような速さで、時間が流れていった。
その時間は、現像に出していた写真が出来上がってくるような、不安と期待が入り交じっているだけれども期待のほうが上回っているような、なんともいえない時間だ。
あの店に行き、あれを食べ、あそこを案内し、こんな話をし、こんな話を聞いてみよう…。
私は、ついついそんなことを考えている自身の裡を外から眺めて、微笑むしかなかった。

陽もとっぷりと暮れたころ、私は待ち合わせの場所に向かう。
その直前、メールが入り、私は電話をかける。
こんなとき、どういえばいいのだろうか?
初めまして。では、ない。ではないのだが…。

そう思って逡巡していたら、彼女は、うどんを咽喉に流し込むようなあっけらかんさで、初めまして、ゆみ☆です、と、そう言ったのだった。
その声は、初めて聞いた声ではなかった。いや、初めて聞いたに違いないのだが、すでに、ネットワークを介して、mixiでのやりとりを通して、彼女の文面を触媒として、私は聞かされていた。そう、交換も交歓も、出来るのだ。

それからほどなくして、彼女が現れた。
体格のよさにびっくりしないでください、と、事前に彼女から釘を刺されてもいたのだけれども、私がびっくりしたのは、山の神でも背負っているかのような大振りのカバンを背負う彼女の、華奢な外見には似つかわしくない力の持ち主だということだった。

柔道に打ち込んでいる彼女は姿勢よく、パワフルで、前を向いて歩くことの正しさと気持ちよさを、これ以上ない輝きを放って体現していた。
健全なる精神は健全なる肉体に宿る、という、誰が言ったか知らないこの言葉を、私は信じているわけではないが、彼女を見ていると、その言葉を信じたくもなってくる。そういう女性だった。
もっともそれは、これまでに交わしてきた交換や交歓からも窺い知ることは出来たのだ。私は、そのことを改めて確認したに過ぎないのだけれども、それでも、日なたは日なただったことは、私にとっては喜ばしいことだった。

私は、彼女が持っている、前を向いて歩くことの正しさと気持ちよさを体現するものの正体を、その日、ほんの少しだけれども覗き見たような気もする。
はるかむかし、彼女の声は、切れ切れだったのだろう。口のなかで転成しきらない言葉を、彼女は、持て余しては囁いていたのだろうと、私は妄想する。
なにがきっかけとなり、どこにとば口があったのか、私は知らない。知らないけれども、彼女は、彼女自身の裡から湧き出る勇気と情熱と不断の努力で、きっと、今の彼女の正しさを、獲得したのだ。私は、そんなふうに妄想していた。

古くから海の向こうに向けて拓かれていた神戸に相応しいだろうと思い、スペイン料理を彼女に案内した。
なにを食べたのか、今となってはほとんど思い出せないのだけれども、それほど、私と彼女のあいだでは、おしゃべりの花が咲いたのだった。堰を切ったようだった。幕が開いたようだった。

食育のこと、プラントミネラルのこと、波動のこと、柔道のこと…、彼女の口から飛び出してくる言葉、事柄は、私にとっては、どれもこれもが、獲れたての真鰯のような新鮮さで、私の身体中に沁みていったのだった。
私からは、なにを話しただろうか? つまらないことを話したに違いなく、見せあった獲物の量は、彼女のほうがはるかに多かったに違いない。

楽しさも悲しさも、なかった。ただ、玩具を与えられた子供が延々とそれに夢中になっているような浮かされようで、けっこうな時間を、私たちは、おしゃべりに費やしたのだった。

最後、私は、彼女を、西村珈琲に案内した。
神戸の震災で一度は消滅してしまった名店だが、この店を自身の思い出と重ねあわせている人が神戸中にいることを自覚している店主が、震災などなかったのだと言いたくなるほどの精緻さで、そっくりに再建させた店だ。神戸に来た思い出を刻んでもらう舞台として、これ以上ない場所だとして、私は、彼女をこの店に案内した。

そういう珈琲を彼女に案内し、ほどなくして、私たちは、その日の交換と交歓を終えたのだった。

ネットワークを介して彼女へ感じ得たものの確かさが、そのままのかたちで目のまえにあった。その収穫は、季節外れのハーヴェスト・ムーンのようでもあり、その日、私は、心地よい風にあてられていたのだった。西村珈琲での一杯は、そのことを、これからも私に思い出させてくれるのだろう。願わくば、彼女にとってもそうであることを。




ははは、マイミクさんのゆみ☆さんと初ランデブーしたのですが、今回は趣向を変えて、ハードボイルドタッチにしてみたのでした(笑)

ゆみ☆さん、あの日は、楽しかったですね♪ 今度は、京都にでも遊びにきてくださいね。相方ともども歓待いたしまする~。

2006年11月26日日曜日

相方さんの広報活動

またまた相方さんネタ(笑)

えーっと、とりあえずご報告から。
相方さん、今月25日発売のエルマガ最新号(1月号)に「ニット教室」の記事が掲載されました。モノクロのP148の隅っこにちょこんと掲載されてますので(でも写真アリ)、お暇な方、見てやってくださいませm(_ _)m

エルマガ最新号の案内はこちら。もっとも、下記リンク先には、相方さんのあの字も出てきませんが(笑)


さてさて、エルマガジンと聞いて、関西にご縁のない方には、なんのこっちゃい?だと思いますので、少しご説明を。

ぴあ、ウォーカー、1週間なんかの関西ローカル版だと思っていただいて間違いないです。
といってもね、古いんですよ。
まだ、ぴあもウォーカーも1週間も関西版がなかった時代、オレが中学・高校のころのことですが、関西には、このエルマガジンとプレイガイド・ジャーナルという、2つの情報誌があったのでした。どちらも充実し、それぞれ頑張っていた情報誌なのですが、プガジャのほうは、かなりマニアック☆
『かねてつ啓蒙かまぼこ新聞』を『宝島』で連載していた故・中島らもさんが、似たような企画『微笑家族』を連載していたのが、プガジャです。そーいえば、いしいひさいちの名作『バイトくん』が連載されていたのも、プガジャ。まだまったく売れていなかったころの大友克洋(『AKIRA』の作者ね)を真っ先に取り上げたのもプガジャ。とにかく、関西中の数奇者と歌舞伎者が集結していたプガジャはマニアックすぎてつぶれてしまいましたが(笑) 生き残ったエルマガは、今や関西では知らぬ者がいないほどの情報誌に成長しました。

そのエルマガジンも、今では、ぴあやウォーカーと並ぶ関西情報紙の三本柱ですが、むかしはちっこかったんですよ、これが。
ページの両端余白に「イエルイエル」というコーナーがあるんですが、ちょっとした小ネタ、笑いネタなんかを1行で紹介する投稿コーナーです。

携帯でゲームをしながら、「あれ? 携帯どこに置いたっけ?」と考え込むことがある。脳年齢が心配。
QRコードを読み取るよりも入力したほうが早いことが割とある。

なんてかんじの、読者の投稿で成り立ってる、創刊当時からあるコーナーなんですが、オレ、高校生の頃、このコーナーの常連でした(笑) 毎号、5本くらい同時掲載とか、メチャメチャ頑張ってたな。なんか、同級生と競うようにして投稿してましたわ。
なんでってね、そのコーナーの担当編集者のお名前がヒヨコさんという方で、しがない男子高校生は、ヒヨコさんというかわいらしい名前から、勝手な妄想を膨らませ、なんとか彼女の気を惹こうと、そういう動機で投稿しまくってたわけですよ(笑)

あるとき、投稿とはべつに、我等が同級生は連名で、ヒヨコさん宛に手紙を書いたんです。
ファンですだとか、かわいらしいお名前ですねだとか、お顔がわかる写真を送ってくださいとか、お会いしたいです、とか(笑)
そしたら、返事が来まして、しかもお顔がばっちり写ってる写真も同封され。。
今にして思えば、どこの誰ともわからんいち読者から顔写真を送ってくれと手紙を送りつけられて、送るほうもどうかと思いますが、そーゆー牧歌的な時代やったんですよ(笑)
んで、送られてきた写真は、20代前半とおぼしき婦女子さん当人の麗しき…ではまったくない、当人には違いないのでしょうが、ブサイクな写真。。。

はい、その写真を拝見した瞬間、我等が同級生全員の投稿熱は一気に冷め、写真を送っていただいたお礼も書くことなく、バックれたのでした(笑)
今にして思えば、あまりに失礼極まりない、アホアホでしたが、オレはそういう中学生なのでした。。。
あのときはすんませんでした、ヒヨコさん。。。

ま、そんなオレでしたが、その数年後、まさかエルマガジンの編集を手伝うことにもなり、同社が発行する新雑誌の創刊にもかかわるようになるとは、夢にも思っていませんでした。

