2006年12月31日日曜日

おせちつくってま


オレは2人兄弟ですが、先にオレが家を出て、7年くらいまえに妹が嫁いで、13年前にオヤジが亡くなって、今では実家はオカン一人。なので、オカン、おせちをつくらんようになったんですわ。
でも、正月は親戚一同、実家に結構集まるし、いつの間にやらオレがおせち&正月料理担当。。。
鏡餅の飾付けは、15年前くらいにオヤジに教えてもらったのがノートに書き記してあって、今でもそれを見ながら、ですわ(笑) 年に1回のことやから、全然覚えられしまへん。。

ほいで、昨日、天満市場でしこたま食材を買い込んで、昨日今日となんやらつくってますわ。オレ、こんなことやって何年になるんやろか。。。。

自分の家と実家と2軒分の大掃除もしてるし。。はぁ。

元旦の夜は徹夜麻雀大会に出向くから、親戚連中で焼肉でもしてくれ、ってかんじで、焼肉関係の食材を買い込みやした。
2日目は、鍋やな。とりあえず、タラバガニ買ったし。
3日目は自分の家に戻るやろから…、知らん。

おせちは…、
昆布巻きつくって、お煮染めつくって、数の子漬けて、紅白なま酢つくって、キンピラつくって、エビのすり身入れた伊達巻きつくって…。
栗きんとんと黒豆、棒ダラは、面倒なんで、出来合いのを買いました(笑)
最後、赤飯炊いて、鯛の塩焼きやな。

そのあと、電燈やらを拭いて、大掃除を終えたら、初詣に出かけます。京都、どこへ行くやろか?


年の瀬につじあやの☆

今年最後の本日の1枚:
『BALANCO』
つじあやの

YouTube
http://www.youtube.com/watch?v=i96UBRB8eaQ

2006年12月30日土曜日

今年の読書


商売柄ってこともありますが、毎年、年間で300冊オーバーは本を読みます。1日に1冊というわけではなくて、同時進行で何冊も読むから、1週間で7冊前後って読みかたです。
それが、今年は200冊に届かんかったです。
理由は簡単で、本を読む時間がmixiに費やされているわけで。。

ほいで、今年の読書を振り返ってみますと…、

まず、小説は、ほとんど新作を読まんかったですな。読みたくなるような新作小説がね、ほとんどなかったですわ。
年明け早々の発売された瞬間に買ったのが、劇団ひとりの『陰日向に咲く』。
モチーフ自体は、ちょっと変な人のちょっと変な話で、純文学ではよくある手法。それ自体は手垢まみれで面白くもなんともなかったけれども、文体のリズムがね、淡々としていてよろしかったですな。ちょい体温低めで、2006年のリアルを上手く体現してました。お笑い芸人だからこそテンポを考えるだろうし、それが文体に上手くいかされていて、そこが新人離れと呼ばれる所以。この人の書くものは、好きです。

テンポやリズムのよさをもっとも感じさせるのは、舞城王太郎ですな。
2年前の『煙か土か食い物』から大注目していて、いつブレイクするか!と待ってるんですが、今年も小ブレイクで終わった作家。それでも、新作の『好き好き大好き超愛してる』は、グイグイ読ませましたけどね。その饒舌さ加減は、諦めから来ているのだと思うので、音楽でいうと、ハウス・ミュージックのノリに近いですかな。快感の中枢神経を刺激するのよね。というか、それが目的で書かれているような気すらします。そこがね、かなり新しい。マニアの愛玩物で終わってほしくない作家なので、来年も期待します☆

そしてオレの大好きな平野啓一郎は、今年は新作を発表してくれませんでした。文庫化されたのがいくつか出たので、そっちで我慢したけれども、来年こそは新作を読みたいですな。ただ、文庫化された『高瀬川』は、これまでの作品よりも読みやすい文体にはなっているけれども、詩と小説のあいだを繋ぐかのような実験がなされていて、改めて読んでみても刺激的でしたな。

新作の小説で目を見張るようなのは、それくらいでしたかね。
あとは、梁石日、白石一文、横山秀夫ら現代作家の作品の読み返し、松本清張の復刻シリーズ、山田風太郎の旧作、プイグら南米の作家の旧作、『ゲド戦記』と、再読したのが多かったですわ。再読が多いということは、それだけ新作で面白い作品がなかったということですが。

次から次へと新しい作家は出てくるんだけれども、定型文のバリエーション違いばっかりで、これまでの物語定型をぶち破るような試みをする作家がほとんどいないのが残念。それと、描写の妙がね、どいつもこいつも陳腐すぎます。
その意味で、物語の定型をぶち破らんとし、かつ新しい描写の試みを繰り返している平野啓一郎はこれからも注目だし、舞城王太郎は新しい描写を獲得してますな。

漫画は、ほしよりこの『きょうの猫村さん』、西原理恵子の『毎日かあさん』のそれぞれの新作、ジョージ秋山の『アシュラ』の再発あたりを。あと、夢枕獏の『神々の山嶺』を谷口ジローが漫画化したのを。ハッとさせられるコマ割りをするのは、今んところ、この3人くらいですかな。あとは惰性で、くらたまの『だめんずウォーカー』とか読んでます。

こうして見ると、今年は、物語関係では、オレの心にドカンと突き刺さってくるものには、出会いませんでした。

翻って、ノンフィクションは、相変わらず、たくさん読みました。

サッカーの日本代表監督にオシムが就任して、昨年の発売直後に買った『オシムの言葉』はソッコーで再読。ついでにストイコビッチを軸にしてバルカン半島情勢を読み解いた木村元彦の『誇り』と『悪者見参』、宇都宮徹壱の『まぼろしのサッカー王国 スタジアムから見た解体国家ユーゴスラヴィア』『ディナモ・フットボール 国家権力とロシア・東欧のサッカー』も再読。
ユーゴ出身のサッカー選手を扱うノンフィクションは、ユーゴ紛争に触れないわけにはいかないから、勢い、大きな視点で書かれるものが多くて、バルカン半島を俯瞰出来る楽しみがあります。このあたりの本、いつ読んでも面白い。

あとは、司馬遼太郎の対談集が文庫で刊行され続けたので、出るたびに。未収録部分が少ないので、大半はどこかで目にしたものばかりだけれども、それでも、改めて読んでみても、その彗眼には驚かされっぱなしです。ナショナリズムについての話は、オレは、彼の言葉を指針にしてるし。今もって、一番、言葉を聞きたい人で、鬼籍に入られたことがまだ寂しいです。。
歴史物は、NHK教育で放送している『知るを楽しむ』やら『歴史に好奇心』のテキストを何冊かと靖国関係、満州関係、ペルシャの歴史について、アイルランドの歴史、バスクの歴史、ジプシーの歴史…、そのあたりを。
あ、京都の庭、寺、仏像関係も、何冊か読み漁りましたな。

あと、早川文庫から出てるノンフィクション・シリーズから、ココ・シャネル、マタハリ、マリア・カラスあたりの女性偉人伝めいたものを。

高山なおみさんの『日々ごはん』シリーズ(こないだ、第8集が出ましたな☆)、『記憶のスパイス』も、もちろん購読。調理器具を極力排し、自分の指先の感覚に頼っていこうとする彼女の料理観は、やはり刺激的です。さらに、音楽と料理が分ちがたく存在しているその生活ぶりも。

辺見庸はブッシュ政権に対抗軸を築くときのオレの拠りどころの一人ですが、今年は恥について重点的に書いてましたな。『いまここに在ることの恥』にまとめられ、そっちで一気読みしました。マスメディアの堕落っぷりについての現状報告が主でしたが、まあ、目新しいところはなく。

んで、今年一番刺激を受けたのが、梅田望夫というweb技術をメインにコンサルしているオッサンが書いた『web進化論』。ちくま新書の1冊ですが、これが、オレにとっての今年のナンバーワンですわ。
googleという起業のユニークな点の紹介にはじまって、amazonがもたらした市場の激変、オープンソースのこと…、知の秩序の再編成と富の再分配にまで言及した論考は、どれもこれもが新鮮で、とんでもなく刺激に満ちてましたわ。
で、この本に真っ先に反応したのが、作家の平野啓一郎。この2人が対談した『web人間論』は、ついさっき買いました。明日、読むかな。

ま、今年はこんなかんじ。来年も、いろいろと読んでます。

2006年12月28日木曜日

デジカメのおまけ


仕事用にデジカメを新調したのでした。
カシオの1000万画素の最新型がさ、ヨドバシで思いっきり値引いてあって、しかも古いやつを3000円で下取りしてくれて、ポイントが15%付いて、液晶保護シールも付けるというから、これはお得だわ、と。

そしたら、もいっこおまけが。

ペットボトルを三脚に見たてて、キャップに装着出来るアジャスター。
便利グッズの一種でしょうが、こんなもんが商品化されてるんですね。
1980円って値札に、誰が買うねん!と思いましたが、ま、タダでくれるというなら(笑)

年越しの宴会で、早速活躍しそうです☆

2006年12月27日水曜日

ジェームス・ブラウンの思い出


この話は一回書いたかも知れんのですが…。

20年前の1987年、沖縄はコザで、ジェームス・ブラウンのコンサートが開かれたのでした。
このコンサートが、今思い出すだけでもゾクゾクするほど、素晴らしかったですな。ジェームス・ブラウンのコンディションは上々、そして米軍基地の黒人兵が大挙して聴きにくるという、時代も場所も最高のセッティングだったです、はい。

細野晴臣さんがこのコンサートをプロデュースしていて、そんとき、細野さんといえばYMOのテクノの人としか知らないオレには奇異に映ったのですが、そのコンサートをきっかけに、細野さんがいかにブラック・ミュージックを愛し、造詣が深いのかを知ることになるのでした。

