2006年11月30日木曜日

火曜日と水曜日

火・水曜と京都で遊んでました。
といっても、今回はお寺さん巡りはナシで。

なら、前日の大原日記はナンなんだ!という話ですが、あれはまあ、むかしに大原は行ったけれども、今年の冬はその奥まで行きたないなあ、というお話(笑)
ま、雪は年を越さんと降らんでしょうから、今からそんな話をしても鬼が笑うだけですが。

火曜の夜は、オレ、相方さん、相方さんの友だちでもある先斗町ナンバーワンの芸妓さんの豆○さんとドンチャン騒ぎをしておりました☆
ほとんど、豆○さんの恋愛相談の場と化してましたが(笑)
プライベートとはいえ、話し上手気配り上手が身についてるから、気持ちいいのよ。座る席順からお支払い時まで、さりげなくオレを立ててくれるんですわ。プライベートでまでそんなことしてたらしんどいと思うんですが、もう、染み付いちゃってるんでしょうね。

芸妓さんと飲み屋のおねーちゃんを一緒にしたら怒られちゃうけれども、オレ、そういう人たちが、仕事明けの夜中やプライベートの時間に、ある夜の出来事や男の稼ぎや家族の話をしながら、ウダウダとグチを言っているのを聞くのが、むかしっから大好きなのでした。
その瞬間、仮面の下の素顔が見えた気がしてね、すごく好きなんですね。悪趣味だとは思うけれども(笑)

でも、豆○さんは、そんなことなかったな。そりゃね、お座敷では絶対に使わないような言葉使い、振る舞い、姿勢で終始いたけれども、それでも、長年されてきたお仕事で身に染みた品がね、あるんですよ。あれは、いい意味で一種の職業病ですな。芸妓さんと水商売のおねーちゃんを一緒にしてはイカンのか、ナンバーワンゆえのことなのかは知らないけれども。

豆○さんの話は、枕に持ってくるには面白すぎるので、また今度にして。
今回は、シチロさん。そう、オレが愛してやまないマイミクさんのシチロさん20歳♀ですわ☆

シチロさんは、相方さんの友だち。

前々から、相方さんに「ぜひ紹介したい!」と言われていたのですが、それからどれくらいの時間が経ったんだろうか。相方さんがシチロさんをmixiに引き入れ、シチロさんが密かに(笑)ちょこちょことオレの日記を覗きにくるようになり、面倒くさいから「オレのマイミクになりなさい!」と無理矢理マイミクにして、それからオレもちょこちょこと彼女の日記を覗きにいくようになり…、

んで、この日記がね、いいんですよ☆
なんちゅーかね、天才!
おなじクレヨンを使っても、天才がそのクレヨンを使うと、たちまち蛍光色になっちゃうんです。そういうかんじ。
文才があるとかないとか、そういうことでは全然なくて、とにかくね、全然違う!
なんの説明にもなってませんが(笑)、ロックンロールの天才とでも言えばいいんですかね?
それでも、なんの説明にもなってませんな(笑)

ロックンロールというのは、ロクデナシの音楽なんですわ。ロクデナシのためにある音楽ではなくて、ロクデナシの音楽。べつに向上心もないし、有益なもんなどでは、絶対にないです。でも、人は、正しいことばかりで生きていけるほど理性的には出来ていないし、ある種の人にとって、ロックンロールは、生きていくためには絶対に必要な音楽なんです。
ここらへん、感覚の問題なので、わからん人は絶対にわからんでしょうけれども、ロックンロールとは、そういう音楽なんです。
んで、シチロさんは、そういうロックンロールにおいて、天才なんですね。

さらにすごいことに、彼女は、その天才性に加えて、触れる人を幸福にするなにかをすら、持っているんです。彼女の日記を読んで、幸福にならなかったことなど一回もないですから、オレは。

そのシチロさんとね、本日、やーっとご対面☆
月曜日に、相方さんが働くルッカに電話してみたら、今、シチロが来てるで、と。
その日はオレは仕事がパンパンだったから、行けるわけないし、水曜にルッカに行くから、シチロさんの予定を聞いてくれ、と。
そしたらシチロさん、水曜は大学の授業がある、と。
でも、オレは、相方さんがルッカを辞めるまでに3人で会いたかったから、「学校とオレとどっちが大事なんや?」と(笑)
そしたら、オレ、ということに相成りまして(笑)
はい。手帳に、「水曜昼、ルイスさん」と、しっかりと書き込んでくれたらしいですから(笑)

そんなこんなで、やーっとご対面と相成ったわけです。
相方さんから、いろいろと話を聞いていはいたのですが…、
なんせね、シチロさん、喋らないのよ(笑)
そいで、終始ニヤニヤニカニカニヤニヤニカニカしてる(笑)
「なにを食べてどんな育てられかたしたら、あんな日記が書けるんよ?」
「普段、どんな音楽聴いてるの?」
「今は、なんのバイトしてるの?」
「バンドはどんな音楽やってるの?」
「シンガポールに住んでるときはどんなだった?」
…、もうね、オレが聞くばっかりで、聞いたことには答えてくれるんだけれども、彼女から問いかけられたことは、ついになにもなく(笑)
ほいでやっぱり、終始ニヤニヤニカニカニヤニヤニカニカしてる(笑)
ほいで、マフラーの端をいじったり、飴が入ってた缶をいじったり…、とにかく落ち着きがない(笑)
すんごく挙動不審でね、オレは誘拐犯みたいだったですわ(笑)

でもね、全然わからんかもしれませんが、素敵な時間だったのですよ、これが。

シチロさん、また遊ぼうな☆

2006年11月29日水曜日

この冬、大原の奥を狙ってます


雪月花、という言葉がありますな。

万葉集の大伴家持の和歌に出てくるし、枕草子にも村上天皇の一節に挿話されていたように思います。

季節を代表する雅景の最初に、雪が置かれています。ゆき、という発音の清らかさも、その白い結晶にふさわしい。古人の美感覚が、美のもっとも高い存在を清浄としたことが、雪への尊敬になったのではないだろうか、と、思うのです。
美しさは、さまざまにあります。
あでやかな、はなやかな、うるわしい魅力から、あやしい妖艶、魔性の美まで。それこそ、かぎりなく。

そんななかで、浄といえば、雪です。

京都の冬は、どことも違う美しさがある。少なくとも、大阪の冬とはまるで違う。よく冷え込む盆地のせいでもあるだろうけれども、ふと、しんしん、しんしんとあたりの深く静まる気配に外に眼を向けると、雪が降っていることが、よくあります。

京盆地の気象は、ほんの少し場所が異なるだけで、雪の模様が違います。北限はほとんど北陸なみの豪雪となり、そのとき南限には雪が降らなかったり、雪みぞれだったりします。

ずいぶんとまえに、大原三千院の瑠璃光庭の雪を見にいったことがあります。裏の音無滝を聴きに、また大原の里を彷徨いに足を運んだのだけれど、折りからむっくりと積もった雪に、薬師如来の浄土を表現する宸殿前の庭の、雪保ちの杉の大木が、はっとするような美しさで根をおろしていました。

ここは、懺悔の懺法道場です。
余分な雑念は振り捨てて、自分の裡に渦巻く諸悪を自浄する積極的な懺悔、懺法。
そう出来れば、どんなにか清々しかろうと夢想します。自分の悪から離れることが出来たら、どんなにか、自由は輝くのだろうかと思うのだけれども…、
けれど、なかなか、そうはまいりませぬ。
せっかくの自由が、みっしりと諸悪に満たされて、自分ばかりか他の存在を苦しめているのが実態ですな。そして、やがては逝く。お迎えの阿弥陀三尊が柔らかく座っておいでの往生極楽院に、ひっそりとこちらも座って、雪灯りの阿弥陀を見つめていたのでした。

オレは、不自由さを抱えながら、ジタバタと格闘しているほうがいいわ、と(笑)

京は遠近を美しく、借景の知恵に活かされてます。とくに、北山、東山、西山を背景として造られた庭にとって、雪の降り積もった山の稜線は、雪の醍醐味とでも言いたいものです。
山はむかし、濃い自然の霊気を放つ神秘をたたえた聖地だったはずですが、ところがどうです。互いの視界を大切にしあってきた借景の約束は、現代の利益追求の景観変化で大きく破壊されてきました。見たくない風景が、京のあちこちに進んで、さて、どうなるのか…。

雪は、すっぽりと荒れた山をも町をも包み、雪の日に名庭を訪れた人々の心を和ませます。木立も、石も、土も雪に覆われて、池の水面が半ば凍っている。そんな寂光院のさびしさは、他では得られません。

大原よりさらに北に小高い、古知谷の阿弥陀寺へは、まだ行ったことがありません。
農民自身の発見した修行の弾誓上人を開基として、村人集って一寺を建立したという阿弥陀寺には、石窟が多く、行場としていたようです。行とは寒も通してのことだろうから、その厳しい様子が偲ばれます。

この冬、大原の阿弥陀寺に行ってみようと思っています。
さらにその先、これ以上はないとまで言われた、渡岸寺(向源寺)の十一面観音菩薩立像とのご対面を果たしたいと、考えています。
んで、さらに、相方さんがもうすぐお別れする職場、ルッカのおばちゃんに、月心寺の精進料理を食べにいこうと、誘われたのでした。


ちなみに、雪深い京都奥深いの景色を音楽にすると、こうなります。


ASA-chang & 巡礼 / 花

2006年11月28日火曜日

コレハ、カンジデスカ?



http://www.geocities.jp/f9305710/henkanji.html


ほんまに、あるんですか?
白川静先生の辞書が手元にないので、真偽のほどすら確かめようがない。。。

オレ、ひとつとして読めなかったんですけど…(笑)

あ、

龍龍
龍龍

は、知ってた!



