2007年5月31日木曜日

人の業の、なんと深きことか

松岡農林相の訃報が流れたとき、彼は辞任すべきだと言っていた自民党議員は、まず、彼の冥福を祈るコメントをしていました。
一方で、社民党の福島瑞穂は、説明責任を果たすことなく亡くなったのは残念だ、みたいなことをコメントしてましたね。
バカか、と思いましたよ。
オレは松岡農林相なんて縁もゆかりもないから、子供に自殺するなって説いてる内閣の閣僚が自殺するんじゃないよ、くらいのことは思いますが、福島瑞穂は、政敵とはいえ、おなじ国会議員でしょう。顔見知りでしょう。ましてや、彼女は、ひとつの政党を代表する党首です。
どうしてね、お悔やみを最初に言えん?
政治的な立場からのコメントは、その次でしょう。
最初にお悔やみを言ったのかもしれないし、その言葉をメディアはカットして放送したのかもしれません。でも、そうだったなら、メディアがそういう操作をすることくらい、彼女は承知したうえで発言するべきです。
あれで、人権派の弁護士を名乗り、人権派を標榜する政党だというのだから、ちゃんちゃらおかしいです。
人権派と称する人たちって、言葉とは裏腹に、なぜか、非人間的な人が多いですね。
少なくとも、平均的な日本人が持っている死生観とずれているし、政治家としてのセンスもありません。
いや、あのコメントを聞いたとき、PCのマウスを、思わず放り投げましたわ。

阪神大震災があったころ、オレの師匠は、大阪中の家具屋さんを束ねる大親分でした。大阪に、関東から超大型の家具量販店が進出してくる計画が発表され、大阪の小さな家具屋さんは危機感を募らせ、オレの師匠が、出店反対の神輿に担ぎ上げられていました。
その超大型家具量販店は、神戸に出店準備室をすでに構えていたのですが、そのとき、阪神大震災が起こりました。出店準備室は壊滅し、そちらのお店のスタッフから、何人かの死者が出ました。
オレの師匠は、死活問題にすらなっているその量販店に対して、自腹で、100万円の見舞金を送ってましたね。弔電も打ち、葬儀にも列席してました。
人の死というものは等しくて、敵味方など超えたところにあるのだよ、と、オレは、そのとき、師匠に教わったのでした。
オレは、そのときの師匠の言葉を、肝に銘じてますけどね。福島瑞穂に教えてあげたいもんです。

さて、火曜日、オレは急な名古屋出張でして、合間に、愛知県立美術館に伊藤若冲のプライス・コレクションを見、仕事をこなして、トンボ返りで帰阪。新幹線に乗り込んだらですな、叔父の訃報が飛び込んできました。
脳溢血でした。子供がおらず、奥さんが2年前に先立たれたので、独り暮らしでした。自宅で倒れ、死後数時間が経っていたようで、隣に住む彼の幼なじみのおじさんが、連絡がとれずにおかしいと思い、家に入って、倒れているところを発見してくれました。
叔父の父親、つまりオレの祖父が開いた大阪でも一番古い部類に入る喫茶店を引き継ぎ、やってきた人です。
突然のことでビックリしたし、いろいろとお世話にもなったので、思うことはさまざまにあります。
さまざまにありますが、これから先の葬儀やなんやの、有象無象のことを考えると、もううんざりする気分が先に立って…。

オレのオカンの弟です。63歳です。
オレんところは、オヤジが広島出身なのですが、オヤジの親戚のほとんどが戦争で亡くなっていることや、オヤジが大阪で生活してきたこともって、我が家の親戚付き合いは、大阪を根城としている母方がメインなのですね。
で、この母方の親戚連中なんですが、半数が創価学会に入会しておりまして。。。
あのね、オレのマイミクさんのなかに創価学会員がいらっしゃるかどうか知りませんが、オレは、この人たちに、葬儀、法事のたびごとにね、邪魔されてきたのですよ。

いつだったか、オレが高校生のころだっと思うのですが、オレのオカンが、親戚に感化されて、突如、学会員になったのですね。聖教新聞と大白蓮花を購読し、代々の位牌の横にご本尊と称する掛け軸を祀り、連日連夜、南無妙法蓮華経を唱え出し、集会に顔を出すようになり…、オヤジはもともとが創価学会も池田大作も公明党も大嫌いな人でしたから、もうね、毎日毎日、夫婦喧嘩ばっかりでしたよ。寄付とか高額商品の購入とか、そういうことはなかったけれども、なにがきっかけなんだか知りませんが、のめり込むようにして、毎日読経してましたね。
そのころ、オレは家に寄りつきませんでしたから、まあ、詳しいことは知らないですけどね。触らぬ神に祟りなしで(笑)

そのオヤジが亡くなったのが、オレが27歳のとき。
オレはその直前に日本に帰国し、喪主を勤めることになるんですが、もうね、オレの知らない人たちがわんさとやってきて、学会葬をやろうとするんですよ。オカンも一緒になって。
故人が創価学会を毛嫌いしてたのにさ、それはないだろう!と。
葬儀会場に青白の幕が勝手に張られていくのを目にしてね、ブチ切れましたね。全員の首根っこを引っつかまえて、青白の幕も外して、強制退去。
で、こっちで用意した葬儀屋さんに黒白の幕を改めて張りなおしてもらって…。
そのあとね、オレの目を盗んで、もっかいやって来て、青白の幕と交換しようとまでしたんですよ。
お坊さんまで勝手に呼ぶし。。。
うちのオヤジはお東さんですから、南無阿弥陀仏と南無妙法蓮華経が大ゲンカですよ。。

そんときオレは、もちろん喪主を勤めるなんて初めてで、それこそ師匠にいろんなことを教わりながら進めていくんですが、オヤジも商売人だったので、焼香や席次の序列とか、どの偉いさんをどの順番でなんて、わからんのですよ。サラリーマンなら、会社の社長がトップ、で、すぐに決まるんでしょうが、商売人だとそうはいかないし、ましてや、オレはオヤジの交友関係を知りませんでしたから。留め焼香を誰にすればいいのかすら、わからんかったですわ。
近所の人に手伝ってもらいながら、弁当の手配をし、生花の名前をチェックし…。
それをね、また、いちゃもんつける人がいるんですよ。あれがなってない、ここが間違ってる、こんなんじゃダメだ!とね。母親の叔父にあたる、桃山学院大学スポーツ生理学教授のオッサンですけどね。
んなもんね、初めてで右も左もわからないオレが喪主兼葬儀委員長をやってるんだから、教えてくれるなり手伝ってくれるなりすればいいものを、文句言うだけ。いちゃもんつけるだけ。
名前がものすごい難しい人がいらっしゃって、オレはその人が献花してくださった生花の名前を間違ってしまい、エラいこと失礼を働いたんですが、でも、おおらかに受け流してくれました。それが普通でしょ。

そのあと、オカンの兄弟…、長女、次女、オカン、長男なんですが、これがまた、年いってから仲が悪くてですな。しかも見栄っ張りときてまして、香典の額が、誰が多いだとか誰が少ないだとか、私には内緒で高額の香典を出して私に恥をかかせただとか…、もう、まとめて佃煮にしてやりたいようなことばっかり言ってるんですよ。

オレはですな、オヤジの葬式から数えて、一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と執り仕切ってきましたけど、そのたびごとにですな、このようなドタバタに巻き込まれておりまして、もう、やだ!ってかんじなのですよ。
一周忌のとき、香典の額の見栄の張り合いでケンカになったオカン兄弟を、オレは法事の席から追い出して出席させませんでしたから。なんで法事の場で、年長の身内に対して、オレがこんな強権を発動せねばならんのか…。

2年前、叔父の奥さん、つまりオレの叔母にあたる方が、亡くなりました。叔父夫婦には子供がいらっしゃらなくて、叔父が喪主を勤めた際にオレが手伝ったのですが、やはりおなじようなドタバタが…。

そして今回。
叔父夫婦に子供がいらっしゃらないので、叔父兄弟の長女、つまりオレのオカンの兄弟の長女が喪主を勤めるのですが、んなもんかたちだけの喪主で、オレが葬儀委員長をやらねばならんのですよ。オカン3姉妹のダンナは、全員、他界してますから。
この兄弟のそれぞれの子供たち、つまりオレとオレのいとこ連中のなかで、オレが2番目に年長の男でして、最年長のいとこのお兄ちゃんとオレとで、葬儀を仕切らざるを得ません。

