2007年7月30日月曜日

不意打ちの再会と、あの夏の思い出


昼間、例によってPCに向かって仕事してたら、窓の外から大音量で聞き覚えのある音楽が聞こえてきて、外に出てみたのでした。

家の近所に、扇町公園という大きな公園がありましてね、そこで音楽フェスをやっているようで、そこから、音が聞こえてきました。

ペルーのね、フォルクローレ。
サイモンとガーファンクルが歌った『コンドルは飛んでいく』の原曲は、このジャンルの代表的な曲ですな。

それが聞こえてきたんですよ。

これは行くしかないなと思って(選挙に行く時間はこれっぽっちもないんですけどね。笑)、仕事を中断させて、行ってきましたですよ。歩いて5分だし。

そしたらね、なんか、メキシコやらプエルト・リコやらペルーやらの南米ラテン系が勢揃いしていて、フェスやってんですよね。
そっち系の屋台もたくさん出ていて、いいかんじで。

ほいで、ステージに目をやってみると、なーんと、オレの知り合いがステージで演奏してるじゃないの。

日本で活動しているペルー人のバンドで、プカ・ソンコってのがいるんですが、彼らがね、演奏してましたわ。

もうね、彼らとは15年以上の付き合いになります。
古いマイミクさんはご存知だと思いますが、オレはそのむかし、南米のペルーを安住の地として住んでいたいんですね。アマゾンのジャングルのなかの畑を買って、そこで畑仕事をしていまして、そのまま、そこで人生を謳歌しようと思ってたんです。このあたりの話を書いてると、また10000字を楽勝で超えてしまうので、またの機会にしますが…(笑)
とにかく、そんとき以来、ペルーと日本を行き来していて、それなりに知り合いもたくさんいます。

そんななかで、プカ・ソンコの連中とは、15年くらいの付き合いになるんですね。
当時彼らは、大阪は梅田の堂山にある、南米人がたむろしてるラティーノ・クラブ『国境の南』という店で、ウエイターをやりながら、ステージをこなしていました。ペルーから日本へ出稼ぎに来ていた連中が集まって、つくったバンドでした。もともとは本国でも音楽活動をしていたんですが、いずれにしても、どちらの国でも音楽だけでは食べていける状態ではありませんでしたな。
オレは、彼らのファンクラブ向けの会報をつくったりして、なにかと付き合いをしていたんですね。

いろんな付き合いをしてましたわ。
阪神大震災があり、彼らも被災し、3ヶ月ほど、オレの家に居候していたこともありました。
ペルーからの出稼ぎがブームになって、彼らが人材派遣の仲介業みたいなことに手を出して、それで揉めたりもしました。
やがて、『国境の南』もなくなり、彼らもちりぢりに職場を変え、縁も細々としたものになっていきました。
JR大阪駅前で路上ライブをよくやっていて、そのことがテレビで取り上げられたりもして、テレビ越しに彼らの姿を見ることはあったんですけど、実際に会うことは、もう長いことありませんでしたわ。

それがね、思いがけず再会。
メンバーチェンジもしていて、オレが知っているメンバーは2人だけだったけれども、懐かしかったですよ。
今じゃ、HPも立ち上げて、CDも出して、世界中のいろんな音楽フェスに参加しているらしいです。
でも、音楽だけじゃ食えてないのは、相変わらずで(笑)

でね、ステージがあったんで、あんまり長い時間しゃべることは出来なかったんですけど、屋台がたくさん出ていて、それもペルー料理の屋台が出ていて、オレは思わず行ってしまいましたよ。

アンティクーチョ!
牛の心臓に香辛料をたくさん擦り込んで、串焼きにして食べるんです。
それが売っててね。もう、超懐かしい!
ペルーにいたとき、どんだけ食べたことか!

ほいでさ、屋台を切り盛りしてるおねーちゃんがペルー人だったので、これまた少し喋ってたんですよ。
そしたらさ、今は大阪に出稼ぎに来てるけれども、オレが持ってるアマゾンの畑のすぐ近くの出身だということが判明してですね、すんごローカルな話題で盛り上がってしまいましたわ。

村に1件しかないキヨスクみたいな雑貨屋さんの行方とか、日本人ではオレしかわからんような話題で盛り上がったのでした(笑)

オレがペルーにいたときは、どインフレのときで、1ドルの価値が半年で700万倍になったんですね。
円を例に出すと、1ドル150円だったのが、半年後には1ドルが1億500万円になったようなもんで(笑)
もう、メチャクチャ。
ものの値段が、朝と夕方ですでに違うような物価の上昇具合でしたから。
値札なんか、全部段ボールに殴り書きで、夕方には最初に書いてあった値段を線で消して新しい値段が書き加えられてました。
郵便切手なんて新しい価格の切手の印刷が間に合わないから、いつのまにか、切手を使わずに、数字のスタンプを押すようになったし。
インフレと同時に、テロ活動もわりに盛んなときで、オレのいた村でも、ときどき銃撃戦があったりもしました。
そういう時代、その年の夏は、今のペルー人にとってもすでに懐かしい時代になっているんですが、屋台のおねーちゃんと、そういう時代の話で盛り上がってしまいましたね。
もうね、その時代と今とでは、通貨の単位が変わってますから。桁数の切り下げが何回もあって、通貨の単位が2回も変わったんだから。
なんかね、あの時代、あの場所をくぐり抜けたっていうのがね、全然知らない人であっても、同じ時代に同じ場所にいたというだけで、仲間意識みたいなもんが芽生えてるんですよ。

そういう話をね、大好きなアンティクーチョを食べながら、してたのでした。
なんかね、意味もなく、泣きそうになったな。
アンティクーチョの付け合わせが、これまたオレの大好きなパパ・ラ・ワンカイーナというものでして、これはジャガイモの煮っ転がしに卵とチーズでつくったソースをかけて食べるものなんですけど、これに使うチーズが日本になくて、日本にいてると、まず食べられないんですよ。
でも、オレはこれが大好きで、それが付け合わせでついてきてね、もう、懐かしさ満開でしたわ。

湾岸戦争があって、フセインに日本人が人質にとられて、アマゾンのジャングルでも聞くことが出来る短波放送は、人質にとられている日本人に向けての応援メッセージが、途切れることなく流されていました。
女子バレーで、当時はまだ世界のベスト4にいた日本が、久しぶりにペルーに負けたときでもありました。オレは四面楚歌で日本を応援していたんですよね。

いやいや、この1ヶ月、ハード・スケジュールの連続で、楽しいことなんてなんもなかったですが、今日は、楽しかったですよ。いろんなこと思い出してね、懐かしい話を、いっぱいしましたわ。

mixiの日記を再開出来るようになったけれども、仕事ばっかでネタがない!って思ってたら、ネタはやって来るもんですな(笑)




『Latiramerica』
Puka soncco

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