途中、なにげにアルファベットまで部首に入ってる。。。


誰か、嘘だと言ってください。



それはそうと、ロバート・ロックウッドJr.が亡くなりましたな。
かのロバート・ジョンソンからギターの手ほどきを受けたという、それこそ上記漢字群に匹敵する生きる伝説。
オレ、高校生のころ、聴いていて退屈やったのを隠しながら、背伸びして聴いてましたわ。
享年91歳。合掌。

2006年11月27日月曜日

交換と交歓の時間について

まだ、霞が立ち込めている早朝だった。
虚ろで冷たく、薄暗い街角のあちらこちらには、夜が名残惜しそうに去り切れずに這っていた。

神戸で朝を迎えるときには必ず行く喫茶店は、裏通りにある。徹夜明けで朦朧している私は、いつもそこに向かう。今朝も。
通りには深い緑色の大きな影がどっぷりと横たえ、喫茶店にはピンクのネオンサインが輝いているけれども、壁は寒々としていて、夜と朝がひっそりとせめぎあっていた。女と男の横顔は、珈琲カップの縁で皺に閉じ込められているか、吐く白い息に掻き消されている。

私は席をとると、火傷しそうなほど熱く沸かしたチャイを注文した。数種の香辛料を仕込んだ熱くコクのあるチャイの滴が、香りを立てながら、くたびれて柔らかくなった腸の襞に沁みていくと、一滴一滴、花が開くようだった。澱んだ疲労の下で、期待が冬眠から目覚めたように、もぞもぞと蠢きはじめる。それは急速にチャイと混じり合い、犯されたものが浄化されていくさまが、たしかな感触でわかった。チャイは、身体よりも精神に、即効力があった。私は、覚醒してきた。

彼女は、横浜からやって来ることになっていた。
どれくらいになるのだろう? 8ヶ月? 9ヶ月? 朦朧として、捉えようがない。
今月の半ば、彼女から連絡があった。突然の連絡だった。横浜に住む彼女が、所用で神戸に来る。会えないか、ということだった。

mixiとは不思議なものだな、と思う。
ネットワークを介して男女が会った、という話は、よく耳にする。その先、誘拐沙汰、監禁沙汰、殺人沙汰、家出沙汰、詐欺が、新聞紙上を賑わせる。
あたりまえだ。人間は、元来、卑しい。その卑しさは、匿名を装ったとき、存分に発揮されるからだ。
ネットワークを介した出会いになにかを期待するほうが間違っている、と、私は長いあいだ思ってきた。
そこは、夜のとまり木のように、誰もが仮面を被り、その仮面の彩りや表情を楽しむ場だ。そういう場なのだと、私は思っていた。
だから私は、最初、mixiに消極的だった。懐疑的だった。
それが、どうだ。
過剰であり欠落しているのが、その人の指先から放たれた生の肉筆の文字だと思うのだが、そうしたものはキレイさっぱりと洗い流され、余白は削がれ、繁っているところは剪定され、整備も整地もされたものであるはずのメールの文面やネットワーク上でのやりとりは、やはり、つるんとしている。
そのはずだった。
そのはずだったのだけれども、私は、大きな見落としをしていたようだ。考えてみれば、活字がそうだ。
ある作家が書いた物語は、そもそも物語が巨大な虚構の構築物であるのにもかかわらず、そこに刻印されている活字はそこにしか収まりようがないと思われるほどの精緻さで収まっているのにもかかわらず、私たちは、その隙間からすら零れ落ちてくる某かを掬い上げて、その作家の人となりに思いを馳せる。
思いを馳せたその人と、幾ばくかの期間、私たちは多少の不自由さも感じながら、それでも大通りを闊歩するような自由さで、某かを交換させてきた。交歓をさせも、してきたのだ。
それが、私にとっての、mixiだ。

洗練された記号に堕しかねないネットワーク上の文字に、私たちは、いびつでしかないはずのナマの声を込め、顔を突き合わせることでしか得られないはずのものまで、手に入れてきたように思う。
そうやって、ネットワークを介して袖を摺り合わせた何人かと、実際に会ってもみた。いや、会うことへの不安はすでに払拭され、実際に会うことで手に入れられるものへの期待と希望で膨らんだとき、縁があれば、私は会ってきた。こちらからという場合もあれば、あちらからという場合もあった。
会ってみて、変わったものもあれば変わらなかったものもあるけれども、日なたと思っていたところが影に変わってしまうのは変わりかたをした人は、ひとりもいなかった。

大丈夫、ネットワークを介してでも、交換や交歓は、出来るのだ。
そして、今日、私は彼女と会うのだ。

*

その日の午後、風が強く、風の強さに比例するような速さで、時間が流れていった。
その時間は、現像に出していた写真が出来上がってくるような、不安と期待が入り交じっているだけれども期待のほうが上回っているような、なんともいえない時間だ。
あの店に行き、あれを食べ、あそこを案内し、こんな話をし、こんな話を聞いてみよう…。
私は、ついついそんなことを考えている自身の裡を外から眺めて、微笑むしかなかった。

陽もとっぷりと暮れたころ、私は待ち合わせの場所に向かう。
その直前、メールが入り、私は電話をかける。
こんなとき、どういえばいいのだろうか?
初めまして。では、ない。ではないのだが…。

そう思って逡巡していたら、彼女は、うどんを咽喉に流し込むようなあっけらかんさで、初めまして、ゆみ☆です、と、そう言ったのだった。
その声は、初めて聞いた声ではなかった。いや、初めて聞いたに違いないのだが、すでに、ネットワークを介して、mixiでのやりとりを通して、彼女の文面を触媒として、私は聞かされていた。そう、交換も交歓も、出来るのだ。

それからほどなくして、彼女が現れた。
体格のよさにびっくりしないでください、と、事前に彼女から釘を刺されてもいたのだけれども、私がびっくりしたのは、山の神でも背負っているかのような大振りのカバンを背負う彼女の、華奢な外見には似つかわしくない力の持ち主だということだった。

柔道に打ち込んでいる彼女は姿勢よく、パワフルで、前を向いて歩くことの正しさと気持ちよさを、これ以上ない輝きを放って体現していた。
健全なる精神は健全なる肉体に宿る、という、誰が言ったか知らないこの言葉を、私は信じているわけではないが、彼女を見ていると、その言葉を信じたくもなってくる。そういう女性だった。
もっともそれは、これまでに交わしてきた交換や交歓からも窺い知ることは出来たのだ。私は、そのことを改めて確認したに過ぎないのだけれども、それでも、日なたは日なただったことは、私にとっては喜ばしいことだった。

私は、彼女が持っている、前を向いて歩くことの正しさと気持ちよさを体現するものの正体を、その日、ほんの少しだけれども覗き見たような気もする。
はるかむかし、彼女の声は、切れ切れだったのだろう。口のなかで転成しきらない言葉を、彼女は、持て余しては囁いていたのだろうと、私は妄想する。
なにがきっかけとなり、どこにとば口があったのか、私は知らない。知らないけれども、彼女は、彼女自身の裡から湧き出る勇気と情熱と不断の努力で、きっと、今の彼女の正しさを、獲得したのだ。私は、そんなふうに妄想していた。

古くから海の向こうに向けて拓かれていた神戸に相応しいだろうと思い、スペイン料理を彼女に案内した。
なにを食べたのか、今となってはほとんど思い出せないのだけれども、それほど、私と彼女のあいだでは、おしゃべりの花が咲いたのだった。堰を切ったようだった。幕が開いたようだった。

食育のこと、プラントミネラルのこと、波動のこと、柔道のこと…、彼女の口から飛び出してくる言葉、事柄は、私にとっては、どれもこれもが、獲れたての真鰯のような新鮮さで、私の身体中に沁みていったのだった。
私からは、なにを話しただろうか? つまらないことを話したに違いなく、見せあった獲物の量は、彼女のほうがはるかに多かったに違いない。

楽しさも悲しさも、なかった。ただ、玩具を与えられた子供が延々とそれに夢中になっているような浮かされようで、けっこうな時間を、私たちは、おしゃべりに費やしたのだった。

最後、私は、彼女を、西村珈琲に案内した。
神戸の震災で一度は消滅してしまった名店だが、この店を自身の思い出と重ねあわせている人が神戸中にいることを自覚している店主が、震災などなかったのだと言いたくなるほどの精緻さで、そっくりに再建させた店だ。神戸に来た思い出を刻んでもらう舞台として、これ以上ない場所だとして、私は、彼女をこの店に案内した。

そういう珈琲を彼女に案内し、ほどなくして、私たちは、その日の交換と交歓を終えたのだった。

ネットワークを介して彼女へ感じ得たものの確かさが、そのままのかたちで目のまえにあった。その収穫は、季節外れのハーヴェスト・ムーンのようでもあり、その日、私は、心地よい風にあてられていたのだった。西村珈琲での一杯は、そのことを、これからも私に思い出させてくれるのだろう。願わくば、彼女にとってもそうであることを。




ははは、マイミクさんのゆみ☆さんと初ランデブーしたのですが、今回は趣向を変えて、ハードボイルドタッチにしてみたのでした(笑)

ゆみ☆さん、あの日は、楽しかったですね♪ 今度は、京都にでも遊びにきてくださいね。相方ともども歓待いたしまする~。

2006年11月26日日曜日

相方さんの広報活動

またまた相方さんネタ(笑)