今回はですな、上記トラブル(マジで、今回も上記トラブル、すべて発生してます。勢揃いですわ)に加えて、すでに他界してますが、オレの祖父、祖母の面倒を見てきた叔父が亡くなったわけですから、形見分けがね…。祖母の嫁入り道具の桐タンスだとか、祖母が亡くなった際にも揉めまくった形見分けがね、あるんですよ。もう、すでにぶんどりあいがはじまってますわ。はぁ…。

さらにさらに、祖父の代から続いてきた喫茶店とその土地の処分。これが借地か借家か自分の土地か自分の建物か、残された兄弟の誰も知らないという体たらくでして、さっそく、謄本をあげなければなりません。
借金もあるし、相続するものがあるのかないのかからはじまって、相続権を持つオカン兄弟の醜い争いが、これからまたはじまるわけですよ。
古い喫茶店だから、コーヒーの焙煎器、業務用の古いのがあるんです。それ、密かに狙ってるんですが、まあ、オレの出る幕はないでしょうね。。。

火曜水曜と、創価学会の連中とやり合いました。今、お寺さんとケンカしていて、学会葬はお坊さんなしで行うらしいですね。
それでもありがたいお経を心を込めて唱えるので、故人にとってはなんちゃらかんちゃら、と。法華経の歴史的な使われかたまでオレに講義しだす始末ですよ。
そういう話になるのなら、オレは受けて立つよ(笑)
あのなあ、本来、法華経であれ真宗であれなんであれ、仏教は、葬式を執り行う宗教ではないですよ。仏教は、どの宗派であれ、葬式なんかやらなかった宗教ですよ。檀家制度を設け、墓を管理し、葬儀に坊主が出てきてお経を唱えるようになったのは、宗教とは関係なく、お寺が商売としてやってることですよ。もちろん法要はむかしからあるけれども、それは、国家鎮護のためですから。
と、講釈など紐解いても詮なくて、とにかく今すぐ帰らんと不法侵入で訴えるぞ、と。

火曜、あっちこっちに訃報を伝え、町会に連絡して葬儀のお手伝いを依頼し、葬儀屋さんを呼んで見積もり&値切り交渉&発注。
水曜、検死を終えて(自宅でなくなっているので)、仮通夜。
木曜、通夜。
金曜、葬式、出棺、納骨。

そのあと、形見分けだ相続だとやって、店の処分をはじめて、叔父が住んでいた家は賃貸なので賃貸契約の解除をし、家財道具の処分をやって、初七日はすぐだし、四十九日までやることが山ほどもあって、あっという間でしょうね。今、せっせとToDoリストをつくってます。

さっき、仮通夜から帰ってきました。帰ったといっても、自宅ではなくて、神戸の編集部ですけれども。月末で仕事がたまってますからね。
早速、電話。
弁当に生ものが入っていたとかで、桃山学院大学スポーツ生理学教授のオッサンから、わけのわからんいちゃもんをつけられました。
あいあい、すまんこってすな。

はぁ、もう、うんざり。。。。
人間の業というのは、深いですなあ。
いい人生勉強になりますわ。。




ここは景気よく、ジプシーの弔い歌でもいっときますか。圧巻です☆


タラフ・ドゥ・ハイドゥークス / 『義賊と魔法の馬と悪魔の眼』

2007年5月30日水曜日

ピーター・ビアードの超豪華本



ピーター・ビアードの『Art Edition, No.251-2500』
梅田の本屋さんで、はじめて実物を見ましたですよ。

コラージュしまくりで、コラージュ好きのオレにはたまらんです。
しかし、ガラスケースに収められていて、手にとって見ることが出来ません。
宝石ですか?(笑)

なにって…、本ですけどね。书。본。冊。Book。Libro。Livre。Buch。
345mm×500mmの大型本というか写真集ですが、なんと木製専用スタンド付きです。

お値段、
367,500円(税込)…。



CDが何枚買えるんですか…。。。。。
車が買えてしまうんじゃないか…。。。。。

はぁ…。
さすがに買えん…。
買えんです。
本買うのにローン組むのも、あれだし(笑)

買えんが、買っちまったら、経費ってことで税務署は認めるのかどーか、なんてことも頭をよぎり…。
買えんが、買っちまったら、インテリア的にオレの部屋のどこに置いても浮くな、なんてことも頭をよぎり…。

ピーター・ビアード。
アフリカのサバンナとニューヨークの社交界を胯にかけた、写真家にして日記作家。
日記を、芸術にしちまった男。
クレイジーな色男にして、野性的冒険家かつセンシティブな芸術家。



彼のような二律背反、身体じゅうから矛盾を吹き出させる存在といえば、やっぱ、カエターノか。


Caetano Veloso / 『Totalmente Demais』





追)
今日は日帰り名古屋出張、ついでに愛知県美で念願の伊藤若冲の『鳥獣花木図屏風』を鑑賞。
で、帰阪途中、叔父の訃報が。奥さんは2年前に先立たれ、子供がいないので、オレがお葬式を仕切る可能性が大…。脳溢血。自宅で人知れず亡くなったので、警察も入るだろうし、今、てんやわんやですわ~。
それ以外にも、日記に書くことがたまっちゃってるんですが、ちょっとペースダウンするかも、です。。

2007年5月29日火曜日

フューチャー・パイレーツ☆☆☆☆☆


今、自分がこれまでに書いてきたmixiの日記をカテゴリー別に分類して、それぞれを個別のブログに移植していってます。
「京都」「音楽」「食べもの」「お仕事」にとりあえずは分類してみたんですが、カテゴリーからこぼれてしまうものがあまりにも多く、分類方法は要再考かもしれません。ま、悪戦苦闘中です。mixiの日記は、テーマを限定せず、なんの制約も設けずに書いてますからね。写真ブログなんてのもあるし、自業自得ですが、分類するとなると、ほんと、難しいです。。。

ブログだとGoogle AdSenceが使えるから、そっからの広告収入を…、なんてことを目論んでいるわけではなくて、SNSで書いたものはGoogleの検索に引っかかってこないし、そこを解消したいな、というのはあったんです。mixiの日記って、自分が書いた日記を検索する機能すら、ないでしょ。
1年半ほど日記を書いてきたので、それなりに資源になってるし、検索出来るようにしたかったっていうのが一番大きな動機で、2番目の動機としては、もっと広いところにさらしておこう、と。

広いところにさらしておこう、というのは、ネット上の自分の時価総額をあげるというか、要するに、検索結果に、自分が発信したものが出来るだけたくさんリストアップされるように、ということです。
最近、人を募集したときの採用基準に、自分のブログを持っているかどうか、という点を加えました。
メディアに従事しているから、ということではなくて、自分でなにかを発信する力というのは、ビジネスにおいてはかなり重要な項目なので、ブログの有無というのは、ひとつの基準となり得るな、と思ったからです。
あと、短い時間の面接ではいくらでも嘘がつけますが(もちろん、見破られる嘘もたくさんありますが)、長期にわたって書かれたブログは、なにが嘘でなにが本当かを、ある程度浮き彫りにしてくれるからです。

オレのマイミクさんには、リアルの世界で名前が売れている方が2人います。
ひとりは実名、ひとりはハンドルネームを使っているのですが、ハンドルネームを使っている方とお会いしたとき、「私がどんなことをやってる人間なのかは、Googleで私の名前を検索してくれたらだいたいわかりますから」と、おっしゃったんですね。
ご本人のポートフォリオはもちろん、いろんな人が、その人について書かれているページがヒットするので、それらをひとつひとつ見ていくと、その人の人となりや業績といったものを、立体的に、ある程度知ることが出来ます。
ご本人が書いたものではないものもたくさんあるので、差し出された名刺を眺め、ご本人とお話する以上の情報を、容易に手に入れることが出来ます。