コンサート終了後、市内のクラブ『なんた浜』に、嘉手苅林昌の琉歌を聴きに出かけたのでした。ジェームス・ブラウンをナマで観るためだけに沖縄までやって来たのだけれども、当時、ブラック・ミュージックに負けず劣らずで沖縄民謡に深く潜行しようとしていたオレにとって、嘉手苅さんやらの大御所をナマで観る絶好のチャンスでもあったわけです。
ジェームス・ブラウンのライブのあと、嘉手苅さんが毎日のように来ては歌っているお店で、騒いでいたのでした。午前2時過ぎ、夜更けもいいところだというのに、店内はコンサートから流れた客などでいっぱいでしたわ。このとき、オレは、嘉手苅さんの歌う八重山民謡を初めて聴いたのでした。普段、彼は八重山民謡ではなく、沖縄民謡を歌う歌い手さんだったし、沖縄民謡と八重山民謡は違いますからね。
嘉手苅さんが八重山の民謡『とぅばらーま』を歌ったとき、客席から、つんださや、つんだーさー、と、名調子の合いの手がかかったのでした。なんと、山里勇吉! 気づいて周囲を見てみると、いるわいるわ、照屋林助、国吉源次、登川誠仁など、琉歌の大御所各氏が。みーんな、ジェームス・ブラウンのコンサートから流れてきていたご様子で。
琉歌とジェームス・ブラウン、関係がないようだが、琉歌の各氏は、コンサートに感動し、対抗意識を燃やしたものと見えましたよ。そして、各氏を交えた琉歌ジャム・セッションは、夜が白むまで続いたのでした。いや、とんでもない夜だったな。
ジェームス・ブラウンと琉歌のダブル・メインのようなステージを体験したこの日は、今現在に至るまで、オレの音楽体験史上五本の指に入る体験でありますな。

このときの歌の多くは、八重山民謡だったのですが、今にして考えると、ジェームス・ブラウンのソウルに対抗しての八重山民謡だったに違いないのです。
八重山の音楽は、民謡と流行歌が未だ分化していない「原・うた」というような状態にあり、唄本来が持っている情感や躍動感を失ってはいません。だからこそ、ジェームス・ブラウンに対抗して、各氏が直感的に八重山民謡を選んで歌ったのだと考えたいのですね、オレは。

なんちゅーか、グルーブが荒削りで、全然ソフィスティケートされてなくて、でも、ちゃーんと、ショーアップされたものになっているという、じつにじつに、不思議な不思議な音楽。

死んだら皆聖人にされるのが常だけれども、ジェームス・ブラウン…、このオッサンはやっぱ、そんなところに収めてはイカンような気がしますよ。
粗暴でさ、独善的で、横山やすし的で、ジャンキーでアル中で、女好きで(笑)
その全部をひっくるめて、ファンキーだったんですよ。
公民権運動だとかグラミーとか、関係ないね。
正しく、どうしようもないロクデナシのためだけの、聖人でしょ。
享年73歳? 勝手に決めてんじゃねーよ。ずーっと、年齢不詳だったやん(笑)
嘉手苅さんも、そうでしたね。風狂人がまた一人、天に召されました。でも、クリスマスってところが、ジェームス・ブラウンらしいですな。

合掌。


本日の1枚:

James Brown /『Gettin' Down To It』

2006年12月25日月曜日

何事もなく

メリメリクリスマ~ス☆

と、浮かれることもなく、まったく関係なく、何事もなかったかのように仕事してます。

先月、ぱなぬふぁさんにおそわった餃子鍋(コンソメスープに、餃子&キャベツを投入。ポン酢で食す。あっさり&ちょいコク)、最後はラーメン投入(←ここは、すぎさんの案をいただき)。。。
はい、15分の一人鍋ですわ。

で、また仕事。

はい、励ましのお言葉、お待ちしております(笑)

2006年12月24日日曜日

ご祝儀のお札はなぜ3つに折るのか?

先日、『デザインにひそむ<美しさ>の法則』という本を読みまして、その本のオビに書かれていたのが、この日記のタイトル。今、ソフトバンク新書から出てますが、amazonのURLは異様に長いので、リンクは貼りません。。。

工業デザインについて、一般にもわかりやすいように噛み砕いて説明してくれている本です。
オレは平面のデザインしかしないし(パッケージのデザインすらしたことがないくらいですから)、そもそも独学ゆえにデザイン理論を体系づけて学んでいるわけでもないので、重くならない程度に、この手の本をときどき手にします。

んで、ご祝儀のお札はなぜ3つに折るのか?ですが、この理由が奮っていましてですね。ちょっと面白かったので、要約して抜粋。

まず、千円札を例にとると、
寸法は、縦76mm×横149mm
これ、比率に直すと、ほぼ1:2ですね。
この比率自体は、日本でむかしから好んでよく使われる比率で、畳やら建具やらは、この比率でつくられてます。
んで、この千円札を2つに折ると、縦76mm×横74.5mmとなるから、ほぼ1:1の正方形。
で、これをさらにもう一度2つに折ると、縦76mm×横37.25mmとなって、縦横比は逆転するけれども、おなじ比率のほぼ2:1になる…。
なかなかよく出来ていますな。さすが、世界に冠たる日本のお札☆

ところが、ですな。
ここまでで感心していたのも束の間、今度は3つ折りにしたときの縦横比を計算してみると、これがまた、すごいことに。
3つ折りにしたお札は、縦76mm×横49.6mmで、約1:1.5の比率に。これ、ほとんど黄金律の比率ですやん!
黄金比というのはヨーロッパでむかしから美しいとされている比率の代表格で、日本の工業デザインにも、多数取り入れられていますわ。
一般的なトランプがそうだし、クレジットカードなんかのカード類、ハイビジョンテレビの画面、名刺、タバコのパッケージ、果てはiPodまで、身近なところだけでも拾っていけば、なんぼでも使われているのがわかります。

デザインを考えるとき、問題にするのは寸法ではなくて、比率です。バランスを考えるので、そうなるんですけどね。だから、千円札が、広げた状態だと1:2の日本伝統的な縦横比なのはうなずけるとして、3つ折りにしたときに黄金律になるように、そこまで考えてつくられているのは、なかなか優れたデザインだと感心します。

ここで最初の疑問、ご祝儀のお札はなぜ3つに折るのか?ですが、この本の著者は、推論を出してます。
日本のお札の縦横比が1:2になっているのは、この比率が古来から日本人に愛されてきたからだけど、同時に、普段から使われている日常的な雰囲気もあるので、ご祝儀を出すような非日常のハレの場には似合わない。一方で3つに折ったときの1:1.5という比率には西洋的な雰囲気があり、ちょっとオシャレで非日常の場に相応しい雰囲気がした。ご祝儀のお札を3つに折ることが定着していった背景には、こういった理由があるのではないか、と。

この推論自体は、千円札の縦横比と3つに折ったときに黄金比になることを発見すれば自ずと出てくるものでしょうが、3つ折りにしたときに黄金比が現れることを発見したのは、なかなかの着眼点やと思いますな。
そして、きっとそのことを意識して作成したであろう千円札を作成したデザイナー! 誰ですかいな? 完全に脱帽です☆



カエターノでも聴こうと思ったら、カエターノ&ジルベルト・ジルのとんでもない映像が! 『Tropicalia』から30年のときを経て発表された大名盤『2』の、PVですよ。映像も音楽も、ヤバすぎます。脳も下半身も、とろっとろになります♪

2006年12月23日土曜日

風俗店取材☆


じつはオレ、7、8年前、なんの因果か風俗店情報誌の編集長をやっておりました。
エロは嫌いでないどころか大好きですが、風俗店にはなんの興味もなく、それまでにも、そのときも、そして今に至るまで、一度も風俗店はおろかキャバクラですら遊んだことがないのですが、風俗店を取材するのは、なかなか面白いです。

女の子を取材→誌面で紹介
お店の特長やメニューを取材→誌面で紹介

ちなみに、風俗店の広告・広報は、不動産、パチンコと並んで、超保守的。新しい試みや実験的な試みなど、ちょっとでも通常パターンと外れたことにトライしようものなら、即・却下ですわ。なので、実作業自体は、味気ないもの。ほとんど流れ作業のようにルーティン化してます。
だから、ギャラも安いしね。

今は完全に離れてしまってますから、まずその手の仕事をすることはないんですが、急遽、ピンチヒッターの代打を頼まれました。風俗店の取材、何年ぶりやろか?
風俗店で遊びたいと思ったことが一度もないオレにとって、その手の情報を専門に扱う雑誌の編集長に就いた当初、当然のことですけど、面白くなかったんですよ。
でも、風俗店のことを知れば知るほど、面白くなってきましてですね。最後はかなりのめり込んでやってました(笑)

風俗店はともかくとして、エロは大好きなオレです(笑)
男の子のエロの本質は、妄想の具現化にあるんですが、もうね、これを専門に突き詰めていけば、人間、ここまで考えることが出来るのか!という、アイデアに満ち溢れた世界なんですよ~。

たとえば、
風俗嬢さんに、待機している時間を使って、簡単なニットスカートを編ませるんです。
それで、お客さんの相手をするときに、そのニットスカートをはくんですが、裾のニットは留めておかずに、引っぱればほつれるようにしてあるんです。そいで、お客の男は、その毛糸の端を引っぱって、ニットスカートをどんどんほどいていく、と。そうすると、あら不思議! 全部ほつれ切って影もかたちもなくなったニットスカートの下からは、妖艶な下着が♪

こんなことをね、四六時中考えては具現化していくのが、風俗店です。

個室の天井から、どこから用意したのか知らないけれども、電車のつり革をぶら下げて、OLさんに扮した風俗嬢さんが、立ってるわけです。ちゃんと、つり革の前には、電車のシートを模した椅子もあります。
んで、お客の男はですね、彼女の背後に立って、あんなところやこんなところを触れてみたり撫でてみたり、さらには…、ってかんじで、普段はしたくても絶対に出来ない痴漢プレイを存分に楽しむ、と(笑)

なんてのもあります。。

エロ妄想を膨らませ膨らませ、それを具現化していくパワーって、すごいですね。

今はどんなのが登場しているのか。明日の取材が今から楽しみです☆

それにしても、来月から教育に携わる!と昨日の日記で書いたオレは、こんなのを取材していてもいいのだろうか(笑) 教育方面、クビになったりして(笑)

2006年12月22日金曜日

中間報告

先月から引きずってるサイトのリニューアルのお仕事が変更につぐ変更の荒らしのせいもあって、この年の瀬、ヒーヒー言わされてます(笑)

そんなときに、やめておけばいいのに、某コミュにトピ立てしたんですわ。
mixi歴1年以上で、きっと3つ目くらいのトピ立てなんですが、よりによってこの時期に。。。
えらいことたくさんコメントをいただきまして、どれもこれも真摯なコメントなので、真面目にコメントを返していたら、それだけでえらいことパワーを使ってしまいました。

クリエイター&デザイナーのコミュですが、お暇で奇特な方は、日記がわりにでもご覧くださいませ。

そんなわけで、今、今日の日記を書く元気すらありまへん。
前日日記では、momoさん、ひらりさんにいただいたコメントも、じつはまだまだ丁々発止やりたい気は満々なんですが、コメント返す気力もありまへん。。。ほんま、悪しからずです~。