えーっと、とりあえずご報告から。
相方さん、今月25日発売のエルマガ最新号(1月号)に「ニット教室」の記事が掲載されました。モノクロのP148の隅っこにちょこんと掲載されてますので(でも写真アリ)、お暇な方、見てやってくださいませm(_ _)m

エルマガ最新号の案内はこちら。もっとも、下記リンク先には、相方さんのあの字も出てきませんが(笑)


さてさて、エルマガジンと聞いて、関西にご縁のない方には、なんのこっちゃい?だと思いますので、少しご説明を。

ぴあ、ウォーカー、1週間なんかの関西ローカル版だと思っていただいて間違いないです。
といってもね、古いんですよ。
まだ、ぴあもウォーカーも1週間も関西版がなかった時代、オレが中学・高校のころのことですが、関西には、このエルマガジンとプレイガイド・ジャーナルという、2つの情報誌があったのでした。どちらも充実し、それぞれ頑張っていた情報誌なのですが、プガジャのほうは、かなりマニアック☆
『かねてつ啓蒙かまぼこ新聞』を『宝島』で連載していた故・中島らもさんが、似たような企画『微笑家族』を連載していたのが、プガジャです。そーいえば、いしいひさいちの名作『バイトくん』が連載されていたのも、プガジャ。まだまったく売れていなかったころの大友克洋(『AKIRA』の作者ね)を真っ先に取り上げたのもプガジャ。とにかく、関西中の数奇者と歌舞伎者が集結していたプガジャはマニアックすぎてつぶれてしまいましたが(笑) 生き残ったエルマガは、今や関西では知らぬ者がいないほどの情報誌に成長しました。

そのエルマガジンも、今では、ぴあやウォーカーと並ぶ関西情報紙の三本柱ですが、むかしはちっこかったんですよ、これが。
ページの両端余白に「イエルイエル」というコーナーがあるんですが、ちょっとした小ネタ、笑いネタなんかを1行で紹介する投稿コーナーです。

携帯でゲームをしながら、「あれ? 携帯どこに置いたっけ?」と考え込むことがある。脳年齢が心配。
QRコードを読み取るよりも入力したほうが早いことが割とある。

なんてかんじの、読者の投稿で成り立ってる、創刊当時からあるコーナーなんですが、オレ、高校生の頃、このコーナーの常連でした(笑) 毎号、5本くらい同時掲載とか、メチャメチャ頑張ってたな。なんか、同級生と競うようにして投稿してましたわ。
なんでってね、そのコーナーの担当編集者のお名前がヒヨコさんという方で、しがない男子高校生は、ヒヨコさんというかわいらしい名前から、勝手な妄想を膨らませ、なんとか彼女の気を惹こうと、そういう動機で投稿しまくってたわけですよ(笑)

あるとき、投稿とはべつに、我等が同級生は連名で、ヒヨコさん宛に手紙を書いたんです。
ファンですだとか、かわいらしいお名前ですねだとか、お顔がわかる写真を送ってくださいとか、お会いしたいです、とか(笑)
そしたら、返事が来まして、しかもお顔がばっちり写ってる写真も同封され。。
今にして思えば、どこの誰ともわからんいち読者から顔写真を送ってくれと手紙を送りつけられて、送るほうもどうかと思いますが、そーゆー牧歌的な時代やったんですよ(笑)
んで、送られてきた写真は、20代前半とおぼしき婦女子さん当人の麗しき…ではまったくない、当人には違いないのでしょうが、ブサイクな写真。。。

はい、その写真を拝見した瞬間、我等が同級生全員の投稿熱は一気に冷め、写真を送っていただいたお礼も書くことなく、バックれたのでした(笑)
今にして思えば、あまりに失礼極まりない、アホアホでしたが、オレはそういう中学生なのでした。。。
あのときはすんませんでした、ヒヨコさん。。。

ま、そんなオレでしたが、その数年後、まさかエルマガジンの編集を手伝うことにもなり、同社が発行する新雑誌の創刊にもかかわるようになるとは、夢にも思っていませんでした。

情報誌のエルマガジン。
ファッション情報に特化したサヴィ。
この2誌が同社からは発行されていたのですが、もう少し大人にターゲットを絞った飲食店情報をメインとする雑誌を創刊することになり、オレにもお声がかかったのは、1990年のこと。
エルマガジンの「L」、サヴィの「S」と来たので、次は「M」を頭文字にした雑誌名がいいんではないかという、非常に安易な理由で生まれたのが、あの「ミーツ」です。
こちらも、関西にご縁のない方には、なんのこっちゃい?の話ですが…。


と、話はとめどなく横道に逸れていきますが、ちゃうちゃう、思い出話に浸っている日記ではないのでした。そんなことを書きたいのでは、ないのよ(笑)

えーっと、相方さんが、自分が働いているカフェの営業時間外の時間を借り切ってニット教室をやりたい、と、言い出したのが、今年の夏。
んで、チラシをつくることになり…、
その節は、マイミクさんのジャイ子さんに素敵なイラストを描いていただいたのでした☆
ジャイ子さん、改めて、サンキュ☆

とはいえ、おカネもないことですし、つくったチラシはわずかに500枚。
クラブイベントの告知チラシなど、チラシにもいろいろありますが、さすがに500枚は少なすぎます。でも、おカネがないから仕方がない。そこは、身の丈にあった投資なので仕方がないし、それでいいんです。
なので、おカネがないからこその少部数500枚なのですが、印刷というのは、枚数が少なければ少ないほど、1枚あたりの単価は高くなります。
たとえば、仮の数字を出しますが、
500枚だと印刷代が10,000円。 1枚あたり20円。
5000枚だと印刷代が50,000円 1枚あたり10円。
こんなかんじです。
なので、このときのチラシは、少部数しか印刷しなかったため、1枚あたりの単価がどえらい高いモノになってしまってるんです。
だから、貴重なんですね。枚数は少ない、でも1枚あたりの単価は高い。マツタケとおなじ、貴重品ですわ。

でも、相方さん、生まれて初めて自分のチラシをつくったわけですから、はしゃいで、あっちこっちのお店に片っ端から、置いてください!を連発して、おもいつくかぎりの場所に、ドサドサとチラシを置いていき…。
ま、初めてのことやし、はしゃぐからこそなので無理もないのですが、そんなんやから、オレに、ちょっと待ちなはれ、と、背中を引っぱられるんです。
これな、1枚○○円の現金やと思って、配ってるか?と。
レンタル倉庫を借りても置ききれないほどの枚数を印刷したのならともかく、高い高いチラシが、たったの500枚ですから。
やみくもに片っ端からお店においてもらいに営業するのではなく、どの店に置いてもらうのが効果的なのかを考えに考えて、置いてもらう枚数も考えて、いろんなことを考えながら、動きはなれよ、と。
それから、置いてもらったあと、数日か1、2週間後に、様子を見にいきなはれや、と。
なくなってたら補充。出来たらお店の人に、どんな人がチラシを持って帰ったか、聞いてみる。
隅っこに追いやられてぞんざいに扱われていたら、撤収。
現金を配ってると思って取り組むと、チラシ配りひとつにしても、そこまで考えるでしょうから、そうしなはれ、と。ま、そーゆーことです。

とはいえ、なんせ枚数は500枚。はっきりいって、ニット教室に来てくれる人が1人いてくれたら上出来かな、と、オレは思ってたんです。問い合わせの連絡が10人あれば上出来で、そのうち1人でも教室に来てくれる人がいる、そこまでこぎ着けられたら上出来やと、思ってたんです。

でも、現実はやっぱりそれほど甘くもなくて、最初の1ヶ月、問い合わせはゼロやったんじゃないかな。
1件でも問い合わせがあれば、まだホッとするところがなきにしもあらずですが、ゼロはダメです、ゼロは! チラシつくってないとおなじだから。

そりゃ、ゼロだと、相方さんはあせりますね。
あかん、次の動きをせなアカン! と、相方さんが呟いたのは、チラシをつくってから1ヶ月経った、とあるエスニック・カフェでのこと。。
おれ、ほう!と思いましたよ。
ちゃんと、次の動きをはじめようとしてるし、諦めてない。いつもなら、どうしよう!って焦って、おなじところをグルグルまわってるだけの思考悪循環に陥る人ですから。

んで、彼女がオレに言ったのは、「雑誌の編集部とかにチラシを持っていくのって、どうすればいいの?」。
オレ、チラシが出来たときに、相方さんに、チラシを雑誌の編集部に持っていって雑誌に載せてもらえるように交渉してみ、と、言ったか言ってないか覚えてないんですが、次の一手として、その方法があるのは知っていたんです。で、頃合いをみて、それを進言しようとも思ってたんです。

上記のエルマガジン、古くから仕事上の付き合いがあるから、知ってる人も何人かいます。
といっても、オレが知っている人は、みんなエラくなっていて、取締役だとか、そういうポジションに行っちゃってる人たちばかり。だから、オレが言えば、載せてくれます。
それをしてもいいけれども、それだと、安易すぎるし、だから、相方さんに、編集部へのアプローチの仕方だけを教えて、自分でやってみなされ、と、そういうことにしたんですわ。

ここは褒めてもいいと思ってます。
雑誌掲載のお願い手紙を自分で書き、チラシを同封し、いろんな編集部に郵送。あるいは、いろんな編集部に直接足を運んで、直談判。
相方さん、やってましたね。
初めてそんなことやってるんだから、これだって勇気のいることだし、腰が重かったら出来ない。
頑張ってやってましたね。
それも、オレが手取り足取りやったわけじゃない。相方さんが自分で考えて、自分でやろうと決めて、そのうえでわからないところが少しだけあって、そのやりかたを相談されたから、そこを教えただけです。
だから、ここは褒めますよ。でかした☆(笑)

そしたらば、その甲斐あって、エルマガジン社から連絡があり、掲載したい、と。
エルマガジンは公称発行部数28万部です。
そりゃ、記事の扱いはちっこいですけどね。でも、公称28万部です。
1枚○○円の現金を配ってるつもりでチラシを撒いてるか?と、言っていたわけですが、そのうちの1枚は、28万枚に化けました!