クリエイターは特にそうなんですが、過去にしてきたことは、正直言って、どうでもいいんですね。学歴だとか職歴だとか業績だとか、一緒に仕事をするとき、そういうのは、なんの判断材料にもなりませんわ。もうね、見事にならない。
そういうことよりも、今、なにが出来るのか、どこへ向かって歩こうとしているのか、が、圧倒的に大切で、ブログは、そういうことを知る重要な手がかりになります。
そういうことがわかっている人って、自己紹介のところに、学歴も職歴も業績も、なにも載せていない人が多いですね。そういうものを載せていない、というのも、ひとつの意思表示だし、その意思表示は、その人の人となりを知る重要な手がかりになっています。
誰のブログを読むのかって、その人の業績だとかはあんまり関係ないでしょ。ただただ、そこに書かれているブログが、自分にとって魅力的なのかどうか、その一点だけですよ。今現在、その人が魅力的なのかどうか、その一点に尽きます。これは、クリエイターの評価のされかたと、じつにそっくりです。

で、件のマイミクさんの話に戻るけれども、これはかなり有効な自己紹介の仕方だと、そのとき以来、オレは思い続けているんですね。
そういうことも考えて、自分のブログが出来るだけたくさんの人の目に触れるように、と、今、悪戦苦闘中です。軌道に乗ったら、またここで報告します。

さて、その作業をしていたときに、ふと思ったんですが、たとえば、「京都」と検索ワードを入れたときに、出てくる検索結果が10000件だったのが、オレが京都についてブログに書くことで、検索結果のリストは10001件になるわけですね。
ということは、オレは、Googleの検索結果リストの充実にひと役買ってるってことですね。
というか、ブログであれなんであれ、ネット上になにかを書く・アップする人たちは、よってたかって、意図せずして、Googleの検索結果リストの充実に一役買ってることになるわけで、これってすごいな!と、思ったわけです。
オレが、京都について書けば書くほど、ネットにおける「京都」の時価総額をあげることが出来るんだ、と。

だから、Googleさん、あんさんところの検索結果リストの充実にひと役買ってるんだからゼニをくれよ、とは、あんまり思わんです。まあ、Google AdSenceというシステムを通じて、幾許かのゼニをもらえるようにはなってますが。
多くの人に語られていることだけれども、Googleという企業は、ビジネスよりも先に思想が強烈にある企業で、たとえば、「ネット世界を民主化する」だとか「邪悪なことはしない」だとか、そういうことを宣言しているし、またそういうことを強烈に感じさせる企業なので、オレは好きです。Googleという企業は、もちろんGoogleの主観に則ってのことですが、世界をよくしようという思想で貫かれているように思えます。

最初にGoogleのポータルサイトを見たときの印象は、これはもう、強烈のひとことでしたね。
だって、検索用のボックスしかないんだもん。
Yahoo!みたいに、ニュースやら天気予報やらなにやら、ゴチャゴチャしたものがまったくなくて、なによりも、そこには広告が貼られていませんでした。
要するに、検索しにやって来る人が見たい広告なんてないだろ!ってことですよ。
あるキーワードを検索ボックスに入れ、その結果、検索結果リストが並んで初めて、それに関連する広告がある。それが正しい姿じゃないか!と、言わんばかりです。
だから、ポータルであってポータルじゃないのがGoogleのトップページなんだけれども、ポータルなんだから、毎日毎日、億単位の人がそのページにいくわけで、そこに広告スペースを設ければ、何億何兆というカネを生むことは子供だってわかるのに、Googleは、絶対にそれをしませんね。ここがね、Googleの素敵なところです。だからこそ、検索ボックスをツール化してブラウザのツールバーに組み込んじゃうなんてことも、なんの抵抗もなく出来ちゃう。
今はどのポータルサイトもマイページ化が進んで、GoogleもiGoogleとなり、マイページ化することが出来るようになったけれども、頑に、広告スペースを設けませんね。素敵です。

次、YouTubeについて少し書きます。

YouTubeが出てきたとき、あ、これは確信犯や!って、思ったもんです。
だって、著作権が完全に治外法権化してるんだもん。
たとえば、見逃したテレビ番組で見たいものって、結構あります。一部のドラマはDVD化されて見ることが出来るけれども、歌番組だとか特番だとかニュース番組だとか、再放送もされずDVD化もされないものって、たくさんあります。
新聞は縮小版が出るし、雑誌も、探せばバックナンバーを手に入れることが出来ます。
でも、テレビとラジオだけは、カネを出しても手に入れられないコンテンツが多すぎるんですよね。エラそーに著作権の重要性を訴える一方で、コンテンツを独占してね、自由にアクセス出来ないようにタンスの奥にしまっているのが、テレビとラジオですよ。
オレは、むかしっから、そのことに腹を立ててたんです。

そこへYouTubeが、フラッシュ・プレイヤーもメディア・プレイヤーも不要で、macもwinも関係なくワンクリックで見られる便利さで、登場しました。
動画をアップするのもものすごく簡単だから、著作権を保護したいメディア側の削除依頼とユーザーの違法アップロードは、完全にいたちごっこになってますね。
でも、コンテンツをタンスの奥にしまって眠らせておきながらね、著作権を侵害するようなものをYouTubeにアップするな!と抗議するのは、おかしいですよ。
YouTubeの出現は、著作権の考えかたを、きっと変えます。YouTubeこそが、そんなものは破壊してしまえ!って思っていると、オレは思います。

著作権保護の意義は、個人の観点から見ると、著作権者の食い扶持をなくさないためにあり、社会の観点から見ると、クリエイターの創作意欲を支え、社会に与える活力を確保するためにあります。
著作権法というのは、そういう考えのもとで、制定されている法律です。

さて、YouTubeは、著作権者の食い扶持を損なっていますかね? YouTubeにアップ出来る動画には画素数、時間の長さともに制限があり、じつはオリジナルをそのままのかたちでアップ出来ないようになっています。
たとえば、映画を丸まる1本アップ出来るわけではなく、その映画のどこか10分だけを、それも画質を落としたものだけがアップ出来る、ということです。そうするとこれは、実質的に、映画の予告編的な位置づけになります。映画の予告編の役割がまさにそうですが、こうなると、市場の拡大やニーズの掘り下げなど、著作権者の利益に貢献すらしている側面もある、と言えます。
事実、オレが毎日毎日、YouTubeの音楽動画のリンクを張ることで、その音楽に興味を持ったり、実際にCDを買ったりした人は、何人もいる。

次に、iTunes Storeなどで音楽を買い、ダウンロードしたことのある人ならわかることですが、現状、すべてに認証システムが施され、むかしのCDやレコードのように、友だち間での貸し借りや、要らなくなったからあげるよ、なんてことが非常に困難になってきています。
テレビなんて、地上デジタル放送が完全普及する2011年に、HDDレコーダーに録画したものをDVDにコピーしたら、そのファイルはHDDから消滅するシステムにする!なんて言ってます。

デジタル化によって、著作権が完全に守られる環境が実現しつつある一方で、それはユーザーにとってあまりに不便ではないか、という議論が、数年前からあります。
図書館というものは、つくりすぎたら著作権者に不利益をもたらしますが、ある程度はつくらないとユーザーが不利益を被る、と、おなじ理屈です。
なので、著作権法というものは、あえてグレーゾーンが残るようなものがいいのではないかという考えかたが、だんだんと主流になってきています。
YouTubeの出現は、この考えかたを、強力に推し進めるでしょうね。

その意味で、YouTubeは、かなり確信犯的に登場したのだと思います。
だからこそ、おなじように確信犯であるGoogleが、YouTubeをソッコーで買収したんでしょう。仲間に加えたんでしょう。

IT関係については、ちょっと焦っているところもあって、スピードがね、ついていけないくらいに速いんですよね。しかも、オレがこれまでに立ててきたアンテナに引っかかってくれないけれども重要なものが、たくさんあるんです。
たとえば、Googleは、数年前に、相方さんと同年代の人に、その存在を教えてもらったのでした。
YouTubeは、去年の早い段階ではあったけれども、相方さんに教えてもらったのでした。
そもそも、mixiをオレに紹介し、招待してくれたのも、相方さんです。
My Spaceも、神戸の編集部の若い社員に教えられました。
Second Lifeや宅ファイルやいくつかのオンライン・ストレージやDemocracyやLast FmやPodcastやFlickrなど、自分のアンテナに引っかかってきたものもたくさんあるけれども、パラダイム・シフトを起こしてしまいそうなほどの大きなものがね、自分のアンテナに引っかかっていないというのは、ちょっと焦りを覚えます。
YouTubeなんて、起業してから数ヶ月でわーっとひろまって、2年でGoogleに2000億円で売れたんだから、有史以来、最速のスピードで物事が進んでいっているかんじです。