情報誌のエルマガジン。
ファッション情報に特化したサヴィ。
この2誌が同社からは発行されていたのですが、もう少し大人にターゲットを絞った飲食店情報をメインとする雑誌を創刊することになり、オレにもお声がかかったのは、1990年のこと。
エルマガジンの「L」、サヴィの「S」と来たので、次は「M」を頭文字にした雑誌名がいいんではないかという、非常に安易な理由で生まれたのが、あの「ミーツ」です。
こちらも、関西にご縁のない方には、なんのこっちゃい?の話ですが…。


と、話はとめどなく横道に逸れていきますが、ちゃうちゃう、思い出話に浸っている日記ではないのでした。そんなことを書きたいのでは、ないのよ(笑)

えーっと、相方さんが、自分が働いているカフェの営業時間外の時間を借り切ってニット教室をやりたい、と、言い出したのが、今年の夏。
んで、チラシをつくることになり…、
その節は、マイミクさんのジャイ子さんに素敵なイラストを描いていただいたのでした☆
ジャイ子さん、改めて、サンキュ☆

とはいえ、おカネもないことですし、つくったチラシはわずかに500枚。
クラブイベントの告知チラシなど、チラシにもいろいろありますが、さすがに500枚は少なすぎます。でも、おカネがないから仕方がない。そこは、身の丈にあった投資なので仕方がないし、それでいいんです。
なので、おカネがないからこその少部数500枚なのですが、印刷というのは、枚数が少なければ少ないほど、1枚あたりの単価は高くなります。
たとえば、仮の数字を出しますが、
500枚だと印刷代が10,000円。 1枚あたり20円。
5000枚だと印刷代が50,000円 1枚あたり10円。
こんなかんじです。
なので、このときのチラシは、少部数しか印刷しなかったため、1枚あたりの単価がどえらい高いモノになってしまってるんです。
だから、貴重なんですね。枚数は少ない、でも1枚あたりの単価は高い。マツタケとおなじ、貴重品ですわ。

でも、相方さん、生まれて初めて自分のチラシをつくったわけですから、はしゃいで、あっちこっちのお店に片っ端から、置いてください!を連発して、おもいつくかぎりの場所に、ドサドサとチラシを置いていき…。
ま、初めてのことやし、はしゃぐからこそなので無理もないのですが、そんなんやから、オレに、ちょっと待ちなはれ、と、背中を引っぱられるんです。
これな、1枚○○円の現金やと思って、配ってるか?と。
レンタル倉庫を借りても置ききれないほどの枚数を印刷したのならともかく、高い高いチラシが、たったの500枚ですから。
やみくもに片っ端からお店においてもらいに営業するのではなく、どの店に置いてもらうのが効果的なのかを考えに考えて、置いてもらう枚数も考えて、いろんなことを考えながら、動きはなれよ、と。
それから、置いてもらったあと、数日か1、2週間後に、様子を見にいきなはれや、と。
なくなってたら補充。出来たらお店の人に、どんな人がチラシを持って帰ったか、聞いてみる。
隅っこに追いやられてぞんざいに扱われていたら、撤収。
現金を配ってると思って取り組むと、チラシ配りひとつにしても、そこまで考えるでしょうから、そうしなはれ、と。ま、そーゆーことです。

とはいえ、なんせ枚数は500枚。はっきりいって、ニット教室に来てくれる人が1人いてくれたら上出来かな、と、オレは思ってたんです。問い合わせの連絡が10人あれば上出来で、そのうち1人でも教室に来てくれる人がいる、そこまでこぎ着けられたら上出来やと、思ってたんです。

でも、現実はやっぱりそれほど甘くもなくて、最初の1ヶ月、問い合わせはゼロやったんじゃないかな。
1件でも問い合わせがあれば、まだホッとするところがなきにしもあらずですが、ゼロはダメです、ゼロは! チラシつくってないとおなじだから。

そりゃ、ゼロだと、相方さんはあせりますね。
あかん、次の動きをせなアカン! と、相方さんが呟いたのは、チラシをつくってから1ヶ月経った、とあるエスニック・カフェでのこと。。
おれ、ほう!と思いましたよ。
ちゃんと、次の動きをはじめようとしてるし、諦めてない。いつもなら、どうしよう!って焦って、おなじところをグルグルまわってるだけの思考悪循環に陥る人ですから。

んで、彼女がオレに言ったのは、「雑誌の編集部とかにチラシを持っていくのって、どうすればいいの?」。
オレ、チラシが出来たときに、相方さんに、チラシを雑誌の編集部に持っていって雑誌に載せてもらえるように交渉してみ、と、言ったか言ってないか覚えてないんですが、次の一手として、その方法があるのは知っていたんです。で、頃合いをみて、それを進言しようとも思ってたんです。

上記のエルマガジン、古くから仕事上の付き合いがあるから、知ってる人も何人かいます。
といっても、オレが知っている人は、みんなエラくなっていて、取締役だとか、そういうポジションに行っちゃってる人たちばかり。だから、オレが言えば、載せてくれます。
それをしてもいいけれども、それだと、安易すぎるし、だから、相方さんに、編集部へのアプローチの仕方だけを教えて、自分でやってみなされ、と、そういうことにしたんですわ。

ここは褒めてもいいと思ってます。
雑誌掲載のお願い手紙を自分で書き、チラシを同封し、いろんな編集部に郵送。あるいは、いろんな編集部に直接足を運んで、直談判。
相方さん、やってましたね。
初めてそんなことやってるんだから、これだって勇気のいることだし、腰が重かったら出来ない。
頑張ってやってましたね。
それも、オレが手取り足取りやったわけじゃない。相方さんが自分で考えて、自分でやろうと決めて、そのうえでわからないところが少しだけあって、そのやりかたを相談されたから、そこを教えただけです。
だから、ここは褒めますよ。でかした☆(笑)

そしたらば、その甲斐あって、エルマガジン社から連絡があり、掲載したい、と。
エルマガジンは公称発行部数28万部です。
そりゃ、記事の扱いはちっこいですけどね。でも、公称28万部です。
1枚○○円の現金を配ってるつもりでチラシを撒いてるか?と、言っていたわけですが、そのうちの1枚は、28万枚に化けました!

よかったじゃん☆

それと相前後して、いろんなところに置いたフライヤーを見た人からも問い合わせの連絡がちらほらと来るようになり、さらにホームページを見た方から出張ニットの依頼が舞い込むようにもなり、ちょっとずつだけど、歯車がまわりはじめましたわ。

悪いことも続くもんだけれども、いいことも続くんですよね。
歯車は、まわりはじめたらどんどんまわっていくからね。
もう、夜明けは近いです☆

2006年11月25日土曜日

あなたの幸福のために祈らせてください


今日は、マイミクさんのゆみ☆さんが神戸にいらっしゃったので、初ランデブー☆
ま、その話は明日以降に書くとして…。

そんなわけで、夕方、待ち合わせ場所に向かって足早に歩いていたのでした。
そしたら、

「あなたの健康と幸せのために祈らせてください」
と、話しかけられましたわ。久々のキャッチ☆

いや、そーゆーことなら、祈ってほしいじゃないですか!

なので、

「ほう! お願いします。でも、オレは忙しいので先に行くけど、ちゃんと祈っていおいてね~」

と、オレは退散したのですよ。
だって、ほんとに急いでたんだもーん。

ちゃんと祈ってくれたんだろーな。。。



最近、というかむかしから、キャッチにはかかりにくいんですが、よく引っかかったのは、絵のキャッチセールス。
画廊、というか絵の展示即売をしている店が心斎橋筋商店街にありまして、その店のまえは毎日のように、歩いてました。
もうね、連日、オレに声をかけてきますわ。絵を買うような知的な顔に見えへんっちゅーに!

