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2007年12月24日月曜日

ギター少年


昨日、仕事で移動中、少年が道端でエレキ・ギターを弾いているのを見かけました。
弾き語りでもバンドでもなく、立って、ひたすらエレキ・ギターを弾いていましたな。路上でなんだかんだとやっている人たちはたくさん見かけるけれども、これはなかなか珍しい光景。

コピーなんだけれども、めっちゃ上手い。
クラッシュの曲を延々とやっていて、ふ〜ん、と思っていたら、あっ!と気がついた。たしか、ジョー・ストラマーの命日なんじゃないか? そう思ってあとで調べてみたら、やっぱり、ジョー・ストラマーが亡くなった日でした。12月22日だけどね。

見ている人は、オレひとりでね。でも、そんなことはまったく意に介さずに、寒い冬空のしたで、彼はずっと弾き続けていました。
お客さんのためでもない。自分の音楽を売り込むためでもない。もちろんおカネを入れる箱なんて置いてない。
ただ、大好きなアーティストのことだけを思いながら弾いているのが、伝わってきて、かなり新鮮だったですね。

こんな気持ち、あったなあ、と思ったです。
歌詞をノートにただ書き写したり、アルバムの感想をただひたすら友だちに話して聞かせたり、そうしないといてもたってもいられないような気持ち。
書いていた走り書きだらけのノートや徹夜で話し込んだこととかを、つい、思い出してしまいましたわ。

不意打ちのクリスマス・プレゼントをもらったみたいな気分。

この少年は、これからなにかを見つけるんだろうか?
オレは、いっぱい見つけたぞ。


本日の1枚:
『London Calling』
Joe Strummer & The Pogues

2007年12月22日土曜日

君がロック☆

オレのマイミクさんのクワロフスキー将軍さんが悪い!

だってさあ、今頃になって、『アイデン&ティティ』のレビューを書くんだもん。
だからさ、そんなかの挿入歌の『君がロック』をYouTubeから引っ張り出して聴くのは、必然なわけですよ。

んで、そんなものを今聴いちゃったらさ、仕事になんかならないぢゃないですか!
もう、PCからも脳内プレイヤーからも、エンドレスで流れっぱなしなわけですよ!

君が持ってるもので僕を殺してほしい僕がほしいものみんな君が持ってる
君が持ってるもので僕を救ってほしい僕がほしいものみんな君が持ってる
君がロックで君がロックさ僕にとっての君がロックだ君がロックで君がロックさ僕にとっての君がロックだ


音楽はさ、音で伝わるもんだから、言葉なんてね、これくらい真っ直ぐでいいんですよ。
あとは、どう歌うかだ。その歌いかたに、歌ってるそいつの、熱情やら照れやら真っ直ぐさやら意思やら覚悟やらが表れるんであって。

キヨシロー、ヒロトと続く日本のロックのメインストリームは、銀杏の峯田クンが引き継いだと思うんだけれども、三者に共通しているのは、言葉に対する、照れ、ですな。
この人たちは、徹底的にロックで、徹底的に音楽で、だから、言葉に対する照れを持っているのだと思います。だからこそ、音楽人として、この人たちは、信用出来る。饒舌な音楽人なんて、それだけで胡散臭いですわ。

オレは、この年になってまだ峯田クンに圧倒的に共感出来る自分をね、ちょっと誇りに思ってます。
彼のことを若かった自分に重ねて懐かしむことも出来るけれども、オレはいつでも、現役で、今の峯田クンに戻れるぞ!って思ってます。




もうね、ほんとに今、頭から離れん!
相方さんよ、君がロックだ☆
勢いあまって、むかし、相方さんにプレゼントした自作の詩集絵本をね、引っ張り出してきてしまったじゃないですか。
オレは音楽人じゃないから、言葉の人間だから、饒舌ですぞ!

お蔵出しだよ、お蔵出し!
こんなの公開していいんだろうか?(笑)
2005年の春につくったの。
えーっと、お願いだから突っ込まないでください。かなり、恥ずかしいんで(笑)












徹夜明け、群青色の夜明け前、
○○○のことばっか考えてる。

あの、すべての感情をぶっとばしてくメロディみたいな○○○の長くてキレイな黒髪に淡い花飾りをつけたら、空はどんなふうに微笑むんだろうか、
とか。
あの、世界中のあらゆるものを祝福してしまうかのような○○○の優しい微笑みは、どうやったら手に入れられるんだろうか、
とか。
あの、エロティックな夢を見せる○○○のくちびるに、今日はどんなルージュを塗ってやろうか、
とか。
徹夜明けの夜明け前に、ずーっと、そんなこと考えてる。
楽しいから、○○○のことばっか考えてる。

昼にはきっと○○○と恋に落ちるはずの朝、写真が出来上がるときみたいなドキドキ感に襲われてる。
今日、○○○の大切なものにくちびるを寄せて、甘く溶け出す秘密を盗んでやるんだ。
もうすぐきっと○○○と一緒に踊るはずのほんの少しまえ、○○○の甘い香りがオレをさっとひと刷きしたような気がして、ちょっと立ち止まったんだ。でもそこには○○○の姿は見えなくて、ウグイスが鳴いてるだけだったんだけど。
徹夜明けの夜明け前に、ずーっと、そんなこと考えてる。
楽しいから、○○○のことばっか考えてる。

たしか、ボサノヴァでメッキした夜に、○○○はアクアマリンの三日月をしたがえて、オレのまえに現れたんだ。
たしか、ヒマワリの花が一斉に咲いた朝に、凱旋門で○○○が収穫のダンスを踊ってるのを、オレ、見てたんだ。
徹夜明けの夜明け前に、ずーっと、そんなこと思い出してる。
楽しいから、○○○のことばっか思い出してる。

まず、夢が叶えられた。だから、オレ、未来と○○○におじぎしたんだ。

幌馬車に乗って出発する午後、○○○はちっちゃなバンドネオンのアコーディオンをさげて、空にキスを投げたんだ。
西部の鷲が舞ってる夕暮れどきに、○○○は、月の使者からもらった秘密のティアラを飾ってたんだ。

バルコンで午後の紅茶を飲んでるオレと、エスメラルダのバスルームで泡だらけの○○○。
革命が起きそうな前夜にワクワクしてるオレと、買ったばかりのお気に入りの服でファッション・ショーをしてる○○○。
短編小説書いてるオレと、黄金時代のサルサで踊ってる○○○。
夜中にピーナツ食べてるオレと、昼間っから優雅にシエスタしてる○○○。
徹夜明けの夜明け前に、ずーっと、そんなこと考えてる。
楽しいから、○○○のことばっか考えてる。

わかってほしい、ではなくて、わかってあげたい、でもなくて、オレ、○○○と、わかりあいたいんだ。
オレと○○○が、ダイレクトに、ワイヤレスで、メイクラブ出来たら、そこには至上の風景が広がってるんだってことを、
オレ、ロックンロールから学んだんだよ。
人と人が、完璧にわかりあえることなんてなかったじゃないか、って、ビートルズのジョン・レノンもRCサクセションのキヨシローも言ったけど、それでも、完璧にわかりあいたいんだって希望と欲望を捨て切って絶望するなんてことは絶対にイヤだから彼らは歌い続けるんであって、だからオレもロックンロールを聴き続けるんであって、それは、たとえ、○○○の胸の奥深いところに刺青となって刻印された悲しみを、知る術がオレにはないのだとしても、○○○の身体を襲うさまざまなトラブルと痛みを、代わってあげられる術がオレにはないのだとしても。

オレが○○○に宛てたメールを送ろうとしているまさにそのとき、○○○が携帯のアドレス帳からオレの番号を探してるなんてことは、滅多にないことだとしても、
オレが○○○に宛てたラブレターを書いてる真夜中に、○○○がオレの夢を見てるなんてことは、ありえないことだとしても、
でも、そんな瞬間は、オレの宝物だったりするんだ。

○○○がオレの名前を叫んだそのとき、地球の裏側の路上で詩を書いてるオレにその声が届いたら、オレは光速のビンテージ・カーを操って○○○の元に駆けていけるじゃない。
○○○がオレを思ったそのとき、冒険物語のなかで異人と闘ってるオレにその思いが届いたら、オレはオーロラを翼にして○○○の元に飛んでいけるじゃない。
そんな瞬間は、オレの大切なものだったりするんだよ。

人はわかりあえる、って前提を持つより、人はわかりあえないもんだ、って前提を持つほうが好き。
わかりあえないもんだってことにうちのめされたとしても、わかりあいたいって思いが強ければ、繋がりは熱くなれるから。

なあ、秘密を持とうよ、ふたりだけの。

でもさ、とりあえずはね、
なにがあるわけでもないけど、
なにはなくとも、ここに○○○がいれば、
○○○がいてさえくれれば!
大好きな○○○がいてくれさえすれば。

まず、夢が叶えられた。だから、オレ、未来と、そしてもちろん○○○に、おじぎしたんだ。

2007年12月6日木曜日

あの夏のフラメンコ




この話は、いくつかのところですでに何度か書いているのだけれども…。

オレは、ちょうど20歳の秋から24歳の冬までの丸4年間、ずっと、世界中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、ウロウロしながらほっつき歩いていてました。
東アジアを皮切りに、中央アジア、中東、イスラム圏、アラブ圏、ペルシャ圏、地中海沿岸ヨーロッパ、東ヨーロッパ、北海沿岸ヨーロッパ、北アフリカ、中央アフリカ、東アフリカ、西アフリカ、アラスカ、北アメリカ東部、北アメリカ西海岸、カリブ諸国、南アメリカ全域、南太平洋諸国……。
全部で107ヶ国、1日の生活費が宿泊費と交通費込みで5ドル前後というストイックな旅だったのだけれども、勉強も仕事もしないという贅沢の極みのような時間を、丸4年間、なにかに憑かれたような、そんな微熱を抱えて、ここでない、どこかを目指して、遙々と、未だ見ぬ土地に視線の先を据えていたのですね。

ピラミッドやアンコールワットの遺跡、あるいはルーブル博物館やNY近代美術館といった人類の偉大な先人たちが遺したお宝やガラクタを見たいとは、あまり思わなくて、ヒマラヤやナイル、アマゾンといった大自然の懐に悠然と抱かれるのも、なにやら退屈な気がしてました。

それよりも、日なが一日、道ばたで佇んでいるオバァやカフェで忙しく働いている婦女子さんと言葉を交わしたり、トラットリアやビストロでたまたま隣同士になった頑固そうな職人や生きることにしたたかな妙齢の婦女子たちとひと晩中話し込んだりすることのほうが、はるかに楽しかったですな。
オレは、さまざまな種類の雑誌をつくったり、音楽評論をしたり、アメ村文化から商工会議所までのさまざまなことがらについての文章を書き殴ったり、広告をつくったり、芝居の脚本を書いたり、翻訳をしたりしている、あえて言い切ってしまえば、一介のモノを書いてメシを食っている人間です。
モノを書いている人間などというのは、大半は、人間、に興味があるもので、オレも、興味の向く大半は、人間、だったりします。でも、旅をしている最中、人間に興味があったんだと言えばカッコいいのだけれど、それ以上に、誰かと繋がっていたいという、淋しさみたいなものがありましたな。

1987年、21歳の夏を、オレは、パリの下町、カルチェ・ラタンで過ごしました。ぶっ飛んだ若い連中や、目をギラつかせたアジアやアフリカからの移民、合法と非合法の境界線を綱渡りしながら歩いているような連中がたくさんいて、毎日が絵空事のように刺激的でした。
そんなとき、オレは、場末のビストロで、原形を留めないまでにドロドロに煮込んだタン・シチューを食べていて、とある妙齢の婦女子さんと知り合ったのですね。

ストリップ・ダンサーでね。
ちょうど、18歳の夏をオレは渋谷のストリップ小屋で住み込みバイトしてましたから、ストリップにはよくよく縁があります(笑)

