2006年2月28日火曜日

鳩山由紀夫

民主党…、なにをやってんでしょうかね?

武部ファミリーとライブドアの繋がりは以前から指摘されていたので、それ自体はさほど驚かないのですが、追い詰め方が、あまりにも幼稚。

フリーの記者からリークしてもらったメールの裏とり、ほんとにやってなかったの? やらずに、暴露したの?
高校生でもこんなことしないでしょ。
ネタを入手して、舞い上がって、早々に表に出したのだとしたら、おめでたすぎるわっ!

で、永田議員、入院? それは、与党が使う手でしょうが。野党のアンタが使ってどうする?
大体、仕事でポカして、いちいち入院するやつはいません。

こんなのコメントのしようがないので、このへんにしておきますが、mixiの某コミュで、おもろいネタを拾ってきました。ご存知の方もいらっしゃるかな。

鳩山由紀夫(今、幹事長だったのね♪)の、HPのオープニング・フラッシュ、おもろすぎます!
これ

とても自作とは思えまえん。制作者が鳩山由紀夫の目を盗んでアップしたのでは?と思わせるほどのデキです♪
本人了承のもとだとしたら、イタすぎる…。

2006年2月27日月曜日

居酒屋甲子園





日本一の居酒屋を選ぶコンテスト「居酒屋甲子園」、今月の9日に催されてましたね〜。
第1回の優勝店は、熊本の居酒屋「旬彩酒房 憲晴百(けんはっぴゃく)」というお店。
昨年10月から12月まで全国236の参加店舗を対象に、客を装った覆面調査員が接客態度などを調査したのだとか。投票者は、外食産業関係者と一般客ら約2000人。規模のちっこいミシュランみたいです。
対象店舗数と投票者が少なすぎるのが難点ですが、第1回目だし、これから成長することを期待したいもんです。

優勝したお店は、食べもの、酒ともに厳選されているうえに良心的価格であるのはいうまでもなく、建築家だった主人の手による内装も素晴らしいのだとか。たしかに、ぐるなびを見てみると、オレにはちょっと上品すぎるきらいはあるんですが、センスも良さげで、婦女子さんでも気軽に入れそうな雰囲気です。

居酒屋甲子園のHP

ぐるなびの「旬彩酒房 憲晴百(けんはっぴゃく)」のページ

酒は飲めないけれども、酒のあては大好きなので、いろんなメニューが揃う居酒屋は大好きです。
でも、定番にしてた居酒屋も、この10年で続々と閉店、移転…。その間、新規開拓を怠ってきたので、今は、手持ちのリストがほんと貧しい。。
家の近所に「天平屋」という、天ぷらをメインに、刺身や他のメニューも充実している居酒屋があるんですが、今、贔屓にしてる居酒屋は、そこくらいです。

オレが、居酒屋を選ぶ際のポイントは、
・食材が厳選されている(酒は飲まないのでわかりません〜)
・新メニューが常に開発されてる(飽きますからね)
・良心的な価格(大阪はコレでないとダメですから)
・適度に猥雑(キレイすぎるところは性にあわんのです)
・店主がオバァが気安い
というところ。「天平屋」は全部揃ってて、今のところ、オレにとっての心の5ツ星なんです。

店主が気安い、というのは、オレの場合、かなり重要なポイントです。接客がダメな店は、食べるものがなんぼ美味くても、全然ダメ。飲食業の「業」の部分が抜けてるんです。
エスニック系のお店なんかでは、どこぞの国に長いこといて、そこで食べてた料理が日本で珍しい料理でしかも美味いから、日本で店やったら喜ばれるやろ、みたいなところが多いですね。素人さんの腕自慢みたいなところ。「飲食」にはこだわっても、それで満足して、「業」の視点が抜けてしまってるんです。そんなん、キレますから、オレ。
客と客のあいだの橋渡しをしてくれたり、食材についてのいろんなことを教えてもらったり、冗談を言いあったり…、食べながら、そういうホッコリした時間を提供してくれないのなら、原価で食材買ってきて、自分で調理して食べますて。

「天平屋」のすごいところは、店主のオバァが、いろんな客とワイワイ喋りながらも、てきぱきと注文をこなし、かつ、伝票を一切つけないところ。伝票つけないのに、勘定の段になると、注文もらったのはコレとコレとコレとコレとコレとコレやから、全部で○○円!って、全部覚えてるんです。もう、神業。カウンター席7、8人に、4人がけテーブルが5卓ある店ですよ。で、合計額の端数は、ちゃんと切り捨ててくれる。

居酒屋甲子園で優勝した「旬彩酒房 憲晴百」も、店主とお客の掛け合いが素晴らしいらしいですね。
一回行ってみたいんですが、熊本まではさすがに行けません…。

みなさんが贔屓にしてる居酒屋は、どんなんですか?

2006年2月26日日曜日

ワンダーランド鶴橋





本日、彼女と、大阪が世界に誇るコリアン・タウン、鶴橋に行ってきましたですよ。
オレが住んでるところと鶴橋は目と鼻の先なんですが、彼女も好きな街に違いない!とはわかっていても、なぜかあまり行く機会もなく、いっつも通過ばっかり。で、本日、特に行くところもなかったので、じゃあ鶴橋を散策しよう!と、相成った次第。

オレ自身がめちゃめちゃ久しぶりに行ったので、もう、ほとんど覚えてないんですね。初めて来たのに近い感覚。
JRの改札出た瞬間から、なんか違う街です。
イヤ、JRの駅構内ですら、すでに違う。駅の、改札の中に、おばちゃん専門のブティックがあるし…。ブックオフの店内には自動改札があるし…。いきなり、?の連続です。う〜ん、鶴橋、やっぱ、ワンダーランド!

駅を出た瞬間からキムチと焼肉の匂いがしないでもないような気になるのは、出た瞬間から焼肉街と商店街が連なってるから。
特に、商店街は、エラいことになってますわ。
もう、迷路。かつて、香港の九龍城で数週間過ごしたことがありますが、あれに負けず劣らずの、迷路。商店街のくせに、縦横に道がありすぎるんです。しかも、ちっこい店が狭い道の両サイドにびっしり。

タコ焼き屋があって、韓国の冠婚葬祭用のなんやようわからん儀式用の器を売ってる店があって、キムチを売ってる店があって、豚足を売ってる店があって、それらを店内で食べさせてくれる店があって、唐辛子味噌を売ってる店、それの粉末を売ってる店、牛のモツを売ってる店、チマチョゴリを売ってる店、ナムルを売ってる店、靴屋、宝石を売ってる店、魚売ってる店、魚の干物をつくって売ってる店…。
とにかくですな、この区画は衣類、この区画は食品、といった区別がなくて、チマチョゴリ屋の横に総菜屋があって、その横はブティックで、その向かいは唐辛子屋で…、ってかんじで、ごった煮なのですよ。アーケードというかトタン屋根というか、天井からは、1班通り、2班通り、と、よそ者にはまったく意味がわからん区分けらしきものを表示した札が下がってるんですけどね。

ほいで、ブティックというか、服屋がやたらと多い。もしかしたら、商店街の7割ぐらいが衣料品関係か?というくらいです。優に、百軒超えます。
ブティックといっても、いろいろありまして。
オバァしか着んような、デーハーで安っぽい柄のがうやうやしくディスプレイされてる店もあれば、「コピーではありません!」と張り紙されたエルメスのケリーバッグ約400,000円を売る店もあり、微妙に、オシャレなんかオサレなんか、よくわからんのですよ。
その他、ヤクザのオッサンが着てるようなトラサルディなタッチのジャージ上下を売ってる店もあれば、ババシャツの専門店、防寒着専門の店、もちろんチマチョゴリ専門店もたくさんあります。チマチョゴリのお店は、日本の着物専門店みたいに、お客を座らせて、さまざまなチマチョゴリを広げられるように、店の奥半分が上げ段の床になってます。
あと、布団専門店、タオル専門店なんてのもありましたな。

ま、そんなワンダーランドを散策したあと、とりあえずは小腹も減ってきたので、入ったのが、チヂミを売ってる店。売ってるんですけど、無理矢理なスペースを確保して、店内と店の軒下で食べられるようにもしてる店。
注文したのは、ニラチヂミの唐辛子抜きと、春雨の炒め物と、キムチの盛り合わせと、韓国のり巻き。
でも、注文するまでがひと苦労ですわ。
まず、席とか、用意してくれるんかしてくれへんのかさっぱりわからんで、とりあえず、わからんまま着席。
狭いわりには店のオバァはたくさんいてるんですが、みんなてんてこ舞いになってるほど忙しいみたいで、注文、聞いてくれへんのですよ。お茶も出んし。
で、とりあえず、なんとかかんとか、お茶(コーン茶でしたわ!)をもらって、注文するんですが、いきなり日本語が通じない! よく耳を澄ませてみれば、日本語がどっからも聞こえてこんのですよ。オール、ハングル。
ま、でも、こっちは注文するじゃないですか。そしたら、それが通ってるかどうか、よくわからんという始末で。しかも、みんな忙しそうにしてるから、復唱するとかせんとか、そういうタイミングすらない。
でも、注文したし、通ってるやろう、ということで、待ってたら、べつのオバァが、注文しました?って聞いてくる。
したよ、と、答える。
そしたら、またまたべつのオバァがやってきて、あやしげな日本語で、やっぱり、注文しました?って聞くから、したよ、とまた答えたんです。したら、今度は、なにを注文したか?と。ニラチヂミと韓国海苔巻きと春雨の炒め物とキムチの盛り合わせ、と、答えると、チヂミは唐辛子入ってるやつか抜いてるやつか?とか、春雨は300円のか500円のか、とか。もう、どないなってるねん!ってかんじです。イヤ、おもろすぎて、怒る気にはまったくならんのですけどね。だって、みんなてんてこ舞いやし。
ほいで、このオバァが、厨房、というか、店の軒先で客の見えるところでつくってるんですけど、そこに向かってデカい声で、「なんちゃらスミダ、かんちゃらスミダ、海苔巻き1本スミダ、ほんちゃらスミダ、春雨300円スミダ〜」と。
今からかい!と思う以前にですね、ハングルで喋ってんのに、なんでメニューのところだけ日本語なんや!と。もう、爆笑。
そのあとですな、またまたべつのオバァがやって来ます。で、またまた、注文しました?と。した。なにを?
えーっと、ニラチヂミと韓国海苔巻きと春雨の炒め物とキムチの盛り合わせ…。またまたそう告げると、オバァ、厨房に向かって進行具合を聞いてます。で、もうちょっと待ってくださいね♪って。いや、遅い!とか文句言うてへんやん、オレ。
ほんまにね、なにがなんだかわけがわからんのですよ。それに加えて、酔っぱらいがオバァに絡むから、余計にややこしくて…。