よかったじゃん☆

それと相前後して、いろんなところに置いたフライヤーを見た人からも問い合わせの連絡がちらほらと来るようになり、さらにホームページを見た方から出張ニットの依頼が舞い込むようにもなり、ちょっとずつだけど、歯車がまわりはじめましたわ。

悪いことも続くもんだけれども、いいことも続くんですよね。
歯車は、まわりはじめたらどんどんまわっていくからね。
もう、夜明けは近いです☆

2006年11月25日土曜日

あなたの幸福のために祈らせてください


今日は、マイミクさんのゆみ☆さんが神戸にいらっしゃったので、初ランデブー☆
ま、その話は明日以降に書くとして…。

そんなわけで、夕方、待ち合わせ場所に向かって足早に歩いていたのでした。
そしたら、

「あなたの健康と幸せのために祈らせてください」
と、話しかけられましたわ。久々のキャッチ☆

いや、そーゆーことなら、祈ってほしいじゃないですか!

なので、

「ほう! お願いします。でも、オレは忙しいので先に行くけど、ちゃんと祈っていおいてね~」

と、オレは退散したのですよ。
だって、ほんとに急いでたんだもーん。

ちゃんと祈ってくれたんだろーな。。。



最近、というかむかしから、キャッチにはかかりにくいんですが、よく引っかかったのは、絵のキャッチセールス。
画廊、というか絵の展示即売をしている店が心斎橋筋商店街にありまして、その店のまえは毎日のように、歩いてました。
もうね、連日、オレに声をかけてきますわ。絵を買うような知的な顔に見えへんっちゅーに!

絵画展、やってまーす!
「絵、描くほうやから」(笑)

絵、見てってくださーい!
「なんや、ナンパか?」

絵の展示会やってまーす!
「なかで売ってるんやろ。それを言わんでキャッチやったら、法律に引っかかるんやで」

絵とか興味ありますか?
「あのな、いい加減、オレの顔覚えろよ!」



毎日そんなかんじでしたわ。。

では、あなたのキャッチ体験、募集します(笑)

2006年11月24日金曜日

頑張れ!銚子電鉄


少しまえにmixi newsのヘッドラインにもありましたが、銚子鉄道、頑張ってますな☆ 2ちゃんで盛り上がりまくってるとか☆ ついに、テレビのニュースにまで取り上げられてましたわ。

もうニュースサイトから記事が消えてしまっているのか、検索かけてもヒットしません。
なので、ご存知ない方のために概要を。

銚子鉄道は、銚子~外川間の6.4kmを運行するローカル鉄道。全国のローカル線の例に漏れず、ま、赤字続きの路線です。
ところがこの会社、赤字解消の一環ではじめた銚子名物ぬれ煎餅の販売事業が好調でして、鉄道事業が年商1.1億円なのに対して、菓子類販売で2.5億円を稼ぎ出しているという、もはや鉄道会社なのか菓子製造販売会社なのかわからん会社です(笑)

ところが、です。
車両の老朽化が進み、5億円の設備投資が必要になり、さらに前社長が業務上横領で逮捕され、その借金も背負うハメに。。。
近々、保有車両の法定点検の時期なのですが、点検が必要な車両は最低でも3台。費用は1台あたり200万円なので、3台だと600万円。このカネが、捻出出来ない。
もうね、社長から社員まで、全員の給料をギリギリまで削っても、すべて借入金の返済に消えている状態らしいのですよ。

それに、鉄道の集客なんて一朝一夕で高められるものでもないし、素早い現金化となると、ぬれ煎餅に否が応でも期待は高まり…。

今、サイトがすごいことになってますから。

もう、トップページで、「電車運行維持のためにぬれ煎餅を買ってください!」ですから(笑)

これが、2ちゃんで火がついて(ちゃねらーと鉄道マニアが相当数重なっているのは有名)、ぬれ煎餅の注文が殺到しとるらしいです!
いや、なんかいい話ですな☆

財政破綻寸前の大阪市! これ見習えや!

すでに後日談がありまして、
銚子電鉄の社員数は、わずか24人。この人数で、ぬれ煎餅の大量発注が来ても、まったく対応出来ないらしいです。そりゃそうだ、本来は鉄道会社なのだから(笑)
今注文しても、煎餅の発送まで20日間かかってしまうとか。そいで、発注者も、もともとが支援のための発注だから、「大変でしょうから発送は急がなくてもいいですよ」と、ひとこと添えて発注するようになり…。

ぬれ煎餅 10枚入り820円。注文してしまいました(笑)

2006年11月23日木曜日

ゆたかさん


11.3
23時頃、マルイ前で目撃。寒いからか目深に黒いニット帽を被り、熱唱。
曲目:『あずさ2号』『宇宙戦艦ヤマト』『東京砂漠』『シェリー』など

11.5
15時頃、そごう陸橋上でセット準備中を目撃。

11.12
20時頃、そごう陸橋上で目撃。熱唱。中学生4人くらいが聴き入ってました。
曲目:『高校3年生』『初恋』『越冬つばめ』『宇宙戦艦ヤマト』など


神戸に、ゆたかさんというストリート・ミュージシャンがいます。
彼は、雨の日以外は、来る日も来る日もストリートに出て、歌います。
オレが彼を見かけるようになって、ぼちぼち1年が経ちますが、見かけるたびに歌が上手くなっていってます。

おもろいんで、一応は、定点観測してるんですけどね。

んで、最近、彼のホームページを発見し、つらつらと眺めていたのですが、なんでも、今から2年前、歌手に目覚め、毎日の練習に耐えに耐え、来るべきCDデビューに向けて、今、ストリートで鍛えてらっしゃるのだとか。
さらに、ご本人は「演歌」を歌ってらっしゃるらしいんですが、上記ライブレポート(笑)をご覧いただければおわかりのとおり、どうも、昭和歌謡と演歌がごっちゃになってらっしゃるようで。。。

そうそう、
先々月、来るべきCDデビューに備えて、ジャケ写撮影の予行演習をしたんだとか(笑)

9.29の日記を抜粋します。

今日は、家の用事として、そのあと母のコープの買い物に付き合ったのだが、車の中で、”えんか”をきいていたら、伴奏に対して、異常なほどに感じていることに気付いた。そろそろ、感じるということが、あたり前になってきた。なかなかいい感じだ!

これなら、デビューの日も近いかも、ですね☆

一部で、週末のカラオケおじさんと揶揄されていますが、そこらへんのガキンチョの弾き語りなんかより、よほど見入ってしまいます。

皆さまの応援が大スターになる鍵なんだそうです。
ええ、遠くからですが、応援させていただきます(笑)


ゆたかさんHP





せっかくの音楽ネタやのに、CDジャケも音源もない…。

本日の1枚:
ゆたかさんを頭のなかで再生させる。。

YouTube
なし!

2006年11月22日水曜日

まったくどうでもいいのだが…


商品名が一般名詞のように呼ばれているものを、いろいろと考えてみたのですが…。

バンドエイド →絆創膏
ホチキス →ステープラー
ゼロックス →コピー
ピアニカ →鍵盤ハーモニカ
ウォークマン →ヘッドホンステレオ
写メール →画像添付メール?
セロテープ →セロファンテープ?

ぐらいは思いついたのだけど。

他になにがありましたっけ?



で、まったくどうでもいいのですが、このバンドは、なかなかよろしいな。最近、日本の若手バンドのチェックを怠っているので、完全に見逃していました。新人というわけでもなさそうです。
ありがちな60年代サイケの焼き直しだけど、まったくどうでもいいことしか言ってない歌詞くせに、歌詞がやたらとかっこいい。
鉄は錆びたらそれが合図! ロックンロールは死刑!
サイコー☆

HiGE(髭) / 『ロックンロールと5人の囚人』

2006年11月21日火曜日

相方さんの才能と問題点

少しまえに、マイミクさんのmomoさんが相方さんをベタ褒めした日記を書かれまして、オレ、コメントにかなり窮したことがありました。
オレが恥ずかしいから、リンクは張りません(笑)

んで、それを受けて、というわけでもないのですが、先日、相方さんに、お仕事における相方さんの現状と未来について、オレなりに思うところを話したわけです。

以下、題して、相方さんの才能と問題点(笑)

えーっとね、オレが言うのもなんですが、ニットで食べていくうえで、相方さんは才能がありますね。

現在25歳。まだニットでは食えてません。

オレはニットのことなんてなにひとつ知りませんが、これまで、何人もの人を育ててきて、何人もの後輩を見てきて、かつ自分が歩いてきた経験も照らし合わせて、わかることはいくらでもあります。
モノになる人間は、わかりますから。
モノにならないと思って、のちに追い抜かれてしまうほどの大物になった人もいるのですが、オレの審美眼は、悪いほうに外れることはないのですよ。