ステージがはねたあと、彼女はきっとこの店で遅い夕食を摂っていると言っていました。オレも、ムール貝から子牛の胸腺までなんでも揃っているこの店が気に入っていて、何度か通っていたのでした。そして、2度目に見かけたとき、オレたちは、どちらからともなく話をするようになっていたのでした(タン・シチューを前にしながら!)。

オレは、極東の奇妙な国に覆う息苦しさから逃れたい一心で、アジアから中東を抜けて気がつけばこんなところまで流れてきていたんだ、みたいなことを話したように思います。
ベロニカ、というピカソのモデルになった女性とおなじ名を持つ彼女は、ハンガリー生まれのロマ(ジプシー)で、パリでストリップショーをやりながら生計を立てている、いろいろ辛いことはあるけれど、ダンスがあるかぎり生きていけるんだ、みたいなことを、訥々と話してくれました。
訥々とではあるけれども多くを語ろうとはしない彼女の話から透けて見える現実は、シビアな現実です。動乱のハンガリー現代史とロマのヨーロッパでの扱われかたを、オレはそれなりに知識として知ってはいたけれど、おそらくは、そんな生半可な知識では想像も出来ないような修羅場を、彼女はいくつもいくつもくぐってきたんだろうな、と、その場で僕は朧げながら感じとるのみでした。

どこかでシンクロすところがあったのか、なにかの波長が合ったのかは定かではないのだけれども、結局、その夜から、オレは、ベロニカの家に転がり込むことになりましてね。若さにも流れにも身を委せて、その年の夏の2ヶ月を、オレは、ベロニカとともに、彼女の家で過ごしたのでした。

ノー・ミュージック・ノー・ライフ、ってなくらいに音楽にのめり込んでいたオレにとって、ベロニカと過ごした日々は、煌めく宝石のようなものでしたわ。

サルサ、サンバ、スコットランド民謡にアイリッシュ&ケルト民謡、オキナワ民謡(!)、フラメンコ、ミュゼ、ルンバ、チャチャチャ、マンボ、ブーガルー、ガンボ、カッワリー、そしてロックンロールとブラックミュージック、レゲエ、スカ、ダブ、ロックステディ……。ベロニカは、世界中のありとあらゆるダンス・ミュージックに、その身を浸していたのでした。

まだ青くて堅いばっかりのパンク小僧だったオレには、それらはとても新鮮で、ピカピカに磨かれたおろし立てのブーツみたいに、魅力的なものに感じられたのですよ。いや、あのころは、触れるものなにもかもが新鮮でしたね。

いろんな話を、したのでした。
音楽について、音楽の未来について、ダンスについて、リズムについて、リズムの未来について、快楽について、感情と理性の揺らぎについて、ロマについて、共産主義について、資本主義について、自由について、不自由について、民族について、国家について、人が人を愛することについて、人が人を愛することのバカバカしさについて、交わることについて、男と女について、すれ違うことについて、旅をすることについて、旅をしながら生活をすることについて、流れていくことについて……。ホント、いろんな話をしたのでした。いろんなことを、ベロニカからは教わったような気がします。

旅をしていてよかったなと思う瞬間は、そういうときですね。
触れれば火傷をしてしまうような、熱い真実に出会うことがたしかにあって、まさに、そういう時間だったように思います。

夏の陽差しが心なしか柔らかくなってきた晩夏のある日、オレはベロニカの家を出る決心をした。次の旅をはじめる、再び流れていく決心を、オレは、したのでした。
目的のない旅の悪い癖でね、予定がないもんだから、居心地さえよければ、ダラダラといくらでもそこにいついてしまうのですよ。
だからね、ひと夏を費やしたけれども、えいやっ!と決心をしてですな、旅の続きをはじめることにしたのでした。

そのことをベロニカに告げたとき、
「旅をするんだったら、いろんなことを見て、聞いて、感じなさい。いろんなことを知りなさい。そして、知り得たことのすべてを、他人の立場や環境をリアルに想像するための手助けにしなさい。他人の立場をディテールまでリアルに想像することが出来たら、戦争や諍いはなくなるわ」
彼女は、オレにそう言った。

おそらくは個人の力ではどうにもならない巨大な力に翻弄され続けてきたであろう彼女は、そして自らの出自と生業に対して謂われのない悪意しか示さなかった人が圧倒的だった環境を生き抜いてきたであろう彼女は、それでも、なお、個人と個人は繋がることが出来るという希望を捨てずに、オレに、「人間は想像することが出来る」と、言うのでした。

そのときのベロニカの視線のオクターブの強さ、意志を持ったクチビルの動き、適度に緊張した力を漲らせた指先は、否応なく、オレの胸の奥の深いところに刺青のように刻印され、今でもまだくっきりと残っています。

今、ベロニカがどこでなにをしているのか、オレには知る由もありません。
1998年の夏にワールドカップを観に久しぶりにパリを訪れた際、かつてのベロニカの住んでいた場所に行ってみました。でも、すでに彼女はそこでは暮らしていないようでした。きっと、どこかの空の下で、オレが見上げれば広がっているのと同じ空の下で、彼女は今もきっとダンスしているのだろうと思っています。

年をとると、そういう思い出が澱のように溜まっていって、なにかの拍子にふと思い出して、言いようのない気持ちになりますな。

ベロニカには、よく、フラメンコを踊ってもらいました。


以上、3日間にわたったフラメンコ3部作、終了(笑)



最近よく聴いているのが、これ。オホス・デ・ブルーホ。彼を聴けば、フラメンコが遠くインドと地続きで繋がっているのが、よくわかります。

本日の1枚:
『Todo tiende』
Ojos de brujo


2007年12月5日水曜日

フラメンコの誕生を夢想してみる


今年、スペインのマドリーで列車爆破テロがあって、政権がひっくり返りましたな。それまでの親米政権だった国民党が倒されて、社会労働党が政権に返り咲き、イラクからの早期撤退を決めて、ずいぶんと話題になりました。
労働社会党の政権奪還は1996年以来といいますから、20年ぶりの奪還です。
その間、もっとも長きにわたって首相の座に就いていたのが、アスナール。
盆栽が趣味で、庭いじりに劣らず熱心なのが、フラメンコでした。その熱を息子が引き継ぎ、官邸に当代きってのフラメンコ歌手、カマロンを呼んでは歌わせているらしいです。なんせ、アスナール一家は、フラメンコの本場、アンダルシアはセビージャの出身ですからな。南スペイン、1年に300日は灼熱の太陽が降り注ぐセビージャ。

翻って、今年の4月に新首相に就任した労働社会党のサパテロ首相は、北の人。バジャドリー出身です。サッカーの城彰二がリーガ・エスパニョーラに挑戦していたときに在籍していたクラブがここだから、それで名前を知ってる人多いかも知れません。9ヶ月が冬で3ヶ月が灼熱地獄の、苛烈な土地。

スペインの北と南は、大きく異なりましてね。

食べる肉は、北が牛で南が豚。
北の魚は種類が豊富で、炭焼きから鉄板焼きまでなんでもござれ。南は種類が少なくて、オリーブオイルで揚げる一辺倒。
北がリンゴで、南がオレンジ。
物語の『カルメン』は南の婦女子さんだけれども、北の生まれを装い、リンゴ畑が忘れられないわ!などとのたまって、北の男ホセの郷愁を誘います。

北と南。
気候が違い、地理が違い、社会の成り立ちが違いますねん。

8世紀初頭、キリスト教徒の国スペインに、アラブ人率いるイスラム教徒が侵攻し、1年でほぼ全土を制圧。キリスト教徒の貴族は北の海沿いに逃れ、反抗の準備に備えます。
他の、逃げる資金も術もなかった一般庶民はですな、イスラム教徒に改宗する人、しない人に分かれたのだけれども、いずれも生活習慣はアラブ風に改めます。

反抗は、スペインらしいおおらかさで進みまして、100年で川をひとつ越え、次の200年でもうひとつ、といった調子で、共存と闘いを繰り返しながら、南へ進んでいくのでした。
キリスト教徒の中心勢力であるカスティーヤ王国がイスラム最後の拠点であるグラナダを奪還するのが、1492年ですからね。800年近くかけての奪還ですよ(笑)
これはそのままスペイン語の普通名詞になってまして、レコンキスタ(失地回復)と呼ばれています。

グラナダにいたのは、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒です。カスティーヤ王国は、これらすべてにキリスト教を強制し、これでやっと、スペインに、ひとりの王がひとつの法律で治める、ひとつの宗教で束ねる体制が出来たわけです。まあ、バスクの問題はあるのですが、それに触れると話がとめどなくややこしくなるので、ここでは一旦、除外ね。

その頃、東のピレネーの山の彼方から、スペインへ入る集団があったといいます。
それが、ロマ(ジプシー)。
インドに発した集団が枝分かれし、スペインへも入りました。
レコンキスタの戦勝景気に惹かれて、移動したといいますね。
異教徒の多くが国外へ脱出したあとの労働力の補充として、他のキリスト教諸国から植民が送り込まれていたころで、ロマ(ジプシー)も歓迎されたといいます。

16世紀、スペインは新航路を開拓し、交易を独占してヨーロッパ随一の強国となり、その基点であったアンダルシアにはヨーロッパ中から商売人が集まり、ロマ(ジプシー)にも定住者が増えて、農具なんかをつくっていたそうですわ。ま、ロマ(ジプシー)は、手先が器用ですからな。

が、しかしです。
人々をひとつの宗教で束ねようとする国家や教会の目に、イスラムやユダヤの習慣を捨てない人々や、異国語を使うロマ(ジプシー)のような人々は、不穏な分子でもあったのですよ。そもそも、古代インド語であるサンスクリット語を使い、服装も怪しい。
職人は職人、百姓はどこから見ても百姓、靴ひとつで身分や職業がわかってしまう社会にあって、宗教は、精神の領域である以前に、生活様式そのものだったのですね。だからこそ、教会は、この統一を重要視します。よくわからない人々の存在は、どこの国であっても、怖れられますからな。

定住しないことは、重罪。
監視がしにくいし、労働力にならない。
ので、住所不定、無職、無籍の取締令が出ます。
逮捕の1度目は百叩き、2度目は投獄と両耳落とし、3度目は終身奴隷にする、と。

アンダルシアはスペイン国土の約2割を占める、自然に恵まれた肥沃な土地なのだけれども、働く人々は貧しいままでね。レコンキスタのアンダルシアでの戦争は近代戦争であり、近代戦争であるからには莫大な戦費がかかるのですが、王家は、その莫大な戦費を多数の貴族から借金してまして、それは、奪還予定地との引き換えだったのですね。
その結果、アンダルシアの土地は、ひとにぎりの貴族のものとなり、北のカスティーヤが小規模自営農の土地であるのに対し、アンダルシアには大土地所有制が居座り続けて、それが今日まで続いています。
労働者、農民はすべて日雇いで、手配師が持ってくる仕事の口を求めて、人々は広場に集まるわけです。
だから、アンダルシアの都市は、どこも、大きいですよ。農民をそこに住まわせ、農作業の時期には畑地のなかの飯場に隔離したといいますから。

マシな暮らしを求めてよそに移ろうとすれば、浮浪者取締法で、牢獄か鉱山か港湾に送られます。逃亡者は、山賊になるしかないですね。アンダルシアは陸のなかに点々と島があるといわれるほど隔絶された土地でもありますから、山賊になるのにはうってつけです。スペインを北と南にわけるシエラ・モレナの山々やグアダルキビル川の流域に、山賊が跋扈しました。

そんな状況から涌いてきたのが、フラメンコです。

ロマ(ジプシー)には音楽の芸を身すぎ世すぎの足しにしてきた人々がいて、彼らは日常の粋や恋を歌ったのだけれども、そこに、この世の不条理が魂の叫びを誘ったのでした。
アンダルシアの特殊な運命とその重圧を共有する人々を代表して、ロマ(ジプシー)が、呻いたのでした。やり場のない訴え、聖母マリアにしか縋るところのないせつなさが声になり、フラメンコは誕生しました。