そんなこんなで出てきた皿、はっきりいって、絶品でしたな。
韓国海苔巻きは、ゴマ油が塗ってあるのにもかかわらず、非常にアッサリしてます。春雨の炒め物は、味の組み立てがちょっとわからんほど複雑で美味。モツの細切れやら野菜の細切れなんかと一緒に炒めてあるんですけどね。キムチの盛り合わせは、大根と白菜と胡瓜と、水菜! 水菜のキムチなんて初めてですが、シャキシャキしてて、辛いけれど、非常に爽やかなお味で。大根もすごく浅漬けやったんですが、にもかかわらず、ちゃんと芯まで味が染みてて、ナイス。
この4皿で、〆て1,150円。勘定してるオバァは、オレに、何度、合計額を聞いてきたことか。計算だけして、べつの客の注文聞いて、そのあとでオレの出した金を受け取ったときには、もう、合計額を忘れてる。釣り銭出すときにも、合計額を忘れてる。どんなんやねん!!

というかんじ。
イヤ、鶴橋、ちょっと病みつきになりそうですわ。天満市場よりもすごいです。
ほんま、ワンダーランドでした。


で、鶴橋といえば、コリアン繋がりで、やっぱ、これかなぁ…。




朴保(パク・ポー) / 『いつの日にかきっと 〜スピリチュアル・ラブソング』

2006年2月25日土曜日

『竹田の子守唄』

ソルウフラワーのチンドン別働隊、ソウルフラワー・モノノケ・サミットが、3枚目のアルバムのレコーディングを行なっています。『竹田の子守唄』を新たにレコーディングしなおすらしいですわ。


『竹田の子守唄』は、1960年代の終わりに、赤い鳥というフォーク・グループがヒットさせた美しい歌です。しかし、奇妙なことに、歌の出身が被差別部落であるがゆえに、また歌にそのような内容が織り込められているがゆえに、放送などのメディアでは疎外されてきたという歴史を持っています。

70年代初頭、『竹田の子守唄』、はギターを抱えた青年たちがよく取り上げた歌でした。と同時に、『イムジン河』や『チューリップのアップリケ』などとおなじように、公然とうたってはいけない歌だという風評も、ありました。
全国的にヒットした歌が表舞台では消え、しかし広く根強く一般の人たちは覚えている。『竹田の子守唄』は、そのような、一種独特のシコリを抱えながら現在にまで至っています。

いわゆる、放送禁止歌ですね。
放送禁止歌について、少し書いてみます。

ソウルフラワー・モノノケ・サミットが歌っている『復興節』がそうです。
『復興節』は、もともとが関東大震災のときにつくられた歌です。作詞は、演歌師として有名な添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)の息子の添田さつき。メロディは中国の『沙窓』という曲をもじったものです。家なんか焼けちまっても、オレたち江戸っ子の気持ちは塞いじゃいないぜ!という、なかなか勇ましくて感動的な歌ですわ。
これを、ソウルフラワー・モノノケ・サミットが、阪神大震災の直後に蘇らせました。
添田さつきのオリジナルから、リーダーの中川クンがつくった阪神淡路復興へのメッセージへと歌い繋がれるのが、新しい『復興節』の素敵なところです。
この曲が入ったCDは、今、リスペクト・レコードという独立系のレコード会社から出ています。しかし、本来、この歌は、大手のレコード会社から出る予定でした。
中川クンによると、はっきりとレコード会社から言われたわけではないが、やめてくれ、らしきお声がかかって、結局出すことが出来なかったらしい、とのこと。
「東京の永田にゃ金がある、神戸の長田にゃ唄がある〜♪」という部分が問題らしいですね。それと、「ナガタ ちんどん エーゾエーゾ」、このあたりもダメらしいのです。
震災でも一番に深刻な被害を受けた地域のひとつである長田には、被差別部落があったり、たくさんの在日コリアンが住んでます。そういう地域が歌い込まれている歌は、平たくいえば、どんな抗議を受けるかわからないから発売したくない、というのがレコード会社の本音ですね。
歌のラストには、「阪神復興 エーゾエーゾ 淡路復興 エーゾエーゾ 日本解散 エーゾエーゾ」とあります。
オレには、まったくそのとおりの立派な歌だと思えるのですが、これもマズい部分に触れているらしいです。
ただ、どこがどのように悪いのかは、はっきりと指摘さることはない。
そして結果として、歌を評価してくれた小さなレコード会社からCDが出ました。この歌が入ったアルバムは、思いのほか、よく売れましたね。評価も高く、あたりまえのことですが、抗議など一切来てないとのこと。

この、『復興節』のゴタゴタは、『竹田の子守唄』の背景とも密接につながっています。
『竹田の子守唄』は、かつて日本三大民謡のひとつとまでいわれた歌です。それが、次第に放送では流れなくなった。やめておいたほうがいいよという状態になっていきました。
歌の出身地が被差別部落であったからです。
言論・表現の規制というのは、初めから目に見えるかたちで、暴力的に、やめろ!などとはなりません。もっと巧妙ですよ。
この歌は市場に出さないほうがいいみたいだとか、歌わないほうがいいみたいだとか、本心を明らかにせずに遠まわしにゆっくりと締めあげていく。歌は徐々に隅のほうにおいやられていく。その典型が、『復興節』であったり、『竹田の子守唄』であったりします。

さらに、放送禁止扱いを受けた歌をもう少し。
今ではエア・プレイ出来るようになってきましたが、『ヨイトマケの唄』がそうです。
美輪明宏、当時は丸山明宏と名乗ってましたが、その美輪明宏が1960年代に歌っていた歌です。胸に迫る、すごい歌です。
ヨイトマケというのは、建築現場で地ならしをするための重労働、あるいはその人、掛け声をいい、多くは女性が従事する仕事、のことです。
肉体労働を厭うことのなかったお母さんの歌ですね。
ヨイトマケのお母さんが自分を育ててくれた、自分が今あるのはヨイトマケをやってくれたお母さんのおかげだという素晴らしい歌なんですが、そういう職種の人たちを歌っているからダメだと、放送ではかからなくなりました。
オレには、それがなぜダメなのかまったく理解出来ないのですが、しかし、自主規制というか、組織として、やめておいたほうがいいようだ、という、暗黙の規約にひっかかった代表的な曲です。
「父ちゃんのためなら、エンヤコーラ、母ちゃんのためなら、エンヤコーラ〜♪」ではじまるこの歌を、40代より上の方であれば、一度は聴かれたことがあるかと思います。美輪明宏はシャンソンの人ですね。シャンソンは、日本では、おフランス趣味みたいに成金を競いあうような音楽だと思われがちですが、本来は、大衆の苦しみや笑いをストレートに描き出す音楽です。美輪明宏はホンモノのシャンソン歌手なので、『ヨイトマケの唄』が書けて、今でも歌っている、というわけです。

『ヨイトマケの唄』では、土方、という言葉が問題になるらしいんですね。
でも、この歌は、土方を卑下しているのではない。誇らしいものとして描いているんですね。額に汗して働く土方の姿は、どこも悪くないはずです。でも、土方とは汚らしい呼びかただとか、働いている人から抗議が来るんではないかという身勝手な思惑が、じゃあやめといたほうがいいな、という判断につながるらしい。『復興節』や『竹田の子守唄』とおなじですね。
『ヨイトマケの唄』というのは、日本を代表する60年代の大名曲だと思うのですが、これも放送という舞台から消されていく歌となりました。最近、ようやく放送でもかかるようになりつつありますが。

60年代は、政治の季節でもありました。
フォーク・ミュージックがその代表的ですが、大衆のための音楽を、ときに政治的に、前向きに意識的に歌っていこうという時代でした。
体制側と、学生たちなり活動家なりが、厳しく対立しました。後者の立場にあった多くのシンガーたちは、自分たちには、それまでの規制や常識を取り壊して歌うべきだ!と、主張しはじめます。当然のように体制側との衝突が起きます。60年代に、いわゆる放送禁止歌がずいぶんと現れたのは、こういう時代背景も無視するわけにはいきません。