もうね、間違いなく、近い将来、ニットで食べられるようになります。
相方さんのご家族は、学校を出てから就職もせずにいる彼女を見て心配してらっしゃるようですが、心配ご無用。オレには、くっきりと見えてますから。見えすぎるほど見えてます。

才能、その1。
ニットを編み続ける。編むことを、やめない。
これ、デカいです。周りにどんだけ反対されても、家族のなかで四面楚歌になってもね、相方さんはニットを断念したことがありません。まあ、でも、それはいいです。

それとですね、
相方さんは、自分の進む方向性について、迷いに迷う人でもあるんですが、それでも、編み棒を置くことがない。迷いながらも、逡巡しながらも、必ず、なにか編んでる。これがね、じつはデカい。
あのね、モノヅクリする人が、モノをつくらなったらそこで終わりなんですが、それを正当化する理由なんて、いくらでもあるんですよ。
今は行き詰まってるから、少しニットから離れてみる、とか。
それこそ、充電中とか(笑)
モノヅクリしてたら、壁にはなんぼでもブチ当たりますよ。迷いもしますよ。そうならないほうがおかしんですが、それを乗り越える方法は、ニットなら、ニットをすることしかないんです。編むことによって、編み続けることによって、壁を乗り越え、迷いを絶つしかないんです。
そういう理屈を相方さんはまったくわかってませんが、わからずに、自然とそれをやってる。それこそが、才能なんですね。

才能、その2。
作品を完成させることが出来る。
これも、デカいです。
少しでもモノをつくりたいと思った人、たとえば小説を書きたい、曲をつくりたい、絵を描きたい…、いろいろあると思うんですが、大抵の人は、そう思ってペンや筆をとったとして、最後までつくりきることがないんです。
曲ならイントロだけつくって投げ出し、小説なら最初の3行を書いてお蔵入りにし、絵なら下書きの途中で放ったらかしにし、ホームページをつくってみたものの大半は工事中のまま…、下手をすればそれの連続です。
オレなんて、曲のイントロやサビだけなら、20も30もつくってますよ。でも、欠片ばっかりで、ひとつの曲として完成しきることがない(笑) そっち方面の才能がないってことです。だからオレは、聴くほうのプロにまわってるわけですが。
そりゃね、ひとつの作品をつくるのに、その過程でボツになったものは山とありますよ。ただ、完成品が出来れば、ボツになったものは、完成品のための肥ですから。それはいいんです。でも、どれかひとつでも完成させないと、つくりきらないと、お話になりません。これが出来るかどうかは、才能の有る無しの、ひとつの分かれ目ですね。
つくりきって初めて、評価の対象になりますから。そうしないうちは、どの壇上にも俎上にも、乗っかってないのですから。
今、相方さんのサイトには、相方さんがこれまでにつくってきた作品が40点強、掲載してあります。これが彼女のキャリアに照らしてみて多いのか少ないのかは、オレにはわかりません。でも、40点強の作品をこれまでにつくったということは、すでに作品を完成させるだけの力は持っているということです。それがわかれば、いいんです。

大きく見て、相方さんには、この2点の才能があります。これは、どれだけニットに惚れているか、ということにも繋がっていくんですが、結局のところ、自分が選んだものを(あるいはニットに選ばれたと言ってもいいんですけどね)、どれだけ好きでい続けられるか、これが、才能の正体のひとつなんです。

そんなこと?と思う人もいるかもしれませんが、これ以上に大切な才能なんて、ありませんから。

あとはね、どれだけ人を幸福にする作品をつくることが出来るか、みたいなことは、当人の生きかたや努力にかかってくることですから。これは、才能ではなく、生きかたや努力や姿勢の問題。

その点で言えば、相方さんのフットワークの軽さは、ひとつの武器です。
ニットをやっていた人が、必然的に糸に興味を持ち、羊を調べ、紡ぎを独学で学び、今や、自分で糸を紡いでます。
その傍ら、各方面でニット教室の講師の仕事をはじめています。食べるためにはじめた講師の仕事ですが、他人にニットを教えることにも歓びを感じているようです。
他人から見れば、あれもこれもと手を出しすぎ、と、見えるかもしれません。
そして当人は、今ここにいたって、自分は本当はなにをしたいんやろうか?と、悩んでいます。
どれも中途半端になりそうで怖いだの、いろんなことに手を出しすぎていっぱいいっぱいになって余裕がないだの、言ってます。

相方さんのフットワークの軽さが招いた事態でもあるわけですが、それでいいんです。
糸紡ぎも、講師も、好きだからやってる。今は、ニットも糸紡ぎも講師もやりたいから、やる。それでいいんです。

人間は、どう転んだところで、好きなことしかやらないし、なりたいものにしかなれないんですよ。

心底やりたいことは誰にどれだけ反対されてもやるし、やりたくないことはやりません。
本当はプロのギタリストになりたかったけれどもオヤジが死んで家の八百屋を継がないとダメになったから、プロのギタリストになる夢は諦める、なんてのは、嘘なんですね。
心底ギタリストになりたかったら、家と絶縁してでもなるだろうし、天秤にかけて、オヤジさんの残してくれた八百屋さんを守るほうが大切だと思ったからこそ、彼は、八百屋さんになったんです。どうしても、というのなら、八百屋とギタリストを両立させることだって考えるだろうし、なんとしても、という気持ちがあれば、どんなことでも考えるもんだから、人間は。その人は、心の底で、八百屋になりたかったってことです。家族と絶縁してギタリストになるよりも、八百屋さんを継ぐほうが、自分にとって心地いい場所だと思ったってことです。そんなことは誰も非難することではないし、それでいいんだと思います。自分が八百屋になりたかったから今、八百屋をやってるということを、受け入れればいいだけのことです。そこで頑張っていけばいいだけのことです。

話が逸れたな。

だから、ニットも糸紡ぎも講師も、やりたいからやっているわけだから、やればいいんです。
そのうち糸紡ぎはやりたくなくなるかもしれないし、講師一本でやりたくなるかもしれないし、全部をトータルでやっていくと覚悟を決めるかもしれないし、そうなったらそうで、いいんです。どこに迷惑がかかってるわけじゃなし、それでいいんですよ。
どれかに絞りたくなったら絞ればいいし、そのまま行きたいと思ったら行けばいいだけのことで。
やりたいと思ってやっていることは、絶対に伸びるから、やればいいんです。
そして、やりたいと思ってやったことは、途中でやりたくなくなってやめたとしても、必ず、生きるから。それは全然大丈夫なのですよ。

以上、相方さんの才能2点と武器です。
もう1点、相方さんには得難くも素晴らしい才能がありますが、それは後述します。
以下、問題点。

悩んでる時間が多すぎるんですよね。
上記のことでも、あれもこれもと手を出して、本当は自分がなにをやりたいんやろうか?と、悩んでる。
今、本当にやりたいことが3つも4つもあるからやっているわけで、それがどれか1つになれば、そのときはそうするだろうし、今やってる3つも4つものことをやりたいと思っているうちはやるだろうし、んなもん、考えるまでもなく、今、本当にやりたいことをやっているに決まってる(笑)

まあ、でも、悩むのは仕方がないことでもあるんですが、ただ、悩んだところでなにも解決はせんし、物事は一歩も前に進まない。状況は、なにひとつ改善されません。
悩むというのは、なにか考えているようで、その実、なにも考えていないんですね。
だから、悩むのではなく、考えないとダメ。ひとつひとつのことを細部までリアルに想像して、細かくシュミレーションして、どの道がいいのか、考えないとダメです。相方さんは、それが出来ない。
ぼんやりと、どうしよう!どうしよう!と、そればっかりが頭のなかをグルグル巡ってるだけ。まったくもって、時間の無駄。そして、その時間が多すぎる。

結局のところね、雑念だらけなのですよ。

悩むことに時間と力を使っても、まったく意味はない。
そこ、集中力の発揮の仕方と、才能の使いかたを、相方さんは間違えてます。

んで、すぐにパニックになるんだな。
んで、パニックになる自分を嫌悪するんだな。
本当は、そんなことでパニックになどなってもらうと困るんですが、パニックになること自体を怖れることはないんですね。
限界まで行ってパニックにならないと、限界値が広がっていかないから。
10のことでパニックになれば、次は10のことがパニックにならずに出来るようになります。そのときに初めて、11のことが出来る可能性が見えてきます。そうやって、限界値を少しずつ広げていくしかないので、パニックになったり壁に打ち当たったりするのは、むしろいいことです。
壁に当たるなんてのは、進歩している証拠以外のなにものでもないですから。
階段というのは、前に進んで上に上がってまた前に進んで上に上がるという動作の繰り返しだけど、壁というのは、あれとおんなじでね。前に進むからこそ、次の壁が見えてきて、それを登ってまた前に進んで、また壁が見えてくる。それの繰り返しです。だから、壁に打ち当たったら、それはむしろ、喜ばしいことなのですよ。
第一、パニックになるのは実力がないからパニックになるんですが、実力のなさを嫌悪するくらいなら、努力すればいいってことです。

相方さんの自信のなさは、もうこれは性格的なもんだから変えるのはなかなか難しいですが、壁に打ち当たったときは、自分が進歩している証拠であると、そういうふうに考えてもらえんですかね。。。

さて、最後。才能、その3。
相方さんは、どういうわけか年長者に好かれます。
相方さんの周りには、相方さんに親身に助言をしてくれる大人が、何人もいます。
これはねえ、得難い才能です。オレが欲しくても手に入れられない才能。
ほら、失敗しても許されてしまう人っているでしょ。あいつはもう!でも、あいつだから仕方がないか、ってかんじで。あれも才能のひとつだけれども、相方さんのように、周りに何人もの年長者がいて、親身に助言してくれる人がいるのもまた、才能なのですよ。しかも、得難い才能。
本人がどこまで気がついているのかわからないけれども、これは、絶対に手放してはいけない才能です。