だから今日は真面目になにかを書く気はなくて、ダラダラといろんなことを脈絡なく書いていくつもりなんですが…、

まず、マイミクさんの寧楊さんが、中崎町でカフェをオープンさせます。日曜限定やったと思いますが、オレん家からチャリで5分の場所なんで、オレはちょこちょこ覗くんやと思います。また、時間が合いましたら、みんなでワイワイ出来たらな、なんて思ってます。
ついでに、寧楊さんに頼み込んで、「ロゴつくらせて~」って、ロゴをつくってしまいました。あ、上記コミュのトピ立てはロゴの話なんですが、寧楊さんとこのロゴとはなんの関係もない話なので、読まれる方は、完全に切り離して捉えてくださいませ。ややこしいことですが、これだけは言うとかんと、変に誤解されてもイヤなんで。

寧楊さんの日記とオレのコメントに必要な情報のリンクが貼られてるんで、これまた興味がある方はご覧くださいませ。

次、この夏あたりから、教育問題に入れあげてまして、いつぞや長文日記をあげました。
相前後して、次の10年、自分が進む方向が見えてきて、来年は動く、という日記をあげました。
これ、じつはリンクしてまして、
来年から、次の10年、教育に身を置こうと思ってます。具体的なことは書けませんが、今、ある都道府県の教育委員会と掛け合ってまして、来週あたり、なんらかのポストが与えられます。
そこを手がかりにして、いじめ問題といじめ苦による自殺問題と、学校と社会の結びつきやら、世代間の結びつきやらなんやらかんやらと、自分なりに取り組んでいこうと思っています。来月のオーストラリア出張も、その一環です。
オレは、この国の国家にはなんの敬意も払ってませんが、日本が育んできた文化や伝統は好きですし、その恩恵も受けてきたし、そうしたものの消失も含めて、自分なりに、この国の未来に危機感を持っています。それをどうすればいいのかというシュミレーションが自分なりに朧げながら見えてきたので、やる!と決めました。
といっても、オレは商売人ですから、商売を通じて、それをやっていきます。
さらに、広告や雑誌の仕事も好きだし手放す気もないので、同時にやっていきます。
マンパワーや時間の問題で、出来ない仕事も出てくるでしょうが、自分の出来ることもかぎられているし、そのあたりは消えていく仕事は自然と消えていくだろうし、いずれどこかに落ち着いていると思います。

ま、そんなこんなの年の瀬です。
つらつらと、中間報告代わりに書きました。

2006年12月21日木曜日

どいつもこいつも

平井堅というアーティストにはなんの興味もないんですが、彼、「Ken's Bar」というコンセプトで定期的なライブをやってるらしいです。
ステージをバーに見立てて、そこにお客さんを招待して歌ってる、という設定のライブ。
デビューのときからずーっとやってて、彼がライフワークにしているステージらしいです。
アルコール有りのライブらしいんですが、警察が、それにちょっかいを出したらしいですな。
酒はアカン、と。
昨今の飲酒運転による事故を危惧しての予防措置というか警告というか、そういうもんらしいですけど。
なんの点数を稼ぎたいのか知らないけれども、なんでこんなことに、いちいち国家権力が警告してこなならんのか…。表現の自由に抵触するんやないですかね。
こーんなことまでいちいち禁止してたら、全国のライブハウス、全部閉鎖に追い込まれますがな。

もいっこ。
京都の有名なお寺さんの知恩院で、お坊さんに対して、警察による講習が行われました。
暴力団が葬式を頼んできたときの断りかたの講習やそうですわ。
警察の人間がヤクザに扮して、実地の講習。
これもなあ…。暴力団は葬式出したらあかんのですかね?
香典やらが資金源になるからアカンという理屈なんでしょうが、それは警察の理屈として、宗教界はなにをしてるんですか?
不幸な人も悪い人も救う、手を差し伸べる、葬式を出してあげるのが、宗教じゃないんですかね。
警察の講習を従順に受けてる坊主どもの写真を見て、なんとまあ情けない姿やなと思ったもんですわ。

仕事ばっかりでネタないし、新聞読んでたら、以上2点がちょっと気になったので書いてみました。

2006年12月20日水曜日

除夜の鐘と煩悩と


除夜とは、旧年を除く夜という意味で、12月31日の大晦日の夜を言います。
この夜、除夜の鐘を108回、撞く。
除夜の鐘を撞き、その音を聞くことによって、この一年のうちにつくった罪を懺悔し、罪をつくる心を懺悔し、煩悩を除き、清らかな心になって新しい年を迎える行事だということは、まあ、誰もが知ってますな。べつに、姫納めと姫初めの日にしても、いいんですけどね(笑)

ところで、人には108の煩悩があると言われています。煩悩とは、愛着、執着のことで、自分にとって離しがたい、捨てがたい感情や感覚のことです。我ながら、それは常々思うところで。

それではなぜ、煩悩は108なんですかね? ウロ覚えだったので、ちょいと調べてみました。

その数えかたには、次のようなものがあります。
まず、人間の身体全体の働きを表すものとして、六根があります。六根は、眼、耳、鼻、舌、身、意の6つであり、それぞれに好、悪、平の3種があり、6×3で18個。
次に、人身に入って本来の清らかな心を穢すものとして、六塵というものがあります。色、声、香、味、触、法の、これも6つがあり、それぞれに、苦、楽、捨の三受があるので、これも6×3で、やっぱり18個。
以上をすべて足すと,36個になり、この36個は、三世 (現在、過去、未来) のすべてにわたって存在するから,36×3で、108個。
これが、煩悩が108ある由縁ですわ。ほとんどこじつけのような話ですが…。
こじつけと言えば、四苦八苦→4×9+8×9=108というのもありますが、あれこそまさにこじつけ(笑)
んで、それらを、除夜の鐘を撞くことによって,取り除いてしまおうというのが,除夜の鐘の行事です。

さて、除夜の鐘といえば、なんといっても知恩院のそれが有名です。TVでも、毎年、「ゆく年くる年」で中継されてま。(今もやってるのかしら?)
試し撞きまでがニュースになるけれども、もっとも試し撞きそれ自体が歳時記のようなものです。

知恩院の鐘の撞きかたはかなり独特で、親綱を持つ僧1人と子綱を持つ僧16人で撞木に勢いをつけ、親綱の僧の、「えーい、ひとーつー」の掛け声で、子綱の僧が、やはり「えーい。ひとーつー」と応え、そのあとに「ひとーつー」と声をあげながら、手を緩め、親綱の僧が綱にぶら下がり、撞木の勢いをさらにつけて、鐘を撞く。全体重をかけて、鐘木を鐘にぶつけるのだ。撞いた瞬間に、鐘の音が大きく京都中に響きわたります。
鐘を撞く僧は、命がけというほど大げさではないものの、親綱を離すとどこかへ吹っ飛んでしまうので、大変です。失敗すると恥ずかしいだろうし、無論、そうならないように練習するための試し撞きなのでしょうが、なんせ、70トンはあろうかという鐘ですからね。
僧侶にとっては、鐘を撞くことは修行でもあるけれども、ハレの舞台でもあるわけですね。ここで鐘を撞くこと自体が、選ばれることですから。

知恩院の鐘は、1636年 (寛永13年) に鋳造されたものですが、あまりの重さに、鐘を吊るための環が何度も壊れ、刀匠村正・正宗によってようやく吊るすことが出来た、という話も残っています。その撞木は、長さ4メートルの代物。
なにもかもが、桁外れにデカいですな。

最近は、初詣といえば地元の天満宮に行くことが多いので、知恩院はおろか清水寺にも行ってまへん。
あ、でも、除夜の鐘はお寺さんで、初詣は神社か…。

ほいで、なんでこんなことをツラツラと書いているのかというと、じつは来月、オーストラリアに出張になりそうなんですわ。ほんまは今月アメリカのロスに出張予定があったんですが、それはなんとか逃げ切りました。でも、来月のオーストラリアは、きっと行きます。
きっと行くんですが…、問題は、
オレ、これまでに行ったことのある国は108ヶ国なんです。そこでストップさせてるんですわ。これ以上増えると、煩悩を超えてしまうんで(笑)
オーストラリアは未知の国。行くと、109ヶ国目になってしまいます。
さて、どーしたものやら…。


最近、こればっかり聴いてます。

Jane Birkin / Erisa

2006年12月15日金曜日

夜の音楽


夜の音楽、というジャンルがあります。

夜の静けさのなかで着想された、夜の感覚で音を表現した、夜の孤独者にふさわしい音楽、というほどの意味ですかね。ショパンやフォーレが、そういう微妙な音楽をよく書きました。マーラーの第7交響曲も、夜の音楽としてつくられています。バルトークは、ルーマニアの山村の、深い夜のしじまのなかに聞いたカエルの声から、神秘的な彼の夜の音楽を作曲しました。けっして、尾崎豊がどうとかという話ではなく(笑)

夜の音楽は、不思議なジャンルです。

人々が寝静まって、あたりは深い静けさに包まれる。人間の意思や欲望が掻き立ててきたノイズが消え去ると、かわってそこには、べつの種類のノイズ、自然の内部から湧き上がってくる、たくさんの微妙で、豊かな音楽が、聞こえてくるようになります。しかし、夜のなかで人は眼が見えないから、それがどこから、また誰からやって来る音なのか、わかりません。
そのために、夜のしじまの全体が、この複雑で微妙な音を奏でているような気がするのですね。
人はその体験をもとにして、夜の音楽をつくります。かすかな震え、いつまでも続くかと思われる反復のなかから発生する微妙なうねり、最小限度の要素だけから生み出される、宇宙にも匹敵する複雑さ…。

夜の京都の庭で聞こえてくるのは、このような夜の音楽です。百鬼夜行の音楽とは、まさにそのような音楽です。

京都には、ナマのままの自然は存在しません。どんな小さな自然でも、そこでは、人間の精神によってたわめられ、手を加えられなかったものはありません。
庭園の設計者たちは、ナマのままの自然から、最小限度の要素だけを取り出し、宇宙と生命のすべてを表現してみようとしたわけです。

一面に敷きつめられた砂、その砂の表面に、反復する模様だけが描かれている。月明かりのもと、その反復のなかから、微妙で、豊かな音楽が発生してくる。静かに、渦が巻き起こり、空気がうねっていくような、眼に見えない動きをはじめる。そうすると、さらさらの、抽象的な砂だけでつくられた庭が、精妙な生命を持つもののように、感じられてくる…。
そんなかんじです。

また、べつの庭では、地面を覆い尽くす苔が、あたりをふかふかの緑に変えています。隠花植物である苔には、花はありません。そこでは、生命の花は、眼に見える植物の表面にはあらわれては来ず、見えない生命の内部空間に咲きだします。
そのとき、夜の庭にいて、無数の苔に囲まれたオレは、生命のあでやかな花を見るのではなく、まず、聴きます。表面の彩りは否定され、そのかわりに、植物の内部からは、生命が華麗な夜の音楽に姿を変えて、庭のすみずみまでを充たしています。