バルセローナのオリンピック・スタジアムやミロ美術館、カタルーニャ美術館は、すべて海沿いの丘にあります。つい20年ほどまえまで、この丘には1万戸以上の掘っ建て小屋がありました。手を伸ばせば届く高さで、ベッド2台がようやくという狭さで。外壁は漆喰の白で塗られたこの建物は、チャボラと呼ばれ、4万人が住んでいると、当時、いわれていました。アンダルシアからの、流民ですわ。
今は亡き香港の九龍かマニラのスモーキー・マウンテンさながらの、一度迷い混んでしまえば脱出不可能の、迷路ですな。
迷路ではあっても、通りには名前も番地もちゃんとあって、郵便も届いていてました。でも、市の地図では、丘は空白。
夜は、野良犬の天下。スタジアムは、当時はサッカー場の廃墟、カタルーニャ美術館は見捨てられた離宮だったのですが、どちらにもロマ(ジプシー)が住みついて、物乞いの拠点にしてました。

そのころね、19歳のロマ(ジプシー)の少年と、知り合ったのですよ。

アンダルシアで豚の世話をし、バルセローナに出てきてからはレストランでコックの見習いをしてました。3食付きで、社会保険付きで、月5000円ほど。
この少年の家族も丘に住んでいて、オレたちはなぜ姿勢がいいかわかるか?地べたに寝ているからだ!なんてことを言って笑ってました。
カルメン・アマージャが主演する『バルセローナ物語』は、ここで撮影されています。
そのチャボラもすでに消え、人々は工場群の近くのマンモス団地に移っていきましたが。

おなじく20年まえ。
マドリー駅から線路沿いに3kmも4kmも延々と続く、不思議な風景がありました。
廃品の捨て場と見間違えるほどの、廃物利用のチャボラ。もうね、スモーキー・マウンテンさながらですわ。ここもまた、アンダルシアからの流民の仮住まい。
こちらは、マリソルが主演する『太陽の朝』に、この風景が出てきます。

やっぱり、20年近くまえ。
マドリーの劇場で、珍しく、ロマ(ジプシー)ばかりが出演するフラメンコのステージがあって、オレは、いそいそと出かけたのでした。
客はさまざまで、途中、2階から人が降ってきましたですよ(笑)
ロマ(ジプシー)とそうではない人がケンカをして、どちらかが突き落とされ、両方が落っこち、劇場内は殺気立ったのでした。
そのとき、舞台にはバイラドール(踊り手)のエル・グイトがいて、
私たちの歴史は共存を願う年月ではなかったのか! こんなことで、出来かけた関係を台無しにしてもいいのか!
と、叫んだのでした。

オレは、その日、トマティートやチケテテよりも、グイトのひとことを聞きにいった思いがしたのでした。

ヒトラーは強制収容所でロマ(ジプシー)を50万人は殺したといわれているし、そのヒトラーの支援を受けてスペイン内戦に勝ったフランコは、第2次大戦中に、ナチス支援のための兵を6万人送っています。その、フランコの時代、ロマ(ジプシー)は、アウシュビッツを思って息を潜めていたことを想像するのは、そう難しいことではないですね。

15年くらいまえかな。
グラナダのシエラ・ネバダ山中で、秋祭りが行われていて、教会の境内には輪投げや射的なんかの屋台が出ていたのでした。この屋台をやってるロマ(ジプシー)たちと仲よくなりましてね。
ある晩、一家を率いる男が歯痛で七転八倒し、オレは見かねて、薬局を叩き起こしたのですよ。ロマ(ジプシー)が行っても、相手にしてくれないからね。
痛みが治まり、それからはおなじ釜の飯を食べ、おなじ屋台の下で寝て、輪投げや射的の客のポケットから財布を抜く技なんてのも、教えてもらいましたわ(笑)
この一家は、グラナダ郊外のチャボラに住んでました。

おなじころ、
オリーブの生産量が世界一というアンダルシアのマルトスで、住民200人がロマ(ジプシー)の住まうチャボラを放火し、2人が逮捕されました。
これに抗議して住民20人が決起し、やったのはオレたちみんなだ!と、共犯を名乗り出たのでした。
スペインでは、責任を全員で被るとき、やったのはフエンテオベフーナ!と、言います。むかし、フエンテオベフーナという町で悪代官を殺した人がいて、住民が彼をかばい、やったのはフエンテオベフーナ!と言い張ったことに由来する、と、教えてもらったことがあります。
のちに戯曲化され、アントニオ・ガウスは、これをもとに『アンダルシアの嵐』をつくったのでした。

昨日から聴き入っている、フラメンコにまつわる話を、つらつらと。。。
長くなりましたな(笑)


今、フラメンコ界で若手ナンバーワン、ニーニョ・ホセレを☆


『Paz』 / Niño Josele


2007年11月1日木曜日

夜の




最近、夜に遊びで出歩くことはなくなっていて、まあ真面目におとなしくやってるんですが、昨日、日付が変わってから打ち合わせをしてまして、久しぶりに、その足で飲みに出かけましたな。
といっても、オレは飲まないけれども(笑)
といっても、スーパー銭湯行って、お好み焼き屋で騒いでただけですけど(笑)

一緒に行った編集者は、夜が大変に好きなやつで、もう、夜に遊びまわっとりますな。
昼間は昼行灯みたいになってまして、夜になると、いきいきするので、普通の時間に仕事を依頼するのが怖くて、いっつも夜に…。

キャバクラなんて小便くさいところには行かずに、ラウンジかクラブに行って、そのままちっこいスナックで頭にネクタイ巻いて大騒ぎする!という、なかなか古典的な行動パターンを好むやつなのですよ~。
といっても、オレも、スナックは大好きだし、だいたい、カフェブームかなんか知りませんが、そういうヘルシー志向はクソくらえで、オレは断然、深夜の穴蔵のスナック派ですから☆
といっても、最近は全然ご無沙汰だけれども(笑)

それでもね、月末も夕方5時を過ぎると、飲み屋のおねーちゃんが、支払いが終わったのを見透かしたかのようなタイミングで、連絡を入れてきますな(笑)
といっても、カネもないし、めったなことで行きませんけど。

そんなわけで、昨夜、ひさしぶりに夜も更けまくってる時間に、仕事ではなく、外をうろうろしてました。
夜はやっぱり、いいですな☆
オレは、やっぱり夜が好きなんだなあ、と、改めて思いました。

なんでもいい。
試しに、夜の、を頭につけてみてください。

「夜のmixi」
「夜のルイス」
「夜のおとりよせ」
「夜の賞味期限偽装」
「夜の赤福」
「夜のNOVA」
「夜の亀田親子」
「夜の防衛省」

どんなにキレイな言葉でも、たちまちのうちに、淫美で妖しい雰囲気を醸し出すじゃないですか☆

いずれにしても、夜は、どこかに後ろめたさと大胆さと投げやりなかんじとぬくもりと残酷さを想像させます。

もしも夜がなかったら、と思うと、ゾッとするのですよ。

寝れないし。
遊べないし。
思えないし。

夜の、と冠してしっくりくるモノあるいは人というものは、もとより夜を所有出来る素養を持っているのであり、物事を裏表両面から見ることを普通にやっているというのが、オレの印象です。

そういえば、オレのマイミクさんたちは、夜、それもハンパではない夜に日記を更新されている方が多い。


夜の音楽いうジャンルがあると、オレは思っています。

夜の静けさのなかで着想された、夜の感覚で音を表現した、夜の孤独者にふさわしい音楽、というほどの意味です。ショパンやフォーレが、そういう微妙な音楽をよく書いたように思うのですよ。マーラーの第7交響曲も夜の音楽としてつくられているし、バルトークは、ルーマニアの山村の深い夜のしじまのなかに聞いたカエルの声から、神秘的な彼の夜の音楽を作曲したというではないですか。

夜の音楽は、不思議なジャンルです。

人々が寝静まって、あたりは深い静けさに包まれてます。人間の意思や欲望が掻き立ててきたノイズが消え去ると、代わってそこには、べつの種類のノイズ、自然の内部から湧き上がってくる、たくさんの微妙で、豊かな音楽が、聞こえてくるようになります。
でも、夜のなかでは人は眼が見えないから、それがどこから、また誰からやって来る音なのか、わからりません。そのために、夜のしじまの全体が、この複雑で微妙な音を奏でているような気がするのですね。
人はその体験をもとにして、夜の音楽をつくるのではないか?
かすかな震え、いつまでも続くかと思われる反復のなかから発生する、微妙なうねり、最小限度の要素だけから生み出される、宇宙にも匹敵する複雑さ、みたいなものを、音にするのではないですかね?

たとえば、夜の京都の庭で聞こえてくるのは、このような夜の音楽です。

京都には、なまのままの自然は存在していなくて、どんな小さな自然であっても、人間の精神によってたわめられ、手を加えられなかったものは、ありません。庭園の設計者たちは、なまのままの自然から、最小限の要素だけを取り出して、それで宇宙と生命のすべてを表現してみようとします。

銀閣寺の庭が一番わかりやすいですね。

一面に敷きつめられた砂、その砂の表面に、反復する模様だけが描かれている。月明かりのもと、その反復のなかから、微妙で、豊かな音楽が発生し、静かに、渦が巻き起こり、空気がうねっていくような、眼に見えない動きをはじめます。そうすると、さらさらの、抽象的な砂だけでつくられた庭が、精妙な生命を持つもののように、感じられてきます。

あるいは、べつの庭では、地面を覆い尽くす苔が、あたりをふかふかの緑に変えています。隠花植物である苔には、花がなく、そこでは、生命の花は、眼に見える植物の表面にはあらわれては来ず、見えない生命の内部空間に咲きます。
そのとき、夜の庭園にいて、無数の苔に囲まれた人は、生命のあでやかな花を見るのではなく、まず、聴くのですね。表面のはでやかさは否定され、そのかわりに、植物の内部からは、生命が華麗な夜の音楽に姿を変えて、庭園のすみずみまでを充たします。

もしも都市が、人間の意思や感情だけで造られているとしたら、京都のような狭い空間に開かれた都市は、すぐに息が詰まってしまっていたことだろうと思うのです。少なくとも、大阪は息が詰まりますなあ。まあ、息が詰まる大阪が好きだったりするのですけれども。
ところが、京都では、いたるところに庭があり、そこでは抽象的な砂だとか、植物の見えない内部空間から発生する微妙だとか、家屋の中空にうがたれた無だとかから、夜の自然の音楽が、生まれてきます。

夜とエロが単に直結しているとしか考えられぬバカ者どもには、夜の豊かさを知ることがないでしょうね。

夜の豊かさを知る件の編集者は、夜のタネ銭を得るため、今日も仕事してますわ。



リトル・フィートは、なんだかんだいって、夜の音楽をやっているのだと、オレは思っています。というか、サザン・ロックの本質は、夜の音楽ですな☆

本日の1枚:
『Spanish Moon』
Little Feat

2007年10月20日土曜日

鐘をチン!と鳴らして太鼓をドン!と叩くから、チンドン


今日、梅田を歩いていたら、華乃家ケイさんとぱったり出くわしたのでした。
オレも、いつもいつも、あなたの幸せを祈らせてください~!の人にばっかり出会っているわけではないのですね。

ケイさんは、大阪のチンドン屋の親方みたいな人でして、今、大阪ではチンドンが復活しつつあるんですが、これはもう、ひとえにケイさんが頑張ってらっしゃるから。

飲み屋もやってはりましてね。むかしはそこでケイさんの昭和懐メロをカラオケでよく聴いたもんです。今月、お店をリニューアルしはってですね、カラオケは撤去してライブ中心のお店にしたとこ!とおっしゃってはりましたわ。

なーんで、リニューアル記念のライブに来てくれへんかったんよ!
って言われたけど、
案内もらってへんから、知らんし(笑)
また近いうちにのぞきまっさ、ということで。。。

チンドンは、原始的な広告手段でして、お店の新装なんかを宣伝するときに、お願いしたりします。
いっとき完全に廃れましたけれども、この10年ほどで復活しまして、その立役者がケイさんで、ときどき、お仕事をお願いすることがあるんですよね。