美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の少しあとに、岡林信康の作品である『手紙』と『チューリップのアップリケ』も放送禁止になりました。 
どちらも、ある程度の年代の方であったらご存知だと思いますけが、部落差別をテーマとした歌です。
『手紙』は、深い仲となった「みつるさん」と「私」が結婚の約束をし、「みつるさん」はおじいさんから店を譲られることになります。でも、妻となる「私」が部落の娘であったことがわかり、「みつるさん」は店を継ぐことが出来なくなった。だから「私」は、身を引きます。
という歌。
岡林信康というミュージシャンは、デビュー当時から、わかりやすいメロディと歌詞で歌をつくるのが、じつに上手な人でした。団結歌『友よ』などは、その代表例です。
しんみりと歌われる『手紙』にも、彼の個性がよく出ていると思います。
『手紙』の歌詞は、部落の女性が差別と直面し、身を引いてしまう歌です。この点については、解放運動を進める側から批判された歌でもありました。歌は、歌詞の内容を追うだけでは理解出来ないはずなのですが、それよりも先に、歴史的に意義ある歌にちゃんとスポットライトが当たるようにしてから、批判なり評価なりをすべきでしょう。部落の結婚問題にしても未だに解決しているとは言いがたいので、『手紙』の文面は、今も生きているはずです。

もうひとつだけ。
『涙の王将』という、語りものがあります。
河内音頭の五月家一若という、今、一番上手い音頭取りのひとりですが、その一若が1997年に発表した音曲です。
『涙の王将』は、将棋の天才と言われた坂田三吉をテーマにしています。
通天閣の下の貧しい長屋で育って、無学で、将棋しか頭にない男。かつて北條秀司という高名な劇作家が、『王将』という物語のなかで、坂田三吉をこのように描きました。北條秀司の『王将』は、新国劇の舞台にはじまり、同名の映画シリーズになり、村田英雄も歌にし、これらのことごとくが大当たりとなりました。一若の『涙の王将』は、こういった一連の「王将もの」の最新作です。
しかし、この、『涙の王将』は、これまでに知られてきた「王将もの」とは、ずいぶんと違います。生まれからして違う。なにしろ、堺なので。

 坂田三吉 生まれた家は傾く軒の屋根瓦
 四畳一間の板敷に子共6人枕を並べ
 眠る夜さ夜さ母親は
 草履おもての手内職
 喰わんがための夜なべする

坂田三吉は、1870年、堺の、かつて舳松と呼ばれていた村に生まれます。
将棋が好きで、近所の賭け将棋で負け知らずの存在になって、それだけに留まらず棋界へ乗り込み、自力で天才棋士という栄誉を勝ち取った人物です。
『涙の王将』のなかの坂田三吉は、学校へはほとんど行けなかったかもしれないが、苦悩しながらも将棋だけで人の道を切り開いた人物であると語られます。
北條秀司が描いた新国劇の『坂田三吉』も素晴らしいのですが、もはや時代が違います。史実を改めて調査し直し、実像を捻じ曲げないで語られる新しい物語、その典型的な一例が、『涙の王将』です。

河内音頭では、「王将もの」は、かつてから語られてきました。
鉄砲光三郎という、昭和30年代に大変な人気だった音頭取りも『王将物語』をやってます。
鉄砲さんの名唱でもある『王将物語』は、おそらく1960年代初頭の録音だと思うのですが、当時の全国区的な人気者としては、ある意味で画期的な内容を盛り込んでいます。
坂田三吉は、宿敵であり一生の友でもある関東の関根金次郎が日本一となった祝いの席で、彼は草履の鼻緒を贈るのです。自分で編んできた鼻緒を、おめでとうございます!と、手わたす。鉄砲光三郎の声も、このシーンでは特に燃え上がっています。
坂田三吉は、堺の被差別部落の出身です。それを暗示するのが鼻緒なのです。草履おもてなどの仕事の多くは、部落の人たちが担ったものでした。
部落、といった言葉は使ってはいないものの、わかる人にはわかる、わかってもらいたいというメッセージが、鉄砲光三郎の熱唱に出ているのです。
ヒトはカネじゃない、心だ、と考える坂田三吉が、自分が出来うるかぎりの心づくしを畏友である関根金次郎へ贈ろうとしたとき、そこには彼のこれまでの人生が映し出されます。もちろん部落民であることも。
『王将物語』を書き下ろした鉄砲光三郎は、坂田三吉を単なる将棋の上手な男ではなく、差別をも乗り越えて将棋に生きようとした男として描こうとしています。だからこそ、鼻緒が必要だった。

しかし、『ヨイトマケの唄』が土方をテーマとしているというだけで放送されないのが、日本です。『王将物語』を録音した60年代初め頃のことを考えると、発売禁止、放送禁止のギリギリ手前を鉄砲光三郎は狙ったのだろうなと思います。
五月家一若の『涙の王将』は、そういった事実を踏まえながら、物語を編みなおしているわけです。
『涙の王将』には、故郷へ帰ってきた老境の主人公に向かって、幼なじみが、あなたは私たちの星である、輝き続けてほしい、そして一緒に闘おうではないか、と、挫けそうになっている坂田三吉に勇気を与えるシーンも出てきます。
河内音頭は、河内家菊水丸が今もやっているように、もともとは新聞詠(しんもんよ)みとも呼ばれていました。つまり新聞でありジャーナリスティックな批判精神を備えた音曲です。だから、歴史的にいろいろなメッセージを盛り込んできたという特色があります。

やっと、本題。
『竹田の子守唄』は、非常にヒットしながら、ヒットしたのちにラジオ、テレビでかからなくなったという、不思議な名曲です。
赤い鳥が歌う『竹田の子守唄』は、こんな歌詞です

 守りもいやがる 盆から先にゃ
 雪もちらつくし 子も泣くし

 盆がきたとて なに嬉しかろ
 帷子はなし 帯はなし

 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りも一日 やせるやら

 はよも行きたや この在所こえて
 むこうに見えるは 親の家

京都に、竹田という地区があります。その竹田のなかに被差別部落があります。
『竹田の子守唄』は、そこに生まれた子守唄です。
正しくは、守り子唄ですね。子守りをする子どもが赤ちゃんを抱きながら、あるいは背負いながら歌っていた歌。これが、いわゆる原曲です。
竹田の守り子唄が、村を出ることになったのは、次のようなことがきっかけでした。
関西を中心に活躍されているクラシックの作曲家で尾上和彦(当時は、多泉和人)が、青年時代、うたごえ運動が盛んだった60年代に、竹田地区の隣保館へ合唱団を連れ出かけました。そこで知り合ったのが地域の「はだしの子グループ」という一団で、尾上和彦は彼らと一緒に地域の歌をつくろうということになりました。
彼はこの交流のなかから、竹田に伝わる古い歌をよく知っている女性と知り合いになります。彼女は「はだしの子グループ」のメンバーのお母さんでした。
彼女はたくさんの歌を尾上和彦に教え、そのなかのひとつが、『竹田の子守唄』だったのです。
尾上和彦はすぐにテープを家に持ち帰って、一晩で楽譜に移し変えました。
当時の尾上和彦は、『橋のない川』という東京芸術座の舞台の音楽の依頼を受けており、すぐに『竹田の子守唄』を舞台に上げます。舞台のための音楽なので、メロディだけ。これが、この歌が村を出た第一歩です。
そしてその後、尾上和彦は、件のお母さんにもうたごえ運動のサークルに入ってもらい、歌ってもらいました。
これを聴いたフォーク・シンガーの大塚孝彦が高田恭子と一緒に歌いはじめます。さらに、この2人の歌を聴いた赤い鳥のメンバーが、素晴らしい歌だからと、自分たちのレパートリーにも加えました。
そして、赤い鳥の『竹田の子守唄』が入ったシングル盤は1969年に出て、大ヒットになったわけです。

『竹田の子守唄』は、ヒットするにつれて、歌のルーツがそれなりに知られるようにもなっていきました。
たとえば、在所、という言葉が出てきます。在所とは、京都地方では被差別部落を指します。
『竹田の子守唄』は、『復興節』や『ヨイトマケの唄』とおなじように、歌の出身が京都の被差別部落の歌らしいぞというところから、テレビ・ラジオでは流さないほうがいいみたいだと、そういうような風潮になっていきました。人間を貶めるような歌ならいざ知らず、『竹田の子守唄』は、差別を告発する歌でもあるのにもかかわらず。

ところで、『竹田の子守唄』には、もうひとつあります。
いわゆる原曲のひとつなのですが、これは、かつて件のお母さんが尾上和彦のために披露した歌とは、違うものです。
明治から大正、昭和の初めにかけて、守り子に出された少女は、竹田にかぎらずたくさんいました。彼女たちは、それぞれが『〜の子守唄』の作者だったわけです。
そんな、生き証人のひとりの肉声を録音したものが、存在していたのですね。
その曲は、赤い鳥の『竹田の子守唄』とはずいぶん違います。
歌詞は、こんなのです。

 こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
 泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りは一日 やせるやら
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 来いや来いやと 小間物売りに
 来たら見もする 買いもする
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか
 寺の坊んさん 根性が悪い
 守り子いなして 門しめる
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 久世の大根飯 吉祥の菜飯
 またも竹田のもん葉飯
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 盆がきたぁかて 正月がきぃたて
 なんぎな親もちゃ うれしない
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

特に、赤い鳥の歌には出てこない「どうしたいこーりゃ、きーこえたーか」というフレーズは、なかなか説得力溢れる文句です。彼女たちは赤ん坊を背負ってますから、このくだりは、赤子の顔でも見ながら、私のメッセージが聞こえたか?というようにも受け取れるし、あるいは、当て歌というのか、守り子をさせる主に向かって、ツラ憎い!私をこんなふうにこの寒空で!と、訴えているようにも聞こえます。