京都の町中の、市民の芸術家たちも、負けてはいませんね。
彼らは禅宗庭園を造ります。この抽象の原理を、騒がしい町のなかに持ち込んで、もっと現世的な魅力を持った、彼らの庭を造り出してきました。家並みのひしめきあう京都の町屋の内側に、市民は小さな坪庭を造ってきました。

坪庭は、町屋のパテオに出現する、一種の空中庭園です。
夜、柔らかい灯りに照らされて、その小さな庭は、家屋の中央に、すっぽりと抜けた空虚をつくり出します。そして、この空虚のまわりを、人間の生活の暖かさや賑やかさが、ぐるっと取り囲みます。水を含み、静かな音楽に満たされている小さな庭が、人間の暮らしの中心に、無を穿ちます。
京都の町は、いたるところにこのような小さな無を穿たれることによって、軽さを身につけることが出来たように思うのです。

この軽さは、夜の音楽に特有のものですね。
夜の音楽では、人間的な感情が大きく盛り上がったりはしないし、意思や欲望の強さによって、あたりが息詰まる感覚に充たされることもありません。そこでは、自然にフィットしてつくられた生命たちが奏でる、微妙な音楽があたりを包み込み、人間の世界の騒々しさを、気化してしまいますから。

もしも都市が、人間の意思や感情だけで造られているとしたら、京都のような狭い空間に開かれた都市は、すぐに息が詰まってしまっていたと思います。
ところが、ここでは、いたるところに庭があり、そこでは抽象的な砂だとか、植物の見えない内部空間から発生する微妙だとか、家屋の中空に穿たれた無だとかから、夜の自然の音楽が、生まれています。

そして、静けさと、反復の美と、なにかが月に向かって立ちのぼっていくような感覚に充たされた、この夜の音楽は、この世界がすべて人間のものなどではなく、ここは大いなる流れのただなかに浮かぶ浮世にすぎないという事実を、人に告げようとしているように、オレには思えてなりません。

この、どうしようもない諦念こそが、侘びや寂びの本質か、と、近ごろ思ったりします。
今日、ジェイムス・ホイッスラーの画集を見ていたのですが、ふと、そんなことを思いました。
彼の絵画もまた、夜の音楽の様相を呈しています。


Van Morrison / 『Enlightenment』

2006年12月14日木曜日

有罪無罪を問うまえに


Winny開発者に対する判決が出ましたな。


著作権法違反(公衆送信権の侵害)幇助罪に問われ、求刑が懲役1年で、判決は罰金150万円。。。
被告は即刻控訴し、原告の検察も量刑不足で控訴を検討中だとか。
被告、原告の双方から不服を申し立てられる判決って、なんじゃらほい!ってかんじですが。。。

被告は、
開発した技術を頒布し、そのことで見知らぬ第3者が違法運用したことまでが罪に問われるのなら、リスクが大きすぎて技術者はなにも開発が出来なくなってしまう、と言っています。
要するに、包丁をつくった人は、見知らぬ第3者が包丁で殺人を犯した場合、殺人幇助の罪に問われなければならないのか、と言っているわけです。

原告は、
著作権侵害目的で使われることが大であると認識しながら開発し、頒布したのだから、幇助罪にあたる、と。

そして地裁の判決は、
双方の言い分に配慮するかたちのものになりました。

2ちゃんあたりでは、被告の言い分に分があるとする意見が、圧倒的ですね。もっとも、2ちゃんに書き込みしてる人たちは、Winnyのヘビーユーザーだから、そうなるのも当然でしょうが。

結局のところ、問われているのは、技術者のモラリティです。
ある技術を開発するとき、それが世のなかに与える影響を、技術者がどこまで考慮しなければならないか、ということです。

技術者はそこまで責任を負わされるとリスクが大きすぎてなにも開発出来ない、と、言いますが、でも、技術者がなにかを開発する動機って、自分の開発したもので世のなかをより良い方向に変えてやろう、って動機が出発点になってるんじゃなかったですかね。

より良い方向に変わることもあれば、悪い方向に変わることもあり、開発者が思いもよらなかった運用方法を誰かが見つけることもあり、そのダイナミズムこそが、開発の醍醐味だと思うんですがね、オレは。

たとえば、ノーベル賞。
これは、工事現場での岩盤の破壊を容易にするためにダイナマイトを開発したノーベルさんが、それが戦争で人を殺す爆弾として使われるようになった現実を嘆き、平和貢献のために設立したものです。
ノーベル賞というのは、批判もあるけれども、いち技術者が、自らのモラリティに照らして設立させたものです。
自らが自らに対して裁判を行い、おまえは資産を運用してノーベル賞を設立し、ダイナマイトの誤った運用に歯止めをかけなさいと命じた、ということでしょう。

また、アインシュタインは、自らの研究が原子爆弾の開発に繋がることを怖れて、ウランに関する技術開発を原子炉開発に集中させるよう、あらゆる政府機関に手紙を送り、平和運動に身を投じました。

オレは、こうしたことは、技術者のモラリティに照らして行なわれるべきだと思いますけどね。

そして改めて思うのだけれども、
Winnyの開発者もまた、自らの開発した技術が、著作権侵害に使われる可能性を考慮し、そうした運用をしないよう、広く呼びかけてきたと言っています。
検察が主張するとおり、認識はしていた。しかし、それを奨励したことはない、と。
そのうえで、あらゆる技術者に、幇助の罪に問われるようなリスクを負わせてはならない、と。

これはたしかに難しい問題ですね。
なぜなら、モラリティが問われているのだから。
また、モラリティに属する問題に法が関与するであれば、そこだけをとってみれば、憲法に抵触するだろうし、基本的人権を侵害している可能性すらあります。

それを考えると、刑事裁判に問う問題なのか、というふうに、オレなんかは考えてしまいます。

著作権を侵害された人が、Winny開発者や運用者に対して、損害賠償請求の民事訴訟を起こしたほうが、話がスッキリするような気もします。
そうした民事裁判が全国で行なわれれば、判決が出そろう過程で、技術開発や運用に関するガイドラインめいたものが出来るんではないか、と、思うんですけどね。というか、そうなったら素敵やん、と思います。


ほら、契約書の作成がそうなんですよ。
今どきの契約書は、あらゆる運用方法を想定して、そうした使いかたはしないでください、との但し書きが延々と書かれています。日本語だけじゃなくて、数カ国語で書かれています。
それが書かれていなかったために、損害賠償請求の民事訴訟を起こされてきたからです。
そうした経験を踏まえて、今日の契約書のスタイルは出来ているし、技術開発の場面に、そのプロセスを応用出来ないのかな、と思います。

いずれにせよ、今回の判決は、玉虫色のはっきりしない判決ですが、落としどころとしては、そこしかないようにも思います。
ただし、今回の判決では、ではどうすれば罪にならないのか、に、ついて、まったく触れられていません。そこにこそ踏み込むべきだろうと、そこだけは不満に思いました。

2006年12月13日水曜日

残すものと残さないもの

相方さんが、ほぼ日のホワイトボードカレンダーを買うか買うまいか、悩んでいるそうです。

これ、オレは知らなかったんですが、けっこう優れものですね。


1枚1ヶ月タイプのよくあるカレンダーボードですが、紙がホワイトボード仕様になっていて、消せるんですよね。

んで、これを買おうかどうか、って話なんですが。。。

オレだったら買わない、と、オレは答えました。

予定が変更になって書き直したりするのに威力を発揮するカレンダーで、それこそが、このカレンダーのセールス・ポイントだと思うんですが、オレは、変更になった予定もキャンセルになった予定も、消しゴムで消しちゃうのがイヤで、棒線2本で消して、ボツも変更も残しておくタイプです。

消しゴムで消しちゃうと、忘れちゃうでしょ。
予定が延期になって、しかもいつになるのかが未定だったり、キャンセルになったりしたものを、忘れちゃうのが、イヤなんです。ToDoリストとして残しておきたいというか、完全に終わらせるまでは、頭の片隅に残しておいて、気がかりも後悔もきっちりと受け止めておきたいというか、ま、そこまで大げさなもんではないですが、とにかく、消しゴムで消して、なかったことにするのは、ちょっと抵抗あります。

こんなことは人それぞれだから、その人にあった方法を見つけてやればいいと思うんですが、オレはそうしてる、と、相方さんに言うと、相方さんは、それも一理ある!みたいなかんじで、またまた悩んでました。なんか、悪いことしたかも(笑) ま、悩むだけ悩んで、試行錯誤もして、自分にあった方法を見つけてくださいませ。

逆のものも、あります。
たとえば、写真。オレは、どこに行っても、写真をまず撮りません。
若い頃、バックパッカーをやっていた頃、それこそ何年も旅をし、意気込んで、フィルムも100本程度は携帯してたんですが、途中から、パタッと撮らなくなりましたわ。
今、手元には数枚程度しか残ってません。
ここ何年かは京都のお寺さん巡りばっかりしてますが、それにしたって、写真を撮ったのは、気まぐれにほんの1、2回程度。資料として残したいと思わないこともないけれども、それもやっぱり、気まぐれにほんの1、2回程度ですわ。
素敵な風景と出会ったとして、それを写真に撮ったら、撮った尻から忘れちゃうんです、オレは。
匂いだとか、空気の澄み具合だとか、温度だとか、鼓動の動きとか、感情の揺れとか…、写真を撮っちゃうと、写真に写らないものを、全部忘れちゃいます。
だから、撮らないです。
んで、撮らないから、はてさてどんな景色だったかなと、忘れちゃうことも多いんですが、それはそれでいいのだと、思ってます。
忘れちゃうような景色なのだから、オレにとってはどうでも景色なのだろう、ということで。イベントもしかり。
でも、何年経っても忘れない景色、場面というのは確実にあって、いつまでも色褪せることなく、昨日のことのように思い出せるものも、たくさんあります。
オレは、それだけがあればいい、と、思ってます。100の写真よりも、そうした記憶が1つあるほうが、オレにとっては、大切です。
だからね、写真はほとんど撮りません。

カメラやレコーダーといった記録装置は、忘れるためにあるのではないか、とも思います。
どっちにしろ、どんな高性能カメラの被写体深度よりも、どんな高性能のレコーダーのレンジよりも、自分の目と耳を信用しているってことです。