路上練り歩きで、全編ライブなんで、若いミュージシャンが度胸付けのために、チンドンのバイトすることも増えてきました。

そのむかし、大阪は千日前に「飴勝」という飴売りがいてましてな、そこが、不振の寄せ小屋に頼まれて、口上のおもしろさでお客を惹きつけたんが、ちんどんのはじまり。
鐘をチン!と鳴らして太鼓をドン!と叩くから、チンドンです。

音楽として、表現形態としてのチンドンの魅力は、異形にあるんだと思います。その圧倒的な非日常性や祝祭の香りが、とても素敵です。素敵のみならず、音楽の原点を思い出させてくれるものでもあります。
結婚式や祭に楽団を呼ぶっていうのは、非日常性や祝祭の香りを求めるからでしょ。音楽の、実生活での役割や実効的な要素って、そういうもんです。それを色濃く残しているから、チンドンには魅力があるんですよね。

それと、通信としての役割。

チンドンはそもそもが広告の媒体として成り立ってますから、そこには某かの情報が含まれているわけです。どこそこで歳末大売り出しやってます~!とかね。

音楽には、そうした通信の役割を担っているものがありましてね。
大昔、ブルーズがマーチング・バンド形態をとっていたころ、そうやって街中を練り歩いて、「○○の家のオジイが亡くなった~」とかニュースを触れてまわってたんですよ。トーキング・ブルーズという言葉は、そっから来てます。

沖縄民謡も、そんなかんじですな。

演歌もね、大正時代に成立した壮士演歌は、モロにそれですわ。
関東大震災があって、○○地区は全滅~、とか、それこそテレビが伝えるニュースを、壮士演歌の歌い手さんが、触れてまわってました。
壮士演歌というのは、もともとは、政治活動や大衆運動をする人たちが、演説するのに節をつけるようになって、そこにバイオリンの伴奏が入るようになって出来たもんです。
だから、演歌というのは、元来は、「演説する歌」というほどの意味で、今のいわゆる演歌は、もともとは艶歌と呼ばれてました。
ま、これ以上話をすると、とめどなく横道に逸れていきそうですが、そういう、通信としての役割を担った音楽はたくさんあって、チンドンもその系譜にある、と。


なんてことからですな、じつは、ケイさんとちょっとした企てを思いつきまして、近いうちにかたちにしましょか、なんてことを話して、今日のところはおわかれしたのでした。

ケイさん、相変わらずパワフルでしたわ☆

華乃家のサイトはこっち。

2007年10月10日水曜日

マトリョミン☆




みなしゃん、テルミンはご存知か?
ロシア、というかソ連で発明された、最古の電子楽器ですな。
レフ・セルゲーエヴィッチ・テルミンってマッド・サイエンティストが発明したんですけどね。

そのものに触れることなく演奏出来る、世界で唯一の楽器ですわ。
本体の箱から2本のアンテナが伸びていて、そのアンテナに手をかざすと音が出るという代物。
一方のアンテナは音程を司り、もう一方のアンテナに手をかざすことで音量をコントロールします。
静電容量の違いを演奏に利用するのですが、安定して狙った音階を出すのが非常に難しいらしいですな。ま、楽器音痴のオレには、どの楽器も高くそびえる壁ではありますが。。。

あたしゃ、レッド・ツェッペリンの演奏でテルミンの存在を初めて知りましたが、最近はどうなんでしょうか、やっぱ、コーネリアスが使って、一気に有名にしましたかね。

こんな楽器ですわ。
あったかいというか間抜けというか、変な音を奏でる楽器です(笑)



で、本題はテルミンじゃなくてですな、マトリョミン☆
なんかね、すごいというか、わけがわからんというか、キュートというか、こんなのを見つけてしまいましたですよ。

テルミンがですな、なぜか、マトリョーシカのなかに入っているのですよ(笑)
ロシア繋がりでマトリョーシカってのはわからんでもないのですが、なぜに、わざわざテルミンを内蔵せねばならんのか!
ウクレレがココナッツに内蔵されてるようなもん…、いや、ココナッツでつくったウクレレって、そういえば、あるな(笑)
とにかく、マトリョミン! なんかしらんけど、惚れてしまいました☆
欲しいけれども、オレは楽器音痴だしなあ。。。
これは、相方さんをそそのかすしかないですなっ!
いや、相方さん、これはオレがそそのかさなくても、きっと虜になるはずっ!

なんか、詳しいサイトまで見つけてしまいました。


画像は、左から
●標準的なマトリョミン。44,016円也(税込み)。5オクターブ以上の音声域を誇っとります☆ どっから見てもマトリョーシカにしか見えません(笑) まさか、なかからマトリョーシカの子供が出てくるんじゃないだろうな!

●こいつはペアになってる「マトリョミン寿」63,000円也(税込み)。寿って!(笑) ちっこいほうは、手回しオルゴールを内蔵したマトリョーシカ型オルゴールです。幸せなお二人のための特別なマトリョミンで、愛の二重奏を!(笑) 結婚祝いに最適です☆ ちゃーんと、桐の箱に入ってますから!

●こいつの名前は「METEL」7,245円也(税込み)。 メーテルはマトリョミンのためのウォーマー。気温変化に敏感に反応するマトリョミンは、特に冬場においてチューニング状態がやや不安定になる傾向があり、外温からマトリョミンを守ってくれるのだとか! 表地にフェイク・ファー、裏地にサテン風生地が外気の低温からマトリョミンを温かく守ります。後方底部は開口し、マトリョミンを保持する手も差し込め、メーテルをまとった状態での演奏も可能です。一体ごとに形状の異なるマトリョミンにフィットするよう、メーテルは、一着ごとの完全オーダー☆ ちゃんと採寸して、型紙を起こすところから仕立てます☆

なんか、この充実っぷりがすごすぎます(笑)
いやー、世界は広いですなっ。オレの知らんところで、このようなものが展開されていたとはっ!
民族楽器蒐集といえば中島らもさんが有名だけれども、彼は、マトリョミンを持っていたのだろうか?


マトリョミンの演奏風景は、こちら。

2007年7月1日日曜日

スポーツ少年団、フジロックへ☆


オレのマイミクさんにスポーツ少年団というハンドルネームの男がいてましてですな、まあ、滅多に書き込みはせんし、オレも滅多に日記を覗きにいくこともないという、なんのためにマイミク同士になっているのかよくわからん間柄なのですが、一応、リアルでの知り合いなのですよ。

ミュージシャンでしてね。

彼の前身のバンドのときはいろいろとかかわりもあったのですが、そのバンドが解散し、現在のバンドになってからは、なんかタイミングが合わずにライブにも行けず、ちょっと縁遠くなってたんですけどね。

んで、こないだ、久しぶりに第100回目とかいう日記を覗いてみたら、なんとまあ、フジロックへの参戦が決まってるじゃないですか☆
まだメジャーデビューもしとらんのに…。
まあ、フジロックは、これから!ってバンドもたくさん出ますけどね。でも、出れるんだから、めでたいこってす。ちなみに、オレは今年のフジロックは、きっと参戦しないんですが…(笑)

で、そのむかしですな、彼についてのちょっとしたテキストを書いたことがあるんですよね。
それを久しぶりに引っ張り出してきたので、アップします。

題して、「愛すべき過不足」

ロックンロールの素晴らしいところは、どんなに理想を声高に叫んでも、叫んでいる当の本人が、聖人でも君子でもなんでもなくて、クソみたいなくだらない現実にまみれた、一個の人間であるところに、あるのだと思う。クソみたいなくだらない現実にまみれた、一個の人間であるところの彼が、そこに踏みとどまることなく、精神の棒高跳び世界記録を目指すがごとく、ワン・ステップ・ビヨンドしようとするからこそ、その必死の咆哮は、ボクらの心臓を突き刺す。それが、ロックンロールの真髄だろ?
ボクらは、完璧でも完全でも、なんでもない。一人の人をキチンと愛していられているかといえばそうでもないし、誰にも後ろ指を差されないような生きかたをしているかといえばそうでもない。イラクやパレスチナで毎日のように殺戮が行われていることを知っていながらも、そのことに悲しみを抱きながらも、同時に、下半身は目の前に現れた待望のアナルセックスの相手に全身の血を集めていたりするわけで。
まったく、ボクらは、どうしようもない。
阿守孝夫もまた、どうしようもない。
バイト募集先に応募の電話をして、短期は募集していないと言われると、なら終身雇用のみの募集ですか!と、無茶な食いつきをしたりする。だいたい、普段から地下足袋を愛用している。ラーメン屋にバイトに行けば、ラーメンを作ってやっているという感覚で、接客する。そのくせに、たったの200円がなくて、慕ってくれているバンドのライブに行けなかったりする。財布に200円がない男の社会生活が、まともであるはずがない。なにげない会話に、空海だのサルトルだの村上水軍だの、マニアックな単語を散りばめる。はっきり言って、うるさい。そしてライブのMCでは、落ちもなにもない話を、唐突に、かつ延々と、喋る。
生きていくうえで、なにかが過剰なのであり、なにかが欠落している。でも、ボクらは、そうしたものこそを、愛してきたのではないだろうか。GRAYになくてミッシェル・ガン・エレファントにあるもの、アーノルド・シュワルツェネッガーになくてアルチュール・ランボオにあるもの、矢吹丈にあって読売巨人軍にないもの、スーツ着たリーマンになくて阿守孝夫にあるもの、それは、過不足だ。でも、それは、愛すべき過不足なのだ。それこそが、ロックンロールじゃなかったか?

なんてことをね、むかし、書いたことがあるのですよ。
彼がどれだけアナルセックスを愛し、どれだけヘンタイなのかは、このテキストを読んでいただけるとよくわかると思いますわ。

で、このテキストは今もってやっぱり有効で、彼は、今もこの通りだと思いますな。いや、最近は全然会ってないんだけれども(笑)
でもさ、まだロックンロールを、音楽を、真剣にやってるしな。
ぼちぼち30歳になろうかという大の男がね、真っ当に働かずにさ、音楽をやってるんですよ。
それだけでも、じゅーぶんヘンタイです。
でも、音楽とかロックンロールとかって、じつは、そういうヘンタイさんたちが、脈々と紡いでいたんだよな。

フジロック、楽しんでこいよな☆


スポーツ少年団さんのバンド、シベリアン・ニュースペーパーのサイト



シベリアン・ニュースペーパー / 柵から逃げ出し亡命する軍馬の話~僕の村は戦場だった

2007年5月27日日曜日

我的家在山的那一邊


旅していたとき、世界中のどこに行っても、その土地の料理に敬意を表して、その土地のものを食べるようにしていたんですが、どうにもこうにもダメなときもあって、そういうときは、中華料理屋さんに飛び込んでました。

中華料理屋は、世界中のどんな僻地に行ってもありますもんねん。
華僑、おそるべし、ですよ。マジ、どこ行ってもあります。

サハラを縦断するハイウェイのサービスエリアで中華料理屋を発見したときは、本気でビビりました。
チャプスイとメニューに書いてあったので、八宝菜のことなのですが、それを注文してみたら、もうね、どこのゴミ箱から拾ってきたんだ!って言いたくなるような野菜クズでつくったチャプスイで。そりゃ、バターではなくてゴマ油の香りがするので、それが中華料理だというのなら認めるしかないのだけれども、むしろ、馬の餌でしたな、これは。
試しに、八宝菜、と紙に書いたら、首をブンブン縦に振りながらそれを読んでいたので、この店のコックは中国人のはずなんですけどね。

まあ、そんなこんなで、中国人は、世界中のどこにでもいるってことなんですが、旅のさなか、彼らと仲よくなるのには、テレサ・テンの名前を出せば、一発でした。もっとも、日本の芸名のテレサ・テンではなくて、中国語の、鄧麗君(デン・リー・チェン)だけれども。
とにかく、どの国の中国人と話をしていても、テレサ・テンの人気って、すごいものがありました。
テレサ・テンといえば、つまんない不倫ソングを歌っている台湾出身の歌手としか知らなかったオレは、それをきっかけに、ちょっと興味を持ったんですよね。