これが竹田に伝わる元歌です。
かつての守り子唄なり、その周辺の歌というのはずいぶんリアリティのある歌が多いです。そして、悲しいことも、楽しいことも、怒っていることも、即興的にどんどん歌のなかへ盛り込んでいきました。
現在のような、歌といえばCDとかテレビの音楽番組、あるいはカラオケのように、メディアが発信している情報を享受するのが大半という生活と、かつての生活の現場とは、おなじ歌といっても、まるで違うのです。
「寺の坊んさん、根性が悪い、守り子いなして、門しめる〜♪」という文句が出てきますが、これもリアリティのある内容です。
この歌の主であるオバァは、
「子ども、背中で泣くやろ、泣いたらやっぱしぬくいとこへ連れていて、ほんでお寺のとこへ連れていて、手をこうやってゆすくって寝やそ思てお寺のかどへ遊びに行くね。そしたら、お寺のぼんさんが怒ってお寺の門閉めてしまうね。それを歌にしたんや」
と。
机の上で想像で書いた歌ではなくて、本当に現実として自らが体験したものを少女が歌にしているわけですね。若くちっちゃい女の子がこれをつくっているんです。こんな歌をつくり、歌ったのが、明治、大正の若い小さな子どもたちだったということです。

そういうふうにイメージを膨らませてみると、『竹田の子守唄』は、一見、寂しい歌のようでいて、ずいぶん違う景色が見えてきます。
たしかに、赤い鳥の『竹田の子守唄』にしても、風景は寒々としています。でもそれを歌うという行為は、凍えてしまいたい、死にたいと訴えることと、おなじではないですね。
寒空に向かって声を出すことで、身体にエネルギーを復活させる、あるいは、笑ってしまうやん!みたいな皮肉めいた力、密かに、バカヤロウ!と叫ぶエネルギー、そういうようなものも裏に秘めているからこそ、歌となります。
オレは自殺したい!といった曲を歌うロック・バンドがたまにいます。これを言葉どおりに捉えることはナンセンスなんです。歌を歌うという行為は、オレは生きたい!という感情の発露でしかないですから。
こんな状況を打ち破ってオレは生きたい、私は生を求めている、という心の叫びが、歌の原点ですから。

この、これまでに知られてきた『竹田の子守唄』とは違うヴァージョンを、今、ソウルフラワー・モノノケ・サミットがレコーディングしています。春か夏には、CDストアに並ぶらしいです。




赤い鳥 / 『竹田の子守唄』

2006年2月24日金曜日

久しぶりに市場に行く

今朝方、給料の振込も終わって、2月の繁忙もいち段落。あとは、月末の支払いに向けて、ゼニの段取りするだけですよ。これはこれで、えらいこっちゃ!なんですけどね…。

でも、今晩は、久しぶりに自炊する時間もあります。
なので、久しぶりに市場をウロウロ。はい、天満市場です。

馴染みの漬け物屋さんで、白菜の漬け物を買ってきました。
何年かまえに、
1)白菜の漬け物を刻む
2)ショウガをおろして混ぜる。
3)ジャコを和える。
4)レモン汁をぶっかける。
5)醤油を一滴垂らす。
という、ものすごく簡単で、しかも激ウマの食べかたを教わり、未だにそのやりかた一筋ですわ、オレ。
それ以外にも、キャベツ、長芋、胡瓜、茄子、西瓜、瓜、蕪…、なんでも美味いのはあたりまえで、自分とこで浸けてますからね。
最近、並んでいる商品のひとつかふたつに「自家製!」の札を掲げてる漬け物屋がありますが、あんなん、漬け物屋やありまへん。自家製!を売り文句にせなあかん漬け物屋て、どんなんですか。他の商品は自分とこで漬けてません、って、白状してるみたいなもんです。

良京。ラッキョウのところに、こんな札が掲げてありました。
ラッキョウは、たしか、辣韮、って書いたはず。
源義経はんがどーたらっちゅーのは聞いたことあるけど、うちも知らんわ〜、
って、店のオバァは言ってました。
良京とは、おそらく当て字なんでしょうが、字面がいいですね。
ま、ラッキョウは、沖縄の島ラッキョウ(エシャロットに近いです)以外は食べないので、オレにはあんまり関係ないことではあるんですが。

その足で、最近のイチオシの豆腐屋のオバァのところへ。
いつもは、湯豆腐やら冷や奴やら味噌汁の具やらに絹ごしを買うんですが、今日は、こんだけ美味いんやったら豆腐ステーキにしても美味いやろ!と思い立って、豆腐ステーキを。となると、木綿ですかね。この店の木綿は、初めて。
ところが、オバァ、
絹ごしでじゅーぶんやで。フライパンにさーっと油ひいてな、塩コショウだけで食べたら美味しいから、絹にしとき!
へっ? 絹? 塩コショウだけ? 照り焼き風とか、焼肉のタレとかじゃなくていいの?
そんなん安い豆腐でするときだけや。ウチのは、塩コショウだけで、じゅーぶん美味しいで。
わ、わかりました。やってみます!
こんなかんじですわ。そんなわけで、も少ししたら、豆腐ステーキに挑戦してみます。

あとは、コリアンのオバァがやってる、キムチ屋へ。スルメのキムチと、棒ダラのキムチを買いました。買うまえにちょっとつまみ食いしてみたけど、バカ美味っ!
酒が進みます〜。って、酒は飲まんのですが、酒のアテは、たいがいはご飯のお供にもなるんで。

今日は、サーキット場を狂ったように駆け抜けるような忙しさから束の間だけ解放されて、久しぶりに地に足のついた時間を過ごしてます。

ので、本日は、つじあやのちゃんをBGMにしとります。
春風みたいな、心地いい歌声です。



つじあやの / 『Fly High』

2006年2月22日水曜日

伝説の芸人 舞天





仕事関係の人から、貴重な貴重なDVDをもらいましたよ。

沖縄の伝説の芸人、舞天(ブーテン)についてまとめたDVD。

皆さん、ご存知ないですかね、舞天さんのことは?

戦前から戦後にかけて、沖縄に現れた天才芸人です。昨年亡くなった照屋林助、現存する最高の三線弾きの登川誠仁ら天才中の天才に、決定的な影響を与えた、もう、大天才中の大天才芸人です。

戦後の沖縄を救った人と言われています。

太平洋戦争が終結に向かっていたころ、沖縄は、日本からは見捨てられた土地でしたね。
1945年4月、米軍艦隊1300隻が沖縄沖に集結し、上陸戦を展開しました。日本軍部の方針は、米軍にあえて沖縄を攻めさせて軍を消耗させ、本土決戦を少しでも引き延ばす、というものでした。沖縄は、最初から捨て石だったわけです。だから、日本兵は、ほとんど反撃してません。
負けることが折り込み済の戦争は、住民を巻き込んでの生き地獄となっていきました。そのあたりのことは『ひめゆりの塔』などに詳しく書かれていますね。

上陸した米軍は、沖縄を南北に縦断し、住民をことごとく捕虜とし、ちょうど沖縄本島の真ん中に位置する石川に収容所をつくり、捕虜となり難民となった沖縄住民を、収容します。
それまでは小さな村だった石川は、いきなり人口3万人の大きな町のようになったのですが、住民全員が捕虜であり、難民。

ひとつの屋敷に4、5家族。沖縄の家族は大抵が大家族ですから、その人数約100人が、押し込められたとか。

当時の様子を描写した民謡に、
「あなたもわたしも艦砲射撃の食べ残し〜♪」
なんてのが、嘉手苅林昌(彼もまた沖縄民謡界の大天才でした。沖縄の民謡界は天才の宝庫ですから)によって歌われています。

捕虜・難民となった住民は、昼、米軍が建設する日本本土爆撃用の飛行場の建設にかり出され、夜になると、亡くした親族を思い涙に暮れる日々です。
そんな収容所の町に、あるときから、不思議な噂が飛び交いはじめます。
夜になると、おかしな芸人が現れる、と。

その芸人は、夜、勝手に他人の家に上がり込んで、いきなり奇天烈な歌や踊りを披露しては、家中を爆笑の渦に巻き込み、やがて風のように去っていく…。

「お祝いをしましょう!」
そう言って、舞天は、お通夜のように静まりかえった家に勝手に入り込んでいくのです。
たくさんの人が死んで、みんな家族を亡くしたのに、なにがお祝いだ!もちろん、そう返されます。あたりまえです。そこで、舞天は言います。
「これから先、ずっと死んでいった人たちの年を数えて生きていくのか? たしかに、たくさんの人が死んだ。しかし、同時に、たくさんの人が生き残った。これからは、生き残った人たちが元気を出して楽しまないと、死んだ人たちが救われない」
と。
そして、
「ヌチヌ・グスージサビラ!(命の御祝いをしましょう!)」
と叫ぶのです。
そこからは、舞天の独壇場です。おかしな歌や漫談を披露し、みんな表情を緩めていき、最後は、爆笑の渦です。

その当時の舞天がつくり、歌った歌を、登川誠仁が再現しています。
みわたすかぎりの便所街〜、ドラム缶の近代便所〜♪
エッサエッサと、ドラム缶から汲み出す特攻隊〜♪
あとは靖国参るじゃないかいな〜♪