ま、これも人それぞれのやりかたでしょうから、オレはそういうやりかた、ってことですけど。

少し違う話になるけれども、10代に観た映画で『ストリート・ワイズ』というのがありまして、主題歌をトム・ウェイツという人が歌っていました。その歌がね、ものすごく印象に残ってるんです。そのときの自分の置かれた状態なんかも、すごくよく覚えています。
トム・ウェイツという偉大な酔いどれ詩人をきちんと知ることになるのは、ずっと後年のことで、彼のアルバムはほとんどすべて聴いているのですが、それでも、あのときに映画で聴いた彼の歌がなんだったのか、未だに謎のままなんです。
きっと、これまでに聴いてきたアルバムに収録されている曲のどれかだと思うんですが、思い当たる曲はなく、それ以上は調べていません。
きっと、オレの頭のなかで、別種の曲になっているんでしょうが、それでいいと思っています。
もしかしたら、映画で主題歌を歌っていたのは、案外、トム・ウェイツではなかったのかも知れないですが、オレのなかでは、あの映画の主題歌はトム・ウェイツが歌っていたことになっているし、その歌ははっきりと覚えているし、ある印象とともに、自分の胸のなかで生き続けています。
事実を確認するよりも、自分の記憶のなかにあるそうしたもののほうが、オレにとっては大切です。

話を戻します。

仕事でいろんな人にインタビューも、します。
しますけれども、レコーダーをまわして録音することは、滅多にありません。
出来るだけメモをとるんですが、会話のスピードに追いつけるわけはないから、全部が全部メモれているわけでもないです。
でも、インタビューが終わって、後日、メモを見ると、メモに書かれている言葉の断片がきっかけとなって、インタビューの全体をぱーっと思い出しちゃう。
3年前に、生涯で最長の18時間インタビューというのをやって、それこそノート丸々2冊分をメモったんですが、そのメモだけでノーカット版のインタビュー原稿をちゃんと完成させることが出来ました。
逆に、録音してると、録音してる安心感があって、なにも覚えてないんですね。テープを聞いても、こんな話だっけ?ってくらいに(笑)

これも、ライターさんによってやりかたはいろいろだから、結局のところ、記憶のメカニズムは個人によって違うってことになるんでしょうね。
こうしてみると、オレの記憶のメカニズムは、どうやら、文字情報が記憶の引き出しを開く触媒になってるみたいです。
さて、では、記憶とはなんなのだということにもなっていくのですが、話が難しくなってきたので、ここらでお開きに(笑)

2006年12月12日火曜日

ルミナリエの夜に思う


ルミナリエ、行ってきました。


去年同様、今年も長田のオジィやオバァを引き連れての、参戦ですわ。
改めて思うのは、年に1回の墓参りみたいなもんだなあ、ということ。

墓参りというのは、死者のためにあるのではなく、生き残った人間が、これからも生き残っていくために、死者と語らうためにあるのだと思うのですが、オレにとってのルミナリエというのは、そういう場になってしまってます。

もうあまり思い出すこともなくなってしまったけれども、震災と震災以降に亡くなってしまった長田のオジィやオバァたちと語らいながら、その一方で、今もまだ生きる気力を漲らせているオジィやオバァと、ボケとツッコミの漫才のような丁々発止のやりとりで、ワーワーキャーキャー言ってます。

鎮魂、といっても、湿っぽくならないところが、長田のオジィやオバァのいいところです。

コリアンのオバァは相変わらずウチナンチューの悪口言ってるし、沖縄は本土と島とで差別があるみたいで、その出身地によってデカい顔したり小さい顔したりしてますわ(笑)
くだらないからやめろ!と言っても、生まれたときから染みついてることだから、聞く耳を持ちません。。
そういう、剥き出しの感情を露にしながら、生き延びてきた人たちを目の当たりにするとね、もっともっと生きることを一生懸命にやらないとダメだなあと、思うのです。
オジィやオバァは、いくつか修羅場をくぐり抜けてきて、それこそ残りの人生はグリコのオマケみたいなもんだとうそぶいたりもします。そうなんだと思うんですが、オマケにしてはヴァイアル・メーターはいつも振り切れっぱなしです。

いつからか、生かされているのだという感覚が、自身の裡に芽生えてきています。
天に召されたオジィやオバァと語らうたび、生かされているのだと実感します。
愛らしくもうるさいオジィやオバァと触れ合うたび、この人たちはなんだかんだ言って、オレを生かしてくれているなあ、と思うのです。
力があるからこそ、触れる人に自然と力を分け与えることも出来るのでしょう。

ロックンロールは、そこへ向かう憧れの音楽であり、ベクトルの音楽ですが、ソウル・ミュージックは、ただそこにあるだけで成立してしまっている、存在の音楽です。タフですね。

この、オジィやオバァを見ていると、ソウル・ミュージックが聴きたくなってきて、仕方ありません。
ルミナリエの夜、そういえば、毎年、なにかしらのソウル・ミュージックを、どっぷりと聴いています。


そんなわけで、今、久しぶりにこれを聴いてます。
これもまた、そういう意味でのソウル・ミュージックですね。誰がなんと言おうと。


小沢健二 / 痛快ウキウキ通り

2006年12月11日月曜日

小学校4年まで、サンタクロースが実在してました


お歳暮がてら、知り合いの子だくさんデザイナーさんのご家族宛にクリスマス・ケーキを発注しようとしたら、すでにご自身で発注済みだったことが発覚し、さてどうしたもんかと、ちょっと困っているルイスです。

そういう話を仕事仲間としていたら、いつまでサンタクロースの存在を信じていたか、という話になりました。

まあ、ウチはオヤジもやり手やったんで(笑) オレは、疑うことなく、素朴に信じてましたわ。小学校の4年生くらいまでは信じてました。。。。


クリスマスの1ヶ月くらいまえに、オヤジから、欲しいもののリサーチがあるんですわ。
オレ、ちっこいころはなぜか鉄道少年やったんで、毎年毎年、鉄道模型と線路がセットになったやつを、プレゼントにねだってました。
それも、大中小とあって、線路の本数と車両の数が違うくらいなもんですが、やっぱり、大が欲しいから、「大!」って言ってたように思います。
でも、そんなリサーチを1ヶ月もまえからやる必要があるんかいな?と、子供心に思ってたんですね。それ、オヤジに言ったことあるんです。
そしたら、オヤジ、オレをトイレに連れていってですな、トイレの壁に貼ってある世界地図を見ながら…、そう、我が家では、世界地図と日本地図と大阪府の地図がトイレの壁の3面に貼ってあったんです。幼少時代のオレが鉄道少年やったんは、きっとそのせいやと思うんですが。

えーっと、その世界地図の、グリーンランドを指差して、サンタクロースはここに住んでいて、日本はここやから、遠いやろ。1ヶ月くらいまえから知らせておかんと、間に合わんのや、と、嘘のようなほんまのような話をオレにするんですよ。
といっても、世界の大きさも、グリーンランドと日本の距離の遠さも実感として持てるような年齢ではないので、そーなんやと口では呟きつつも、メルカトル法で描かれた世界地図のおかげでバカみたいに巨大になったグリーンランドとちっこい日本を比べて、日本はあかんな!とか、腹のなかでは全然関係ないことを思ったりしてたオレでした。

それからクリスマスの1週間くらいまえになると、電話がかかってくるんですわ。今となっては懐かしい黒電話ね。今でも、実家はその当時のままの黒電話ですが。。んで、オヤジが電話に出て、今にして思えばきっとデタラメな英語やと思うんですが、なんやしらん、喋ってるんですよ。んで、電話を切ってから、今、サンタクロースから電話があった。今年は24日には間に合わんかも知れんらしい、とか、オレに言うんですわ。いい子にしとったら、24日に間に合うように頑張ってくれるとも言ってた、とか、ちゃっかり付け加えてね。

とにかく、あの手この手で演出されてたんで、普通に信じてましたな。
でも、信じてるといっても、実物を見たことがないわけですから、会いたいですやん。
学校で小耳に挟む、サンタクロースの正体はオヤジや、という噂の真相も、確かめたいですやん。

だから、24日の夜は頑張って起きてるんですよ。
オレが起きてるうちにオヤジは家に帰ってくるんですが、プレゼントらしき包みを持っていないかどうか、オヤジが家に帰ってくるときにちゃっかりチェックするオレがいてたりするんですが、どうもそれらしい包みは持ってない。
この時点で、サンタクロースはオヤジである説は、オレのなかでは一蹴されるんです。
あとは、実際にサンタクロースが現れるまで起きていて、現場を押さえるのみ!(笑)

と、意気込むんですが、毎晩10時にはぐっすり眠っていた幼少時代のオレの悲しさですわ。毎年毎年、ソッコーで寝てたような…。枕元には、ちゃんと靴下とか置いてね。
んで、気づいたら朝ですやん。
朝、しまった!とか思いながら、枕元を見ると、鉄道模型と、新品の下着が置かれてるんですわ。
新品の下着は、正月に下ろす用のやつなので、その時点では見るだけなんですけどね。

サンタクロースがオヤジやったことをはっきりと知るのは、小学校5年生のとき。
親の口車に乗せられて、中学受験に燃えていたオレは、すでに深夜まで勉強する小学生になっていたのですよ。
その晩、寝たフリしていたオレの枕元にそっとプレゼントを置きにきたのは、紛れもなくオヤジでした。

それにしても、1週間前にかかってくる電話、誰に頼んでたんやろか?(笑)

2006年12月10日日曜日

モノヅクリさんに告ぐ、営業を怖れずに!