絵画展、やってまーす!
「絵、描くほうやから」(笑)

絵、見てってくださーい!
「なんや、ナンパか?」

絵の展示会やってまーす!
「なかで売ってるんやろ。それを言わんでキャッチやったら、法律に引っかかるんやで」

絵とか興味ありますか?
「あのな、いい加減、オレの顔覚えろよ!」



毎日そんなかんじでしたわ。。

では、あなたのキャッチ体験、募集します(笑)

2006年11月24日金曜日

頑張れ!銚子電鉄


少しまえにmixi newsのヘッドラインにもありましたが、銚子鉄道、頑張ってますな☆ 2ちゃんで盛り上がりまくってるとか☆ ついに、テレビのニュースにまで取り上げられてましたわ。

もうニュースサイトから記事が消えてしまっているのか、検索かけてもヒットしません。
なので、ご存知ない方のために概要を。

銚子鉄道は、銚子~外川間の6.4kmを運行するローカル鉄道。全国のローカル線の例に漏れず、ま、赤字続きの路線です。
ところがこの会社、赤字解消の一環ではじめた銚子名物ぬれ煎餅の販売事業が好調でして、鉄道事業が年商1.1億円なのに対して、菓子類販売で2.5億円を稼ぎ出しているという、もはや鉄道会社なのか菓子製造販売会社なのかわからん会社です(笑)

ところが、です。
車両の老朽化が進み、5億円の設備投資が必要になり、さらに前社長が業務上横領で逮捕され、その借金も背負うハメに。。。
近々、保有車両の法定点検の時期なのですが、点検が必要な車両は最低でも3台。費用は1台あたり200万円なので、3台だと600万円。このカネが、捻出出来ない。
もうね、社長から社員まで、全員の給料をギリギリまで削っても、すべて借入金の返済に消えている状態らしいのですよ。

それに、鉄道の集客なんて一朝一夕で高められるものでもないし、素早い現金化となると、ぬれ煎餅に否が応でも期待は高まり…。

今、サイトがすごいことになってますから。

もう、トップページで、「電車運行維持のためにぬれ煎餅を買ってください!」ですから(笑)

これが、2ちゃんで火がついて(ちゃねらーと鉄道マニアが相当数重なっているのは有名)、ぬれ煎餅の注文が殺到しとるらしいです!
いや、なんかいい話ですな☆

財政破綻寸前の大阪市! これ見習えや!

すでに後日談がありまして、
銚子電鉄の社員数は、わずか24人。この人数で、ぬれ煎餅の大量発注が来ても、まったく対応出来ないらしいです。そりゃそうだ、本来は鉄道会社なのだから(笑)
今注文しても、煎餅の発送まで20日間かかってしまうとか。そいで、発注者も、もともとが支援のための発注だから、「大変でしょうから発送は急がなくてもいいですよ」と、ひとこと添えて発注するようになり…。

ぬれ煎餅 10枚入り820円。注文してしまいました(笑)

2006年11月23日木曜日

ゆたかさん


11.3
23時頃、マルイ前で目撃。寒いからか目深に黒いニット帽を被り、熱唱。
曲目:『あずさ2号』『宇宙戦艦ヤマト』『東京砂漠』『シェリー』など

11.5
15時頃、そごう陸橋上でセット準備中を目撃。

11.12
20時頃、そごう陸橋上で目撃。熱唱。中学生4人くらいが聴き入ってました。
曲目:『高校3年生』『初恋』『越冬つばめ』『宇宙戦艦ヤマト』など


神戸に、ゆたかさんというストリート・ミュージシャンがいます。
彼は、雨の日以外は、来る日も来る日もストリートに出て、歌います。
オレが彼を見かけるようになって、ぼちぼち1年が経ちますが、見かけるたびに歌が上手くなっていってます。

おもろいんで、一応は、定点観測してるんですけどね。

んで、最近、彼のホームページを発見し、つらつらと眺めていたのですが、なんでも、今から2年前、歌手に目覚め、毎日の練習に耐えに耐え、来るべきCDデビューに向けて、今、ストリートで鍛えてらっしゃるのだとか。
さらに、ご本人は「演歌」を歌ってらっしゃるらしいんですが、上記ライブレポート(笑)をご覧いただければおわかりのとおり、どうも、昭和歌謡と演歌がごっちゃになってらっしゃるようで。。。

そうそう、
先々月、来るべきCDデビューに備えて、ジャケ写撮影の予行演習をしたんだとか(笑)

9.29の日記を抜粋します。

今日は、家の用事として、そのあと母のコープの買い物に付き合ったのだが、車の中で、”えんか”をきいていたら、伴奏に対して、異常なほどに感じていることに気付いた。そろそろ、感じるということが、あたり前になってきた。なかなかいい感じだ!

これなら、デビューの日も近いかも、ですね☆

一部で、週末のカラオケおじさんと揶揄されていますが、そこらへんのガキンチョの弾き語りなんかより、よほど見入ってしまいます。

皆さまの応援が大スターになる鍵なんだそうです。
ええ、遠くからですが、応援させていただきます(笑)


ゆたかさんHP





せっかくの音楽ネタやのに、CDジャケも音源もない…。

本日の1枚:
ゆたかさんを頭のなかで再生させる。。

YouTube
なし!

2006年11月22日水曜日

まったくどうでもいいのだが…


商品名が一般名詞のように呼ばれているものを、いろいろと考えてみたのですが…。

バンドエイド →絆創膏
ホチキス →ステープラー
ゼロックス →コピー
ピアニカ →鍵盤ハーモニカ
ウォークマン →ヘッドホンステレオ
写メール →画像添付メール?
セロテープ →セロファンテープ?

ぐらいは思いついたのだけど。

他になにがありましたっけ?



で、まったくどうでもいいのですが、このバンドは、なかなかよろしいな。最近、日本の若手バンドのチェックを怠っているので、完全に見逃していました。新人というわけでもなさそうです。
ありがちな60年代サイケの焼き直しだけど、まったくどうでもいいことしか言ってない歌詞くせに、歌詞がやたらとかっこいい。
鉄は錆びたらそれが合図! ロックンロールは死刑!
サイコー☆

HiGE(髭) / 『ロックンロールと5人の囚人』

2006年11月21日火曜日

相方さんの才能と問題点

少しまえに、マイミクさんのmomoさんが相方さんをベタ褒めした日記を書かれまして、オレ、コメントにかなり窮したことがありました。
オレが恥ずかしいから、リンクは張りません(笑)

んで、それを受けて、というわけでもないのですが、先日、相方さんに、お仕事における相方さんの現状と未来について、オレなりに思うところを話したわけです。

以下、題して、相方さんの才能と問題点(笑)

えーっとね、オレが言うのもなんですが、ニットで食べていくうえで、相方さんは才能がありますね。

現在25歳。まだニットでは食えてません。

オレはニットのことなんてなにひとつ知りませんが、これまで、何人もの人を育ててきて、何人もの後輩を見てきて、かつ自分が歩いてきた経験も照らし合わせて、わかることはいくらでもあります。
モノになる人間は、わかりますから。
モノにならないと思って、のちに追い抜かれてしまうほどの大物になった人もいるのですが、オレの審美眼は、悪いほうに外れることはないのですよ。

もうね、間違いなく、近い将来、ニットで食べられるようになります。
相方さんのご家族は、学校を出てから就職もせずにいる彼女を見て心配してらっしゃるようですが、心配ご無用。オレには、くっきりと見えてますから。見えすぎるほど見えてます。

才能、その1。
ニットを編み続ける。編むことを、やめない。
これ、デカいです。周りにどんだけ反対されても、家族のなかで四面楚歌になってもね、相方さんはニットを断念したことがありません。まあ、でも、それはいいです。

それとですね、
相方さんは、自分の進む方向性について、迷いに迷う人でもあるんですが、それでも、編み棒を置くことがない。迷いながらも、逡巡しながらも、必ず、なにか編んでる。これがね、じつはデカい。
あのね、モノヅクリする人が、モノをつくらなったらそこで終わりなんですが、それを正当化する理由なんて、いくらでもあるんですよ。
今は行き詰まってるから、少しニットから離れてみる、とか。
それこそ、充電中とか(笑)
モノヅクリしてたら、壁にはなんぼでもブチ当たりますよ。迷いもしますよ。そうならないほうがおかしんですが、それを乗り越える方法は、ニットなら、ニットをすることしかないんです。編むことによって、編み続けることによって、壁を乗り越え、迷いを絶つしかないんです。
そういう理屈を相方さんはまったくわかってませんが、わからずに、自然とそれをやってる。それこそが、才能なんですね。

才能、その2。
作品を完成させることが出来る。
これも、デカいです。
少しでもモノをつくりたいと思った人、たとえば小説を書きたい、曲をつくりたい、絵を描きたい…、いろいろあると思うんですが、大抵の人は、そう思ってペンや筆をとったとして、最後までつくりきることがないんです。
曲ならイントロだけつくって投げ出し、小説なら最初の3行を書いてお蔵入りにし、絵なら下書きの途中で放ったらかしにし、ホームページをつくってみたものの大半は工事中のまま…、下手をすればそれの連続です。
オレなんて、曲のイントロやサビだけなら、20も30もつくってますよ。でも、欠片ばっかりで、ひとつの曲として完成しきることがない(笑) そっち方面の才能がないってことです。だからオレは、聴くほうのプロにまわってるわけですが。
そりゃね、ひとつの作品をつくるのに、その過程でボツになったものは山とありますよ。ただ、完成品が出来れば、ボツになったものは、完成品のための肥ですから。それはいいんです。でも、どれかひとつでも完成させないと、つくりきらないと、お話になりません。これが出来るかどうかは、才能の有る無しの、ひとつの分かれ目ですね。
つくりきって初めて、評価の対象になりますから。そうしないうちは、どの壇上にも俎上にも、乗っかってないのですから。
今、相方さんのサイトには、相方さんがこれまでにつくってきた作品が40点強、掲載してあります。これが彼女のキャリアに照らしてみて多いのか少ないのかは、オレにはわかりません。でも、40点強の作品をこれまでにつくったということは、すでに作品を完成させるだけの力は持っているということです。それがわかれば、いいんです。