帰国してから、いろいろと調べてはみたんですが、当時はまだネットもなく、文献を漁るのも音源を探すのも、かなり苦労しましたけどね。
弱小だけれども良質のレコードを出す、オーマガトキというレーベルがあるんですが、そこから、中村とうよう監修で、テレサ・テンの子供のころの歌声を収めたアルバムが、出てました。
それを聴くとね、めちゃくちゃ上手いんですよ、歌が。子供らしい、明るくて元気な歌声なんですが、ファルセットに移る直前が素晴らしいし、音程を絶対に外さないし、突き刺さってくるものがあるんですね。

そのあと、『淡々幽情』というアルバムの存在を知ります。
これは、中国の古典詩にメロディをつけて、テレサ・テンがセルフ・プロデュースして歌っているアルバムです。
表題通りの、幽玄で、淡く儚い歌声が、素晴らしい美しさで迫ってくる名盤です。

世はワールドミュージック・ブームで、それこそ世界中の民族音楽を植民地的に採集してきては発表する時代に突入していたんですが、テレサ・テンの中国での活動が日本に紹介されることって、ほとんどなかったですね。

台湾出身だし、国民党軍の軍人一家の娘だということもあって、北京からは目の敵にされていた彼女ですが、中国メインランドでの彼女の人気はすごくて、アルバムが発禁扱いであっても、みんな、海賊版で聴いていたといいます。歌は、国境を越えますね。
そういうこともあって、あの、フェイ・ウォンが、テレサ・テンの『淡々幽情』をカヴァーしてます。そっちもよく聴きました。北京の一番星であるフェイ・ウォンがテレサ・テンをカヴァーするという事実だけでも、テレサが中国メインランドでどれほどの人気を誇っていたのかが、うかがえます。
「昼は老鄧(鄧小平)のいうことを聞き、夜は小鄧(鄧麗君:テレサ・テン)を聴く」だとか、「中国大陸は2人の鄧(鄧小平と鄧麗君)に支配されている」なんていうジョークを知ったのも、そのころ。

天安門事件が勃発して、香港で行われた抗議集会にテレサ・テンが現れ、その映像を目にしたときは、なかなかショッキングでしたね。はちまきをして、泣きはらした目をサングラスで隠して、彼女は、『我的家在山的那一邊 私の家はあの山の向こう』を歌います。北京で座り込みを続ける学生に、エールを送ります。
その後、パリに拠点を移して、パリからラジオを通じて、北京政府に向かって抗議の声を上げてました。

日本の、不倫ソングを歌うテレサではない、中台双方の国民的英雄であるテレサが、そこにはいました。

チェンマイで客死したという報道が流れたとき、オレはたまたまアメリカにいたのですが、そんときのチャイナタウンの悲しみようって、すごかったですよ。
みんな、我が子が亡くなったかのような悲痛さで、泣いてました。

今日、テレビで、テレサ・テンの生涯を紹介する番組をやっていたそうですね。
見てないんですけど、中国でのテレサ・テンは紹介されたんでしょうか。
彼女の真価は、やはり、中国語のなかにあります。
今日、久しぶりに、『淡々幽情』を聴いてます。




鄧麗君 / 我的家在山的那一邊

2007年4月17日火曜日

R35


01. SAY YES/チャゲ&飛鳥
02. 君がいるだけで/米米CLUB
03. 何も言えなくて…夏/JAYWALK
04. Get Along Together ~愛を贈りたいから~/山根康広
05. TRUE LOVE/藤井フミヤ
06. シングルベッド/シャ乱Q
07. 離したくはない/T-BOLAN
08. クリスマスキャロルの頃には/稲垣潤一
09. Woman/中西圭三
10. 夏の日の1993/class
11. もう恋なんてしない/槇原敬之
12. サボテンの花 ~“ひとつ屋根の下”より~/財津和夫
13. 接吻 kiss/オリジナル・ラヴ
14. 壊れかけのRadio/徳永英明
15. 愛が生まれた日/藤谷美和子・大内義昭
16. 世界中の誰よりきっと/中山美穂&WANDS

ワーナー・ミュージックから『R35』というコンピ盤が出るのですが、このアルバムのそのラインナップが、上記。
6曲目と13曲目は知ってるけれども、あとはどれも知りません(笑)

宣伝文句は、こんなです。

もう一度、妻を口説こう。
あなたは今も「I LOVE YOU」と、言ってますか?
90年代前半…トレンディ・ドラマやCMタイアップにより数々の名曲が生まれた素晴らしい時代。そしてその時代はトリプルミリオン、ダブルミリオン、ミリオンセラーのシングルが数多くリリースされた。そんな時代背景の中で生まれた90年代前半のドラマのクライマックスを飾った美しいバラード、CMにより数多くの人に愛されたラヴソングにフォーカスした究極のラヴ・バラード集!収録曲のトータル売上げ枚数はなんと!2,000万枚を超える超豪華な楽曲ばかり!メガヒット・バラードの決定盤といえるコンピ!!!

90年代前半といえば、旅をやめて、オレが、日本で暮らしだしたか暮らしていないかくらいのころですわ。
だから、これらの曲を、きっと聴いてるんでしょうけどね。だって、合計で2000万枚超えてるんでしょ。耳にしてないわけがない(笑)
表題は「R35」で、オレは41歳だけどさ、まあ、同年代ですよ。

もう、バブルが弾けるあたりのころですよね。
こっから先の10年が失われた10年と呼ばれているわけだけれども、オレにとっては、ここまでの10年、日本にいなかったので、90年代前半までが、オレの失われた10年ですわ。
バブルの開始前夜に仕事をはじめたから、それこそバブルの恩恵に少しは与ったんですけど、あの、毎晩パーティみたいな躁状態に居心地の悪さをかんじて、オレは旅に出ました。

日本を捨ててやる気分も、少しはありました。
もちょっといえば、自分が根を張る場所、それは自分が具体的に生活していくための土地であったり人間関係であったり、職業であったり価値であったりするわけですが、そういうものを探すために旅に出たのですが、そういってしまうと少しかっこつけすぎで、身もふたもないいいかたをしてしまえば、なんかいいことないかな、と、そんなかんじで旅に出たんですよね。

あんとき、
なんかいいことないかな、と思ったってことは、バブル前夜のあの空気を、オレは、いいことだとも居心地がいいともまったく思っていなくて、そこに混ざっている自分がとてもイヤでかっこわるくて、とにかく、いち抜けしたいな、と。

もっともっと端的にいうと、
オレはおまえらとは違うよ、という意識が、かなりありましたわ。
オレは特別でっせ、ヘンタイでっせ、と。
第一、聴いてる音楽が違う。
今でも、どっかで、そういう意識はありますけどね。

ただ、自分がマイノリティだという感覚は、持っていても仕方がないし、どっかでそういう意識があるにせよ、出来るだけ、そういうことは思わないようにしてます。
普通というのは案外と偉大なものだということも、少しはわかる年になってきました。

同年代の知り合いやマイミクさんを見ていると、いわゆる普通といわれるような平々凡々な人生とは違う道を歩んでいる人は多いんだけれども、そういうのを見ていると、普通も普通じゃないもないな、ということを、かんじます。
それぞれが固有で、それぞれが特別で、それでいいんじゃないか、と。
だから今、オレは、普通でっせ!と、堂々と言えるし、そう言えるぶん、少しはタフになっているんだろうなと、思うのです。

年若かったあのころの自分、力がなくて、情熱だけを持て余して立ち尽くしていただけの自分に、今のオレが、大丈夫なんだよ!と、言いにいってやりたいくらいです。

こないだ、神戸出身の古い友だちが、長く東京で暮らしていたのだけれども、転勤で戻ってきました。
彼は、震災を知らないのですね。
帰ってきた彼にとって、神戸は、すでに幼いころに暮らした神戸とは違う景色になっていたそうです。
そして、震災も体験していない。
だから、ずっと神戸で暮らしている彼の旧友たちとは、なにか、決定的に違うものを感じたそうです。
共有していたはずのなにかが、なくなってしまったような、そんな喪失感がある、と。

それを言い出したら、オレなんて、このアルバムにあるような曲を知らないし、そういう意味では、同年代の人たちと共有しているものは、少ないかもしれない。
でも、それでもオレは普通だと堂々と言えるし、知らないことの負い目もないし、それでいいのだ!ってことじゃなくて、それはそれで仕方ないじゃないか!ってかんじなのですよ。

それでもオレはオレで、生きていくしかないではないですか。
震災を体験しなかった彼が、かつての居場所をなくしてしまった彼が、やはり、それはそれとして生きていかなくてはならないように。



このアルバムに収められた曲が流行っていたころ、オレはオレで、こんな曲を聴いていました。
速いとか遅いとか、リズムはそうした曖昧で相対的なものではなくて、3/4拍子だとかエイトビートだとか、徹底的に絶対的で、秩序の根本でありながら何者からも自由で、そういうものへの憧れがオレのなかにあったからこそ、こんな音楽ばかりを聴いていたのでした。

それはそれでしょうがないと思うし、それでよかったのだと、思っています。


こだま和文 / 『STARS』

2007年4月9日月曜日

日曜の昼下がりにうってつけ

朝っぱらからずーっと仕事してて、いつもならそのまま夜まで仕事してるんですが、最近、例の首痛以降、肩凝りがヒドくてですな、連続して仕事してられないんですよね。

なので、
ちょっと休憩がてらですな、チャリを飛ばして川縁へ行ったんですね。
こないだ、大人の宴会やった、桜ノ宮方面。
そしたらさ、この土日、お花見宴会がピークですな。
桜ノ宮の桜は川縁に沿って全長2kmあるんですが、川の両側とも、立錐の余地なくブルーシートですよ。
何千人いたんだろか。それも、全員が全員、判で押したように鉄板焼き&網焼き(笑)

でも、オレたちが宴会やったときのほうが、寒かったけれども、桜はきれいでしたわ。今日なんて、もう散りはじめてたもんね。

家族連れも多かったですね。
まだ髪の毛の柔らかな男の子、女の子、
希望を胸いっぱいに膨らませた男の子、女の子、
いっぱい遊んでましたね。

そういうお子たちを横目で眺めながら、久しぶりに、外で昼寝しました。
仕事抜け出して外で昼寝するのは、オレの、趣味というよりも、ライフワークですからね。

むかし、デパートの屋上から上げているアドバルーンを見張る仕事というのがありましてね。
消防法かなにかで、アドバルーンを上げているふもとで、誰か一人見張りが必要だったんですよ。
高校時代にやってたバイトですが、思えば、あれが、広告業界(笑)におけるオレの最初の仕事でした。
誰にも干渉されず、読書も昼寝もし放題。ウォークマンも聴き放題。
ほんと、天職や!と思ってましたな(笑)

昼寝も読書も仕事になることはなかったけれども、毎日毎日忙しくしているけれども、仕事抜け出しての昼寝は、相変わらずのライフワークです。

そういう季節になりました。

で、そういうときにお似合いの音楽を、今日は聴いてました。
日曜の昼下がりにうってつけ!って音楽です☆
知らない人のほうが圧倒的に多いだろうから、おすそわけ☆


Vincent Delerm / Sous les avalanches



もういっちょ!