長くなってきましたな。
つらつらと思うままにいろんなことを書いているんですが、なんでこんなことを長々と書いているのかといいますと、最近、すんごくワクワクしながら読んだ本がありまして、その本について書きたいのでした。

『フューチャリスト宣言』という本で、今をときめく脳科学者の茂木健一郎さんとシリコンバレーと日本企業を結んでIT系のコンサルタントの仕事をしている梅田望夫さんの対談集です。
この本、1ヶ月近く、毎日のようにどっかしらを読んでいて、もう5回も10回も読んでます。
今、本屋さんの先頭に平積みで並んでます。

梅田望夫さんという人は、茂木健一郎さんほど名が売れている人ではないでしょうが、去年、彼の本に出会って、オレは興奮しながら日記を書いたんですね。

オープンソースやロングテールについて、じつにわかりやすく書かれていて、オレは、この本で初めてリアリティを持ってその概念を掴むことが出来たんですね。かなり刺激的な本でした。

茂木さんはテレビでよく見かけるものの、それほどオレのアンテナには引っかかってなくて、でも、マイミクさんのカノくんがすごく勧めてくれて、ちょうどその時期に彼の出世作の『脳と仮想』が文庫化され、それを読んでみたら、エラいこと刺激的な本だったのですよ。

おかげで、オレ、今では、茂木さんと梅田さんの両方のブログのヘビーな読者ですわ。

この本には、オレが普段、つらつらと思っていたこと、この日記の冒頭から延々と書いてきたようなことが、ど真ん中で、確信を持って書かれていて、かなり背中を押された感があるんですね。

さらに、もっとボンヤリと思っていたこと、まだ自分の頭のなかでもやもやとしていてカチッとした像を結んでいないようなことが、この本ではクリアに語られていて、思わず膝を叩きましたですよ。

たとえば、YouTubeの話を続けると、
YouTubeの動画をアップする際、ユーザーは、自由にタグをつけます。それがキーワードになります。
検索して動画を探す際、キーワードに引っかかってくるのは、この、タグです。
だから、「下鴨神社」を映した動画に「みたらし団子」というタグをつけていたら、「みたらし団子」の動画を探している人がそれをキーワードに検索したら、その「下鴨神社」の動画が引っかかってきます。

この、ユーザーが勝手にタグをつけるという行為は、じつはかなり画期的なシステムです。
自分の本棚を使い勝手がいいように自分でカテゴライズする、ということではなくて、ネットというパブリックな場で、各人が自由にタグをつけたものがアーカイブ化されていくということが、画期的なんです。
この仕事は、18世紀にカール・リンネが完成させた分類学に端を発し、図書館司書が担当してきた、専門的な仕事です。つまるところ、タグをつける、分類するという行為は、専門家の特権だったのですね。図書館情報学という学問があるくらいですから。
あるいは、ぴあやリクルート・ブックなどの情報誌に用意されているインデックスも、ユーザーが自由にインデックスをつくっているわけではなくて、あるシステムに則って、ひとつの意思が集中管理でインデックスをつくっています。
それをユーザー全員が、よってたかって、各人の思惑に則ってやる、と。

もちろん、不適切なタグも、いっぱいあるでしょう。
でもね、それなら図書館司書がつけたタグは完全無比なのかというと、そんなことは全然ないわけで。
分類するということは、それをどう認識するのかということに繋がるのですが、認識というのは、所詮、誤解の産物でしかなくて、なにが正解なのかは、その人の主観によるものです。
もっといえば、認識における正解というのは、さまざまな誤解がたくさん集った姿、でしかない。
ひとつの動画に、非常にたくさんの人がそれぞれにタグをつけたとします。それを1枚の紙に分布図にしてみると、あるひとつのかたちが出来上がるはずですが、それがその動画の真の姿だ、と、そう捉えるほうが正解に近いんじゃないか、と、オレは思ったりもします。
ひとりの専門家が、この動画のタグはこれです!とやるよりも、このほうが、より正解に近づけるんじゃないかな、と。

そして、そのことは、じつは、Wilipediaがあれだけ充実してるってことが、まさに証明してますよね。
素人も専門家も関係なく、みんなでよってたかってつくった百科事典に、あれだけの精度があるのは、驚き以外の何者でもないでしょ。
千や万の単位ではなくて、億の単位の人間を動員出来るシステムが出来て、かつての常識では測れないことが、たくさん起こってきました。「過剰の経済学」というんですけど、今、一番ホットなジャンルの学問は、まさにここですね。

そういうことを、ぼんやりと思っていたんですが、まさにそのことが、この本では、それこそがネットのあるべき姿でネットとの接しかたなんだ!と、断定されてます。
それこそね、背中を押されたような気分で、そのくだりに出会ったとき、オレはかなり嬉しかったんですよ。

このことは、ブログにもあてはまるんです。
たとえば、なにか話題性のある事件があり、それについてなにかを知りたいとき、これまでだと、テレビや新聞に目を凝らすしかありませんでした。
つまり、専門家の意見を聞く、ということです。
でも、ブログが出現し、非常にたくさんの人がブログになにかを書くようになって、状況は完全に変わりましたね。
もちろん、ブログはなんのチェック機能も経ずにアップされますから、いろんなことが書かれています。ただただ感情的になっているものや、マスメディアで流布されているものを書き写しただけのものや、どうしようもないようなものまで、いろいろです。
でも、専門家の意見が正しいとは、かぎらないんですね。
それよりも、それについて書かれたブログを片っ端から読んでいって、右方向の意見がこんだけあり、左方向の意見がこんだけあり、ポジティブに捉えている人はこういうことを言っていて、ネガティブに捉えている人は、こんなふうに思っている人が多い…。そういうふうにして、いろんな人が書いたブログを読んでいったほうが、少数の専門家の意見に耳を傾けるよりも、はるかに有効なんだと、オレはぼちぼち思ってきているんです。
サッカーの話題なんて、完全にそうなってきてます。
サッカーにかんする報道って、テレビ、新聞、雑誌…、どれをとってみても、野球よりも数段レベルが高いんですが、それでも最近は、そういうものよりも、ブログを読みまくってるほうが、有効だと思うようになってきました。なによりも、そっちのほうが、おもしろい!

そういうことが、この本にはたくさん書かれているんですが、そういうことだけじゃなくて、今の日本の大学みたいな談合体質のものは滅ぶだろう、といったことも書かれています。

大学って、オレは、もう何年もまえから、今のままだと滅ぶだろうなと思っています。あのビジネスモデルは、もうこれからは間違いなく通用しません。でも、変わる兆しもないから、進路相談に来る高校生なんかには、大学なんて行ったらダメ、もし行くのなら、アメリカかオーストラリアの大学でないと、時間もエネルギーもカネも、すべて損をするよ、と、オレは、言ってます。もうね、日本の大学に行くメリットって、真っ当に考えたら。どの角度から見ても、まったく見つかりません。
だいたい、受験勉強なんてのは、くだらなさすぎるんですよ。あんなものに18や19の大切な時期を犠牲にしなければならないのって、犯罪だとすら、オレは思います。そんなこと、みんなわかってる。みんなわかってるけれども、それをやり、それを子にさせてきたのは、大学に入れば、某かのいいことがあったからです。でも、その大学に行くメリットがなくなってしまったんだから、今、子供に受験勉強を強いて大学に入れさそうとしている親なんて、犯罪以外の何者でもないと、オレは思ってますけどね。あれ、子捨てとおんなじです。

むかし、いい大学を出た人が威張っていられたのは、かぎられた資源である一流大学卒という肩書き、みんなが持っていないものをその人が持っていたからです。でも、知的なスキルは、今、望めば、ネットにすべてあります。最先端の論文から、最先端の議論から、最先端の人との交流から、もちろん基礎的なものまで。すべて揃ってます。それを手に入れるのに、受験勉強する必要がまったくないのが、ネットです。
最先端の論文を読み、わからないところは検索して調べ、論文の著者にメールで議論を吹っかけることだって、今なら出来ます。
そして、そのことが、その人のブログに書かれていたら、ネットにおける彼の時価総額が上がり、彼は、受験勉強をすることなく、実質的な知のスキルを身につけ、人脈をつくり、個人の信用をネットで保証することが出来ます。社会でやっていけるわけです。それがタダで出来る時代に、受験勉強を経なければならない、閉じられた空間でしかない大学は、今のままでは、どの角度から見ても不要ですね。
つまんない受験技術に長けた人間だけに知を与えます、というのがこれまでの大学だとしたら、これは談合体質そのものですね。でも、ネットがこれだけ発達してきたことで、談合サークルのなかに入らなくても、なんとでもなるようになってきました。