大きく見て、相方さんには、この2点の才能があります。これは、どれだけニットに惚れているか、ということにも繋がっていくんですが、結局のところ、自分が選んだものを(あるいはニットに選ばれたと言ってもいいんですけどね)、どれだけ好きでい続けられるか、これが、才能の正体のひとつなんです。

そんなこと?と思う人もいるかもしれませんが、これ以上に大切な才能なんて、ありませんから。

あとはね、どれだけ人を幸福にする作品をつくることが出来るか、みたいなことは、当人の生きかたや努力にかかってくることですから。これは、才能ではなく、生きかたや努力や姿勢の問題。

その点で言えば、相方さんのフットワークの軽さは、ひとつの武器です。
ニットをやっていた人が、必然的に糸に興味を持ち、羊を調べ、紡ぎを独学で学び、今や、自分で糸を紡いでます。
その傍ら、各方面でニット教室の講師の仕事をはじめています。食べるためにはじめた講師の仕事ですが、他人にニットを教えることにも歓びを感じているようです。
他人から見れば、あれもこれもと手を出しすぎ、と、見えるかもしれません。
そして当人は、今ここにいたって、自分は本当はなにをしたいんやろうか?と、悩んでいます。
どれも中途半端になりそうで怖いだの、いろんなことに手を出しすぎていっぱいいっぱいになって余裕がないだの、言ってます。

相方さんのフットワークの軽さが招いた事態でもあるわけですが、それでいいんです。
糸紡ぎも、講師も、好きだからやってる。今は、ニットも糸紡ぎも講師もやりたいから、やる。それでいいんです。

人間は、どう転んだところで、好きなことしかやらないし、なりたいものにしかなれないんですよ。

心底やりたいことは誰にどれだけ反対されてもやるし、やりたくないことはやりません。
本当はプロのギタリストになりたかったけれどもオヤジが死んで家の八百屋を継がないとダメになったから、プロのギタリストになる夢は諦める、なんてのは、嘘なんですね。
心底ギタリストになりたかったら、家と絶縁してでもなるだろうし、天秤にかけて、オヤジさんの残してくれた八百屋さんを守るほうが大切だと思ったからこそ、彼は、八百屋さんになったんです。どうしても、というのなら、八百屋とギタリストを両立させることだって考えるだろうし、なんとしても、という気持ちがあれば、どんなことでも考えるもんだから、人間は。その人は、心の底で、八百屋になりたかったってことです。家族と絶縁してギタリストになるよりも、八百屋さんを継ぐほうが、自分にとって心地いい場所だと思ったってことです。そんなことは誰も非難することではないし、それでいいんだと思います。自分が八百屋になりたかったから今、八百屋をやってるということを、受け入れればいいだけのことです。そこで頑張っていけばいいだけのことです。

話が逸れたな。

だから、ニットも糸紡ぎも講師も、やりたいからやっているわけだから、やればいいんです。
そのうち糸紡ぎはやりたくなくなるかもしれないし、講師一本でやりたくなるかもしれないし、全部をトータルでやっていくと覚悟を決めるかもしれないし、そうなったらそうで、いいんです。どこに迷惑がかかってるわけじゃなし、それでいいんですよ。
どれかに絞りたくなったら絞ればいいし、そのまま行きたいと思ったら行けばいいだけのことで。
やりたいと思ってやっていることは、絶対に伸びるから、やればいいんです。
そして、やりたいと思ってやったことは、途中でやりたくなくなってやめたとしても、必ず、生きるから。それは全然大丈夫なのですよ。

以上、相方さんの才能2点と武器です。
もう1点、相方さんには得難くも素晴らしい才能がありますが、それは後述します。
以下、問題点。

悩んでる時間が多すぎるんですよね。
上記のことでも、あれもこれもと手を出して、本当は自分がなにをやりたいんやろうか?と、悩んでる。
今、本当にやりたいことが3つも4つもあるからやっているわけで、それがどれか1つになれば、そのときはそうするだろうし、今やってる3つも4つものことをやりたいと思っているうちはやるだろうし、んなもん、考えるまでもなく、今、本当にやりたいことをやっているに決まってる(笑)

まあ、でも、悩むのは仕方がないことでもあるんですが、ただ、悩んだところでなにも解決はせんし、物事は一歩も前に進まない。状況は、なにひとつ改善されません。
悩むというのは、なにか考えているようで、その実、なにも考えていないんですね。
だから、悩むのではなく、考えないとダメ。ひとつひとつのことを細部までリアルに想像して、細かくシュミレーションして、どの道がいいのか、考えないとダメです。相方さんは、それが出来ない。
ぼんやりと、どうしよう!どうしよう!と、そればっかりが頭のなかをグルグル巡ってるだけ。まったくもって、時間の無駄。そして、その時間が多すぎる。

結局のところね、雑念だらけなのですよ。

悩むことに時間と力を使っても、まったく意味はない。
そこ、集中力の発揮の仕方と、才能の使いかたを、相方さんは間違えてます。

んで、すぐにパニックになるんだな。
んで、パニックになる自分を嫌悪するんだな。
本当は、そんなことでパニックになどなってもらうと困るんですが、パニックになること自体を怖れることはないんですね。
限界まで行ってパニックにならないと、限界値が広がっていかないから。
10のことでパニックになれば、次は10のことがパニックにならずに出来るようになります。そのときに初めて、11のことが出来る可能性が見えてきます。そうやって、限界値を少しずつ広げていくしかないので、パニックになったり壁に打ち当たったりするのは、むしろいいことです。
壁に当たるなんてのは、進歩している証拠以外のなにものでもないですから。
階段というのは、前に進んで上に上がってまた前に進んで上に上がるという動作の繰り返しだけど、壁というのは、あれとおんなじでね。前に進むからこそ、次の壁が見えてきて、それを登ってまた前に進んで、また壁が見えてくる。それの繰り返しです。だから、壁に打ち当たったら、それはむしろ、喜ばしいことなのですよ。
第一、パニックになるのは実力がないからパニックになるんですが、実力のなさを嫌悪するくらいなら、努力すればいいってことです。

相方さんの自信のなさは、もうこれは性格的なもんだから変えるのはなかなか難しいですが、壁に打ち当たったときは、自分が進歩している証拠であると、そういうふうに考えてもらえんですかね。。。

さて、最後。才能、その3。
相方さんは、どういうわけか年長者に好かれます。
相方さんの周りには、相方さんに親身に助言をしてくれる大人が、何人もいます。
これはねえ、得難い才能です。オレが欲しくても手に入れられない才能。
ほら、失敗しても許されてしまう人っているでしょ。あいつはもう!でも、あいつだから仕方がないか、ってかんじで。あれも才能のひとつだけれども、相方さんのように、周りに何人もの年長者がいて、親身に助言してくれる人がいるのもまた、才能なのですよ。しかも、得難い才能。
本人がどこまで気がついているのかわからないけれども、これは、絶対に手放してはいけない才能です。

独立独歩で仕事をしていく場合、たとえばオレのような売文屋だと、腕一本、筆一本で実力で稼いできた!と胸を張って言いたいところだけれども、本当のところは、実力だけで仕事をもらっているかどうか、怪しいのですよ。仕事を発注する場合ね、実力を見込んで仕事を発注するのは当然だけれども、実力とは関係ないところで、あいつはいいやつだから、ってことで仕事を発注する場合だって、いくらでもあるんです。
もしかしたら、そのほうが多いかもしれない、ってくらいに。
だから、実力勝負の世界であっても、人間性が左右することって、いくらでもあるのですよ。
その点ね、相方さんは、いろんな人に好かれる。それも、大人に好かれる。
これはね、相方さんが考えている以上に、大きいことなんですよ。

相方さんが近い将来にニットで食べられるようになったとして、そのきっかけは、どっかのコンクールで優勝するからかもしれない。それは知りません。オレは、相方さんのニットの正確な実力なんて知りませんから。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
それはそれとして、確実に言えることは、誰かが相方さんに、大きな実のつく仕事を持ってきてくれるだろうな、誰かが大きなステージに相方さんを引っぱりあげてくれるだろうなということは、想像がつきます。
周りがそういうふうに動く才能が、相方さんにはあります。

はっきり言ってね、こんだけの才能が揃ってて、ニットで食えないままで今後も進んでいくことのほうがおかしいくらいです。
もしそうなら、よほど努力が足りない。
もっとも、よほどとは言わないけれども、今でも努力は足りません。全然、足りません。雑念が多すぎますから。
雑念を払い、集中力を最大限まで発揮する方法を手に入れたら、相方さんはびっくりするようなスピードで伸びます。