2007年3月28日水曜日

あっかんべー


ZAZEN BOYSも好きやしあふりらんぽも好きやしHiGEも好きやし犬式も好きやし銀杏BOYZも大好き。ええ年して、ラテンも土臭い音楽も好きなくせに、やっぱ、パンク・ミュージックが大好きなルイスです。

なんやろね。

パンクというのは、初期衝動そのもので、意味なく殴りたくなる衝動、思わず唾を吐いてしまうような若い行動、気がついたらガッコとは反対方向の海に向かう電車に乗ってるような、なんら建設的ではない、でも、やむにやまれぬ行動の象徴です。
日頃、商売は社会の役に立ってなんぼ、などとエラそーに言ってるくせに、オレ、やっぱ、パンクが好きなんですね。
いらついてね、誰彼なしにしばいたろか、という感情は、今でもむっくと顔を覗かせるときがありますから。ただ、大人になって、知恵もついて、そうした気配を感じとられないようにする術が身についているだけで。

この、ミドリという年若いパンク・バンドを見て、やっぱオレはパンクが好きなんやなあ、と、呆れながら思いましたわ。

桜の蕾がね、綻びはじめましたな。
風が吹けば、桜の匂いがかすかに届いてきます。夜道を歩いている折り、桜の香りが深く染み込んでいる大気の層に出会うと、今さらながらに、季節の巡りの疾さに驚かされます。
もう、じゅうぶんに落ち着いたものと思っていた自分の感情の層に、不意にぶつかって、そういうものの生々しさにハッとしたりすることがあります。
枯れる、
ということは、おそらく、一生、人にはないのだろうな。
ときおり、感情や欲望が凪いだように穏やかになっている状態が続くときもあり、それはそれで仕事も進み、悪くない気分であるのだけれど、その代わり、歯軋りするような辛さや想いが減ったぶんだけ、歓びや感動も、少し薄まっているような気もするのですよ。

かつて、自分が有していた、辛かっただけの日々や、息が苦しくなるほどの濃い感情が、急に懐かしくなるときがあります。
おそらく、たぶん、人は、こういうことを、繰り返し繰り返し、続けていくのだと思います。ふたつのもののあいだを、行ったり来たりする旅を、繰り返していくんでしょうな。

ジョンとヨーコがなにをしたか。記者に見守られながらベッドインしただけだ。
レイジは言語の自由を訴えてステージにフルチンで立っただけだ。
でも、それができなければ、パンクはクソです。

世界に対して、あっかんべーをする爽快感。
あっかんべーをして走り去るくせに、誰よりも淋しんぼう。
それがパンクなのだとして、ミドリは、久しぶりに出てきたパンクバンドですな。
きっと、売れない。
売れないからこそ、パンク☆




ミドリ / 愛のうた


ミドリ / あんたは誰や

2007年3月15日木曜日

マダム・ギター


焼肉屋さんというかホルモン屋さんというか、その手のごっつ美味いお店『河童』に、マイミクさんの寧楊さんに連れてってもらった日記を書いたとき、吾妻光良 & The Swinging BoppersをBGMにつけておいたんですね。
肉、といえば、彼しか思い浮かばなかったので。

んで、ほぼ同時期に、やはりマイミクさんのぱなぬふぁさんが、「ギターおやじとピアノおばさん」と題して、えらいこと味のあるレコードを紹介してはって、かなり興奮してコメントを書いたのですが、そんときは、気がつかんかったんです。

これ、ギターが吾妻さんやというのは見てわかったんですが、ピアノおばさんって、マダム・ギター長見順さんやないですか。。。。

ギタリストのイメージが強いから、ピアノおばさん=長見順さんやなんて、でんでん気がつきませんでした。

長見順さん。。。。
現役にして伝説のブルーズ・ギタリストですから。
八代亜紀の『舟歌』をブルーズにしちゃうような、とんでもない自由な精神の持ち主の方ですから。
キヨシローをして、俺はこの女に一生ついてゆく!と言わしめたお方ですから。

このへんで試聴出来ます。
「音、聞いてみる?」をクリック
あと、これ


ギターを抱えた婦女子さんがね、大好きです。
最近では、相方さんがアコーディオンを抱えているのを見て(相方さんのトップページの画像☆ 撮影 by Luis☆)、アコーディオンを抱えている婦女子さんもいいなあとも思うんですが、長見順サンなんかを見てると、やっぱ、ギターや!と思ってしまいます(笑)
5678'sのロニー・フジヤマとか、R&Bだとバーバラ・リンとか、かしまし娘の正司照江、…花江、あれ、どっちだっけ(笑)

だいたい、エリック・クラプトンという不器用でアホウな男が、ブルーズのイメージをシブいだけのものにしやがったおかげで、ブルーズは、ずいぶんと窮屈な思いをしてます。
でも、長見順さんを聞いてると、ブルースが元来持っている多彩性やユーモアや、おどろおどろしさやヤバさや、いいかげんさや愛らしさがいっぱい詰まっていて、すっごく楽しい☆

ライブは1回だけしか見たことないです。
何年かまえの、春一番。
たった4曲のステージだったのですが、伴侶でもある岡地曙裕氏(ボ・ガンボス、現・The Swinging Boppers)のドラムに、吉森信(モダン・チョキチョキズ、ヒカシュー)のピアノという百戦錬磨のリズ
ム隊をしたがえて、マダム・ギター・長見順さんは弾きまくり、歌いまくったのでした。
ウイスキー・バーを居酒屋と翻案し、日本語英語のチャンポンで歌われた『アラバマ・ソング』のカヴァーは、元来、こういう歌なんだろうな、と、思わずそう思わせてしまう力技で。ニール・ヤングさん、チミは長見順さんに負けてるよ(笑)

ほいで、待望の新作、登場!
前人未到の樹海に足を踏み入れつつも、頭のなかでは今晩呑む酒のことを考えている、そんなふてぶてしさが逞しいです。
凄い人の凄い歌。すごい女のすごいギター。すごい音楽です。
苦し紛れに、オレも酒飲んで酔っぱらいたくなります(笑)

長見順が生活の柄(ネック)をしごく夜、冷え切った歌は体温を取り戻します。
マダムは弾かなきゃ音が出ない。
ギターに火をつけて! …誰が消す?(笑)

相方さんが、今日は体調不良で寝込んじゃってんですよね。
そういうときこそ、マダム・ギター!
この人がいれば、ほかにはなんも要らん!と、一晩だけでも思わせるものが、彼女にはあります。

ぱなぬふぁさん、新作に「ギターおやじピアノおばさん」収録☆


本日の1枚:
『クー・チー・クー』
マダムギター・長見順

2007年2月27日火曜日

シングルベッド


毎週金曜深夜は『特命係長 只野仁』を観てます(笑) まあ、HDDに落として、時間が空いたときに観るんだけど。。漫画は読んでたし、ふとしたときにテレビで観て、それ以来、惰性で。。。

最初の頃は、エンディングがどっかのおねーちゃんが歌うブルハの『ラブレター』やったんですわ。これはもう、名曲中の名曲だし、歌そのものに力があるから、誰が歌ったって、それなりに聞けるんですよね。で、オレも思い出したように、チャリに乗ってるときなんかに歌ってました(笑)

で、今。
シャ乱Qの『シングルベッド』を、これまたどっかのおねーちゃんバンドがカバーしてるのがエンディングになってて。

この歌、嫌いなんですよね。ベタベタの演歌チックで、大嫌い。そもそも、シャ乱Q(キータイプするのが邪魔くさい名前やな…)自体が、嫌いです。嫌いというよりも、まったくどうでもいい存在なんですが。
ただね、その嫌いな歌を、この歌が流行っていた当時、カラオケで散々歌わされてたんですわ。いや、そんときのおねーちゃんのリクエストがすごくて(笑) もう、10年近くまえの話ですけど。

でも、カラオケで歌ってると、案外と気持ちいいんですよね、これが(笑)
やっぱ、歌そのものに力があるんでしょうな…。

ほいで、だ。
今、『特命係長 只野仁』を観ていて、エンディングでこの曲が流れると、イヤ~な気持ちになるんですがもテレビと一緒に歌ってるオレもいてましてですな(笑) 困ったもんです(笑)

ネットで調べてみたら、昨日今日デビューしたらしきバッタもんっぽいガールズバンドの、EU・PHORIAっちゅーのが歌ってました。
せっかくのドラマ・タイアップですが、売れんでしょうな(笑)

2007年2月14日水曜日

Dixie Chicksのグラミー受賞に見るアメリカの動向


今年のグラミー、Dixie Chicksがまさかまさかのグラミー5冠でしたな☆
最優秀アルバム賞、最優秀レコード賞を含む、最優秀ソング賞を含む、完勝。

ニュースにも出てますが、この人たち、反ブッシュを旗印にし、そういう発言を繰り返し、また楽曲も最近はその手のものばっかりだったので、よくもまあ、グラミーが選出したな、という、驚きの結果です。

ディスコグラフィを見れば、デビュー盤が1998年となってますから、その年ですわ。オレ、デビュー盤はよく聴いてたんです。
普段、カントリーはあんまり聴かないし、チェックもしてなかったんだけれども、馴染みのレコード屋の店長がやたらに勧めてくれて、それなら、ってことで聴いてたんです。
カントリーっぽくなくて、どっちかというと、ロック・テイストにアレンジされているものが多くて、そこが聴きやすかったし、キャッチーだし、BGMにはちょうどよかったんですけどね。
一応、若いくせに本格的なカントリーを聴かせる、って触れ込みでしたが、フィドルとマンドリンとバンジョーを操るってだけのことで、本格的なカントリーとはほど遠いというのが、オレの印象だったんです。ま、でも、聴きやすいし、キャッチーだし、それはそれでいっか、と(笑)

だいたい、カントリーというのは…、
アメリカにおける演歌。
なんですけどね…。

カントリー・ミュージックについては、過去、相当研究しました。現場まで、フィールドワークに行きましたから。

行きます! ちょっと長いです(笑)

アメリカの東海岸をハイウェイを何時間も走ると、平坦だった風景の遠くに、やがて山脈の影が見えてきます。アメリカ北部の奥地から、ヴァージニア、ケンタッキー、ノース・キャロライナ、テネシーを経て、ジョージアの北部まで連なってます。これが、アパラチア山脈。
地図で見ると、この山地のなかには、古く小さな町の名がいくつも記されていて、ブリストル、ノックスヴィル、オークリッジ、パインヴィル、メアリーヴィル…とあります。
ヴィルとは、「町」を示す古い言葉です。んで、じつは、こういった小さな町から、アメリカの音は生まれてきました。レコードやラジオが普及する1920年代よりもまえから、小さな町や村落に住む人々によって愛され、そして伝えられてきた、アメリカの音楽の原型ともいうべきものがここにはあるんですが、これがそのまま、カントリーの原型となります。

その音楽、つまり商業と出会うまえの、純粋な生活の音としての音楽は、マウンテン・ミュージックとかオールドタイム・ミュージックなどと呼ばれていて、まあ、俗称としては、ヒルビリーという言いかたが一般的です。ヒルビリーって、田舎者とか野蛮とかいったような意味ですけど。

このときの音楽で、今も名残を残しているのは、いわゆるフォーク・ダンスです。
あれ、マウンテン・ミュージックではバーン・ダンスというんですが、ルーツはアイリッシュ。
みんなで輪になって踊るやつです。2重の輪が互いに逆方向に回転していって、ペアの組み合わせが次々と変わっていくやつです。
男女で輪を分けて、キライな人とのペアがまわってきたら、指一本で繋がるくせに、好きな人とのペアの順番がまわってきそうでドキドキするときにかぎって、その人とペアになる直前でダンスが終わってしまうという…、あれです(笑)

この、マウンテン・ミュージックをルーツに持ち、もっとも直接的な影響を残しているのが、カントリー・ミュージックです。マウンテン・ミュージックの基本的なフォルムは、ギター、マンドリン、フィドルなどですが、これらの音をアコースティックからエレクトリックに換え、ドラムとベースを加えると、ほとんど現在のカントリー・ミュージックの音とおなじになります。

マウンテン・ミュージックがカントリー・ミュージックというジャンルへと名前を変えたのは、レコード会社の単なる商品イメージ戦略によるものです。
ヒルビリーでは品が悪いし、マウンテンでは都会のリスナーの共感を得られないため、カントリーという響きのいい言葉に変えられました。都会の人がカントリーという言葉を聞くとき、そこにはのどかな田園風景やきれいな空気を思い浮かべる傾向があったわけです。まして、当初のカントリーはオール・アコースティックだったのだから、いかにも清潔で楽しい音楽として聞こえたに違いないんですね。