大学入試と本物の学問の隔たりって、ものすごいですよ。
たとえば、日本史ひとつをとってみても、やるべきことは青天井にあるのに、入試の日本史なんて、知識を詰め込むだけで、どうしようもありません。なのに、生徒一律に18歳の春までそれを押しつけるなんてのは、もう、理不尽の極みです。下手をすれば、そんなことを、19や20歳まで強いてるという現状。。

こういうことは、オレが言うまでもなく、今や誰でもが言うことだし、この本でも書かれているのですが、その先ですね。
その先がね、拍手を送りたくなるくらい、素敵なんですよ。

自分の人格をより高度なものにしていく歓びは、おそらく人間が体験出来る歓びのなかでももっとも強く深い歓びで、お腹がいっぱいになっちゃえばそれで終わりの食べる歓びも、限界がある性的な歓びも、学ぶ歓びには全然かなわないです。

で、インターネットというものは、学ぶ歓びを大爆発させてくれるものだし、大学なんかの既得権益を保持する側とは対立するけれども、長い歴史のなかで、人間の社会は必ず学ぶ歓びを青天井に開放する方向に変わってきたのだから、今後も、絶対に、いい方向に転ぶ、と!

ネットには、悪影響を及ぼすようなサイトもたくさんあるし、ワナもたくさんあるけれども、知る歓びや学ぶ歓びのほうが奥が深くて普遍性があるから、トータルでインターネットのインパクトを考えたとき、善性が自己増殖していくほうがはるかにたくさん表に出てくる、インターネットは善を蓄積していく、と、梅田さんと茂木さんは、断固信じています。

この本の最大のキモは、ここにありまして、ふたりのイメージする未来がね、明るいんですよ。
オレが一番ワクワクするのは、ここなんです。
未来が明るい。未来を、明るくとらえる人たちがいる。
だからこそ、この本のタイトルは、ネットがどうたら、というタイトルではなく、『フューチャリスト宣言』という、威勢のいいタイトルになっています。

それに触れられただけでもね、この本を読む価値がありましたよ。
じつに、爽やかな、底抜けに明るい本です。バカみたいに明るい本です。
文化論を語った本で、こんなにも明るい本は、見たことがありません。

こないだ、サッカーの三浦カズについて書いていたときに、オレはなんでこんなにもカズが好きなんだろうか、と、自問しながら書いていたのでした。
そしたらさ、カズが見ている未来って、絶対に明るいんですよ。だからこそ、どこまでもポジティブになれる。まだまだやれる、まだまだ上手くなれるし、まだまだサッカーを楽しめるし、愛せる。カズは、そう思っているし、ワクワクしながら、未来を拓いていこうとしているんだと思います。そうだからこそ、オレはカズが好きなんだ!ってことが、わかったんですね。
この本からも、同様の明るさをかんじます。

つい最近、年若い、オレの大好きなマイミクさんが、mixiを退会しました。
ご本人曰く、PCに長く居座る生活を続けすぎました。これではいかん!と思い、このたび、mixiを退会することにしました、といったことです。
それも一興。
PCとのつきあいかたに自覚的で、じつに爽やかでいいなあ、と、エールを送ったもんです。
彼女の未来も、きっと明るいな☆


そういえばね、むかし、バブルがはじけたころだから、27、8のころ、『フューチャー・パイレーツ』というミニコミ誌を出したことがあったんです。音楽の未来は、リズムの未来は、音像の未来は明るいぞ!ということだけを言いたかった雑誌。
そのころの気分を、思い出したりもしたのでした。

長々と書きました。
最後までご笑覧いただいた方に、謝!謝!



未来、という言葉が一番ぴったり当てはまる人を探してみたとき、いろいろいるんですが、やっぱりこの人が一番ぴったり来るかな。

Bjork / Hyper Ballad

2007年5月28日月曜日

ナックルボーラー

我が愛しの阪神タイガースは、今年はいまいち乗り切れてません。
井川が抜け、安藤が未だ復帰のメドが立ってないとはいえ、戦力が他球団に見劣りするわけじゃなし、もちょっと頑張ってくださいませ。

例年なら大量に勝ち星をプレゼントしてくれる広島カープに、今年はケチョンケチョンにされてます。これが、誤算その1ですな。

広島といえば、今年はナックルボーラーのフェルナンデス投手が入団して、こいつのせいで、阪神打線はバッティングを狂わされてるんですよね。。

と、グチを書く日記ではなくて、ナックルボーラーを実際に目にするのもすごく久しぶりなので、そのことを少しばかり書いてみたいな、と。
ちなみに、mixiで、野球について書くのは、初めてかも知れません。
オレ、国籍はサッカー日本代表、宗教が阪神タイガースなので、その話題で書き出すと暴走してとまらなくなるので、一応、自重してるんですけどね(笑) 

投球の9割以上ナックルボールを投げる投手のことを、ナックルボーラーと呼びます。滅多にいる投手ではないのですが、こういう投手がマウンドに登場すると、スタジアムは喜劇の様相を帯びてきます。

ナックルボールの球速はすごーく遅くて、100km/時前後です。
速球投手の速球が150km/時ですから、2/3のスピードですわ。いってみれば、キャッチボールしてるようなスピードの球、ということになります。

プロ野球の普通の投手の投げる球を見慣れた目からすると、嘘みたいに遅くて、それこそ、ハエがとまりそうなくらいに遅いわけです。
でも、その球は揺れるような変化、妙な変化をして落ちていくもんだから、バッターは空振りしたり引っかけたりで、バットの芯にあてることが全然出来ないのですよ…。

投手の基本はスピードボールとコントロールにあるのですが、ナックルボーラーには、その常識が通じないのですよ。そして、駆け引きもクソもありません。ただただ、淡々とナックルボールを投げるだけ(笑) たまに、気まぐれに、ナックルボール以外の球を投げる…(笑)
もうね、ナックルボーラーのキャッチボールを見ているようなもんですよ。剛球とか豪打とか熱戦とか、そんなものとは無縁の世界が、淡々と繰り広げられるのみで。。
まさに、喜劇です(笑)

さらに、ナックルボーラーには専用のキャッチャーがいることが多くて、彼らはバカでかいミットで捕球します。変化が妙で、予測出来ないもんだから、普通のミットだと後逸してしまうことが多いからです。


生まれて初めてナックルボールを見たのは、メジャーの歴史に残る名ナックルボーラー、アトランタ・ブレーブスのフィル・ニークロが来日したときです。
読売ジャイアンツや日本選抜と対戦したときのことは今でもよく覚えています。キャッチボールのような緩い球、そして妙に変化する球、さらに、ふざけているのかと思うほどの大きなミット。
これはなんだろう? と、不思議に思ったもんですわ。

ナックルボールはキャッチボール程度の球しか投げないので、肩への負担が少なく、そのせいもあって、ナックルボーラーの寿命は長いのですね。
フィル・ニークロは、なんと48歳まで現役を続け、300勝以上をあげ、歴代10位の奪三振記録を持ち、殿堂入りし、彼の背番号35はアトランタの永久欠番となっています。

今、阪神タイガースは、このナックルボーラー、フェルナンド投手にやられまくっているわけですが、なんの! 我が阪神タイガースにも、ナックルボールの習得を着々と進めている投手がいます。持病の糖尿病をインスリン投与で抑えながらの投手ですが、速球を捨てて、ナックルボーラーの道を歩みはじめています。

岩田クンよ、
笑われるほうの三文喜劇役者ではなく、阪神タイガースファンに高笑いをもたらすような喜劇を演じるべく、1日も早く1軍に上がってきてくれたまえ!