相方さんがチラシを編集部に送りつけたり足を運んで持っていったりした甲斐があって、ちらほらといろんな雑誌社から反応が来るようになりました。
すでに実際に掲載されたものもあるし、これから掲載が決まっているものもあるし、今は予定がないけれども、合致する企画のときはよろしく!と挨拶があったり、いろいろと反応が出てきてます。いいかんじです。

んで、先月の25日、第1発目としてエルマガジンに掲載されたわけですが…、

その後、です。
掲載のお礼メールや電話はちゃんとしたの?
と聞くと、なにもしていない、と。。。。

んで、今月の15日には知恩寺さんで再び手づくり市に出展するわけですが、それは編集部に言ってあるの?
と聞くと、これまた、なにもしていない、と。。。。

ったく、なにをやってるのか!って話ですよ。
なんのために、雑誌とのパイプをつくったのか。。。
せっかく自分で足を運んで築いたパイプをですな、単発で終わらせようとして、次に繋げていこうとする発想がないんです。

掲載のお礼をもっと早くにやっておけば、お礼と手づくり市のお知らせと、少なくとも2回は編集部と連絡を堂々と取れるのに、今からだと、お礼とお知らせと一緒にやるしかないから、1回しか接触出来ない。。
もったいない話ですわ。

と、少しお小言を言ったんですが、まあ、初めてのことだし、そこまで気をまわすのは難しいのかなぁ、とも思います。

どーもね、編集部に何度も何度も掲載のお願いをするのが、あつかましい!と思われないか、とか、ウザイ!と思われないか、とか、考えてしまうらしいのですね。

これ、モノヅクリさんが陥りやすいワナですね。
10人いたら9人までが、このワナにハマるんじゃないかな。
やっぱ、営業が苦手なんだな。

これ、以前にも日記で書いたんですが、繰り返します。
営業とは、売り手と買い手の双方がハッピーになる商取引のことです。あくまで、双方が五分の、取引です。
売り手は、相手がハッピーになることで、つまり儲かることで、自分も儲けるんです。
オタクの店にオレがつくったこれを置いてくださいよ、バンバン売れて儲かりますよ、オタクが儲かってくれたらオレも儲かるから万々歳です。だから、一緒に儲けましょう☆
これが、営業です。

もっと簡単に言うと、atricotさんの服を、それを欲しい人が、納得した金額で買った。買った人は、欲しいものが納得のいく金額で手に入ってハッピー、売ったatricotさんも、納得のいくお金が儲かってハッピー。これが、商取引です。だから、売り手も買い手も、五分と五分。イーブン。だって、取引だもん。これが、健全な商売。
だからね、売り手がへりくだる必要は、まったくないんです。マナーとして、テクニックとしてへりくだることはあっても、腹の底で、そんな意識を持つ必要は、どこにもない。むしろ、相手をハッピーにしてあげたんだから、自負を持っていい。
売り手も、ありがとうございました!だし、買い手も、ありがとうございました!なんです。

その意識をね、モノヅクリさんは、上手く持てない人が多いですね。特に、駆け出しのモノヅクリさんは、10人中9人がそのワナにハマってるかんじです。

雑誌に話を戻します。
雑誌の編集部は、そこに掲載の協力をしてくれる人や店がないと、成り立たんわけです。また、編集部員は、常に、読者にとって有益な情報を、掲載に値する人や店を、探しているわけです。インタビューを受けてくれるミュージシャンがいなければ、音楽雑誌なんて成り立たないでしょ。
そこまでは、誰でも想像出来ますよね。
そしたらさ、私はこんなことやってます、次はこんなことをやります、って情報を、自分から編集部に向けて発信してあげたら、編集部は喜ぶに決まってるじゃないですか。たとえ今回は企画に合致しない情報であっても、いつかは使える情報として、ストックしておきます。ストックは、多ければ多いほどいいわけです。情報なんて、場所をとらないんだから。

私がやっていることは貴誌の読者が知りたいことだから、お知らせします。貴誌は、私の情報を掲載し、読者を存分に満足させてあげてください。貴社の価値をさらに高めてください。そうすれば、私もハッピーになれます。
と、そういう意識でいいんです。これが、五分と五分です。
もちろん、これをストレートに言うのではなく、言い方はいろいろありますが、意識は、これなんです。
いい話を持っていってるのにね、あつかましいもウザイもないですから。いい話なんだから、喜ばれます。どんどん、持っていけばいいだけです。

けっして、掲載してもらえませんか?という意識ではダメなんですね。
それだと、「どうか掲載してください、お願いします」「おおそうか、そこまで頭下げるなら掲載してやろう」にしかならない。すでに五分と五分の関係ではなくなってます。こんなのは、商売でもなんでもないですね。

この意識が持てれば、売り込みに行くときの売り込み文句も、声のトーンも、顔つきも、姿勢も態度も、すべて変わります。

私があなたをハッピーにしてあげる、してあげたい!
そういう意識でモノをつくっているモノヅクリさんは、多いはずです。
それをね、商売にもあてはめてみれば、上手くいきます。

モノヅクリさんは、貪欲な人ほど、自分の作品に自信が持てませんね。
それはそれで、いいんです。それが、正常。
完璧なものがつくれたって思うことなんてないし、どっかしら不満があるから、次こそは!ってなるわけです。
才能のある人ほど謙虚だし、自分の才能を疑うし、それは、モノヅクリにおいてはとても大切な必須事項です。
でも、その意識をそのまま商売に持ってきちゃうと、ダメなんですよね。
あなたをハッピーにしてあげたい、モノヅクリの動機になっているはずのその意識こそを、商売にも持ってくる。それをしなければなりません。

2006年12月9日土曜日

バカバカしい結婚

登場人物は、嫁、夫、舅(夫のお父さん)の3人。

嫁31歳。
夫31歳。
舅、58歳。長らく勤められていた会社を辞め、現在は自宅にて自営業。

嫁31歳は、オレの知り合いなのだけれども、広島出身で大阪で働いていたのでした。派遣で、ブランドものの販売店で、店頭に立って仕事をしていたのですがね。

んで、彼女が、その店の店長と付き合ってすぐのこと、店長が生まれ育った横浜に転勤で帰ることになって、今すぐ結婚してほしい!ほいで、横浜に一緒に来てほしい!と、プロポーズされたわけです。
付き合いはじめて、1ヶ月経ってないんじゃないかな。

元来、結婚願望が強かった彼女は、降って沸いたような話に、舞い上がるだけ舞い上がってホイホイとその話に乗り、彼氏さんのほうもプロポーズを二つ返事で受けてもらえ、ま、万事順調に進んでいたわけです。

彼氏のお父さんも横浜から大阪にやって来て、彼女のご両親にお会いし、話はあれよあれよという間に進んでいきます。プロポーズがあった3、4日後に、そういう展開でしたわ。

なんでも、彼氏さんは、早くにお母さんを亡くされ、お父さんの男手ひとつで育てられてきており、家庭というものに飢えていたとのこと。お父さんも、一人息子が嫁を迎えるのだから、出来るだけ嫁さんの居心地がいいようにと、あれやこれやと話していかれたわけです。

まず、横浜にはすでにお父さんと彼氏さんが連名でローンを組んだ持ち家があります。2階建てだけど、べつに2世帯仕様ってわけでもない。
ところが、彼氏さんは家が建ってからほどなくして転勤を余儀なくされ、その間、数年前から今に至るまで、支払うべき家のローンを、すべてお父さんに任せていたわけです。最初の話では、2人で応分の金額を分けて、って話だったらしいのですが、ま、息子さんの経済事情からでしょうが、その話は反古にされ…。でも、今度その家に3人で住むにあたっては、ちゃんと毎月のローンの分を、応分負担すると。

ところが、です。
彼女は、そもそもが彼氏さんのお父さんとの同居などもってのほか、という考えの持ち主でして、ここらへんから少し雲行きが怪しくなるのでした。
その話を、両家で集まったときに彼女がすると、彼氏さんのお父さんは、自分には今、結婚したい女性がいて、ゆくゆくはその女性と一緒に暮らすつもりだから、家は出る、と。そのうえで、ローンの支払いは続けていくつもりだから、しばらくは3人で暮らすことになるとしても、ゆくゆくは若い夫婦2人で好きなようにやればいい、と。
さらに、です。お父さん、彼女に向かって、自分のご飯はつくらなくていいし、なにもしなくていい、と。

そういう話なので、彼女は、こりゃいいわい、と、これまた二つ返事で横浜行きを決断したわけですが…、端でその話を彼女から聞かされていて、そんな上手いことコトが運ぶか?と、オレは、一抹どころか大きな不安を抱えていたのでした。抱えていたといっても、オレにとっては所詮は他人事なので、異国の火事をテレビで見る野次馬程度のもんですが。
それよりも、彼女は料理がまったく出来ないので、これからオレんところに電話がかかってきて、あれこれとレシピを教えなきゃならんのやろな~、ってことが頭によぎっていたくらいで。

そんなこんなではありましたが、付き合って2ヶ月経たないうちに、入籍。2人ともお金はないから、結婚式はしない。で、身のまわりの荷物だけ持って、彼女は晴れて妻となり、夫と舅の待つ横浜へ旅立っていったわけです。

それから半月後!
結婚しましたハガキが来ることもなく、早速電話がかかってきましたよ(笑)

まず、
横浜の新興住宅街の新居の周りは、夫側の親戚がたーくさん住んでおり、なにやらどアウェーに単身乗り込んできてしまった感があって、しんどい、と。
夫の帰りは毎日深夜、一方で自営業の舅さんは終日家にいて、なにかと居心地が悪い、と。
出来ない料理を一生懸命頑張って、舅さんのぶんもつくってるのに(ほら、当初の話とすでに違ってる。笑。)、その料理によくケチをつけられる、と。
舅さんの洗濯物も、洗濯させられる、と。

レトルト買って晩ゴハンつくっては、舅さん「またレトルト?」、彼女「すいません…」ってな具合らしくて。
まあ、これまでの31年間、まったく料理をしてこなかった彼女も、自分のゴハンなどは一切用意しなくてもいいからと言った舅さん、どっちもどっちですが、このようなことがね、延々と続いてるわけですよ。
そこへきて夫は帰りが遅く、帰ってきたら帰ってきたで疲れてるから、すぐに寝ちゃう。。。あんまり、間に入ってないみたいなんですね。

そんな状態で、オレんところに電話がかかってくるわけですが、んなもん、それみたことか、としか言いようがない(笑) せいぜい、料理の勉強でもするしかない(笑)

そうそう、舅さんがこれから結婚しようとしている相手の女性というのは、飲み屋さんで働く若い韓国人女性さんで、今、舅さんが別で部屋を借りて、彼女を住まわせているらしいのですよ。
なるほどね、とオレは思いましたよ。
んなもん、舅さんは金づるに思われてるだけで、その女性は結婚しないでしょうね。結婚話がどの程度進んでるのか知らないけれども、きっと潰れるわ、と。

それからまたまた半月後、入籍してちょうど1ヶ月後、またまた彼女から電話がかかってきました。

夫が休みの日に、夫を横に座らせて、彼女は舅さんに、最初の話が違う!と、ぶちまけたそうです。
引っ込み思案であまり社交的もない彼女にしたら、けっこうな蛮勇ではあるんですけどね。でも、んなもん逆効果に決まってる(笑)

案の定、舅さんは、嫁に来るというのは、そういうもんだろう!と、逆ギレ。
しかも、3人同居がスタートしたのにもかかわらず、この若夫婦は、未だ家のローンの応分負担をしていないらしくて、そこも突っ込まれたらしいです。

ほいで、いよいよ泥沼になり、彼女は家を飛び出し、彼女にとっては横浜から一番近くにいる、東京は市川の親戚の家に、とうとう家出。
なんでも、なんにも出来ない嫁、いてもいなくてもいい嫁、と、舅に言われたのが決定的だったらしく、彼女は家を飛び出したのだとか。