ただ、このような言葉のごまかしによって、カントリーという音楽の本質は、都会の消費者によって誤解されてしまいました。
元来のマウンテンという言葉が示すように、カントリーは山間部における厳しい現実を歌ったタフな音楽であったはずなのですが、その本質がいつしか忘れ去られて、単なる娯楽音楽へと変容していったわけです。

このへんが、アメリカ版演歌、カントリーの誕生です。

そこに、開拓時代の伝説のカウボーイのイメージが加わることで、カントリーという音楽は、いよいよわけのわからないものになっていきます。
銀ラメの衣装をまとい、大げさなカントリー・ハットをかぶったカントリー歌手がラスベガスでショーをする、というような商業的現実は、まさにアメリカ的悪夢の象徴ですな。
大体、カウボーイが活躍した地域と、マウンテン・ミュージックが生まれた地域は現実にもかなりかけ離れているし、現実としてのカウボーイは、白人ではなくメキシコ系の移民労働者ですから。

でも、中西部におけるカウボーイの存在は、いつしか白人を主人公としたヒーロー伝に変わってしまい、マス・マーケットだった東部にその噂が届くころには、かなりディテールが演出されたストーリーとなってしまっていました。
んで、このようなストーリーが、作家たちの手によって短い小説として書き留められ、ダイム・ノベルズとして人気を博したわけです。ダイム・ノベルとは、1ダイムで買うことの出来る粗末な本のことで、安酒場などで主に売られていたんですが、その本を読んだ労働者階級が、ヒーロー伝にそのままそそのかされ、実際に開拓に参加するような動機となっていったわけで…。

こんなかんじで、山間部に埋もれていたマウンテン・ミュージックがレコード会社に目をつけられ、レコードという商品となって都会に出ていったとき、その音楽とカウボーイのヒロイズムが合体することとなり、現実にはもはやカウボーイなどほとんどいないのに、脳のないシンガーはレコード会社のイメージ作戦にそのまま乗って、カウボーイのロン・サムな生活を、マウンテン・ミュージックの旋律とともに歌ったんですね。いわゆる、シンギング・カウボーイの誕生です。

その後,音楽が都会に定着すると、カントリーは都会のことを歌うようになりました。失恋や仕事の歌です。まさしく、演歌!女にふられた男が、そのまま職も捨ててある日ふらっと町を出て旅を続ける、というような歌が今でもカントリーには多いのですが、そういうことです。

アイリッシュ好きのオレとしては、だから、マウンテン・ミュージックはすごく好きです。
カントリーとは、アイルランドからの移民がもたらしたものが、ある種のアメリカナイズを経て出来たものです。

でも、それが商業化されてわけのわからないモノになってしまったカントリーは、好きじゃないです。
ただ、だからこそ、カントリーはアメリカの大衆音楽としての地位を守り続けている、とも言えるんです。イメージは借りものであるにせよ、それは多くのアメリカ人の琴線に触れる、現実以上のリアリティを持っているものであり、カントリーの最大の特徴である「歌詞というストーリー」の素材には事欠かないから。カウボーイ気取りの男が、いかにもアメリカに古くからある男のイメージをもって(つまり、ドナルド・レーガン風)、「オレの町にもホンダが来た。前の工場は閉鎖され、友人も町から出ていく。しかし、オレはホンダに勤める。ジャパンに心を売ったんじゃない。この町に残るために、この町でアメリカ人として生きるために、オレはホンダで働くんだ」と歌えば、これは多くのアメリカ人が涙なくしては聴くことの出来ない、立派なカントリーになってしまいます。

一方、マウンテン・ミュージックは、ロックンロールにも強い影響を与えました。アパラチアと隣接する南部の綿花地帯で、ブルーズと音が混じったのだ。ザ・バンドのギタリストであるロビー・ロバートソンは、こういう言葉を残しています。
「ロックンロールとは、ブルーズとカントリーの結合なのだ。黒と白が結合したとき、まったくべつのものが、ひとつ、生まれた。私たちの音楽は、このロックンロールなのだ。エルヴィス・プレスリー、ファッツ・ドミノ、リトル・リチャードたちの伝統を受け継いでいる」

マウンテン・ミュージックを基盤とした従来のカントリーではなく、その後の商業化されていったカントリーでは、歌詞(ストーリー)が重要視されるんですが、一方のロックンロールでは、音やビートが強調されます。
つまり、心に作用してくるものよりも、身体に作用してくる要素のほうが、重要だったってことです。そのため、ロックンロールは白人的な生活のリアリティを、元々は含んではいません。白人として日常生活を送る人たちの琴線に触れるようにつくられた音楽ではなく、本来は白人からは遠い音楽なんですね。
60年代初頭からのアメリカにおける意識革命に、ロックンロールが大きな役割を果たしたのは、これが原因です。
ロックンロールは政治的であったとか、ロックは政治性を持つべきだとか、メッセージを持つべきだとかいうような幻想や期待は、だから完全な誤解で、白人の生活にそのままマッチするような音や価値観を持たない音楽を、白人の親を持つティーンエイジャーが支持したから、それが政治的な意味を持ったわけです。

ロックンロールそのものは、元来、政治とはなんの関係もない。アパラチアの山間で辛い日々を送っていた人たちが、唯一の救いとして楽しんでいた音楽と、明日のない日々を強いられていた黒人たちの末裔が心の底から絞り出したような音楽が、どこか底辺の部分で共通していたからこそ、そのふたつの音楽は融解したのだし、その融解を可能にしたのは、なによりも音楽のなかに宿る真実でしかないです。
つまり、現代のカントリーにおける真実は、白人の日常生活というレベルでの真実であり、ロックンロールにおける真実は、従来その音が持っていた、生命のような力のことですが。

アメリカの音の流れのひとつを、本当にざっと大雑把に遡ると、こういうかんじなんですが、そういうなかで、保守的でしかありえないカントリーのなかから、反ブッシュを標榜するDixie Chicksが出現し、全米でバッシングを受け、最後にグラミーをかっさらってしまったということは、なかなか驚愕するに値しますよ。
もともとが保守的なカントリーで、アメリカ的保守主義に異を唱える存在自体が珍しいですから。
しかも、アメリカという国は、意外なほど棲みわけが出来ている国で、たとえば、カントリーしか聴かない白人保守層は、黒人音楽であるヒップホップなんて聴いたこともない人も多いし、逆もまたしかりです。
その、南部の保守層向けのいちジャンルに成り下がっているカントリーにカテゴライズされる人たちが、現体制に異を唱え、バッシングの果てにグラミーをかっさらう…。

よくある波といってしまえばそれまでですが、なにかが変わるかもしれませんね。
アメリカの次期政権は、初の黒人オバマ氏か初の女性ヒラリー・クリントンかで騒がれてます。どっちの初が最初に誕生するかといえば、きっと、順番からいって初の「女性」だろうと思うんですが、いずれにしても次は民主党から大統領が選ばれるんでしょう。(ヒラリーになれば、アメリカの大統領職は、この20年間、ブッシュ家とクリントン家が交替でつとめることになるわけですが…)

世は歌に連れませんが、歌は世に連れますから、しばらくはアメリカの動向を、音楽の面から注視していきたいと思っています。



オレが好きなのは、デビューのころの彼女たちです。


グラミー受賞の原動力になった曲はこっち

2007年2月12日月曜日

音楽紹介業としてのレコード屋


関西のとある老舗レコード店主が、この稼業はちっとも実入りがええことないのに、その厳しさを知ってる若い人にかぎって独立したがる、とのたまってました。
開店して25年になるこの店から、ここ数年で番頭クラスの店員が相次いで4人も独立し、自分でレコード・CD店をはじめたのだそうだ。           
オレの世代で開業したレコード・CD店主は、音楽やレコードを好きだから常に接していたいということと、努力と才覚さえあればなんぼでも面白い商売を展開出来るかもというロマンチックな願望から、手探りではじめた人が多いです。
ところが、です。90年代以降、状況がどんどん悪化するなかで、既存のレコード店での修行を経て、この業界の酸いも甘いも分かったうえで独立した30歳代の若者たちが、あまたいるんですよ。
彼らにこの稼業を選ばせたものは、なんだったんでしょうかね?

ひとつ言えるのは、彼らの誰もが、自分が投げ込んだ石で社会的に大きな波紋を起こそうなどとは考えず、せいぜいが自分と仲間たちの楽しみとして、ささやかながらも手堅く商売を続けていこうとしていることです。だから、彼らは、まず、自分自身にとって居心地のよい空間を築こうとしているように思われます。
ただ、居心地のいい時間と空間とを求めるのなら自分の部屋ででもくつろげばよいことで、どーしてまた好んで、実入りも少なくリスクも多く経営の安定しない中古や輸入のレコード屋などをはじめるのか。

『なんでも鑑定団』というテレビ番組がありますな。
なにやら胡散臭い鑑定士たちのなかでは、北原照久というおもちゃ鑑定士が、オレは好きです。なぜなら、北原さんが価値の基準として最優先するのは、コレクターたちの品物に対する思い入れの度合いだからです。
彼はきまって、「その品なら○万円払っても欲しいという人はきっといます」と言います。つまり、彼の品物にたいする評価は、あくまでそれを求める人の気持ちによって決定され、社会的に評価が定まっているわけではけっしてないことを窺わせます。
一方で、西洋アンティーク鑑定士の某というなまずひげのオヤジは、いつでも歴史的評価や、由緒正しさや、伝統や、ブランドという社会的評価を、持ち出すんですね。挙げ句の果てには、「まだまだこれから価値が高まるから持っていらしたほうがいい」などと言う…。
評価のベクトルが、まったく逆です。換言すれば、本音の拝金主義をさまざまな権威づけでカモフラージュしているだけなのですね。
このなまずひげオヤジほど露骨ではないにせよ、世の鑑定士と呼ばれる人々の多くは、知識を武器にモノに社会的な評価を確定させます。
あのバブル経済の時代、雨後のたけのこのように乱立したレコード店の多くも、一種の拝金主義に毒されたセレクト・ショップでした。社会的(業界的)に評価の定まったいわゆるレア盤を、途方もない「標準的な」プライスをつけて展示し、個人としての思い入れとは関係なしに、死ぬまで真剣に聴きもしないようなレコード収集に客たちも翻弄させられていたのでした。

そこには、もはや、レコード屋本来の目的であるはずの音楽を提供する姿勢など、ありませんでした。
そもそも、盤の希少性と音楽的な価値とは、無関係です。個人の感性に訴える音楽なればこそ、人によって評価が異なって当然なのですから。人の数だけ名盤があって当然。たとえ値段のつかないような駄盤でも、ある人にとっては終生忘れえぬ名盤であることは、よくあることです。

オレは、レコード屋とは、音楽紹介業だと思っています。
中古盤を取り扱っていれば、国や地域や時代を越えてさまざまな音楽が集まってきます。国内盤として発売されるCDの種類も数多いし、さらに輸入盤ともなれば、世界各地の文化を反映した数え切れないくらいのディスクが日々発売されているわけで。
わずかな情報が載った膨大なカタログから、店にとって、お客にとって、そしてなにより自分にとっての宝物となるような音楽を選びとり、解説し、展示してゆく…。自分が介在しなければ、けっして人の目に触れず、人の耳に響かず、人の心に刻みつけられるようなことのなかっただろう音楽を紹介し、彼らの人生になんらかの刺激を与える。
その喜びは、なにものにも代えがたいもんやと思いますよ。
けっして、あらかじめ設けられた価値ではなくて、その評価は、オレたち客とともにつくっていくもんですわ。
おそらく、若いレコード店主たちも、その歓びゆえに、先輩の志を受け継ごうと考えたのだと思うのでした。


昨日、日帰り広島出張。往復の新幹線は、ずーっと、70年代NYサルサを聴いてましたわ。サルサ誕生の瞬間ですな。
その中心、ファニア・オールスターズは、今もって最高にかっこよくて、全然色褪せてないです☆
あのころのサルサは、こんなにもゆったりだったのですよ。