当時の収容所のトイレはドラム缶で、それがいっぱいになると、地中に埋めたんだそうです。すると、井戸水が臭くなって飲めなくなった、と。

舞天とは、そんなことを歌い、笑いをとり、一瞬にしてみんなを幸せにしてしまう芸人さんだったのです。

本名、小那覇全孝。
沖縄の今帰仁村に生まれ、師範学校を首席で卒業します。
その後、教員になるものの、歯科医を目指して上京。現在の東京歯科医大に入学します。
当時、東京では浅草を中心に大正ロマンの花が開き、無声映画や田谷力三の浅草オペラが全盛を極めた時代です。
この文化に触れたことで、全孝の才能は一気に開花します。
大学の文化祭で演じた『レ・ミゼラブル』での乞食役が受けに受け、彼は、舞台が病みつきになったのでした。
25歳、沖縄に帰郷した全孝は、嘉手納で歯科医院を開業すると、瞬く間に有名人となっていきます。ただし、それは、単なる歯科医としてではなく、なにをやらせてもプロ顔負けの芸達者な歯医者さんとして。
当時、消防団といえば、本職の劇団員並みに芝居が上手い人が揃っていたのですが、その人たちよりも全孝のほうがはるかに芸が上手い。しまいには、那覇のホンモノの役者が、先生!といって訪ねてくるくらいの有名人になっていました。
このあたりから、全孝は、舞天を名乗り、芸人としての活動を活発にしていきます。

しかし、そんな舞天の人生を狂わせたのは、戦争でした。

1941年、真珠湾攻撃、太平洋戦争突入。
すでに舞天が団長を務めていた消防団は警防団と名を変え、舞天は、バケツリレーや竹槍訓練を指導する立場に立たされていました。
そんななかでも、彼は舞台に立ちます。
そして、大胆にも、戦争を皮肉るネタを披露するのですね。しかも、当時は禁止されれていた沖縄方言を、あえて使って。

たとえば、「世界漫遊」というネタがあります。
「その国の一番大将は変わった名前〜。ヒットラーと言うんだよ。なんでそんな名なのかと聞くと、あの国をひっ盗る、この国もひっ盗るから、ヒットラーと名付けたんだよ〜。とても変なやつだった〜。乱暴者に違いない〜♪」

「三毛猫の歌」は、こんなのです。
私は近ごろ近所で評判のかわいい三毛猫よ〜♪
表からみんなが私を覗いてるの〜♪
この、三毛猫というのは、沖縄の若い女性を隠喩したもので、みんなとは、日本兵のことです。恋人が戦場に行ってしまった沖縄娘を誘惑する日本兵のことが歌われているわけです。

面白い歌詞に乗せて、相手を批判することで、自分たちのアイデンティティを守ろうとしていたんですね。

やがて、米軍の沖縄上陸。名護に避難した舞天も捕虜となり、1945年5月末には石川の収容所に連行されてきます。
そのころ、米軍は、占領地沖縄の組織化を進めていました。
臨時政府を打ち立て、石川は突如として沖縄の首都となり、戦後初の沖縄の行政機関である沖縄諮詢会が組織されます。
米軍は、沖縄を上手く統治するには芸能が欠かせない要素だと分析し、収容所でも評判になっていた舞天を、文芸部芸術課長に任命します。
収容所内に舞台をつくり、生き残った芸人を組織し、舞天は、沖縄芸能界のリーダーとして、ステージを取り仕切っていくのです。
そのころです、舞天が、夜の見まわりと称して、悲しみに暮れる家をまわっては、押しかけ、「命の御祝いをしよう!」と、家中を爆笑の渦にしてしまっていたのは。

後に、登川誠仁は、こう語っています。
下から上を笑え、と。一般の庶民が権力者を笑う、弱い者が強い者を笑う、戦争に負けたものが戦争に勝ったものを笑う、舞天さんの芸は、そんな芸だった。なにからなにまで影響を受けた。
と。

ワダブーショーを確立させ、笑いと音楽をミックスさせた巨人・照屋林助は、舞天の直接の弟子でもありました。彼は、舞天について、こう語っています。
とにかく人を分け隔てしなかった。そして、あらゆることを八方丸く収めることの天才だった。芸の達者さもさることながら、その資質があったからこそ、舞天師匠は、悲しみに暮れる家に入り込んでいっても、最後は爆笑の渦を巻き起こすことが出来た。あらゆる意味で、天才です。
と。

昨年亡くなった照屋林助といえば、沖縄民謡界では、笑いと歌の神さまです。
林助の息子林賢は、りんけんバンドで沖縄民謡をコンテンポラリーなものにしようとしています。
御年76歳の登川誠仁は、「ナビィの恋」にも出演し、今なお、芸の幅を広げようとしています。
竹中労に風狂唄者と絶賛された嘉手苅林晶の独立独歩の姿勢は、明らかに、舞天の影響を受けています。

沖縄芸能界の巨人、至宝、天才と呼ばれる人たちのすべてが、舞天を手本に育っています。
今まで、話に聞くしかなかった舞天の映像と歌を、やっと観ること聴くことが出来ました。
ゲラゲラ笑い転げること必至! しかも、その根底に流れているものは、反骨です。とてもとてもパンクなスピリッツなのです。

歌は世につれ世は歌につれ、と、いいます。
この言葉の半分は正しくて、半分は間違っています。
歌が世に連れることはあっても、世が歌に連れたことは、ただの一度もありません。
でもね、音楽は、人個人を、幸福にすることが出来ます。
そして、ユーモアは、人が生き延びるために必要なものです。
小那覇舞天は、その両方を、天賦の才でもって表現した人です

その姿を観て聴いている今日は、至福です。

2006年2月21日火曜日

サーロインステーキの衝撃





日本一長い大阪の天神橋筋商店街には、いろんな店があります。
安いギャル服の店から、珍しいところでは、猟銃売ってる銃砲店まで。食ベモン屋も充実してます。高いのから安いところまで…、いや、高いところはあんまりないな。安くて美味い店が多いんです。

で、今日、月に2、3回お昼を食べる中華料理屋の前を通ったら、かなりの衝撃を受けました。思わず、写真撮っちゃいましたよ。それが、左の写真。いや、いくら安い店が多いといっても、これはすごすぎるでしょ!
ちなみに、このお店については、数百メートル離れたところにある姉妹店(どっちが本店でどっちが支店か知りません…)があります。

それにしても、サーロインステーキ150gが500円、しかも500枚かぎりって…。
150gで500円というのも衝撃ですが、それを500枚用意しているのも衝撃で、さらにそれを1日で売り切ってしまう根性も衝撃です。
もう、なにからなにまで衝撃!

さすがに昼飯をべつで食べた直後だったので、店には入りませんでしたが。マジで、食べてみたいですっ!!

2006年2月18日土曜日

フォーク喫茶にいく





東大阪に『夢楽館』というフォーク喫茶なるものがあります。
ま、むかしはフォーク喫茶もたくさんあったんでしょうが、今は、まずないですね。
で、『夢楽館』は、名前だけ知ってて、行ったことはなかったんですが、こなだい東大阪に仕事で出かける用事があったので、そのついでに初めて足を踏み入れてきました。

フォークのライブ、やってるんです。
チャージは、コーヒーが付いて500円。
ステージで歌ってるのは、プロなんかアマなんかはわからないけれども、とりあえずは何十年もフォークを歌い続けてる年季の入ったオッサンばっかりです。
オリジナルを歌う人もいれば、岡林信康とかをコピーしてる人もいてます。

とりあえず、暗いんですけどね(笑)
でも、政治色はないし、四畳半的でもないし、牧歌的で、笑いもあって、ほんわかしてて、オレは嫌いじゃないです。

カンパ300円とか、中途半端にカネをせびるところが、はっきりいって意図がよくわからないし、方法論としてすごく古いし、学ぶところなんかひとっつもないとも思うんですが、でもね、なんかなごむんです。

たぶん、自分が甘えたいんでしょうけどね。
でも、そういう場所があってもいいとも思います。

ただ、ひとつだけ無条件に、いい!と思えることがありました。

アメリカやアイルランドあたりであたりまえのように存在しているウイークエンド・シンガーの存在が、ここでは認められていること。
普段は医者やってるオッサンが、週末だけはここにやって来て、ギターを爪弾きながら歌う、そういうスタイルです。
そこには革新的な表現なんてどこにもないし、あくまで趣味の範囲なんですが、普通に音楽を演奏することを楽しむことが、認められている、ということです。
その延長で、週末にふらっとやって来て、聴いてくれる人がいるところで演奏する歓びが、普通に認められている、ということ。
音楽が、庭に花を植えて育てるのとおなじ感覚で、生活に根付いているんですね。
そういう意味で、こういう店があるのはいいことだな、と、オレは思ったですよ。

「知る」ことは、「好き」に負けるんです。
「好き」は、「楽しむ」に負けるんです。

ここの人たちは、楽しんでました。
それだけでも、価値はありますわ。


本日は、そんなわけで、久しぶりにフォークを聴いてます。
オレの場合、フォークといえば、友部正人がダントツ。
ダントツで、言葉の使いかたが上手いです。歌に艶もあります。




友部正人 / 『振り返ると、東京』

2006年2月17日金曜日

お気に入りの豆腐屋さん

は〜、疲れた…。
この1週間、新しい雑誌を出す話があって、それの企画書&ラフ案づくりに追われておりました。全128ページ分のラフをデザインしましたよ。1週間で。通常の業務に加えてこの仕事なので、まったく寝る間なし。
…ったく、鬼のような仕事でした。

で、今から確定申告の書類作成して、来週は税務署とケンカですわ〜。
法人2社分と個人と合計3つの確定申告をしないとダメなので、これまた気が重い話ではあるのですが…。

なので、
当然のごとく、オリンピックは観てない。
今んとこ、観たのは女子モーグルだけ。
あとのオリンピックは…、全部、新聞のなかの出来事ですよ、オレにとっては。

そんななか、最近の唯一の楽しみは、
豆腐。
そう、豆腐なのです。
じつは、市場に、むかしながらの製法で豆腐をつくっているお店を見つけて、毎日のようにそこで豆腐を買っては食べているのですよ。