独立独歩で仕事をしていく場合、たとえばオレのような売文屋だと、腕一本、筆一本で実力で稼いできた!と胸を張って言いたいところだけれども、本当のところは、実力だけで仕事をもらっているかどうか、怪しいのですよ。仕事を発注する場合ね、実力を見込んで仕事を発注するのは当然だけれども、実力とは関係ないところで、あいつはいいやつだから、ってことで仕事を発注する場合だって、いくらでもあるんです。
もしかしたら、そのほうが多いかもしれない、ってくらいに。
だから、実力勝負の世界であっても、人間性が左右することって、いくらでもあるのですよ。
その点ね、相方さんは、いろんな人に好かれる。それも、大人に好かれる。
これはね、相方さんが考えている以上に、大きいことなんですよ。

相方さんが近い将来にニットで食べられるようになったとして、そのきっかけは、どっかのコンクールで優勝するからかもしれない。それは知りません。オレは、相方さんのニットの正確な実力なんて知りませんから。そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。
それはそれとして、確実に言えることは、誰かが相方さんに、大きな実のつく仕事を持ってきてくれるだろうな、誰かが大きなステージに相方さんを引っぱりあげてくれるだろうなということは、想像がつきます。
周りがそういうふうに動く才能が、相方さんにはあります。

はっきり言ってね、こんだけの才能が揃ってて、ニットで食えないままで今後も進んでいくことのほうがおかしいくらいです。
もしそうなら、よほど努力が足りない。
もっとも、よほどとは言わないけれども、今でも努力は足りません。全然、足りません。雑念が多すぎますから。
雑念を払い、集中力を最大限まで発揮する方法を手に入れたら、相方さんはびっくりするようなスピードで伸びます。


オレは、モノになるかどうかの判断は、悪いほうに外したことがありません。
人相見に関しては、まず外しません。
だから、ここに書いたことは、必ず、当たります。

2006年11月19日日曜日

毘沙門堂の、手前まで行く


その日は、相方さんと、たまゆらの逢瀬を楽しむ予定だったのですよ。
もちろん、京都神社仏閣巡り♪

そもそも、相変わらずオレは仕事が忙しくて相方さんのケアを放ったらかしにしていて、それはそれでいつもスマン!スマン!スマン!スマン!スマン!スマン!と思っているのですが、木曜日はなにがなんでも空けておくよーに!とのお達しが相方さんから出ましてですね、空けたんですよ、こないだの木曜。

そしたら、相方さん、午前中は仕事が入ったから、昼からどっか行こう!と。
へい、わかりました。

で、木曜の昼13時、待ち合わせ場所である、彼女が働くカフェへ。ちなみにこの日、相方さんはここでは働いておらず、ニット教室の講師の仕事をしていたのですよ。

そっからですわ、待てど暮らせど、相方さんはやって来ません。そして、メールだけがオレの携帯にやって来る。
「ごめん、あと1時間くらいはかかりそう」
「まだ仕事が終わりません!」
「まだ終わらんよ~」

この日、オレは、山科の毘沙門堂へ行く計画を立てていたのでした。
山科にある、桜の名所で名高いお寺さんです。

京都の市街地からは外れていて、ほとんど滋賀です。
でも、地下鉄が走っているから、京都市街地からでも30分足らずで行けちゃうんです。
でも、京都市街地じゃないから、絶対に空いているだろう、と。
この時期、京都のお寺さんは、どこもかしこも人でいっぱいですからね。
それに、です。
ここは山寺なので、桜の名所とはいえ、紅葉だってあるだろう、と。

というようなことをね、ビシッと計画していたのですよ。綿密な計画をビシッとね☆
それが、だ。
相方さんが丸い顔をさらに丸くしてやって来たのは、結局のところ、15時47分11秒36。。。。
そっからダッシュで行っても、到着は16時すぎ。
お寺さんはこの時期、16時30分閉門だし、無理言っても17時だし、到着するのが精一杯で、ノンビリどころの話ではありません。

大体、丸い顔をさらに丸くして、この日のスケジュールを空けておけ!と言ったのは、相方さんなのに!(笑)

それでもね、一応は向かったんです、毘沙門堂に。
上手くいけば、16時すぎに着いて、17時までいても1時間弱はありますから。

ほいで、地下鉄の市役所前駅までダッシュして、そっから地下鉄に乗って山科駅に到着したのが、16時すぎ。電車がすぐに来なくて、思ったより時間がかかってしまいました。
駅から歩いて15分くらいだって聞いていたので、これだと到着が16時30分くらいになっちゃいます。普通だと、閉門の時間です。。。
それでもまあ、行くだけ行ってみようということで、向かったわけです。

ただーし、駅から反対の方向に向かって歩いていたことに気づいたのは、16時45分くらいのこと。。
ったく、誰が間違えたんだ? オレか? 相方さんか?
オレは大阪の人間で、相方さんは京都生まれの京都育ちの土地勘もあるはずの生粋の根っからの丸顔の京都人。
なので、ここは間違いなく、相方さんのせいです☆
ただし、相方さんは、どの山を見ても、比叡山!とのたまう人でもありますが(笑)

もう諦めました。
どっちも昼飯すら食ってないし、ここらでブレイクタイムです。でも、晩ゴハンも迫ってるし、微妙な時間。結局、パンを買って食べましたけどね。
ほいでから、トボトボと駅へ。
でも、なーんかこのまま帰るのは悔しいんですよね。

そんなわけで、まだ日も暮れていないので、再度、毘沙門堂を目指すことに(笑)
ちなみに、17時はすでにまわってます。。。

駅からの道は、閑静な住宅街です。京都市街地ほど地価が高くないからだとも思うんですが、どこも家がデカい。
で、山の麓なので、樹々がいいかんじで繁ってるんですよね。住宅地といっても緑が多いせいで、無機質なかんじが全然しません。歩いていて、気持ちがいいくらいです。
途中、川がありましたが、よく見たら疏水でした。南禅寺で有名な疏水と繋がっている、琵琶湖からの疏水です。たぶん、春だと桜がキレイなんだと思います。
いや、ここはいいところですわ。

山門まで行ってみると、やっぱり閉門してましたが、山の麓から山門までが長めの階段になっていて、両サイドは紅葉です。まだ三分程度の色付きですが、かなりいいかんじです。しばらく、階段に座って、ボーッとしてましたよ。
山一帯にいくつか神社やお寺さんがあって、ぶらぶらと歩いてまわるにはかなりいい場所でした。

山門から中に入っていないので今書けることはほとんどないんですが、ここはどうやら門跡のようです。
といって、皇室の誰が出家したのか、まだ調べてないですけど。
創建が奈良時代で、毘沙門天がご本尊らしいのですが、毘沙門天って、仏さんの系列からすれば傍流(四天王の中心ではありますが)ですから、なぜご本尊に納まっているのか、ちょっと興味があります。
あと、狩野益信の障壁画があるのだとか。

京都市街地から離れているくせに(必然的に空いてる)、すぐに行けるというのが、かなり魅力的です。
近いうちに、リベンジします。次こそは、山門突破(笑)

そして夜は、京都市内に戻って、久しぶりのお気に入りのカフェで、ローストポークと海鮮サラダとオムレツを食べたのでした。

あ、新作、「テポドン」「オゾン層」を相方さんに披露。これは「マイナスイオン」の続編なのですが、なんのことかさっぱりわからない方は、相方さんに聞いてくださいませ。



速報! ガトリフの新作『トランシルヴァニア』、すでに完成してます。日本公開は、来年のいつかな?
かなりかなりかなり、期待してます☆


YouTube
これ、予告編です!

2006年11月18日土曜日

いろんな人がいるからこそ豊かなのではないか?

昨日、大阪大学が、来春入学してくる新入生に、高校の教科書を使って未履修の世界史の講義を行うと発表しました。一般教養課程に組み込み、単位も認定するとのことです。文科省は、前例がないし(←こればっか)、世界史は高校で学ぶのが原則なので推奨はしないが、大学側の現実的な対応として注目する、とコメントしました。
大学側は、網羅主義や暗記の強要はせず、歴史のダイナミックな流れと最新の学説を教え、社会人として最低限の知識を習得することを目標とする、と発表しています。

こうなると、履修しなかった人は、ラッキーとしか言いようがないですな。高校の教師につまらない授業をされるよりも、大学の先生におもしろい話を交えながら教わったほうが、絶対におもしろいに決まってますから。

喫緊の問題は現実的な対処を考える、根本的な問題とは分けて考えるべきです。オレは、今回、大阪大学が発表した措置は、現実的な対処として、悪くないと思います。


さて、昨日の続き。

まず、オレと相方さんの話からです。
オレと相方さんを結びつけたのは、とあるバンドでした。

当時、オレは、そのバンドのブレーンのようなことをしていました。
大手のレコード会社に勤務するオレの友人がそのバンドを偶然見つけ、惚れに惚れ、自分が勤務する会社とはべつに自主レーベルを立ち上げ、そこから自主盤を発表する、そういう経緯のなかで、オレは、そのバンドのブレーン的な役割として、後方支援していたのです。

相方さんは相方さんで、独自のやりかたでニットをやっていたのですが、そのバンドのマネージャーと知り合い、バンドの女性ボーカリストの舞台衣装を担当するようになっていました。