FANIA ALL STARS / 『Nuestra Cosas (Our Latin Things)』

2007年2月3日土曜日

ジュリエット・グレコ


世のなか、レッチリやらビヨンセやらの来日で沸き立ってるみたいですが、完全に見逃してました。ジュリエット・グレコ、来日ですやん。
生ける伝説も、御年80歳。
シャンソンが、労働歌であり抵抗歌であり民衆のものであることを体現してくれる、もはやワン・アンド・オンリーの存在。
サルトルの寵愛を受け、ココ・シャネルに嫉妬され、マイルス・デイヴィスに愛され、フランソワーズ・サガンに慕われ、セルジュ・ゲーンズブールと契りを交わした、まさに戦後フランス文化のメイン・ストリームを歩き続けた女神も、これがきっと最後の日本公演。

行かねば!
でも、すでにチケットはソールド・アウト。
さあ、どっから手をまわそか…。


Juliette Greco / Le Temps D'une Chanson

2006年12月27日水曜日

ジェームス・ブラウンの思い出


この話は一回書いたかも知れんのですが…。

20年前の1987年、沖縄はコザで、ジェームス・ブラウンのコンサートが開かれたのでした。
このコンサートが、今思い出すだけでもゾクゾクするほど、素晴らしかったですな。ジェームス・ブラウンのコンディションは上々、そして米軍基地の黒人兵が大挙して聴きにくるという、時代も場所も最高のセッティングだったです、はい。

細野晴臣さんがこのコンサートをプロデュースしていて、そんとき、細野さんといえばYMOのテクノの人としか知らないオレには奇異に映ったのですが、そのコンサートをきっかけに、細野さんがいかにブラック・ミュージックを愛し、造詣が深いのかを知ることになるのでした。

コンサート終了後、市内のクラブ『なんた浜』に、嘉手苅林昌の琉歌を聴きに出かけたのでした。ジェームス・ブラウンをナマで観るためだけに沖縄までやって来たのだけれども、当時、ブラック・ミュージックに負けず劣らずで沖縄民謡に深く潜行しようとしていたオレにとって、嘉手苅さんやらの大御所をナマで観る絶好のチャンスでもあったわけです。
ジェームス・ブラウンのライブのあと、嘉手苅さんが毎日のように来ては歌っているお店で、騒いでいたのでした。午前2時過ぎ、夜更けもいいところだというのに、店内はコンサートから流れた客などでいっぱいでしたわ。このとき、オレは、嘉手苅さんの歌う八重山民謡を初めて聴いたのでした。普段、彼は八重山民謡ではなく、沖縄民謡を歌う歌い手さんだったし、沖縄民謡と八重山民謡は違いますからね。
嘉手苅さんが八重山の民謡『とぅばらーま』を歌ったとき、客席から、つんださや、つんだーさー、と、名調子の合いの手がかかったのでした。なんと、山里勇吉! 気づいて周囲を見てみると、いるわいるわ、照屋林助、国吉源次、登川誠仁など、琉歌の大御所各氏が。みーんな、ジェームス・ブラウンのコンサートから流れてきていたご様子で。
琉歌とジェームス・ブラウン、関係がないようだが、琉歌の各氏は、コンサートに感動し、対抗意識を燃やしたものと見えましたよ。そして、各氏を交えた琉歌ジャム・セッションは、夜が白むまで続いたのでした。いや、とんでもない夜だったな。
ジェームス・ブラウンと琉歌のダブル・メインのようなステージを体験したこの日は、今現在に至るまで、オレの音楽体験史上五本の指に入る体験でありますな。

このときの歌の多くは、八重山民謡だったのですが、今にして考えると、ジェームス・ブラウンのソウルに対抗しての八重山民謡だったに違いないのです。
八重山の音楽は、民謡と流行歌が未だ分化していない「原・うた」というような状態にあり、唄本来が持っている情感や躍動感を失ってはいません。だからこそ、ジェームス・ブラウンに対抗して、各氏が直感的に八重山民謡を選んで歌ったのだと考えたいのですね、オレは。

なんちゅーか、グルーブが荒削りで、全然ソフィスティケートされてなくて、でも、ちゃーんと、ショーアップされたものになっているという、じつにじつに、不思議な不思議な音楽。

死んだら皆聖人にされるのが常だけれども、ジェームス・ブラウン…、このオッサンはやっぱ、そんなところに収めてはイカンような気がしますよ。
粗暴でさ、独善的で、横山やすし的で、ジャンキーでアル中で、女好きで(笑)
その全部をひっくるめて、ファンキーだったんですよ。
公民権運動だとかグラミーとか、関係ないね。
正しく、どうしようもないロクデナシのためだけの、聖人でしょ。
享年73歳? 勝手に決めてんじゃねーよ。ずーっと、年齢不詳だったやん(笑)
嘉手苅さんも、そうでしたね。風狂人がまた一人、天に召されました。でも、クリスマスってところが、ジェームス・ブラウンらしいですな。

合掌。


本日の1枚:

James Brown /『Gettin' Down To It』

2006年12月15日金曜日

夜の音楽


夜の音楽、というジャンルがあります。

夜の静けさのなかで着想された、夜の感覚で音を表現した、夜の孤独者にふさわしい音楽、というほどの意味ですかね。ショパンやフォーレが、そういう微妙な音楽をよく書きました。マーラーの第7交響曲も、夜の音楽としてつくられています。バルトークは、ルーマニアの山村の、深い夜のしじまのなかに聞いたカエルの声から、神秘的な彼の夜の音楽を作曲しました。けっして、尾崎豊がどうとかという話ではなく(笑)

夜の音楽は、不思議なジャンルです。

人々が寝静まって、あたりは深い静けさに包まれる。人間の意思や欲望が掻き立ててきたノイズが消え去ると、かわってそこには、べつの種類のノイズ、自然の内部から湧き上がってくる、たくさんの微妙で、豊かな音楽が、聞こえてくるようになります。しかし、夜のなかで人は眼が見えないから、それがどこから、また誰からやって来る音なのか、わかりません。
そのために、夜のしじまの全体が、この複雑で微妙な音を奏でているような気がするのですね。
人はその体験をもとにして、夜の音楽をつくります。かすかな震え、いつまでも続くかと思われる反復のなかから発生する微妙なうねり、最小限度の要素だけから生み出される、宇宙にも匹敵する複雑さ…。

夜の京都の庭で聞こえてくるのは、このような夜の音楽です。百鬼夜行の音楽とは、まさにそのような音楽です。

京都には、ナマのままの自然は存在しません。どんな小さな自然でも、そこでは、人間の精神によってたわめられ、手を加えられなかったものはありません。
庭園の設計者たちは、ナマのままの自然から、最小限度の要素だけを取り出し、宇宙と生命のすべてを表現してみようとしたわけです。

一面に敷きつめられた砂、その砂の表面に、反復する模様だけが描かれている。月明かりのもと、その反復のなかから、微妙で、豊かな音楽が発生してくる。静かに、渦が巻き起こり、空気がうねっていくような、眼に見えない動きをはじめる。そうすると、さらさらの、抽象的な砂だけでつくられた庭が、精妙な生命を持つもののように、感じられてくる…。
そんなかんじです。

また、べつの庭では、地面を覆い尽くす苔が、あたりをふかふかの緑に変えています。隠花植物である苔には、花はありません。そこでは、生命の花は、眼に見える植物の表面にはあらわれては来ず、見えない生命の内部空間に咲きだします。
そのとき、夜の庭にいて、無数の苔に囲まれたオレは、生命のあでやかな花を見るのではなく、まず、聴きます。表面の彩りは否定され、そのかわりに、植物の内部からは、生命が華麗な夜の音楽に姿を変えて、庭のすみずみまでを充たしています。

京都の町中の、市民の芸術家たちも、負けてはいませんね。
彼らは禅宗庭園を造ります。この抽象の原理を、騒がしい町のなかに持ち込んで、もっと現世的な魅力を持った、彼らの庭を造り出してきました。家並みのひしめきあう京都の町屋の内側に、市民は小さな坪庭を造ってきました。

坪庭は、町屋のパテオに出現する、一種の空中庭園です。
夜、柔らかい灯りに照らされて、その小さな庭は、家屋の中央に、すっぽりと抜けた空虚をつくり出します。そして、この空虚のまわりを、人間の生活の暖かさや賑やかさが、ぐるっと取り囲みます。水を含み、静かな音楽に満たされている小さな庭が、人間の暮らしの中心に、無を穿ちます。
京都の町は、いたるところにこのような小さな無を穿たれることによって、軽さを身につけることが出来たように思うのです。

この軽さは、夜の音楽に特有のものですね。
夜の音楽では、人間的な感情が大きく盛り上がったりはしないし、意思や欲望の強さによって、あたりが息詰まる感覚に充たされることもありません。そこでは、自然にフィットしてつくられた生命たちが奏でる、微妙な音楽があたりを包み込み、人間の世界の騒々しさを、気化してしまいますから。

もしも都市が、人間の意思や感情だけで造られているとしたら、京都のような狭い空間に開かれた都市は、すぐに息が詰まってしまっていたと思います。
ところが、ここでは、いたるところに庭があり、そこでは抽象的な砂だとか、植物の見えない内部空間から発生する微妙だとか、家屋の中空に穿たれた無だとかから、夜の自然の音楽が、生まれています。

そして、静けさと、反復の美と、なにかが月に向かって立ちのぼっていくような感覚に充たされた、この夜の音楽は、この世界がすべて人間のものなどではなく、ここは大いなる流れのただなかに浮かぶ浮世にすぎないという事実を、人に告げようとしているように、オレには思えてなりません。

この、どうしようもない諦念こそが、侘びや寂びの本質か、と、近ごろ思ったりします。
今日、ジェイムス・ホイッスラーの画集を見ていたのですが、ふと、そんなことを思いました。
彼の絵画もまた、夜の音楽の様相を呈しています。


Van Morrison / 『Enlightenment』

2006年11月23日木曜日

ゆたかさん


11.3
23時頃、マルイ前で目撃。寒いからか目深に黒いニット帽を被り、熱唱。
曲目:『あずさ2号』『宇宙戦艦ヤマト』『東京砂漠』『シェリー』など

11.5
15時頃、そごう陸橋上でセット準備中を目撃。

11.12
20時頃、そごう陸橋上で目撃。熱唱。中学生4人くらいが聴き入ってました。
曲目:『高校3年生』『初恋』『越冬つばめ』『宇宙戦艦ヤマト』など


神戸に、ゆたかさんというストリート・ミュージシャンがいます。
彼は、雨の日以外は、来る日も来る日もストリートに出て、歌います。
オレが彼を見かけるようになって、ぼちぼち1年が経ちますが、見かけるたびに歌が上手くなっていってます。

おもろいんで、一応は、定点観測してるんですけどね。

んで、最近、彼のホームページを発見し、つらつらと眺めていたのですが、なんでも、今から2年前、歌手に目覚め、毎日の練習に耐えに耐え、来るべきCDデビューに向けて、今、ストリートで鍛えてらっしゃるのだとか。
さらに、ご本人は「演歌」を歌ってらっしゃるらしいんですが、上記ライブレポート(笑)をご覧いただければおわかりのとおり、どうも、昭和歌謡と演歌がごっちゃになってらっしゃるようで。。。

そうそう、
先々月、来るべきCDデビューに備えて、ジャケ写撮影の予行演習をしたんだとか(笑)

9.29の日記を抜粋します。

今日は、家の用事として、そのあと母のコープの買い物に付き合ったのだが、車の中で、”えんか”をきいていたら、伴奏に対して、異常なほどに感じていることに気付いた。そろそろ、感じるということが、あたり前になってきた。なかなかいい感じだ!

これなら、デビューの日も近いかも、ですね☆

一部で、週末のカラオケおじさんと揶揄されていますが、そこらへんのガキンチョの弾き語りなんかより、よほど見入ってしまいます。

皆さまの応援が大スターになる鍵なんだそうです。
ええ、遠くからですが、応援させていただきます(笑)


ゆたかさんHP





せっかくの音楽ネタやのに、CDジャケも音源もない…。

本日の1枚:
ゆたかさんを頭のなかで再生させる。。

YouTube
なし!