オレは、モノになるかどうかの判断は、悪いほうに外したことがありません。
人相見に関しては、まず外しません。
だから、ここに書いたことは、必ず、当たります。

2006年11月19日日曜日

毘沙門堂の、手前まで行く


その日は、相方さんと、たまゆらの逢瀬を楽しむ予定だったのですよ。
もちろん、京都神社仏閣巡り♪

そもそも、相変わらずオレは仕事が忙しくて相方さんのケアを放ったらかしにしていて、それはそれでいつもスマン!スマン!スマン!スマン!スマン!スマン!と思っているのですが、木曜日はなにがなんでも空けておくよーに!とのお達しが相方さんから出ましてですね、空けたんですよ、こないだの木曜。

そしたら、相方さん、午前中は仕事が入ったから、昼からどっか行こう!と。
へい、わかりました。

で、木曜の昼13時、待ち合わせ場所である、彼女が働くカフェへ。ちなみにこの日、相方さんはここでは働いておらず、ニット教室の講師の仕事をしていたのですよ。

そっからですわ、待てど暮らせど、相方さんはやって来ません。そして、メールだけがオレの携帯にやって来る。
「ごめん、あと1時間くらいはかかりそう」
「まだ仕事が終わりません!」
「まだ終わらんよ~」

この日、オレは、山科の毘沙門堂へ行く計画を立てていたのでした。
山科にある、桜の名所で名高いお寺さんです。

京都の市街地からは外れていて、ほとんど滋賀です。
でも、地下鉄が走っているから、京都市街地からでも30分足らずで行けちゃうんです。
でも、京都市街地じゃないから、絶対に空いているだろう、と。
この時期、京都のお寺さんは、どこもかしこも人でいっぱいですからね。
それに、です。
ここは山寺なので、桜の名所とはいえ、紅葉だってあるだろう、と。

というようなことをね、ビシッと計画していたのですよ。綿密な計画をビシッとね☆
それが、だ。
相方さんが丸い顔をさらに丸くしてやって来たのは、結局のところ、15時47分11秒36。。。。
そっからダッシュで行っても、到着は16時すぎ。
お寺さんはこの時期、16時30分閉門だし、無理言っても17時だし、到着するのが精一杯で、ノンビリどころの話ではありません。

大体、丸い顔をさらに丸くして、この日のスケジュールを空けておけ!と言ったのは、相方さんなのに!(笑)

それでもね、一応は向かったんです、毘沙門堂に。
上手くいけば、16時すぎに着いて、17時までいても1時間弱はありますから。

ほいで、地下鉄の市役所前駅までダッシュして、そっから地下鉄に乗って山科駅に到着したのが、16時すぎ。電車がすぐに来なくて、思ったより時間がかかってしまいました。
駅から歩いて15分くらいだって聞いていたので、これだと到着が16時30分くらいになっちゃいます。普通だと、閉門の時間です。。。
それでもまあ、行くだけ行ってみようということで、向かったわけです。

ただーし、駅から反対の方向に向かって歩いていたことに気づいたのは、16時45分くらいのこと。。
ったく、誰が間違えたんだ? オレか? 相方さんか?
オレは大阪の人間で、相方さんは京都生まれの京都育ちの土地勘もあるはずの生粋の根っからの丸顔の京都人。
なので、ここは間違いなく、相方さんのせいです☆
ただし、相方さんは、どの山を見ても、比叡山!とのたまう人でもありますが(笑)

もう諦めました。
どっちも昼飯すら食ってないし、ここらでブレイクタイムです。でも、晩ゴハンも迫ってるし、微妙な時間。結局、パンを買って食べましたけどね。
ほいでから、トボトボと駅へ。
でも、なーんかこのまま帰るのは悔しいんですよね。

そんなわけで、まだ日も暮れていないので、再度、毘沙門堂を目指すことに(笑)
ちなみに、17時はすでにまわってます。。。

駅からの道は、閑静な住宅街です。京都市街地ほど地価が高くないからだとも思うんですが、どこも家がデカい。
で、山の麓なので、樹々がいいかんじで繁ってるんですよね。住宅地といっても緑が多いせいで、無機質なかんじが全然しません。歩いていて、気持ちがいいくらいです。
途中、川がありましたが、よく見たら疏水でした。南禅寺で有名な疏水と繋がっている、琵琶湖からの疏水です。たぶん、春だと桜がキレイなんだと思います。
いや、ここはいいところですわ。

山門まで行ってみると、やっぱり閉門してましたが、山の麓から山門までが長めの階段になっていて、両サイドは紅葉です。まだ三分程度の色付きですが、かなりいいかんじです。しばらく、階段に座って、ボーッとしてましたよ。
山一帯にいくつか神社やお寺さんがあって、ぶらぶらと歩いてまわるにはかなりいい場所でした。

山門から中に入っていないので今書けることはほとんどないんですが、ここはどうやら門跡のようです。
といって、皇室の誰が出家したのか、まだ調べてないですけど。
創建が奈良時代で、毘沙門天がご本尊らしいのですが、毘沙門天って、仏さんの系列からすれば傍流(四天王の中心ではありますが)ですから、なぜご本尊に納まっているのか、ちょっと興味があります。
あと、狩野益信の障壁画があるのだとか。

京都市街地から離れているくせに(必然的に空いてる)、すぐに行けるというのが、かなり魅力的です。
近いうちに、リベンジします。次こそは、山門突破(笑)

そして夜は、京都市内に戻って、久しぶりのお気に入りのカフェで、ローストポークと海鮮サラダとオムレツを食べたのでした。

あ、新作、「テポドン」「オゾン層」を相方さんに披露。これは「マイナスイオン」の続編なのですが、なんのことかさっぱりわからない方は、相方さんに聞いてくださいませ。



速報! ガトリフの新作『トランシルヴァニア』、すでに完成してます。日本公開は、来年のいつかな?
かなりかなりかなり、期待してます☆


YouTube
これ、予告編です!

2006年11月18日土曜日

いろんな人がいるからこそ豊かなのではないか?

昨日、大阪大学が、来春入学してくる新入生に、高校の教科書を使って未履修の世界史の講義を行うと発表しました。一般教養課程に組み込み、単位も認定するとのことです。文科省は、前例がないし(←こればっか)、世界史は高校で学ぶのが原則なので推奨はしないが、大学側の現実的な対応として注目する、とコメントしました。
大学側は、網羅主義や暗記の強要はせず、歴史のダイナミックな流れと最新の学説を教え、社会人として最低限の知識を習得することを目標とする、と発表しています。

こうなると、履修しなかった人は、ラッキーとしか言いようがないですな。高校の教師につまらない授業をされるよりも、大学の先生におもしろい話を交えながら教わったほうが、絶対におもしろいに決まってますから。

喫緊の問題は現実的な対処を考える、根本的な問題とは分けて考えるべきです。オレは、今回、大阪大学が発表した措置は、現実的な対処として、悪くないと思います。


さて、昨日の続き。

まず、オレと相方さんの話からです。
オレと相方さんを結びつけたのは、とあるバンドでした。

当時、オレは、そのバンドのブレーンのようなことをしていました。
大手のレコード会社に勤務するオレの友人がそのバンドを偶然見つけ、惚れに惚れ、自分が勤務する会社とはべつに自主レーベルを立ち上げ、そこから自主盤を発表する、そういう経緯のなかで、オレは、そのバンドのブレーン的な役割として、後方支援していたのです。

相方さんは相方さんで、独自のやりかたでニットをやっていたのですが、そのバンドのマネージャーと知り合い、バンドの女性ボーカリストの舞台衣装を担当するようになっていました。

そういう場所でオレと相方さんは知り合い、ま、そっから付き合うまではいろいろあったのですが、そんな話はキッパリと割愛するとして(笑)、まずは、そのバンドの女性ボーカリストのことを話します。

彼女は、中学時代、いわゆる不登校児童でした。
中学時代というよりも、小学校時代からですね。
みんなとおなじことをしなければならないことへの違和感と反発、イジメに消極的に加担している自分に対する怒り、そうしたことが遠因となって身体に影響を及ぼし、トランス状態になる…。
親は学校に行けと言うし、子は、学校には行かない、行きたくない、と、部屋の床に体育座りをしたままテコでも動かない。
そういう、壮絶だけれども、今となってはありがちな風景です。

彼女の精神的な不安定さが鳴りを潜め、トランス状態に陥るような身体的不調が改善されるようになるのは、彼女の不登校をご家族が受け入れ、彼女の人生なのだから彼女なりに納得するように生きればいいと、方針転換したことにはじまります。
それまでのご家族の格闘や右往左往ぶりについては、それこそ壮絶なものであったことも、誰しも、ある程度の想像はつくと思います。ええ、凄まじかったと思います。