おばあんちゃんが1人でやってるんです。もう、50年くらいやってるんですけどね。

今までは、豆腐、業務スーパーで1丁30円弱のを買って、安い!安い!と言って喜んでいたのですよ。

おばちゃんのところは1丁100円。厚アゲは四角いのが70円。三角のが100円。薄アゲが60円。
これがね、ビックリするくらいに美味いんですわ。

充填豆腐は好きで食べてたんですけど、あんなんと比較にならないくらいに、濃厚で、ズシッとしてますから。しかも、大豆の甘みがちゃんとある。
ビックリするのは、冷や奴を食べるのに、豆腐を皿に移すでしょ。でもね、水がほとんど出ないんですよ。安い豆腐だと、皿に水がたまるじゃないですか。あれが、ほとんどない。
つまり、水で薄めた豆腐じゃないってことです。
だから、濃厚で、ねっとりとしていて、甘い。
もう、今はこればっかりですよ。鍋に入れても美味いし、冷や奴にしてもみそ汁に入れても美味いです。

さらに、アゲがすごいことになってるんです。パリっとしててね、このアゲを見てると、おアゲさんというのは文字通り豆腐を揚げてつくってるのだな、ということがよーくわかります。

おからもね、本当はほしいんです。真っ白なおからでね、1番絞りは大豆の皮が混じってるからダメで、美味いおからは2番絞りでないとダメらしいですわ。

というような話をね、仕事の合間の息抜きに買い物に出かけて、おばあちゃんと話してるんです。

おアゲさんの美味しい炊き方とか、そんなことばっかり教えてもらってます。。
今度、豆腐ステーキでもつくってみようかと。

夜中2時半から毎日仕込みして、早朝から業者が引く手数多のお豆腐屋さん。
でないとね、オレみたいなのが100円200円で毎日買ったところで、やっていけませんよね。

仕事の合間に、オバァから教わる話…。今んところ、これが至福の時間です〜。

というわけで、今日は、町田町蔵を聴きながら…。
豆腐とオバァと至福…、わかる人にはわかると思います。


町田町蔵 / 『メシ食うな』

2006年2月11日土曜日

金言 大阪のジジィの処世訓





仕事が忙しいっ!
そのうえに、彼女の財布がパクられた騒ぎなどもあり、てんやわんやですわ〜。

今朝は、いつもの喫茶店でモーニングを食べていたら、店内ですでに、ヤバいことに!
ここまで早いのは滅多にないのですが、店を出てからヤバい状態になるいつものタイミングに比べたら、はるかにまし。
で、店のトイレに行ったんですよ。和式なんで、かなり嫌いなんですが、そんなことを言うてる場合やないのです!!
が、しかーし、紙がない! 紙が、すべてなくなっていて、芯だけになってるやないですか!!
ズボンをおろすまえに確かめておいてよかった。
事前の確認を怠っては行けませんな、やっぱ。
で、店で用を足すことを断念したオレは、近くのキッズプラザに向かったのでした。
ま、辿り着くまで、リアルに戦争でしたが、それはよろし…。
そんな話ばっかりでも、なんなんで。


えーっと、その後、とある会社の社長さんと会っていて、なかなか含蓄のある金言、教わりました。
読み人知らず、なんですけどね。
案外、有名人の金言よりも、無名の人のそれのほうが、示唆に富んでいるように思うことがあります。これは、その好例。
しかも、大阪老人歌。…大阪人+老人、それだけで、もう、ヤバいっしょ。

では行きます!

1)
年をとったら出しゃばらず
人の陰口愚痴言わず、他人のことは褒めなはれ
聞かれりゃ教えもしまっけど
知ってることでも知らんふり
いつでもアホでいるこっちゃ

2)
勝ったらアカン負けなはれ
いずれはお世話になる身なら
若いもんには花もたせ一歩下がって感謝して
どんなときでも、へぇおおきに
それが長寿のコツでっせ

3)
自慢話はしなはんな
わしらの時代はもう過ぎた
いくら頑張り力んでも身体がいうことききまへん
あんたは偉い わしゃアカン
そんな気持ちでおりなはれ

4)
お金の欲は捨てなはれ
なんぼゼニカネあったかて
死んだら持っていけまへん
ええ人やったと言われるよう生きてるうちにばらまいて
山ほど徳を積みなはれ

5)
というのは表向き
死ぬまでゼニは離さずに
陰でケチやと言われても
ド甲斐性あるなら儲けてみ
ベンチャラ言うてもやるもんか
内緒やけれど ほんまだっせ

いや〜、さすが大阪。ちゃんと最後にオチがあります。
4と5が矛盾してる?
人間は、そんな単純なもんやありまへん。矛盾を抱えたまま、タフに生きる生きものですて。

この金言を教えてもらっていたら、なぜか憂歌団を思い出しましたよ。


憂歌団 / 『Chicago Bound』

2006年2月8日水曜日

鍋会

atricotさんのアトリエ、初お邪魔しましたですよ。
で、atricotさんの仕事上のパートナーであるY氏、れーころさんとオレの4人で鍋パーティをしてしまいました。

最初は水曜を設定していたのですが、水曜は、我が家の真下の冷蔵庫、もとい、天満市場が休みのため、月曜に変更。

大量キムチ、豆板醤、アンコウ (巨大あん肝付き!) 、タラバガニ、カキ、チャーミー豚、豆腐&アゲ、トック、野菜…、ほいほい買ったわりには、かなり安くあがりました。さすが、市場!!

そう、海鮮キムチ鍋です。

なんかしらんが、オレがプロデュースをするハメになってしまって…。

やりましたよ、ええ。

・まず鍋にキムチと豚を放り込んでゴマ油で炒めて香りを出す。
・そいでから水を張って、本ダシ入れて (他人の家でカツオ・昆布でダシはとれません!) 、タラバガニやらアンコウやらを白菜やらネギやらキノコ類と一緒に放り込む。あ、豆腐も。
・そいでから、あんまり辛くてもダメなので、マイルドにするために味噌を溶く。
・煮立ったら、カキと春菊、アゲ、トックを放り込んで、出来次第食す。
・辛みがもっと欲しい人は、豆板醤を自分の取り皿に少量入れて溶く。

・あん肝は、キムチ鍋になんかに入れたらもったいないから、べつでボイルして、ポン酢で食べる。もみじおろしと奴ネギがあればよかったんだけど、ま、なかったので、ポン酢だけで。

そんなもんです。
プロデュースといっても、簡単。

あ、リクエストのあった有頭エビを忘れて、れーころに怒られましたけど。。
だいたい、あなた辛いものがダメなんだから、キムチ鍋会に参加してどーする?
で、体調はどうかね? 少しはマシになったのか?

2006年2月7日火曜日

バナナホール閉鎖の危機!





以下、読売新聞からの抜粋です。

---------------------------------------------------------
今年末で二十五周年を迎える大阪・梅田のライブハウス「バナナホール」が、親会社の経営不振を機に閉店のピンチに直面していることが四日、分かった。上田正樹さんやBEGINなど数多くのミュージシャンの人気の火付け役となってきた名門ハウスだけに、ファンからは存続を求める声も高まりそうだ。
バナナホールは昭和五十六年、当時ほとんどなかった「大阪から新しい音楽を発信できる場所」を目指してオープン。プロ、アマを問わず利用され、現在は年間約六万人が訪れている。
同店によると、平成十六年十二月、親会社の貸しビル会社が多額の不良債権を抱えて、同店を外資系投資ファンドに売却。一時は競売に掛けられることになった。
このため、同店の高木健至社長(56)が知人が経営する情報技術(IT)企業に昨年九月、店を購入してもらい、家賃を支払って経営を続けてきたという。
しかし、IT企業側が老朽化した店を建て替え別のライブハウスをつくる姿勢を見せたため、高木社長は店の買い戻し資金の融資を銀行に依頼。今月中にも結果が出る見込みだが、融資を受けられたとしても、新店舗の準備を始めているIT企業との交渉は決裂する可能性が高いという。
高木社長は「存続の可能性は三割程度。一人の客としての視点で楽しんできた。何とか存続に向けて頑張りたい」と話している。
---------------------------------------------------------


HPに漢数字や全角英数字を使ってるところが、新聞屋のしょーもないプライドなんでしょうが、読みにくくて仕方ありません!
とまあ、そんなことはさておき、バナナホールが閉店の危機!?