2007年5月27日日曜日

我的家在山的那一邊


旅していたとき、世界中のどこに行っても、その土地の料理に敬意を表して、その土地のものを食べるようにしていたんですが、どうにもこうにもダメなときもあって、そういうときは、中華料理屋さんに飛び込んでました。

中華料理屋は、世界中のどんな僻地に行ってもありますもんねん。
華僑、おそるべし、ですよ。マジ、どこ行ってもあります。

サハラを縦断するハイウェイのサービスエリアで中華料理屋を発見したときは、本気でビビりました。
チャプスイとメニューに書いてあったので、八宝菜のことなのですが、それを注文してみたら、もうね、どこのゴミ箱から拾ってきたんだ!って言いたくなるような野菜クズでつくったチャプスイで。そりゃ、バターではなくてゴマ油の香りがするので、それが中華料理だというのなら認めるしかないのだけれども、むしろ、馬の餌でしたな、これは。
試しに、八宝菜、と紙に書いたら、首をブンブン縦に振りながらそれを読んでいたので、この店のコックは中国人のはずなんですけどね。

まあ、そんなこんなで、中国人は、世界中のどこにでもいるってことなんですが、旅のさなか、彼らと仲よくなるのには、テレサ・テンの名前を出せば、一発でした。もっとも、日本の芸名のテレサ・テンではなくて、中国語の、鄧麗君(デン・リー・チェン)だけれども。
とにかく、どの国の中国人と話をしていても、テレサ・テンの人気って、すごいものがありました。
テレサ・テンといえば、つまんない不倫ソングを歌っている台湾出身の歌手としか知らなかったオレは、それをきっかけに、ちょっと興味を持ったんですよね。

帰国してから、いろいろと調べてはみたんですが、当時はまだネットもなく、文献を漁るのも音源を探すのも、かなり苦労しましたけどね。
弱小だけれども良質のレコードを出す、オーマガトキというレーベルがあるんですが、そこから、中村とうよう監修で、テレサ・テンの子供のころの歌声を収めたアルバムが、出てました。
それを聴くとね、めちゃくちゃ上手いんですよ、歌が。子供らしい、明るくて元気な歌声なんですが、ファルセットに移る直前が素晴らしいし、音程を絶対に外さないし、突き刺さってくるものがあるんですね。

そのあと、『淡々幽情』というアルバムの存在を知ります。
これは、中国の古典詩にメロディをつけて、テレサ・テンがセルフ・プロデュースして歌っているアルバムです。
表題通りの、幽玄で、淡く儚い歌声が、素晴らしい美しさで迫ってくる名盤です。

世はワールドミュージック・ブームで、それこそ世界中の民族音楽を植民地的に採集してきては発表する時代に突入していたんですが、テレサ・テンの中国での活動が日本に紹介されることって、ほとんどなかったですね。

台湾出身だし、国民党軍の軍人一家の娘だということもあって、北京からは目の敵にされていた彼女ですが、中国メインランドでの彼女の人気はすごくて、アルバムが発禁扱いであっても、みんな、海賊版で聴いていたといいます。歌は、国境を越えますね。
そういうこともあって、あの、フェイ・ウォンが、テレサ・テンの『淡々幽情』をカヴァーしてます。そっちもよく聴きました。北京の一番星であるフェイ・ウォンがテレサ・テンをカヴァーするという事実だけでも、テレサが中国メインランドでどれほどの人気を誇っていたのかが、うかがえます。
「昼は老鄧(鄧小平)のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」だとか、「中国大陸は2人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」なんていうジョークを知ったのも、そのころ。

天安門事件が勃発して、香港で行われた抗議集会にテレサ・テンが現れ、その映像を目にしたときは、なかなかショッキングでしたね。はちまきをして、泣きはらした目をサングラスで隠して、彼女は、『我的家在山的那一邊 私の家はあの山の向こう』を歌います。北京で座り込みを続ける学生に、エールを送ります。
その後、パリに拠点を移して、パリからラジオを通じて、北京政府に向かって抗議の声を上げてました。

日本の、不倫ソングを歌うテレサではない、中台双方の国民的英雄であるテレサが、そこにはいました。

チェンマイで客死したという報道が流れたとき、オレはたまたまアメリカにいたのですが、そんときのチャイナタウンの悲しみようって、すごかったですよ。
みんな、我が子が亡くなったかのような悲痛さで、泣いてました。

今日、テレビで、テレサ・テンの生涯を紹介する番組をやっていたそうですね。
見てないんですけど、中国でのテレサ・テンは紹介されたんでしょうか。
彼女の真価は、やはり、中国語のなかにあります。
今日、久しぶりに、『淡々幽情』を聴いてます。




鄧麗君 / 我的家在山的那一邊

2007年5月26日土曜日

伊藤若冲展 行きたい編(笑)




相国寺の承天閣美術館で開催中の『伊藤若冲展』、気がつけば、会期終了まで残り10日を切ってます。。


伊藤若冲は、メチャクチャ好きな画家というわけではないんですが、今回、最高傑作の『動植綵絵』全30幅が一挙公開だし、『釈迦三尊像』全3幅も出展されるし、こんなことは120年ぶりだということですから、もうね、ハレー彗星なみの邂逅のチャンスですよ。

これまでに、何枚かは実物を見たことがあるのですが、『動植綵絵』とは、なかなか不思議な作品です。
徹底的に写生でありながら、よく見ると、動植物のプロポーションや器官のかたちが不正確であるばかりでなく、想像上の動物である鳳凰までが描かれています。
蓮池を泳ぐ魚の絵は、水面を描いているはずなのに、べつの場所に目を移せば、いつの間にか水中になっているというような、空間のねじれまでが表現されてます。

彼が活躍した江戸時代、写生とは、生を写す、という意味で、風景をスケッチする今の写生と違って、動植物を観察して絵を描く、ということなのですが、いうまでもなく、表面にあらわれるかたちだけを写しても仕方ないわけで、まさに、「生」を写さねばならんわけです。

もちろん、伊藤若冲の『動植綵絵』も、そうした写生理論をふまえて製作されているのですが、そこを超えていくというか、「生」を表現するために、彼にとっては、現実をねじ曲げる必要があったんでしょうね。

その結果、伊藤若冲にしか表現出来ない、生の美しさが、ここにはあります。
確固たるリアリティがありながらも、幻想の世界なのですね。
エロチックな幻視の世界と言っていいかもしれません。
写実と幻想の不思議な交錯が、ここにはあります。

オレは、ファンタジーは冷徹なリアリズムに裏打ちされてこそ成立する、と思っているのですが、伊藤若冲の絵は、まさにそういう絵ですね。
おなじことを、マイミクさんのgoutさんが、いつだったか、べつの言葉で表現されてました。
神は細部に宿る。
伊藤若冲の絵には、細部に神が宿っているはずです。


で、見にいきたいんですけどね、なぜかそのチャンスはことごとく潰え、来月3日の会期終了まで、すでに10日を切りましたです…。今回の展示以降、当分はこの規模ではやらないらしいですから、今回が最初で最後のチャンスかもしれません。
そういうこともあって、どえらい人気で、連日押すな押すなの大盛況らしいのですが、それでも見たい!

行きたいです! 行きたいですぅ~(涙)

そうそう、相国寺で伊藤若冲展をみたあと、伏見の石峰寺に立ち寄って若冲の最晩年の作品である五百羅漢像を見る、というコースが、奨励されてるみたいです。
でも、『動植綵絵』のころの伊藤若冲は、基本的に唐絵。五百羅漢像のころは琳派、大和絵に大きく回帰しており、そのかんの隔たりは相当なもので、一足飛びのように思えて、よくこんなコースを勧めるよな、と思います。
で、案の定ですが、石峰寺の五百羅漢像は野ざらしなので、バカが持ち帰ろうして制止される、という事件が相次いでいるらしいです。。。

なんとなく怒りのパワーが沸いてきて、『動植綵絵』全30幅、画像をアップしてしまいました。。

「芍薬群蝶図」


「老松白鶏図」


「南天雄鶏図」


「雪中錦鶏図」


「牡丹小禽図」


「芦雁図」


「雪中鴛鴦図」


「梅花皓月図」


「梅花群鶴図」


「棕櫚雄鶏図」


「桃花小禽図」


「菊花流水図」


「梅花小禽図」


「秋塘群雀図」


「紫陽花双鶏図」


「老松鸚鵡図」


「芦鵞図」


「蓮池遊魚図」


「老松白鳳図」


「向日葵雄鶏図」


「大鶏雌雄図」


「群鶏図」


「池辺群虫図」


「貝甲図」


「老松孔雀図」


「芙蓉双鶏図」


「薔薇小禽図」


「群魚図(蛸)」


「群魚図(鯛)」


「紅葉小禽図」



あ、この日記のトップの画像は、『動植綵絵』ではなくて、『鳥獣花木図屏風』。
じつは、『動植綵絵』よりもこっちを見たい!とずーっと思い続けているのですが、この作品は、近年、伊藤若冲が評価される以前(さらに言えば、現在でも伊藤若冲筆なのかどうかの真贋論争がありますが…)にアメリカ人コレクターのプライスさんが安価でお買い上げになり、現在、プライス・コレクションの一環に加わっております。見られるチャンスがあるのかどうか…。