そんなかたちで、彼女は小学校時代のある時期から学校に行かず、中学校には一度も行かず、親の商売の手伝いをすることで、少しずつ平穏な生活を取り戻していくんですけどね。このあたりの話、涙も笑いも怒りもてんこ盛りであるんですが、長過ぎるのでまたの機会にでも書いてみます。(じつは彼女に、生まれてから今までのことをすべて語ってもらうインタビューをしたことがありまして、オレ、18時間の超ロング・インタビューしたことがあるんです)

そして、彼女は、映画監督になりたい、という夢を見つけるんです。
その夢を叶えるのに高校は要らんな、というのが彼女の結論だったんですが、親としては、それでも高校くらいは行ってほしいと思うもんじゃないですか。ましてや中学すら行っていないのだから。

そこで彼女は、週3日しか通わななくていい通信制の高校を見つけてきて、そこを受験することにしたんですね。ある種、親御さんの希望に応えるための妥協案みたいなもんです。で、そこを受験して、受かったら、とりあえず3日だけ通ってみて、それで判断する、と(笑)

ムチャな話ではありますが、親御さんとしたら、高校に行く気になってくれただけでもありがたいもんで、受験勉強を手伝うんですよね。因数分解を親が汗ダラダラで子に教えたりするんです。
よく考えてみたら、この、通信制高校の受験が生涯で初めてのテストだったんですが、元来が頭のいい子ですから、合格するんですよ。
で、合格していざ学校に行ってみると、これがおもしろいのなんの!

通信制の高校だから、年齢制限がなく、それこそいろんな人が通ってきているんですよね。
それこそ、92歳の人間国宝の浮世絵師のおじいちゃんがいたり、40代の普通の主婦の方がいたり。
同年代でも、やっぱりどっかしら傷を抱えている人が多くて、それでもみんな自主的に学校に来ているわけだから、真剣です。真剣だからこそでしょうけど、イジメがないんですよね。

こういう学校は、聞いているだけでおもしろいですね。
彼女は不登校時代に長唄を習っていたのですが、今、ボーカリストをしていることからもわかるように、長唄の師匠を目指しませんかと、教室で先生から誘いを受けているくらいの腕前なんです。才能があるんですね。
だから、通信制の高校でも、芸能の授業になると、先生の代わりに手本に指名される。浮世絵師の人間国宝が生徒にいるのだから、浮世絵についての授業は、当然、先生の出る幕はありません。人間国宝が、お話してくれるんですよ。で、体育の時間になると、92歳の人間国宝のおじいちゃんも混じって、短距離走ったりするわけです。まあ、死なん程度にでしょうけど(笑)


この話と昨日の日記に書いた夜間中学の話と重なるところはそれほどないんですが、夜の学校や通信学校には、昼間の学校にない豊かな側面があるなと思ったんです。

まず、誰しもが、学びたくて来ている点。
これについては、後述します。(今後、機会があれば)

次に、年齢も国籍も超えていろんな立場のいろんな種類の人が、ひとつの教室にいる点。
これは、案外と大きいなあと思いました。

いじめは、人間が生まれつき抜きがたく持っている性質のひとつなのかもしれません。
誰かを貶めることで、自分が優位にありたい、という感情は、程度の差はあれ、誰しも持っているのだと思います。人間の業であり、原罪の一種だと言ってもいいかもしれません。

でも、自分が優位に立ちたいという感情は、同質のグループにいるときにこそ起こるものだとも思うのです。
サッカー選手同士だと優劣をつけたくなる場面もあるでしょうが、サッカー選手とタクシーの運転手と花屋の店員さんで構成されている集団で、誰がなんの優位もへったくれもないと思うんですが、どうでしょうか。

じつは、通信制高校をいくつか取材したことがあるのですが、いじめがある印象は、オレにはなかったんですね。いくつか取材した先でその点は必ず訊いたのですが、どこも、「ない」と。
まず、老若男女入り乱れているので、競争原理があまり働きません。誰それよりもいい点をとったとか、ではなく、皆、知りたいことを知りたいからこそ通っているので、自分がそれを吸収出来たかどうか、興味の中心はそこなんです。なので、他人と競争するのではなく、自分との闘いです。
競争原理はある程度必要だと思うのですが、それはさておき、ないと、ギスギスした雰囲気もなくなります。

それと、幅広い年齢層の人が通っているということは、学力のあるなしにかかわらず、社会経験を積んでいる人が、そこにはいるということです。
いじめの風景は、いじめの標的にされている人、いじめている人、いじめに加担している人、傍観している人に分かれますが、社会経験を積んでいる人がそこにいれば、傍観しない人もいるでしょう。

そんなことをつらつらと考えていると、

バラバラの年齢でひとつのクラスを構成する方法はないのかなあ、と思うんですよ。
たとえば、ひとつのクラスに小学校の1年生~6年生までが混在しているような、そういうクラス編制は出来ないんですかね。過疎どころではない離島の小学校なんて、そういうクラスがあるじゃないですか。本当はそれだけじゃなくて、いろんな国籍、もっと上の年齢層の人も入れたらいいんでしょうが、それは現実的じゃないので、せめて、そういうクラス編制を、現実的なイシューとして俎上にあげるべきだと思います。

多様性を学ばせるのは今の教育の喫緊の課題だと思うのですが、ならば、画一的なクラスではなく、出来うるかぎりの多様な人が混在するクラスを編成するのは、悪くない方法だと思うのです。
もっとも、それに則した授業を進めなければならないので、科目別にそうしたプログラムをつくらなければならないのは、言うまでもないです。
でも、昨日の日記で書いた夜間中学の先生のように、現場で試行錯誤しながら教育プログラムをつくっている人は、いるんですよね。
公務員は独創的な仕事を常としていないでしょうが、どんな仕事でも個別の問題があり、それに対する解決策を考えなければならないわけで、誰でもがそれをしています。だから、学校の先生にも、そうした新しい教育プログラムの創造を、なんとしてもやってもらうしかないじゃないですか。

いじめやいじめ苦による自殺(これはひとつの問題として捉えるべきではありません。別個の問題です)が発生すると、学校はきまって、
「再発防止に努めます」
と、言います。
でも、
なにをするのか、具体的なプログラムを持っているとは思えないんですよね。生徒の信号を注意深くキャッチすると言いますが、どんな信号がそれで、仮にキャッチしたとして、クラス運営を行なううえで、どのように対処するべきなのか、教師が、具体的なプログラムを学んでいるとは、まったく思えないんです。ほとんど、教師個人の人間性に頼っているのが実情じゃないですかね。

いじめなんてね、いくら注意されたところで、やりますよ。見つかれば、次は見つからないところでやる。どんどん陰湿になる。
だから、いじめが起きない環境をつくるしかないと思いますけどね。

そのために、教室に多様な人間を混ぜること。
オレが考えているのは、それなんです。

もうひとつ。
いじめ苦による自殺です。
いじめ予告を文科相に送りつけたりと、浅ましすぎる出来事も多発しているし、もう、なにからなにまで暗澹たる気分になります。みんなのまえでズボンを下ろされたから自殺、教師もいじめに加担していた…、あまりのひ弱さ、あまりの常識のなさにも、暗澹たる気分になります。
でも、
ほとんどは、誰かに相談することで解決するんじゃないかとも、思うんですよ。
今の子供って、人間関係のチャネルが少なすぎる気がします。
学校、家、塾。それだけじゃないかな。
本当は家でなんでも話せるのならそれに越したことはないけれども、それはそれぞれの家庭の親御さんに頑張ってもらうとして、それ以外のチャネルがもっとたくさんあればいいなあ、と思います。
むかしは、社会がありましたね。近所のおじさんとかおばさんとか。今、そーゆー人はいないでしょ。
学校をね、カルチャーセンターのように、大学の社会人対象の授業のように、市民講座のようにできないですかね。
いろんな人が学校に出入りする。そして、クラスと交流するんです。そうすることで、失われた子供のチャネルを増やしていく。避難所をね、いっぱい用意してあげるといいとオレは思うんですけどね。
学校にいろんな人が出入りすることで、新たな問題が発生することはあるでしょう。ロリコンもヘンタイも多いしね。でも、どっちのリスクが大きいか天秤にかけたとき、オレは、いろんな人が学校に出入りする環境のほうがいいのでは、と思います。犯罪予防は、それこそ監視カメラを置くなどして、監視を強化することで予防出来るところも大きいですから。

なんかね、
今の教育問題をメディアを通して見ていると、
教師の質の低下、
クラス運営における問題解決のためのプログラムの不足、
生徒の精神力の低下、
親子のコミュニケーションの不足、
学校と社会の隔絶、

問題が山積しているように感じるんですよ。どれから手をつけていいやら、と思ってしまいます。
途方に暮れますが、とりあえずは、こんなことをぼんやりと考えています。
じつは来月、神戸市の教育委員会の人と会うんですが、こういう話をぶつけてみようと思っています。