これは困ったことになりましたな…。

バナナホールといえば、オレんちからは歩いても行けるし、オープン年から行ってるし、一番通ったライブハウスなのですよ。大阪に、あの手のライブハウスは、もう、ほんとに少なくなりましたから、貴重なんですよ。有名無名、新人ベテラン、ジャンル関係なしに、いろんな人があそこでライブやるしね。

でも、ヤバくなってる原因が、要するに、経営不振。
バナナホールのサイトのBBSでも、存続を訴えて募金しよう!なにかしよう!って書き込みが多数あります。それ、わかります。

わかりますけど、経営不振で閉鎖、というのは、ようするに、みんな足を運んでないってことじゃないですか。
会社や店が潰れるのにはいろんな理由がありますが、それが経営不振、業績不振によるものならば、それは、社会から、おまえんところは要らない!ってハンコ押されたようなもんですよ。

そりゃね、オレだって悲しいですよ。寂しくなりますよ。人一倍。思い入れもあるし。
でもね、みんなが足を運んで、店が賑わって、儲けも出てウハウハだったら、こんな話は出ないんだから。そのことは、ちゃんと受けとめないと。

そのうえでね、どーにか存続させる方法はないものかと。
募金なんか募ったって、どうにかなる話じゃない。ちゃんと、安定的に儲かるシステムを、もっかいつくりなおさないと。
オレも、雑誌屋として、これからなにか考えてみるつもりです。
チャージ代とかドリンク代とか、バンドのギャランティに店の運営コスト…、見直してみる価値のあるところは、なんぼでもありますから。


むかし、音楽雑誌のロッキンオンの編集メンバーに、松村雄策という人がいました。創立メンバーですけどね。彼は、ボーカル&ギターとしてバンドをやってたんです。レコードも出てて、プロとして活動してたんです。でも、やっぱ、それほど売れなくて、解散したんですよ、彼のバンドは。
解散ライブは、ビックリするくらいの人が集まったそうです。
で、松村氏は、ステージ上から、「おまえらがいつもライブに来てくれて、レコードを買ってくれたら、オレたちは解散することはなかったんだよ」
と、言い放ったとか。
ロッキンオン界隈では、伝説になってる名セリフです。

そういうことですよ。


今回は、バナナホール存続を祈って…、
オレが最初にバナナホールでライブを観たバンド、RCなんぞを。


RCサクセション / 『雨上がりの夜空に』

2006年2月6日月曜日

初めてマイミクさんと会いました

昨日は、生まれて初めてマイミクさんとリアルで会いましたですよ。

ゆらりさん。
と、
その奥さんのみっちゃん。
それと、
ゆらりさんのお知り合いで、mixiもされてる、
珍♀さん。

それに、オレと
おなじみ、atricotさん。

総勢5人のプチ・オフ会となってしまいました。

これ、全員が、フィッシュマンズで繋がってるんです。それと、ジプシー音楽。

大体ね、オレくらいの年になると、現役で音楽と接してる人間自体が少ないし、mixiやってる人間なんてもっと少ないですから、これは貴重な貴重な人脈なのですよ。フィッシュマンズが好きで、さらにジプシー音楽が好き、なんていう人は、まあ、滅多にいないですから。

だから、mixiで、最初に、ゆらりさんを発見したときの驚きといったら、もう!
それ以来、好きな音楽、かぶりまくり!
最近は、ちょっとヤバいくらいにかぶってましたから。

ブラジルのカエターノ、アイリッシュのチーフタンズにヴァン・モリソン、そしてみっちゃんはシオン…、普通にぽんぽん出てくる名前じゃないので、このあたりのアーティストを知ってるってだけで、オレは友だちになれちゃいます。

で、お互いに、会いたいね♪会いたいね♪と言い続けてですね、昨日、ようやく邂逅。
ゆらりさんは、それまでにも2週連続でatricotさんの働くカフェに来られていて、atricotさんとゆらりさんは、すでにマブダチ☆ (古っ!) 、みっちゃんもみんなとすでにマブダチ☆ (やっぱ、古っ!)
オレだけが、ハミゴにされ続けてきたのです…。
イヤ、本当は、オレの仕事の都合がつかなくて、先週も先々週も、涙を飲んで断念、だったんですけどね。ほら、PCがぶっ壊れたりもしたから。

mixiにかぎらず、ネット上で知り合った人と会うのは生まれて初めてだったんですが、なぜか、会うまえも会ってからも、いーっこも緊張しなかった。合コンだって、やっことないオレですから。でも、緊張、ゼロ。だって、これまでに、いろんな会話を交わしてますから。

で、ゆらりさんは、やっぱりゆらりさんでしたよ。
名は体を表しますねえ。ゆらりとした音楽が好きそうな顔をしてらっしゃるし、ゆらりとしたヴァイブを出してらっしゃる。この感覚、わかるかなぁ…。

おもしろいのは、みっちゃんですよ。この方も、やっぱり、出してるヴァイブが、ゆらり〜、なのです。もうね、ゆらりさんの♀版! こんだけ似たモノ同士のカップルって、なかなか見たことないですよ。すっごい、素敵。誰が見ても、ひっついてよかったね、ってかんじですから。つか、兄妹? (笑)

珍♀さんは、マイミクじゃないし、完全にお初の方だったんですが、これがまた、ゆらりさんとおなじようなヴァイブを出してらっしゃる方で。もう、オレは、この一派を、チームゆらりと名付けましたから。

オレはコーヒーをがぶ飲みし、ゆらりさんはひたすらビールをぐいぐい、みっちゃんと珍♀さんは、スウィーツ系…、そんなかんじで、それぞれ好きな音楽を持ち出してみたり、これまでのリスニング・キャリアを披露しあったり、最近の音楽の話で盛り上がり、映画の話で盛り上がり、mixiの話で盛り上がり (鼻血コミュって!) 、お互いの商売の話で盛り上がり、意外なところで意外な人たちが繋がってて、「京都はやっぱり狭い!」ってな話で盛り上がり、夜は更けていくのでした。

もうね、
この年になると、仕事抜きで、利害関係抜きで、知りあいだの友だちだのって、出来ることが少ないです。滅多にないです。
だからね、
mixiやっててよかった、って思いますよ。

そんなことを感じながら、
オレは雪の夜、またしても仕事に向かうのでした。

ゆらりさん、『EXILES』のCD、ありがとうございました!
こっちは今度、アイリッシュのsharon shannonのアルバムを持っていきますから!


えーっと、えーっと、今日は仕事しながら、原点に戻ってフィッシュマンズなんぞを聴いております!



フィッシュマンズ / 『ゆらめき in the air』

2006年2月5日日曜日

『愛よりも強い旅』





やーっと、トニー・ガトリフの新作『愛より強い旅』を観てきました。
もう、公開も4日まで。ぎりぎり、滑り込みセーフです。しかも、朝10時からのみ。これ逃したら、アウトですから。

各地のレビューで絶賛されていたし、カンヌでも最優秀監督賞をかっさらった映画ですから、観るまえから傑作だということは、わかりきっていました。なによりも、ガトリフの映画なのですから。

これは、アルジェリア出身でロマ/ジプシーの血を引くガトリフ監督の、自伝的要素を含んだ作品です。ストーリーは単純。
アルジェリア移民の子でパリでの生活に違和感を感じ続けていたザノは、アラブ風の名前を持つが出自を隠している恋人のナイマを連れて、未知の故郷であるアルジェリアへと、自らのルーツを探す旅に出ます。
パリにはじまり、スペインのアンダルシア、モロッコ、アルジェリアを、音楽を携えて放浪する2人の、ロードムービーです。音楽とロードムービーとガトリフ、もう、オレのためにつくられた映画だとしか思えんくらいで。。

自らのルーツに深い関心を持つザノと、自らの出自を忌み、そのことに蓋をしてきたナイマの2人は、旅のなかで、放埒な性を謳歌する一方、心をすれ違わせていきます。

2人がアルジェリアへ向かう際にとったルートは、スペイン・アンダルシア地方を通って、ジブラルタルの海をわたり、北アフリカへ入る方法。
途中、ロマたちやアルジェリアからの不法労働者たちに出会い、歩き、野宿し、無賃乗車を繰り返す旅をするなかで、2人は今まで知らなかったお互いのことを知るようになります。
ザノは、革命の後のアルジェリアから引き上げてきた両親のもとに生まれるが、のちに交通事故で両親をなくしている。それ以来、アルジェリアへ行くことも、自ら音楽を奏でることもどこかで避けていたことなど。
ナイマは、アルジェリア移民の両親を持つが、自らはアルジェリアにいたことはなく、自らが何者であるかという問いに蓋をし、精神的な根無し草になっているということなど。

全編を支配しているのは、まさに、音楽でした。

2人はそれぞれにソニー製のMDウォークマンを持ち、ドラムンベースやブレイクビーツを聴きながら旅を続けます。しかし、音楽は共有されていません。共有されていないところに、2人の、自らのルーツへの向き合い方が違うということが、すでに暗示されています。

辿り着いたアンダルシア、セビリアで、2人はフラメンコと出会います。フラメンコは、アンダルシアを通り過ぎていったアラブ、スーフィー、ユダヤ、スペインの文化が、その血に住み着いた貧しいジプシーたちの元で発酵した音楽ですが、このフラメンコで、一見、2人は音楽を共有したかに見えます。が、心がすれ違ってしまうのです。

モロッコでは、夜露をしのぐバラックで、ライの演奏に聴き入ります。ライは、アラブのブルーズです。このとき、2人は音楽を共有していました。けれど、2人は歌には加わらない。2人と音楽が、一体化していないのです。

このあたり、音楽が隠喩の役割を負っています。
自らのルーツを巡る旅で、2人は、さまざまなルーツ・ミュージックに出会うのですが、どれも、傍観者としてしか、接することが出来ない。その音楽と、一体化することが出来ないのです。フランス化してしまった2人にとって、ルーツとは、望郷的なものではあっても、すでに喪われてしまったもの、なのだということです。事実、2人のウォークマンに収められている曲は、相変わらず、ブレイクビーツでありドラムンベースであり、テクノ・ミュージックなのです。

2人が辿り着いたアルジェリアは、大地震の爪痕が残る、無惨な街に変わり果てていました。実際、2003年にアルジェリアは大地震に見舞われているのですが、そのこと自体が、都市生活者にとってのルーツ=失われてしまったもの、という事実を、象徴的に表しています。

最後、アルジェリアに辿り着いたとき、そこでナイマを待っていたのはよりいっそうの疎外感、落ち着かなさでした。
両親が住んでいた場所を訪れ、両親を知る人々と出会い、涙を流し、過去と折り合いを見せたかに見えるザノに比して、神経症的な様相をよりいっそう増していくナイマ。その様相は、しきりに爪を咬むしぐさや、肌を覆い隠す布を乱暴に脱ぎ捨てる動作に端的に表されていました。