2007年5月25日金曜日

責任はどこに

昨日の夜中は、チャンピオンズ・リーグの決勝、ACミランvsリヴァプールのゲームを見ていたんですが、ゲーム終了直後から、mixiでもゲームについて書かれた日記が続々とアップされ、みんな見てるなあ!と。
だって、試合が終了したのって、朝の6時ですよ…。オレもしっかり見てましたけど(笑)

ま、ゲームのことを書きはじめると、制限文字数10,000字オーバーを余裕で書いてしまいそうなので、ザックリと割愛しますが(笑)

あ、ひとつだけ書いておくと、ひところ人気のあったセリエAから、リーガに移り、今はプレミアってかんじで、日本における海外リーグの人気の変遷が、たくさんの日記を眺めていると、手にとるように見てとれますな。
新聞や雑誌を読むよりも、日記やらブログをひたすら読んでるほうが、良質な情報が手に入りますね。



さて、そんなこんなで眠たい目をこすりながらですな、知り合いの若い男の子のライター宅へ向かったわけです。

コトの発端は、こうでした。
知り合いの若い男の子のライターが、最近、macを一式そろえました。
で、悪戦苦闘しながらも、なんとかかんとか使いこなしていたみたいなんですが、オレが打ち合わせにいったとき、いきなりネットが繋がらなくなり…。

コトの流れ上、その場にいたオレ、mac歴13年のオレがなんとかするしかないじゃないですか(笑)

んで、いろいろ設定を見てみたんですが、おかしいところがね、ないんですね。。。

まず、ネットのアカウント設定、問題なし。
プロバイダからレンタルしているモデム、ちゃんと緑のランプがついてます。
ルーターをかましているんですが、こちらも、通信状態をキープしてます。

アカウントの設定をやり直してみても、変化なし。
モデムの電源を入れ直しても、変化なし。接続しなおしてみて、変化なし。
ルーターの電源を入れ直してみても、変化なし。接続しなおしてみて、変化なし。

試しに、ルーターを外して、モデムからダイレクトにPCに繋いだら、ネットは復旧しました。
じゃ、ルーターに問題があるのか。。。。

でも、win&macの2台にネットを繋いでおく必要があるので、ルーターを外しておくわけにもいかず、なんとかせねばならんのですね。

ほいで、もっかいルーターを設定して、アカウントの再設定をすると、ネットが繋がりました(笑)
でも、スタートページに設定してあるプロバイダのポータルサイトの一部が、今度は見れなくなってるのですね。
キャッシュが消えたのか?と思い、アカウントやらパスワードやらを入れてみると、ログインは出来るのだけれども、表示されない。。
javaがオフになっているわけでもなく、すべて正常なのに。。。

ほいで、もっかいルーターを外してみると、今度はネットそのものに繋がらなくなり…。。

ん~、理屈にあわん事態になってきまして、とりあえず、サポートに電話。
プロバイダ、mac、ルーターのメーカーそれぞれに電話して、最初に繋がったのがプロバイダでしたわ。

ルーターのせいではないか?とのお返事ですわ。
でも今、ルーターを外しても、ネットに繋がらなくなってるんですけどね。
でも、アカウントの設定は間違ってない。
一部表示されないのは、mac及びブラウザの問題ではないか?
いや、さっきまではちゃんとすべて表示されていたし、それから表示されなくなって、今は、ネットにすら繋がらないという状況なのだが…。

結局、わからずじまい。

次に繋がったのは、mac。
ここのサポートは、とりあえず修理・交換を勧めるところなので、話にならず。。

最後に繋がったのがルーターなのですが、
結局のところ、相性の問題なのではないか?と。

オレもその可能性が一番高いような気がするのですが、でも、繋がったり繋がらなかったり、表示されたりされなかったりというのは、果たして相性の問題で片付けていいのか???

といってもラチがあかないので、ルーターを変更することにしました。

そしたら、だ。
すべて解決(笑)
結局のところ、原因はわからずじまいなのですが、なんにせよ、問題はパーフェクトに解決しました。

解決までに要した時間は、丸2日。PCのトラブルって、やっかいですな。
ことに、ネットが繋がらないなんてトラブルは、PC、プロバイダ、ルーター、回線と、関係分野が3つも4つもあって、しかもそれぞれが独立した事業者だから、ひとつのところに連絡して解決を乞う、ということが出来なくなってます。

でも、微妙に相性のせいにされてしまうと、個々のサポートセンターに問い合わせても、どこも問題なし!ってなってしまって、原因をつかみづらいですね。
AというPCにBのプロバイダをCの回線で繋いで、あいだにDというルーターをかませて…って、これをやるのはユーザーですから、相性の問題だってことになると、ユーザーが自身で解決しなければならないわけで、そうなると、ユーザーにはそれなりの知識が求められますね。

ネットをやるためだけにPCを使ってる人も多いだろうから、それを考えると、これは不便ですね。オールイン・ワンでトラブル・シューティングしてくれるところにニーズが集まるのも、むべなるかな、です。

でも、どんなに強大でも単一の組織が単独で情報システムを構築し、支えるなんてコトは、出来ないわけです。
その巨大なシステムに過度な責任を求めれば、そのシステムは実現されません。
1社だけでインターネットを開発、運用なんてことだったら、インターネットはここまで発達しなかったはずだし、さまざまなパーツに自由に参入出来る自由さがあってこその、インターネットですから。

もっとも、責任の分界点を決めて、個々の主体が担える程度の大きさの責任に切り分けることは、大切ですけれども。



こないだからフランスづいていて、そっちばっかり聴いてます。本日は、マノ・ネグラを☆
こいつら、再結成しないかな。。。楽しかったんだけどな。
ちなみに、マノ・ネグラとは、黒い手=マフィアという意味ですわ。そういう、ヤクザでやさぐれた連中がやってる素敵なバンドです。


Mano Negra / Mara Vita

2007年5月24日木曜日

カルピス豚汁


カルピスが、エラいことになってます。

料理の調味料代わりにカルピスを使うとといい、というのは聞いたことがあるんですけどね。
肉が柔らかくなるとか、味がまろやかになるとか。
やったことはないですが、そのあたりまでは、なんとか想像出来ます。

しかしですな、カルピス豚汁って! 豚汁にカルピスって、どーなのよ!!!

カルピスの公式サイト


トップから、カルピスカフェ>「カルピス」レシピのCooking>に、カルピスを使ったレシピが、これでもか!というくらい掲載されていて、そんなかのひとつ(次ページ)に、カルピス豚汁なるものがあります。。。


オレ、豚汁が大好きでね、よくつくるんですよ。

オレの豚汁のつくりかたは、

1)鍋の底にゴマ油を引いて、豚バラ、大根、ニンジン、レンコン、ゴボウ、里芋を炒める。
2)そこにコンニャク、厚揚げ、トックを加えて、出汁と酒を同量ずつ鍋に入れる。
3)麦味噌を溶く。
4)ショウガをすりおろして、大量に入れる。
5)ミリンを少量入れる。
6)落としぶたをして、ひたすらコトコト。途中、アクをとる。
7)最低1時間は火を止めて寝かし、食べるときにもっかい火を入れる。
8)ネギ、七味唐辛子を散らして食べる。

こんなかんじ。

で、つくってやろーじゃないか!と、なぜかチャレンジ精神をかき立てられましてですな、つくってみましたですよ、カルピス豚汁(笑)

レシピだと10人分の材料が掲載されてます。
オレも豚汁をつくるときはそれくらいの分量でつくるので、ここは問題ありません。
問題なのは、オレの豚汁にはショウガのすりおろしが大量に入るのだけれども、果たして、カルピスとすりおろしショウガの相性はどうなのか、ということです。
でも、ジンジャエールとカルピスって、相性よさそうな気もするしなあ、などと、適当なことにも思いを巡らせ、単純に、自分がいつもつくっている豚汁にカルピスを加えてみようじゃないか!と。無謀な気がせんでもないですが(笑)