2006年11月17日金曜日

夜の金八先生

この半年ばかり、TVの最大の楽しみは、NHK教育で月~木の22:25から放送されている『知るを楽しむ』だったりします。もっとも、録画しておいて一気見、というパターンばっかりですが。

番組のサイトはこちら。


曜日毎にテーマがあって、そのテーマに沿って月4回程度のシリーズで構成されてます。
たとえば、今だと、
月曜は『この人の世界』というテーマで、江戸の絵画の傍流にある曾我蕭白や伊藤若冲なんかを、美術評論家の辻惟雄さんが紹介してくれます。
火曜は、パーソナリティが影響を受けた人物を紹介していくもの。今だと、人類学者の中沢新一が民俗学者の折口信夫を紹介しています。この欄は、過去に、美輪明宏が寺山修司を紹介し、リリー・フランキーが松田優作を紹介したりしています。
水曜は、『人生の歩き方』と題して、1人の人が4回にわたってインタビューを受けています。岸恵子、赤瀬川原平、萩本欽一など。
木曜は、『歴史に好奇心』の名のとおり、主に江戸時代に焦点を当てて、ひとつのテーマを掘り下げてます。武士の家計簿とか、江戸の教育など。今、西洋料理と日本人というテーマでやってます。

どれも丁寧につくられていて、しかも切り込み方がスリリングで、見ていて飽きません。

えーっと、べつに『知るを楽しむ』のアフィリエイトをしたいわけじゃないんです(笑)

今、この番組の水曜日『人生の歩き方』に出演しているのは、見城慶和さん。夜間中学の先生を停年までの42年間を勤め上げた人です。
山田洋次監督がつくった映画『学校』のモデルになった先生らしいのですが、オレは、その映画もこの先生も、どちらも知りませんでした。

夜間中学と聞いてイメージすることは、高度経済成長の時期、さまざまな事情で義務教育を受けるべきときに受けられず、それでも大人になってから学びたいという人が通っている場所、といった程度のものでした。
あるいは、今だと、不登校児童が通うディアスポラ的な場所、というイメージです。

そういう一般的なイメージは持っています。で、そのイメージは、あながち大きく外れてもいなかったのですが、番組を見、詳細を知るにつけ、ここは素晴らしい現場だなあ、と思ったのでした。かなり、感動的ですよ。

まずね、60歳を過ぎた人が、読み書きを習っているんですよ。それも、小学校高学年レベルの国語の読み書き。その年になるまで小学校高学年レベルの読み書きを身につける機会がなかった不幸はさておき、その年齢になり、人生も晩年に差しかかり、それでもなお、学びたいのだなという姿勢は、感動的です。

そういう風景が、いくつか流されるのですが、でもそれは、言っちゃあ悪いが、オレが持っていたイメージの範疇を超えるものではありませんでした。

あるとき、
20代の青年が学校の門を叩きました。
で、当然のことですが、まず、氏名と生年月日を書いてください、と、先生は彼に言います。
すると青年は、
「氏名ってなんですか?」
と。
70年代の高度成長時代のころのことです。オレはすでに生まれています。オレが生きはじめた時代に、識字率がどの程度だったのか知りませんが、95%以上はあったんじゃないかなと、なんとなく想像します。
でも、「氏名」の意味がわからず、自分の名前も生年月日も書けない20代の青年が、いたんですね。
それだけでもかなりびっくりしましたが、おもしろいのは、ここからです。
大人にひらがなやカタカナを教えるというのは、案外と難しいものなんですよね。教えるほうだって、お手本になるようなキレイな字を書かなくちゃならない。
まずね、
黒板に○を描いて、○のかたちと似た字を、○の円周をなぞるように書いて教えるんです。
あ、お、の、ぬ、ね、などのひらがなを、そうやって教えます。
次に、卵形の楕円を黒板に描きます。楕円を横にして、円周の両サイドをなぞるようにして、「い」のかたちを教えます。横にした楕円の円周の上下をなぞると、「こ」が出来ます。楕円を斜めにして、「ひ」を教えます。
そういう教えかたなんですね。
オレたちが習った教わりかたと、全然違います。そして、こういう教えかたは、もちろん、文部省のプログラムにはないし、現場の教師が、試行錯誤しながら現場でつくりあげた教育プログラムなのだそうです。
20代の青年は、いわゆる職人さんです。でも、いくら腕1本で食べていける職人さんだといって、読み書きがまったく出来なければ、生活が出来ません。作業日誌だって書かないとダメだろうし、図面や仕様書を読むこともあるだろうし、生活の場に基本的な読み書きは絶対に必要です。
だから、ひらがなとカタカナだけでなく、漢字だって必要になってきます。でも、当用漢字を小学1年からやってる余裕は、ないんですよね。取り急ぎ必要なのは、生活に必要な漢字です。
そこで、生活の場面を想定し、そこで登場する漢字をピックアップする作業からはじまります。病院に行ったとき、銀行に行ったとき…、という具合に。海外旅行に行く際に持っていく、現地の言葉の場面別の想定問答集みたいなものです。
その、必要最低限の生活漢字を、381文字、現場の先生たちはピックアップしたのだとか。
そこには、「履歴書」なんて難しい漢字も入ってます。当用漢字の枠組みではなく、生活漢字という視点でピックアップしたら、そういう漢字も入ってくるラインナップになります。

一、二、三でとびおきて
四の五の言ってるひまはない
いつも朝めし六、七分

こうやって覚えていくんだそうです。

こうやって、20代の、自分の名前も生年月日も書けなかった青年が、給与明細を読めるようになったり、学校の帰りにいつも見る看板の文字が読み取れたりするようになり、生活に直結する力を身につけると同時に、知る喜びを体感することになります。

夜間中学に通う生徒は年齢も国籍もバラバラなのですが、共通しているのは、皆、劣等感を持っていることです。義務教育を受けるべきときにさまざまな事情で受けられなかったことで、そのことが原因で、社会に出て劣等感を持つようになります。
実際、ヒドいことを言われたこともあっただろうし、ヒドい扱いを受けたこともあったんだろうと思います。
でも、彼らは、実際に生活をしてきたのだから、生活力はあるし、技術力だってあるのだから、劣等感を持つ必要はまったくないですよね。そのことに気づいてもらい、顔を上げてもらえなければ、夜間中学に来る意味なんてない、と、現場の先生たちは考えるんだそうです。

そのことに気づいてもらうために、国語の文法を教えます。
使う言葉によってその人の生きる姿勢が変わるというのは、オレのようなものを書いてメシを食っている人間にはよくわかる話なのですが、それが、教育の現場で実践されているとは、思ってもみませんでした。

みんなが私をバカにする。

この、「みんな」っておかしくない? 「あの人が」「彼が」というのはあるよ。でも、どこの誰だかわからない「みんな」なんていうのは、文法上おかしいんだよ。実際、世のなかの全員があなたのことをバカにしているわけはないでしょ。
そうやって、文法を教えることで、意識を変えさせようとするのです。
でも、みんながそういうふうにオレのことを見てるって思っちゃうんだよなあ、と、50代くらいの男性の生徒が言います。そこで、それこそクラス全員が、私も、とか、でも本当はそんなことないんだよな、とか、ワイワイ話がはじまるんですよね。すごく、自由です。

こういう番組を見ていて、理念だけが語られるのはイヤだなあと、最初思っていたんです。
でも、実際の現場は全然そんなことはなくて、実践に則したプログラムが、いくつもいくつもあるんです。そして、それらはすべて、現場の先生たちが試行錯誤しながら、手づくりでつくっていったプログラムなんですね。

学校の、最終的な教育目標は、読み書きが出来るようになり、生きる力を与えてくれるような文芸作品を読む力を身につけ、在学中に1冊でもいいからそういう本を読み切り、卒業後も、そういう本を読む力を身につけさせること、に、あるんだそうです。

夜間学校にとって、国語力というのは、そういう力を身につけることなんだそうです。

たとえば、
中野重治の『菊の花』が題材に取り上げられます。
無実の罪で投獄された主人公が、差し入れられた菊の花に励まされて逆境を乗り越えていく話です。

花の心、ありったけの力で、生きていく。

そういう一節があります。
「ありったけ」って、どういうこと? 精一杯ということ。あるだけ全部の力で生きていく。それが花の命、花の心だと言っています。
そこから、
どんなに環境が悪くても、花は自分の力で生きていく、負けずに生きていく、
という、中野重治が比喩で込めた真意を、生徒が導き出していきます。先生は、その助けをします。そして、その真意を、生徒自身の言葉として身体に入れ、生活の糧となるようなものとして、生徒の心に植え付けていきます。
取り上げる題材の選定に、じつに細かな計算がなされているんですよ。

作品を読み、そのことでどのように考え、生きる力がどのように励まされるかを、どれだけその作品から汲み上げられるか。
そのことが、授業で使う作品の題材選定の尺度になってます。