んで、この間、夫はなにをしていたのか。
彼女に聞いても芳しい言葉は返ってこず、どうやら傍観していた模様(笑)

それからほどなくして、
舅さんが、件の韓国人女性と結婚して家を出るから、若い2人で家のローンを払っていきなさい、と、そう通告してきたそうです。
もちろん彼女は家出中ですから、舅さんは息子である彼女の夫に話し、夫経由でそれを聞かされるわけですが、彼女としては1日でも舅とは一緒に暮らしたくないらしく、舅が出ていくまでは家に帰らない、と。
おいおい、市川の親戚さんのところは、そんな長居出来るところなのか?(笑)

それからほどなくして、
舅さん、そうは言ったものの、やっぱり、韓国人女性には結婚を断られたご様子で。なんでも、けっこんするなら、最低限これくらいの生活はしたい、と、結構なコストがかかる生活水準を要求してきたらしく、要するに、金づるってことでしたよ、やっぱ。

それで、舅さんが家を出ていく話も、頓挫。
彼女のお父さんはというと、戻ってこい!の一点張りらしいです(笑)


なんか、甘い考えの人が3人集まって、好きなこと言って、誰ひとりとして落としどころを探そうとしていないみたいなので、完全に部外者でしかないオレなんかになにかを相談されても、どうにもならんですけどね。

とりあえず、
彼女と夫は、どっかに部屋を借りて独立する。
最初に取り決めたローンの応分負担は、彼女と夫で責任を持って支払う。
彼女は働きに出る。

とだけ、提案したんですけどね。

そうすりゃ、そのうち舅さん年だし弱ってくるだろうから、向こうから面倒をみてもらいに頼んでくることもあるわけで、そんときは、面倒をみてあげる立場として、彼女も上から接することも出来るわけですよ。そのときに上から接するのではなくて、下から接してあげれば、それなりに上手くいくんではないか、と。

今さら3人の考えや覚悟を改めさせるのは難しいだろうから、それくらいしか言えませんわ、オレ(笑)


ここんところ、こんな茶番にも付き合わされていました(笑)



口直しに、SIONを聴いてます。いいわ、これ☆
SIONについては、いつか、きっちりと書いてみたいです。最近、無性にSIONが聴きたくなってます。


本日の1枚:

SION /『俺の声』

2006年12月8日金曜日

庭を掻く



初めて石の庭に対面したのは、10代の終わりころのことでした。

夏の夕方で、今よりはずっと監視が緩やかだったから、オレは、ひとりで、長い廊下に座ったまま白い庭のモノクロームが暮れなずむのを眺めていたのでした。退出を促す若い僧侶がやがて現れ、オレが立ち上がるのを見届けると庭に降り、白い小石の表面を整えにかかりました。
それをゆっくりと拝見することはそのときのオレには許されなかったのだけれども、竹の道具で掻く、という文様のつくりかたを垣間見たことが、ひどく心に残ったのでした。

それからずいぶんと時間が経って、アフリカ・ザイールのクバのテキスタイルを見た折りに、はからずも、その石庭の印象がよみがえってきました。

クバ族はアフリカの優れた染色の仕事のなかでもとりわけ独創的な文様をつくり続けてきたことで知られ、画家のマチスがそのコレクションを愛蔵していたことが、写真家アンリ・カルチェ・ブレッソンのカメラ・アイに収められています。
クバ族のテキスタイルは、草ビロードと呼ばれるカットパイルの布と儀式用の礼装から成り立つのですが、いずれも驚くべき幾何学的なパターンを表現しています。とりわけ葬式の供えものであるカットパイルの四角い布に捉えられた図柄の抽象性は、彼らが、世界を幾何学的な記号の組み合わせとして解釈する、という研究家の言葉を如実に表していますね。

その研究家、メアリー・ハント・カレンバーグが、興味深いエピソードを披露しています。

かつて宣教師がクバの王へ贈りものとしてオートバイを持参したが、王はなんの関心も示さなかった。そこでオートバイを引き上げようと動かしたとき、王の眼が輝いた。タイヤの残した模様が、新しいパターンとして取り入れられることになった…。

この話は聞く者をさまざまに触発しますが、オレは小躍りして、ひとつの持論を出したのです。文様は、まず、動詞がつくってきた、と。
平面あるいは表面に、彫ル、刻ム、などの動詞がかかわって生まれる文様について、古代からの文化遺産の例を引くまでもありません。仏像のまとう布は、畳ムことによって生まれる襞の文様の神々しい例です。
そぎ落トス、削ルなどの意味を持つ、ハツルという動詞もあります。
1988年のヴェニス・ビエンナーレでフランスを代表したダニエル・ビュランは、自国のパビリオンでの建物の肌を見せることを作品としましたが、それはほぼ1世紀前に建築家が残した文様、すなわち石壁のハツった面と、動作を加えない面とが構成する、美しい縞模様の素肌を剥き出しにして見せることでした。

水紋、風紋は、自然が仕掛けた動詞のつくりだす文様と言えるのではないか?

では動詞でなく名詞で文様を見るなら、これまた花、鳥、草、樹、動物。自然界を模したものだけでも無限に存在しています。

そこでまたオレだけの定義になるのですが、名詞からは模様が生まれていきます。

バラの模様、つる草の模様、鯉の模様、ライオンの模様、のこぎり、かんなの模様、サムライの模様、子供の模様。すなわち、かたちと名のあるものたちの模様。

枯山水もまた、自然を模したものではあるのだけれども、そこにある文様の力は、ほとんど謎です。
小石の海の表面を掃くことで水の流れを現出し、小石を円錐形に積み上げることで山を表すと、初めに案出した人は宇宙の再構築を無意識のうちに行っています。日本の庭園で心が静まるのは、プリミティブ・アートを前にするのとおなじと言ったら突飛すぎるかも知れないけれども、根源的な力を捉えた文様、という共通項があります。

クバ族は自然の事物を単一の記号に省略し、抽象化します。
オレが見た一枚は、村落や田畑と思われるものが線による幾何学文様として地面をつくり、その随所に一段と厚みのあるモノリスのような長方形のパターンが浮き出たもので、それは、東福寺光明院の印象を思い起こさせるのでした。

四角いクバの布は死者の霊に捧げるものなので優れたデザインでなければ昇天出来ない、と、クバ族は図案を競い合います。成果をあげた文様は、未来的なイメージさえかき立ててくれます。

12月に入ったばかりのころ、急遽、仕事で早朝の東福寺に行くことになったのですが、その折、超がつく名庭の、文様を掻かせてもらいました。

寺院の庭の文様にも、鎮魂の思いは込められています。
無心にそれを掻く人になりたいと、その後、場所を重森三玲の作庭した昭和の名庭に移し、眺めながら、ずーっと思っていました。

いい体験をしました。

写真(左)オレが掻かせてもらった、東福寺方丈前庭です。
写真(右)重森三玲が作庭した昭和の名庭、東福寺方丈北庭、市松の庭です。

東福寺

2006年12月7日木曜日

「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」

ふう~、特急仕事の突貫工事、無事に終了。
ただでさえ忙しい12月に余計な突貫工事が割り込んでくると、エラい目に遭いますな。

といっても、mixiで遊べないほど忙しいわけでもなかったのですよ。
徹夜徹夜といってもそれはいつものことだし、なんだかんだで深夜4時には仕事を終わらせてたので、まあ、とんでもなく忙しいというわけでもない。ちゃっかり飲みにも遊びにも行ってたし(笑)

なんかね、mixi、あんまりやる気にならんかったんですわ。書きたいことがないわけではないけれども、気分が乗らないから書かないだけ。

いつもは仕事で複数のウインドウを立ち上げ、複数のソフトを起動させ、賑やかにやっているけれども、ここ数日は、mixiにログインすらしてませんでした。
何人のかの方が、忙しいのか?とか、日記を書いて!とか、いろいろとメッセージをくれたのだけれども、それもスルーしました。
mixiはオレの仕事ではないし、慈善事業でもないし、趣味ですらなく、単なる息抜きなので、忙しくて書かない日もあれば、忙しくなくても気が乗らなくて書かない日もあるのですよ。
なので、気にかけてくださる方には、それはそれでありがたいし申し訳ないなとも思うのですが、オレも子供じゃないので、そういうご配慮はなさらぬよう、よろしくです。

さて、その間、なにをしていたかと言いますと、じつはやっぱり忙しかったのですね。
仕事の合間合間に、将来の身の振りかたについて、考えていたのでした。

この夏くらいから漠然と考えていたのだけれども、いろいろときっかけがあって、猛烈に考えるようになったのでした。そのせいで、mixiやってる時間も気力もなくなっちゃったんでしょう、きっと。

オレは大学をプイと辞めて、20歳から売文屋として商売してきたわけですが、そっから現在に至るまで、売文屋だけじゃなく、企画もすれば企画の製作もするし、デザインもすれば撮影現場を仕切ることもするし、予算がなけりゃ自分でカメラを持つこともスタイリストの真似事することすらあります。印刷工場の職工さんに口を出すことすらありますな。オフセットの機械、操作出来るし(笑) だから、印刷物と名のつくものならなんでもするし、今じゃweb製作だってやってる…。そこへきて、商売が好きだから、いろいろと仕掛けていくことも好きだし、一方でクリエイターでもあるわけで、モノヅクリの現場にも相変わらずウロウロしてるし。しかも、その守備範囲は、右足は商工会議所で左足はアメ村に突っ込んでるってくらいに、広いわけです。そのうえで、アマゾンで農場経営もやってる(笑)
女子高生のコギャルを取材して、市町村のトップの会議に出席して、アーティストと打ち合わせして、銀行とカネのやりとりで丁々発止して、風俗店の求人広告つくって、農場栽培のレポートつくって…、なんてことを、1日のうちにやったりしてるわけです。その合間に、寺に昼寝に行き、相方さんと遊ぶ…。
出版社と編集プロダクションと広告代理店とビジネス・コンサルタントと農場経営と貿易業と、1人で6役やってるみたいなもんですわ(笑) そりゃ、忙しいはずだわ、と、我ながら思うけれども。
たぶん、日本中探してみて、オレみたいな業態で仕事をしている人って、いないんじゃないですかね。少なくとも、オレは、オレみたいな業態で仕事をしている人を見たことがない(笑)

どれもね、おもしろいからやってるわけです。やりたくて、どれもやってきたわけです。
だから、しんどいことは全然ないし、24時間やってろ!といわれたら、やるんでしょうね。