そういう場所でオレと相方さんは知り合い、ま、そっから付き合うまではいろいろあったのですが、そんな話はキッパリと割愛するとして(笑)、まずは、そのバンドの女性ボーカリストのことを話します。

彼女は、中学時代、いわゆる不登校児童でした。
中学時代というよりも、小学校時代からですね。
みんなとおなじことをしなければならないことへの違和感と反発、イジメに消極的に加担している自分に対する怒り、そうしたことが遠因となって身体に影響を及ぼし、トランス状態になる…。
親は学校に行けと言うし、子は、学校には行かない、行きたくない、と、部屋の床に体育座りをしたままテコでも動かない。
そういう、壮絶だけれども、今となってはありがちな風景です。

彼女の精神的な不安定さが鳴りを潜め、トランス状態に陥るような身体的不調が改善されるようになるのは、彼女の不登校をご家族が受け入れ、彼女の人生なのだから彼女なりに納得するように生きればいいと、方針転換したことにはじまります。
それまでのご家族の格闘や右往左往ぶりについては、それこそ壮絶なものであったことも、誰しも、ある程度の想像はつくと思います。ええ、凄まじかったと思います。

そんなかたちで、彼女は小学校時代のある時期から学校に行かず、中学校には一度も行かず、親の商売の手伝いをすることで、少しずつ平穏な生活を取り戻していくんですけどね。このあたりの話、涙も笑いも怒りもてんこ盛りであるんですが、長過ぎるのでまたの機会にでも書いてみます。(じつは彼女に、生まれてから今までのことをすべて語ってもらうインタビューをしたことがありまして、オレ、18時間の超ロング・インタビューしたことがあるんです)

そして、彼女は、映画監督になりたい、という夢を見つけるんです。
その夢を叶えるのに高校は要らんな、というのが彼女の結論だったんですが、親としては、それでも高校くらいは行ってほしいと思うもんじゃないですか。ましてや中学すら行っていないのだから。

そこで彼女は、週3日しか通わななくていい通信制の高校を見つけてきて、そこを受験することにしたんですね。ある種、親御さんの希望に応えるための妥協案みたいなもんです。で、そこを受験して、受かったら、とりあえず3日だけ通ってみて、それで判断する、と(笑)

ムチャな話ではありますが、親御さんとしたら、高校に行く気になってくれただけでもありがたいもんで、受験勉強を手伝うんですよね。因数分解を親が汗ダラダラで子に教えたりするんです。
よく考えてみたら、この、通信制高校の受験が生涯で初めてのテストだったんですが、元来が頭のいい子ですから、合格するんですよ。
で、合格していざ学校に行ってみると、これがおもしろいのなんの!

通信制の高校だから、年齢制限がなく、それこそいろんな人が通ってきているんですよね。
それこそ、92歳の人間国宝の浮世絵師のおじいちゃんがいたり、40代の普通の主婦の方がいたり。
同年代でも、やっぱりどっかしら傷を抱えている人が多くて、それでもみんな自主的に学校に来ているわけだから、真剣です。真剣だからこそでしょうけど、イジメがないんですよね。

こういう学校は、聞いているだけでおもしろいですね。
彼女は不登校時代に長唄を習っていたのですが、今、ボーカリストをしていることからもわかるように、長唄の師匠を目指しませんかと、教室で先生から誘いを受けているくらいの腕前なんです。才能があるんですね。
だから、通信制の高校でも、芸能の授業になると、先生の代わりに手本に指名される。浮世絵師の人間国宝が生徒にいるのだから、浮世絵についての授業は、当然、先生の出る幕はありません。人間国宝が、お話してくれるんですよ。で、体育の時間になると、92歳の人間国宝のおじいちゃんも混じって、短距離走ったりするわけです。まあ、死なん程度にでしょうけど(笑)


この話と昨日の日記に書いた夜間中学の話と重なるところはそれほどないんですが、夜の学校や通信学校には、昼間の学校にない豊かな側面があるなと思ったんです。

まず、誰しもが、学びたくて来ている点。
これについては、後述します。(今後、機会があれば)

次に、年齢も国籍も超えていろんな立場のいろんな種類の人が、ひとつの教室にいる点。
これは、案外と大きいなあと思いました。

いじめは、人間が生まれつき抜きがたく持っている性質のひとつなのかもしれません。
誰かを貶めることで、自分が優位にありたい、という感情は、程度の差はあれ、誰しも持っているのだと思います。人間の業であり、原罪の一種だと言ってもいいかもしれません。

でも、自分が優位に立ちたいという感情は、同質のグループにいるときにこそ起こるものだとも思うのです。
サッカー選手同士だと優劣をつけたくなる場面もあるでしょうが、サッカー選手とタクシーの運転手と花屋の店員さんで構成されている集団で、誰がなんの優位もへったくれもないと思うんですが、どうでしょうか。

じつは、通信制高校をいくつか取材したことがあるのですが、いじめがある印象は、オレにはなかったんですね。いくつか取材した先でその点は必ず訊いたのですが、どこも、「ない」と。
まず、老若男女入り乱れているので、競争原理があまり働きません。誰それよりもいい点をとったとか、ではなく、皆、知りたいことを知りたいからこそ通っているので、自分がそれを吸収出来たかどうか、興味の中心はそこなんです。なので、他人と競争するのではなく、自分との闘いです。
競争原理はある程度必要だと思うのですが、それはさておき、ないと、ギスギスした雰囲気もなくなります。

それと、幅広い年齢層の人が通っているということは、学力のあるなしにかかわらず、社会経験を積んでいる人が、そこにはいるということです。
いじめの風景は、いじめの標的にされている人、いじめている人、いじめに加担している人、傍観している人に分かれますが、社会経験を積んでいる人がそこにいれば、傍観しない人もいるでしょう。

そんなことをつらつらと考えていると、

バラバラの年齢でひとつのクラスを構成する方法はないのかなあ、と思うんですよ。
たとえば、ひとつのクラスに小学校の1年生~6年生までが混在しているような、そういうクラス編制は出来ないんですかね。過疎どころではない離島の小学校なんて、そういうクラスがあるじゃないですか。本当はそれだけじゃなくて、いろんな国籍、もっと上の年齢層の人も入れたらいいんでしょうが、それは現実的じゃないので、せめて、そういうクラス編制を、現実的なイシューとして俎上にあげるべきだと思います。

多様性を学ばせるのは今の教育の喫緊の課題だと思うのですが、ならば、画一的なクラスではなく、出来うるかぎりの多様な人が混在するクラスを編成するのは、悪くない方法だと思うのです。
もっとも、それに則した授業を進めなければならないので、科目別にそうしたプログラムをつくらなければならないのは、言うまでもないです。
でも、昨日の日記で書いた夜間中学の先生のように、現場で試行錯誤しながら教育プログラムをつくっている人は、いるんですよね。
公務員は独創的な仕事を常としていないでしょうが、どんな仕事でも個別の問題があり、それに対する解決策を考えなければならないわけで、誰でもがそれをしています。だから、学校の先生にも、そうした新しい教育プログラムの創造を、なんとしてもやってもらうしかないじゃないですか。

いじめやいじめ苦による自殺(これはひとつの問題として捉えるべきではありません。別個の問題です)が発生すると、学校はきまって、
「再発防止に努めます」
と、言います。
でも、
なにをするのか、具体的なプログラムを持っているとは思えないんですよね。生徒の信号を注意深くキャッチすると言いますが、どんな信号がそれで、仮にキャッチしたとして、クラス運営を行なううえで、どのように対処するべきなのか、教師が、具体的なプログラムを学んでいるとは、まったく思えないんです。ほとんど、教師個人の人間性に頼っているのが実情じゃないですかね。

いじめなんてね、いくら注意されたところで、やりますよ。見つかれば、次は見つからないところでやる。どんどん陰湿になる。
だから、いじめが起きない環境をつくるしかないと思いますけどね。

そのために、教室に多様な人間を混ぜること。
オレが考えているのは、それなんです。

もうひとつ。
いじめ苦による自殺です。
いじめ予告を文科相に送りつけたりと、浅ましすぎる出来事も多発しているし、もう、なにからなにまで暗澹たる気分になります。みんなのまえでズボンを下ろされたから自殺、教師もいじめに加担していた…、あまりのひ弱さ、あまりの常識のなさにも、暗澹たる気分になります。
でも、
ほとんどは、誰かに相談することで解決するんじゃないかとも、思うんですよ。
今の子供って、人間関係のチャネルが少なすぎる気がします。
学校、家、塾。それだけじゃないかな。
本当は家でなんでも話せるのならそれに越したことはないけれども、それはそれぞれの家庭の親御さんに頑張ってもらうとして、それ以外のチャネルがもっとたくさんあればいいなあ、と思います。
むかしは、社会がありましたね。近所のおじさんとかおばさんとか。今、そーゆー人はいないでしょ。
学校をね、カルチャーセンターのように、大学の社会人対象の授業のように、市民講座のようにできないですかね。
いろんな人が学校に出入りする。そして、クラスと交流するんです。そうすることで、失われた子供のチャネルを増やしていく。避難所をね、いっぱい用意してあげるといいとオレは思うんですけどね。
学校にいろんな人が出入りすることで、新たな問題が発生することはあるでしょう。ロリコンもヘンタイも多いしね。でも、どっちのリスクが大きいか天秤にかけたとき、オレは、いろんな人が学校に出入りする環境のほうがいいのでは、と思います。犯罪予防は、それこそ監視カメラを置くなどして、監視を強化することで予防出来るところも大きいですから。