夜間中学のおもしろいところは、知識の量とか、誰がどんな作品を書いたとか、そんなことをいくら覚えても喫緊の生活の役に立たないからやらない、と、キッパリと割り切っているところにあります。
この文章の意味だとか、意図だとか、文法はどうだとか、テストで答えるためのものを教えても、彼らの人生には役に立たない、というところから、教育プログラムの作成がスタートしているところです。

これは、学ぶことの、根本ですよね。
これを、昼間の義務教育が少しでも取り入れてくれたら、と思います。

34歳の、建築現場の下請けで働いている男性は、計算が出来ず、そのせいで材料の見積もりが出せず、あまり仕事がパッとしなかったそうです。結婚して子供も2人いるんですが、生活費もかかってくるし、奥さんが男性の尻を叩いたんだそうです。計算くらい出来るようになって、もう少し稼いでくださいな、と。
そうやって、この男性は、奥さんに引っぱられて、夜間中学にやって来た。しぶしぶ、しかも、一杯引っかけてきたんですけどね。

その男性は、卒業するころには、宮沢賢治を読むようになり、宮沢賢治の作品から、大きな感銘を受けたと言うんですね。

夜間中学の行事で、運動会がありました。男性は、運動会のマラソンで1等賞をとることを決め、夜、仕事が終わってから学校に通うのに、それまで自転車で通っていたのを走って通うようになり、運動会に備えて脚力をつけようと頑張るんですよ。
結果、彼は運動会のマラソンで1等賞をとりました。
そのことをね、彼は、作文にしたんです。

当日、駆けに駆けた。
でも、得たものは大きかった。
それは、無報酬の報酬でした。
自分でやらなければ
この喜びはつかめない。
そういうことがわかりました。

そういう作文です。
生活のために計算が出来るようになりたいと夜間学校に通い、そこで学ぶ人たちの姿に心を打たれ、宮沢賢治と出会い、宮沢賢治のひたむきさに心を惹かれ、彼は、「無報酬の報酬」と呼ぶべきものを得たんです。
その彼の作文を見て、先生は、宮沢賢治のすごさについて、改めて教えられたんです。

オレのこれまでの人生のなかで、
無報酬の報酬を得たと実感出来るほど豊かな日が1日でもあっただろうか、と、思わずにはいられませんでした。
オレは、宮沢賢治の作品を何冊も読んできたけれども、この男性ほど、宮沢賢治の作品から宮沢賢治の本質を得ただろうか、と、考えざるをえませんでした。

夜間中学というところは、とても豊かなところですね。
これがすべてではないと思います。もちろん、負の遺産もたくさんあるでしょう。
でも、こんなにも真剣に学びを求める人が、今の普通の学校にいるか? そういう人たちがいるだけでも、夜間中学という場所は、とても豊かなところです。


じつは、連日のように報道されている、イジメとイジメ苦による自殺の連鎖について、自分なりになにか考えたい気はあるんです。そのことを何度も書いたのですが、どうしても暗澹たる気分になって、最後まで書き切ることなく、日記にもアップせずじまいでした。
でも、この番組を見て、少し希望を見た気がしたんですよ。
少なくとも、解決のためのヒントがここにはあるなあと、思いました。

それを、明日書きます。

2006年11月16日木曜日

「記憶のスパイス」


昨日今日と、高山なおみさんの『記憶のスパイス』を読んでおりました。

オレが高山なおみさんの存在知ったとき、彼女は『クウクウ』で腕をふるってらっしゃったのですが、なにせ場所は東京、行くこともなく…。一度は行ってみたかったお店です。
今、独立独歩の料理家になられてますね。

彼女の魅力的なところは、スローライフを実践しながらも都心を離れることもなく、忙しいときは手抜きでいいやん!と、肩肘張らない生活を、送ってるところだと思います。

スローライフだ!ロハスだ!と、そのことに血眼になるような本末転倒な姿をときどき目にしますが、べき論でものごとに取り組むと、やっぱりロクなことはないですね。いかに自分のペースをキープ出来るか。オレは、それしか考えてません。

だから、
正しい/間違ってる
で、生きたいとは、ほとんど思わないんですよね。

それよりも、

好き/嫌い
居心地がいい/居心地が悪い
happy/unhappy
stop!/go!

ってかんじです。

高山なおみさんは、そういう感覚で日々歩いてるように思われるし、その歩く姿が、端正なんです。
端正で凛としているのだけれども、同時に、ダメなところもいっぱいある。そして、そんな自分を受容しつつ、地に足をつけて歩いてる。酔っぱらって大立ちまわり!なんてのもあるし(笑)
そのかんじがね、オレにはとってもキュートに映ります。

上記の本は、全日空の機内誌『翼の王国』に連載された旅行料理エッセイをまとめたものです。
ペルー風オレンジジュースってのがあるんですが、オレンジを絞り器で絞っただけなんですよ。どこがペルー風なのやら(笑)

読んでみればわかるのですが、ペルー風と名付けられているのには、意味があるんです。
彼女の料理は、料理が主役になってない。料理や素材に最大限のリスペクトを払っているのはもちろんなのですが、主役は、あくまで生活なんです。
ペルーでの生活、風景のなかでの、オレンジジュースですから。
生活の風景のなかのひとつとして、料理がある。
だから、彼女のエッセイも、料理が主役になることなく、風景が描かれ、そのなかに料理が登場しているかんじです。あるいは、思考の触媒の役目を、料理が果たしています。

フィッシュマンズやクラムボンを愛していることも、オレにとってはたまらなく素敵です。
ご主人のスイセイさんとのやりとりは、羨ましいくらいに微笑ましいです。

我が家では、彼女の著作はすべて、トイレの書棚に置いてあるのですが(笑)、また1冊増えました。

ブログがこれまたよろしくて。

2006年11月15日水曜日

鍋輪廻


湯豆腐。
豚しゃぶ。
あんこう鍋。
鱈ちり。
カキの土手鍋。
鶏つくね鍋。


毎日毎日、なんかしらの鍋がローテーションで夜の食卓を飾ってます。
メインの具をちょこっと入れ替えるだけですんでしまうので、安くすむし、お手軽やからいいんやけど、ちょっと飽きてきました。

まだ寒くなったばかりやというのに、もう飽きてきました(笑)

飽きたとはいえ、もはや鍋以外のモノをつくるのは、面倒でなりません。

次、何鍋がいいですかね?



んで、本日もレゲエ。


イスラエル・ヴァイブレーション / Rudoboy Shufflin

YouTube

2006年11月13日月曜日

相方さんのサイト(after)


はい、昨日の日記で予告したとおりですが、サイト、リニューアルしました☆

昨日、13日の今日の夜にリニューアルします!って宣言しちゃったあと、最後、少しばかりトラブルもあり、結構、焦りましたよ。
でも、やっぱ、どーせなら13日にアップしちゃいたかったんですよね。これは昨日気がついたことなんですが、そもそも、サイトがオープンしたのが、相方さんの誕生日でもある5月13日。で、今月の13日が図らずもジャスト半年ですわ。まったく知らなかったんですが、昨日、日記を書いたあとにふと気がついて、これはなにがなんでも13日に!ってことです。

やるぞ!と思い立ってから、なんだかんだで1週間足らずの作業日程。。。
といっても、かなりかなり大変な作業をやっとりまして…、ソースがおわかりになる方はご覧になっていただきたいのですが、もう、とんでもないです(笑)複雑すぎて、自分でもわかりません(笑)よくこんなソースを書いたな(笑)

そもそもですね、winのブラウザで表示される文字が大嫌いなんですよ~。なんであんなにダサイんでしょうか。ダサイだけならともかく、読みにくいです。見にくいです。

なので、macのブラウザで表示される文字を再現したかったんですよ。それで、荒技を。。更新が面倒になってくるので、仕事じゃ絶対にやらないけれども、なにかの機会があればやってみたかったので、今回、実現させてみました。winでネットをご覧になっている方には、これまでになく見やすくなっているかと。

あ、だから、普段からmacでネットをご覧になってる方にとっては、あんまり関係ない話です(笑) 普段、見ている文字に近いので。。。

デザインは、これまでのほんわかしたイメージから、少しお仕事チックに、少し大人モードにしました。
教室はじめたり、取扱店が増えていったり、雑誌で紹介されたりと、少しずつお仕事も増えつつあり、そんななかでポータルサイトの果たす役割も重要度を増していっているので、あんまり趣味モードのサイトもなぁ、って思っていたのです。

かなりかなりあっさりめのつくりになりましたが、あとはちょこちょこいじりながら、小ネタを増やしていこうかと思っています。

どんなかんじですかいな?
また、感想などお聞かせくださいませ~。
辛辣なの、忌憚のないのが参考になりますので、そっちをよろしくです☆