よくね、何屋さんなの?と、聞かれるんですよ。
そんなの聞いてどーするんだ?と、オレは思ったりもするんですが、まあ、わかりやすさというのはひとつの価値ですから、そうなるんでしょうね。
でも、初対面ならともかく、一緒に仕事をしたこともある人がね、オレのアイデンティティを確認するかのごとく、何屋なのか?と、問うてくるほどに、いかほどの意味があるのか…。
その人との仕事で、オレがライターとしてかかわれば、その人にとってはオレはライターさんでしょう。デザインをすれば、デザインを書いて文章も書くことの出来る人ってことでしょう。それ以上でもそれ以下でもないと思うんですけどね。
いくらオレが、ライターだ!と叫んだところで、オレの仕事を見て、あんなもんライターの仕事じゃない、と判断されたら、それまで。
だから、何屋さんか?と問われても、その人が見たものが、オレの職業ですとしか、言いようがないじゃないですか。オレのアイデンティティ? 知ってどーする(笑) んなこと、オレだって知らない(笑)

話はとめどなく横道に逸れていきますが、じつはここまでは、前置き。
そして、なにを書きたいのかも、じつはまだ定まっていない状態で(笑)

えーっと、まあ、そうやって仕事をしてきたわけです。
んでね、今、40歳なんですよ。来月で41歳。
実年齢よりも若く見られることがほとんどなのだけれども、それはきっと、しなければならないことには一切見向きもせずに、したいことだけをしてきたことと、常に若い人と接してきたからこそなのだと、思うわけです。
年齢的にね、行政レベルの仕事をしていくほうがギャップが少ないし、でもオレは、サブカルチャーが大好きだし、若い人と触れ合うのも大好きなので、そっちの仕事もしていきたいのですよ。

ところが、だ。
この3、4年かな、ネットを中心とした物事の変化のスピードのあまりの速さに、ちょっとついていけなくなってきてるんですよね。
そのため情報収集に汲々としてしまっていて、それだけで結構な時間をとられちゃう。そこのさじ加減は割合と難しいのですが、それでもそれは、経験則でなんらかの方法を見つけるだろうな、と、自分では思っています。
問題はそんなところにはなくて、若い連中がおもしろがっていることが、オレにとっては、だんだんとおもしろくなくなってきていることなのですよ!
昨日今日出てきた連中の音楽で、心を動かされるものは、さっぱりありません。
若手芸人? おもしろいと思ったことがない…。
新しいビジネススタイル? 驚愕したのは、googleがやってることくらいです。
新人漫画家、小説家、詩人、絵描き…、興奮した人は…、やっぱ、いないわ。
そんなかんじなのですね。

これがね、いち個人としてみた場合、全然問題じゃないんです。
おもしろくないんだから、オレには関係ないから勝手にやってくれ、でいいんです。
でもね、職業人としてみた場合、これはちょっと由々しき問題だな、と思うわけです。
軸足をね、社会的に年齢相応の場所に移せば、それでもいいんですが、それだとね、おもろくないんですよ。
毎日毎日ネクタイ締めてスーツ着たオッサンと顔つき合わせて、カタい話ばっかりなんて、やだわ。
どっかの参与や顧問に迎えられるのなんて、もっとイヤだし。
そっちに軸足を移したいと思うときがきたらそうするだろうけれども、今は、そんなこと思いません。

そういう状況でね、3年先の目標を像として結べていないのが、ここ最近、悩みの種なのですよ。
中長期の目標が立てられないから、短期の目標が立たない。
このままのんべんだらりと惰性で仕事をしていくしかないのなら、こんなアホらしいことはないですしね。

で、さてどうしたものかいな、ということを、いろいろとシュミレートしつつ、漠然と考えていたんですね。

そういう折り、出会ったのが、今、マイミクさんの寧楊さんで。
ようやく本題に入りつつあります(笑)

寧楊さんは、オレのマイミクさんのmomoさんのマイミクさんで、今年の時代祭のときに、momoさんが引き合わせてくれたのでした。
ひと目で大好きになって、そのあたりのオレのはしゃぎようは、何度かこれまでの日記でも触れたので苦笑されている方もいらっしゃるでしょうが、なんちゅーかね、久しぶりに、出会ったな!っていう感覚を感じたんですよ。

んで、家が近いこともあって、何度かお会いして、オレはすっかり寧楊さんになついてるんですが、そうするなかで、じつは彼女も、将来像を模索していることを吐露されて、それがきっかけになったんです。

漠然と考えていたことを、真剣に考えるようになったわけです。
ここ数日、mixiにログインすらしなかったのは、忙しい仕事の合間を縫って、3年先のシュミレーションを、あらゆる角度からやってたんです。
ただ、どの角度からシュミレートしてみても、あんまりおもしろい地点に行ける道筋が、見つからないんですよね。だから、答えはまだ出てないんですが。

出てないのだけれども、
ひとつ、再認識したことがありました。

それは、じつはもうひとつのきっかけがありましてね。

えーとね、藤原和博さんが書いた『リクルートの奇跡』がいつのまにか文庫化されているのを本屋さんでたまたま見つけて、単行本でも読んだのですが、今回、文庫を買って再読していたんです。
オレは成功のケーススタディにはほとんど興味がなくて(成功要因はたいていの場合いろんなことの複合なので、あまり参考にならんのです)、読むとすれば失敗したケースタディの、なぜ失敗したのかというほうに興味があるのですが、この本だけは別。
まず、オレも長いことリクルートにかかわってきたので、リクルートの成長物語であっても、その裏の失敗も山ほど知ってますから、これはリアルにわかる話なので。第一、知っている人がいっぱい出てきます。

ここでリクルートの話などに触れていたら、この日記は際限なく長くなっていくのですが、行きがかり上、触れないわけにはいきませんな(笑)

オレの、社会人としての出発は、リクルートと縁を持ったところからはじまるんです。
べつにリクルートの社員でもなんでもなく、最初に開いたコピーライターの事務所で、売上の70%以上占めていたのが、リクルートの仕事だったんです。
今から20年もまえの話だけど、おもしろい会社なんですよ。社員も契約社員もアルバイトも、オレみたいな取引先までが、平等に扱われていてね。上から下まで、役職で名前を呼ぶ人は誰もいなくて、全員が、さんづけ呼んでるし。
自分が社会に出た一番最初の時期に、黄金期を迎えようとしていたあの会社とかかわりを持てたことは、今振り返ってみても、とんでもなくラッキーなことでしたね。オレの会社観というものはそのときに決定づけられたし、自分が会社を興すたびに、会社を経営するたびに、どれほどの知恵を、あの時代に学んだものから取り入れてきたことか。
以降、7000~8000社ほどの会社とかかわりを持ってきたけれども、今もって、あの時代のリクルートに並ぶほどの魅力的な会社に出会ったことは、ないです。

会社の財産は、人であるということ。
そのために、採用には、狂っているとしか思えないほどの予算を注ぎ込みます。
1人を採用するのに、800万円ほど注ぎ込みますから、あの会社は。1000人採用したら、80億円ですよ。そういうカネを、人材を確保するためだけに、注ぎ込む会社です。
当然、最優秀の人材が来ます。
アルバイトをとるのだって、2次面接までして、最終面接者は支社長ですから。
人がいれば、事業は後からついてくる、そういう会社なんです。しかも、それを、強烈に実践してきた会社。全社員がリクルーターだし、優秀な人材を引っぱってこない社員は、それだけで評価が下がります。
そこが、最優先の会社。

いや、こんなことから書きはじめていたら、それこそ藤原さんが1冊の本にしたように、1冊の本が出来てしまうから、話は大幅にはしょらざるをえないんですが…。
えーっと、なにが言いたいんだっけな?(笑)

リクルートには見えない財産が無数にあって、たとえば、
そのなかのひとつに、社会に対して常に独自性のあるユニークな情報システムを創出し、世に問うことを仕事にしている誇り、とでも呼ぶしかないプライドのなかで、多くの人が仕事をしている点が挙げられます。
給料だとか人事だとか、そういうところにはほとんど関心がいかない会社でした。
んで、そういうことを誇りに持って仕事をしているのがリクルートとかかわった人間だから、誰しもが経営者感覚を求められるんですが、それにしたところで、闇雲に求めたところで生まれるものでもなく、それこそ超優秀な人材を狂気とも思える予算を突っ込んで確保し、そのうえで、経営陣の親類縁者を一切入社させず、社員持株会を筆頭株主にするところまで、徹底してましたね。
ダイエーに買収されたとき、そのフェアネスが損なわれることを怖れた社員たちが立ち上がって、リクルートの企業風土を守ろうと躍起になったんですが、それも頷ける話で、そこが損なわれたら、この会社は、たちまち地に落ちてしまったでしょうね。そうなれば、優秀な人材ほど真っ先に抜けていくでしょうから。とにかくね、人事だとか給料だとか、そういうことに関心が向く人がほとんどおらず、多くの人が、お客さんのほうを見て仕事をしてきた、そういう会社だったんですわ。
飲みに行って、社内の話をするよりもはるかに多くの時間をお客さんの話をしているような会社。
うん、誇りのなかで仕事をしてきた人たちの集まりだったですね。

そのつぎ、これまたスピリッツの話になるんですが、
この会社の古い社訓に、
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」というのがあるんです。

創業者の江副さんが考えた社訓ですが、今に至るまで、オレの仕事観の中心に近いところを貫いています。
ずーっと、それを実践してきたからこそ、今のオレの仕事は、何屋か?と問われるほど守備範囲の広いものになってしまったわけだけれども、そのことをね、今回、藤原さんの本を再読して、思い出したんですよね。

おもしろくないのなら、おもしろくすればいいんや!って。
ちょうどね、寧楊さんと出会ったことと、この本を読んだことと、時期がピッタリ重なってね、そうだそうだ、機会をつくろう、そういう機運だわ、と、確信出来るにいたったとのが、今日(笑)

今、さっそくいろんなことを仕込みにかかってます。
来年、動きますよ!

そんなわけで、すっきりしたことだし、mixiの日記もぼちぼちと書いていくのでした。


たった今、これ聴いてます。やっぱ、かっこいいわ☆


ani difranco / Pick Yer Noise

2006年12月2日土曜日

いくらなんでも…



いくらなんでも。。

オマージュでも真似でもなくて、単純にパクリですやん。。。
どういう経緯でこんなことになったのか、知りたいですわ(笑)

ちなみに、ドリキャスが先で、ソフトバンクが後。

んで、どっちも「自粛」と謳ってますが、我々の世界では、どっちも「差替」と言います(笑)
「自粛」どころか、じゅうぶんに「新聞広告」として成立し、一定の成果をあげているではないか(笑)