出汁1200ccにたいして、カルピス50cc。
カルピスの原液なんてストックしてないから、知り合いからもらってきました(笑)

で、味噌を溶いてから、おそるおそるカルピス投下!
で、すべての行程を終え、食す。。

ん~。
まず、甘いです(笑)
甘いんだけど、オレはもともとが甘めの麦味噌を使っているので、これ、普通のあわせ味噌だったら、いいかんじの甘さになるんじゃないでしょうかね。あと、ミリンを使わないようにするとか。
だから、まずくはないし、いたってまともだし、使いようによっては、うまみを引き出すいい調味料に使えるんだと思います。

ただ、カルピスの匂いがほのかにするのよ(笑)
豚汁食ってて、カルピスの匂いって、イヤです。
よって、却下。
あーでも、大量につくったので、今週いっぱいは、この豚汁につきあわなくてはなりません。。。。

あ、トップの画像は、カルピスサイトからパクってきました(笑)

2007年5月23日水曜日

梨木神社と廬山寺に行く

今日は、京都に行く用事があり、少し時間がとれたので、久しぶりに京都神社仏閣巡りを敢行したのでした。

ただし、相方さんは時間がとれなかったので、久しぶりに、オレ単独で。
なんだかんだで、新規開拓って3月以来です。
せっかくいい気候になってきたの、全然行けてないんですよね~。

行ってきたのは、御所のすぐ東にある梨木神社と廬山寺。

まずは、梨木神社から。



御所に寄り添うようにひっそりと建っている神社なんですが、萩と紅葉が生い茂っていて、なかなか趣のある神社ですわ。
最初の鳥居からかなり長く参道が続いていて、なんだかウナギの寝床のような神社というか、京風にいうと、町家風な神社(笑)
エラいこと趣があるし、御所横にあるので古い神社なのかなと思ったら、そうでもなくて、創建は明治18年とのことです。
明治維新の功労者として知られる、三条実万.実美父子を祀る神社でして、三条家の旧邸を…、と、まあ縁起はgoogleで検索すればなんぼでも出てくるのでそれは省略するとして、この神社の見どころは、水!です。




ここの井戸水がね、美味いんですよ~。
柔らかくて甘くてね、いいかんじで冷えてるんですが、角も棘もない、まろやかな水ですわ。
この水は、「染井(そめのい)の名水」と呼ばれていて、京都の三名水のひとつなんですが、ほかの醒ヶ井の水と県井の水は枯れてしまってますから、京都に現存する唯一の名水ということになります。
今日みたいな暑い日に飲むと、美味さ倍増☆ 今日行って、よかったです。

しばらく眺めていると、ペットボトルやらポリタンクやらを持参して、この水を汲んでいく人があとを絶ちません。
無料、なんですよ。
無料で、汲んでかえっていいんです。
井戸の傍には、「水汲みは1回につき5リットルまでに」と書かれた立て看板があるんですが、5リットルって太っ腹ですよね。1リットルのペットボトルが5本だもんね。きっと、料亭なんかも使ってると思うんですが、歩いてきてる人が多いところを見ると、近所の人が普段使いに利用してるんだと思います。
歩いていける場所に、こんな名水がタダで手に入るって、すごく贅沢ですね。





で、この染井の水を堪能して、次は廬山寺に。

廬山寺。正式名称を、慮山天台講寺準門跡といいます。
ということは、天台宗のお寺さんで、門跡だから、皇族の誰かが出家して住職を務めるお寺さんということになるのですが、準って、なんでしょうね? 謎です。

謎ですが、わかっていることは、このお寺さんはもともとが紫式部の邸宅であり、源氏物語のほとんどがここで執筆された、ということです。
源氏物語ファンは、一度は訪れなければならないお寺さんですな。まあ、オレは特に源氏物語ファンというわけではありませんが。。。
それはさておき、ということはですな、ここは世界最古の小説が生まれた場所ということになりますね。


山門をくぐるとすぐに本殿があるのですが、本殿の屋根の角度が、いいかんじです。平安期の寺社建築によく見られる、急勾配のカーブが威厳を醸し出していて、本殿前両サイドに笹がしつらえられているのが、なかなか端正です。
境内は大きすぎず小さすぎずで、オレの好きなサイズなのも、気に入りました。

境内は土ではなく砂利が敷きつめられているんですが、本殿を右にまわると、砂利面に唐突に松が植えられていて、なんだかモダンです。
威厳もあるし、端正だし、雅やかですらあるんですが、このお寺さんのたたずまいは、ひとことでいえば、モダンですね。
本殿の玄関口から中をのぞくと、モダンな雰囲気は一層濃くなります。
余計なものが削がれ、洗練され、デザイン化され、モダンを醸し出しています。




そういう予感は導入部からゾクゾクするくらいにあったのですが、本殿を抜けて庭に出ると、その予感は確信に変わりました。
なんとね、重森三玲を思わせるモダンな庭ですよ。
河に見立てた白砂のなかに点在する、苔でしつらえられた中州というか島。。
曲線が大胆に使われていて、非常にモダンかつ、女性的、かつ、雅やかです。ハッとするような驚きがありますよ、この庭には。
苔の島に植わっているのは、桔梗です。この庭、夏に訪れたら、桔梗の紫がぼんぼりのように咲き誇って、とっても雅な趣きになるんだと思います。そのさまを想像すると、この庭全体が、平鉢に生けた生け花のように思えます。生け花というか、一幅の絵というか…。
夏、そのさまを見に、もっかい来たい庭ですね。
ちなみに、この庭は、「源氏庭」と呼ばれ、源氏物語に出てくる朝顔が、今でいうところの桔梗なので、この庭には桔梗が植えられているのだとか。



さらに、観光コースからは外れているので、うるさいおしゃべりに邪魔されることなく、庭を独り占めしてきましたですよ。小1時間ばかり、横になってうたた寝しながら庭を観賞しておりました。
これがあるから、お寺さん巡りは、やめられませんな☆

さて、本堂に目を転じると、さすがに紫式部が源氏物語を執筆したその場所だけあって、源氏物語絵巻の現物が展示してありましたよ。国宝です。
国宝ですが、物々しく展示してあるのではなく、本堂のなかの部屋に、ガラスケースに入れて飾ってあります。フラッシュ焚かないなら撮影してもよろし、と、太っ腹な許可もいただき、ポチッと撮影してきました。
ただ、どの巻の絵巻だったか、メモした紙をなくしてしまって…。
なんだったかな?(笑)

2007年5月22日火曜日

ミラクルフルーツ


テレビで見たんですけど、ミラクルフルーツなる果物があるらしいですな。
初めて見ましたわ。

ミラクリン(どんな名前やねん!)なる味覚変革タンパク質が含まれていて、酸っぱい食べものを甘く感じさせるんだとか。

このミラクルフルーツを口に入れて、果汁を飲み込まないように舌のうえで1分ほど転がし、そのあとでレモンなどの酸っぱいものを食べると、ビックリするくらい甘くなるんだとか。

トマトも、いきなりフルーツトマトみたいな甘さになる、と。

これだと、レモン5個まるかじりでビタミン大補給とか、出来るんでないか?」

食ってみたいじゃないですか!



でも、高いんですわ、このミラクルフルーツ。
楽天で調べてみると、10粒1880円とか、そんなのばっかり。

アフリカ産の果物らしいのですが、アフリカのどこですかいな?
アフリカも半分以上は歩いてますが、見かけた記憶はまるでありません。

だいたい、日本は果物が高すぎます。
オレの大好きなアップル・マンゴーだって、アマゾンにいたときは1個10円くらいでメチャクチャ甘いのを買って食べてましたよ。
1日3個くらいは、丸かじりしてました。

でも、日本のアップル・マンゴーで本気で甘いのを手に入れようと思ったら、1個5000円くらいするじゃないですか。
アマゾンの500倍ですよ!

ミラクルフルーツも、アフリカのどこか知んないけど、産地へ行けば、ただみたいな値段なんだと思うとね、なんとかならんのですかいな?


アフリカといえば、ここ数年は、コンゴの轟音暴走人力電気音楽、konono No.1から目が離せません。去年だったかの来日公演、行きたかったなあ。。親指ピアノがたまりません☆



Konono No.1