そんななか、2人はスーフィーの儀式に参加します。
霊媒師の女性から、ナイマは告げられます。あなたの魂は居場所がない状態だ。自らのルーツを、祖先を見出さねばならない、と。
それこそ、まさにナイマが常に求めつつもいつも逃げてきた、自らのアイデンティティを探る行為です。
霊媒師はスーフィーの儀式で忘我の状態になることにより、自らを見直すきっかけをナイマに与えます。
今まで辿って来た実際の放浪の旅ではなく、ある意味、本当の旅、精神の旅へとナイマは旅立つ…。

最後の、スーフィーの儀式は、10分以上も長まわしが続く、圧巻のフィルムでした。
ループされるスーフィーの音楽によって2人はやがてトランス状態に陥っていくのですが、これこそ、2人が常日頃から聴き続けてきたテクノ・ミュージック、つまり、ループ・ミュージックなのです。テクノ・ミュージックという都市生活者のための音楽と、スーフィーの儀式で使用されるルーツ・ミュージックのなかのルーツ・ミュージックが、じつは同じループ・ミュージックであるという事実!そして、どちらもが、トランスするための音楽であるという事実!
過去を探ることで、未来を見つけだす、端的な好例が、ここには描かれていました。

ストーリーは単純であっても、そこに詰め込まれている情報量は、ハンパではありません。
フランスにおける移民の問題、都市生活者のアイデンティティの確立の問題、汎地中海音楽を横軸とし、現代音楽と民族音楽を縦軸とし、それぞれがハイブリッド化しているという事実、音楽の聴かれかたの違い…、アクセス出来るポイントがいくつも用意されている映画です。

あぁ、これだけ書いても、まだ書き足りません。というか、なにも書いていない、なにも伝わっていないような気すらします。
まだ、この映画を観たあとの興奮が収まっていないのです。
そして、圧倒的な情報量を前にして、まだ消化しきれていないのです。

DVDが出たら、即買いです。サントラはすでに売り切れ状態。再出荷を激しく待っています。

今回は、マニアックに好き放題書いてしまいました。
じつは、まだまだ全然書き足りないのですが、いったんは、このあたりでお開きにします…。




Tony Gatlif / 『愛より強い旅 (EXILES) 』

2006年2月4日土曜日

鬼よ来てくれるな!





PCぶっ壊れ事件による余波、仕事の遅れを取り戻し、1月〆の仕事をすべて納品したのが、2/1の朝ですわ。

そっから、PCの応急処置をやったり、2月分の仕事の打ち合わせなんかをこなしたりしているうちに、寝る時間もなくなり、フラフラ。その時点ですでに、4〜5日くらいはまともに寝てない、というか、2時間寝ては仕事して、また数時間後に1、2時間寝ては仕事して…、ってかんじの遠洋漁業の漁師さん状態でした。

2/3の朝っぱら、どうしても観なければならない映画を、わざわざ大阪から京都に遠征して観にいき、その後、とりあえずの仕事をこなして、大阪天満宮へ直行。
大阪天満宮で、節分用の海苔巻きが無料で振る舞われるんですよね。

かんぴょうと高野豆腐程度の質素な海苔巻きだけれども、天満宮のだから、ご利益ありそうでしょ。
それを1本もらって、家に戻って、夕食と一緒にいただいて、そのままソファで爆睡ですよ。ニュースも観れなかったな。
起きたのが、朝の5時。さすがに寒かったので、そっから顔洗って歯を磨いて、ベッドへ直行。次に起きたのが、2/4、昼の3時…。

いや、よく寝ました。やーっと、睡眠不足から解放されました。

でも、おかげで、豆まき、しなかったです。
福は来てくれるのか、鬼は入ってこないでいてくれるのか?
乞うご期待、ってとこ?

鬼といえば、
ミッシェル・ガンを思い出してしまうのは、オレだけでしょうか?
『チキン・ゾンビーズ』のころ、ライブに行ったら、チバが鬼のような形相で立ってたから、そんなふうに思ってます。


みなさん、豆まき&海苔巻きかぶりつき、しましたか?



ミッシェル・ガン・エレファント / 『ゲット・アップ・ルーシー』

2006年2月2日木曜日

役所が金を貸すと…





3年前にある会社を買ったんですが、その際、国民生活金融公庫に事業投資資金を借りました。
与信がね、甘いんですよ。銀行やサラ金なら、やってけないでしょうね。

住民票、印鑑証明、納税証明、預金残高証明、当座預金通帳の写し、事業計画書、予算案…、たしかそれだけで、面接やって、数百万円の融資が決定しましたから。しかも、保証人も担保もなし。
彼らが、事業計画を精読出来るとは思わないし、オレの銀行の借り入れ残高とかは調べてないから、仮にですよ、オレがサラ金から金を限度額いっぱいまで借りていて、もはやどっこも貸さないというような多重債務者であっても、上記の書類がそろっていて、事業計画&予算案をでっち上げて、面接で適当なことを調子よく話せば、数百万円の金がおりる、ということです。

借りておいてこんなことを言うのもなんですが、
カネを貸す覚悟、みたいなものが、ないんですね。所詮、他人のカネだから。

金利、1%ちょいなんで、どんなところよりも安いから、得なんですけどね。

今日、知り合いが紹介してほしいというので、一緒に行ってきました。
そんときに、オレの担当者がいたので、ちょいと話したんですが…。

なんでも、回収が焦げついてるやつがあって、それもかなり悪質なのがあるんだとか。
事業計画書に記載されてるような事業計画はなく、預金通帳の写しも偽造されたものだったということが、最近になって判明したのだとか。融資金額1200万円。どーやら、すべて飲み食いに消えたらしい…。

ね、だから言わんこっちゃない。
預金通帳だって、現物じゃなくて写しでオッケーなんだから、偽造しようと思えば簡単に偽造出来るし、事業計画なんて、それこそどーにでもなります。
ちゃんと信用機関を使って、申込者の取引先にもあたって調べて、ってしないから、与信がザルなんですよ。

それで、どーするのさ、と聞くと、
書類が偽造だったのだから、刑事告訴することを検討している、んだと。

オレ、アホか! と、思いましたね。
そりゃ、私文書偽造か詐欺か不実記載かそのあたりの犯罪の構成要因にはなってるんだろうが、んなもん、刑事告訴なんかしたら1円も回収出来ません。告発された当人がパクられて、それ相応の科料を科せられて終わりですわ。
で、回収出来ずに、通常の会計だと、損金扱い。

貸したカネを回収することが、最優先になってないんですね。
やっぱ、役人の考えることは、ノンキですわ。
こんなもん、銀行でもサラ金でも、目の色変えて追い込みかけますよ。
なんとしてでも回収しないと、メシが食えなくなるから。
でも、この人たちは役人なので、回収出来なくても、減俸も降格も、出世に響くこともないんですよ。だから、自分のカネを貸してたら、と、考えることがない。ハナから、そういう回路がないんです。

どーせ、税金なんです。
こんな人たちが、オレたちの払った税金を、使っています…。


今日は、久しぶりに、アイリッシュ・トラッドの至宝、チーフタンズを聴いてます。
生きる無形文化財とは、彼らのことですね。世界文化遺産に指定してもらいたいくらいです。
どうせなら、彼らの活動にこそ、税金の投入を!



The Chieftains / 『The Star of County Down』

2006年2月1日水曜日

かつがれたのか?






今日、仕事先のディレクターから仕入れた話。

人の耳あかには、乾燥したタイプと湿ったタイプの2つがあるんだそうな。どちらになるかは、DNAの塩基配列の、たった1ヶ所の違いで決まるらしいですな。
元来、人の耳あかは湿ってるものなんだそうです。
それが、突然変異で、DNAの塩基が配置が動き、乾燥したタイプが生まれたのだとか。
ということは、乾燥タイプのオレは、人としてニュータイプなのか?
ま、日本人の約8割は、この、乾燥タイプらしいですけどね。

ちなみに、件のディレクターは、湿ったタイプらしく、オレのほうが本来的な人間に近いということやな、と、のたまっておりました。
けっ、旧人類が。

まあ、人類の新旧論争はともかくとして、なんでも、耳あかは本来湿っているもので、乾燥したタイプは耳あかではなく、単に皮膚がはがれたものなのだとか。乾燥している人は、耳あかが出ないのだとか…。
はっ?
皮膚がはがれたもの?
じゃ、今まで、耳かきで一生懸命掻き出していたものは…、皮膚の残骸? カサブタみたいなもん?

ちょっとしたショックを受けてしまったオレでした。
というか、この話、信用していいのだろうか?
ディレクター氏は、学術論文に載っている、と、言っていたのですが、どーも、かつがれているような気が…。


ま、それはさておき…、
信用出来ない、ということで思い出したのが、サニーデイ・サービスのファースト『若者たち』。
最初聴いたとき、もろに、はっぴいえんどのコピーバンドだと思ったのは、オレだけじゃないはずです。
だから、こんなものは、フェイクだしバッタもんだし、ゴミ箱にポイ!ってことで終わらせるのが正しい取り扱い方だったはずなんですが、それをするには、どうもメロディが素敵すぎて、ためらわれる…。うーん、捨てなきゃならんはずなのに、なんか、後ろ髪を引きずられるような気分、でも、聴いたら聴いたで、後ろめたさ満載、という、じつに厄介な代物でした。なんだか、ものすごく、かつがれてる気分になって、聴いてましたよ。
でも、セカンド『東京』が発表され、ああ、本物やったんや!ということがわかって、ホッとしました。
以後の活躍ぶりは、知ってる人は知っている。あれも、解散を惜しまれたバンドのひとつでしたな。

最近は、曽我部クンのソロ、あんまり聴いてないんだけど、どうなんですかね?



曽我部恵一 / 『White Tipi』