なんかね、
今の教育問題をメディアを通して見ていると、
教師の質の低下、
クラス運営における問題解決のためのプログラムの不足、
生徒の精神力の低下、
親子のコミュニケーションの不足、
学校と社会の隔絶、

問題が山積しているように感じるんですよ。どれから手をつけていいやら、と思ってしまいます。
途方に暮れますが、とりあえずは、こんなことをぼんやりと考えています。
じつは来月、神戸市の教育委員会の人と会うんですが、こういう話をぶつけてみようと思っています。

2006年11月17日金曜日

夜の金八先生

この半年ばかり、TVの最大の楽しみは、NHK教育で月~木の22:25から放送されている『知るを楽しむ』だったりします。もっとも、録画しておいて一気見、というパターンばっかりですが。

番組のサイトはこちら。


曜日毎にテーマがあって、そのテーマに沿って月4回程度のシリーズで構成されてます。
たとえば、今だと、
月曜は『この人の世界』というテーマで、江戸の絵画の傍流にある曾我蕭白や伊藤若冲なんかを、美術評論家の辻惟雄さんが紹介してくれます。
火曜は、パーソナリティが影響を受けた人物を紹介していくもの。今だと、人類学者の中沢新一が民俗学者の折口信夫を紹介しています。この欄は、過去に、美輪明宏が寺山修司を紹介し、リリー・フランキーが松田優作を紹介したりしています。
水曜は、『人生の歩き方』と題して、1人の人が4回にわたってインタビューを受けています。岸恵子、赤瀬川原平、萩本欽一など。
木曜は、『歴史に好奇心』の名のとおり、主に江戸時代に焦点を当てて、ひとつのテーマを掘り下げてます。武士の家計簿とか、江戸の教育など。今、西洋料理と日本人というテーマでやってます。

どれも丁寧につくられていて、しかも切り込み方がスリリングで、見ていて飽きません。

えーっと、べつに『知るを楽しむ』のアフィリエイトをしたいわけじゃないんです(笑)

今、この番組の水曜日『人生の歩き方』に出演しているのは、見城慶和さん。夜間中学の先生を停年までの42年間を勤め上げた人です。
山田洋次監督がつくった映画『学校』のモデルになった先生らしいのですが、オレは、その映画もこの先生も、どちらも知りませんでした。

夜間中学と聞いてイメージすることは、高度経済成長の時期、さまざまな事情で義務教育を受けるべきときに受けられず、それでも大人になってから学びたいという人が通っている場所、といった程度のものでした。
あるいは、今だと、不登校児童が通うディアスポラ的な場所、というイメージです。

そういう一般的なイメージは持っています。で、そのイメージは、あながち大きく外れてもいなかったのですが、番組を見、詳細を知るにつけ、ここは素晴らしい現場だなあ、と思ったのでした。かなり、感動的ですよ。

まずね、60歳を過ぎた人が、読み書きを習っているんですよ。それも、小学校高学年レベルの国語の読み書き。その年になるまで小学校高学年レベルの読み書きを身につける機会がなかった不幸はさておき、その年齢になり、人生も晩年に差しかかり、それでもなお、学びたいのだなという姿勢は、感動的です。

そういう風景が、いくつか流されるのですが、でもそれは、言っちゃあ悪いが、オレが持っていたイメージの範疇を超えるものではありませんでした。

あるとき、
20代の青年が学校の門を叩きました。
で、当然のことですが、まず、氏名と生年月日を書いてください、と、先生は彼に言います。
すると青年は、
「氏名ってなんですか?」
と。
70年代の高度成長時代のころのことです。オレはすでに生まれています。オレが生きはじめた時代に、識字率がどの程度だったのか知りませんが、95%以上はあったんじゃないかなと、なんとなく想像します。
でも、「氏名」の意味がわからず、自分の名前も生年月日も書けない20代の青年が、いたんですね。
それだけでもかなりびっくりしましたが、おもしろいのは、ここからです。
大人にひらがなやカタカナを教えるというのは、案外と難しいものなんですよね。教えるほうだって、お手本になるようなキレイな字を書かなくちゃならない。
まずね、
黒板に○を描いて、○のかたちと似た字を、○の円周をなぞるように書いて教えるんです。
あ、お、の、ぬ、ね、などのひらがなを、そうやって教えます。
次に、卵形の楕円を黒板に描きます。楕円を横にして、円周の両サイドをなぞるようにして、「い」のかたちを教えます。横にした楕円の円周の上下をなぞると、「こ」が出来ます。楕円を斜めにして、「ひ」を教えます。
そういう教えかたなんですね。
オレたちが習った教わりかたと、全然違います。そして、こういう教えかたは、もちろん、文部省のプログラムにはないし、現場の教師が、試行錯誤しながら現場でつくりあげた教育プログラムなのだそうです。
20代の青年は、いわゆる職人さんです。でも、いくら腕1本で食べていける職人さんだといって、読み書きがまったく出来なければ、生活が出来ません。作業日誌だって書かないとダメだろうし、図面や仕様書を読むこともあるだろうし、生活の場に基本的な読み書きは絶対に必要です。
だから、ひらがなとカタカナだけでなく、漢字だって必要になってきます。でも、当用漢字を小学1年からやってる余裕は、ないんですよね。取り急ぎ必要なのは、生活に必要な漢字です。
そこで、生活の場面を想定し、そこで登場する漢字をピックアップする作業からはじまります。病院に行ったとき、銀行に行ったとき…、という具合に。海外旅行に行く際に持っていく、現地の言葉の場面別の想定問答集みたいなものです。
その、必要最低限の生活漢字を、381文字、現場の先生たちはピックアップしたのだとか。
そこには、「履歴書」なんて難しい漢字も入ってます。当用漢字の枠組みではなく、生活漢字という視点でピックアップしたら、そういう漢字も入ってくるラインナップになります。

一、二、三でとびおきて
四の五の言ってるひまはない
いつも朝めし六、七分

こうやって覚えていくんだそうです。

こうやって、20代の、自分の名前も生年月日も書けなかった青年が、給与明細を読めるようになったり、学校の帰りにいつも見る看板の文字が読み取れたりするようになり、生活に直結する力を身につけると同時に、知る喜びを体感することになります。

夜間中学に通う生徒は年齢も国籍もバラバラなのですが、共通しているのは、皆、劣等感を持っていることです。義務教育を受けるべきときにさまざまな事情で受けられなかったことで、そのことが原因で、社会に出て劣等感を持つようになります。
実際、ヒドいことを言われたこともあっただろうし、ヒドい扱いを受けたこともあったんだろうと思います。
でも、彼らは、実際に生活をしてきたのだから、生活力はあるし、技術力だってあるのだから、劣等感を持つ必要はまったくないですよね。そのことに気づいてもらい、顔を上げてもらえなければ、夜間中学に来る意味なんてない、と、現場の先生たちは考えるんだそうです。

そのことに気づいてもらうために、国語の文法を教えます。
使う言葉によってその人の生きる姿勢が変わるというのは、オレのようなものを書いてメシを食っている人間にはよくわかる話なのですが、それが、教育の現場で実践されているとは、思ってもみませんでした。

みんなが私をバカにする。

この、「みんな」っておかしくない? 「あの人が」「彼が」というのはあるよ。でも、どこの誰だかわからない「みんな」なんていうのは、文法上おかしいんだよ。実際、世のなかの全員があなたのことをバカにしているわけはないでしょ。
そうやって、文法を教えることで、意識を変えさせようとするのです。
でも、みんながそういうふうにオレのことを見てるって思っちゃうんだよなあ、と、50代くらいの男性の生徒が言います。そこで、それこそクラス全員が、私も、とか、でも本当はそんなことないんだよな、とか、ワイワイ話がはじまるんですよね。すごく、自由です。

こういう番組を見ていて、理念だけが語られるのはイヤだなあと、最初思っていたんです。
でも、実際の現場は全然そんなことはなくて、実践に則したプログラムが、いくつもいくつもあるんです。そして、それらはすべて、現場の先生たちが試行錯誤しながら、手づくりでつくっていったプログラムなんですね。

学校の、最終的な教育目標は、読み書きが出来るようになり、生きる力を与えてくれるような文芸作品を読む力を身につけ、在学中に1冊でもいいからそういう本を読み切り、卒業後も、そういう本を読む力を身につけさせること、に、あるんだそうです。

夜間学校にとって、国語力というのは、そういう力を身につけることなんだそうです。

たとえば、
中野重治の『菊の花』が題材に取り上げられます。
無実の罪で投獄された主人公が、差し入れられた菊の花に励まされて逆境を乗り越えていく話です。

花の心、ありったけの力で、生きていく。

そういう一節があります。
「ありったけ」って、どういうこと? 精一杯ということ。あるだけ全部の力で生きていく。それが花の命、花の心だと言っています。
そこから、
どんなに環境が悪くても、花は自分の力で生きていく、負けずに生きていく、
という、中野重治が比喩で込めた真意を、生徒が導き出していきます。先生は、その助けをします。そして、その真意を、生徒自身の言葉として身体に入れ、生活の糧となるようなものとして、生徒の心に植え付けていきます。
取り上げる題材の選定に、じつに細かな計算がなされているんですよ。

作品を読み、そのことでどのように考え、生きる力がどのように励まされるかを、どれだけその作品から汲み上げられるか。
そのことが、授業で使う作品の題材選定の尺度になってます。

夜間中学のおもしろいところは、知識の量とか、誰がどんな作品を書いたとか、そんなことをいくら覚えても喫緊の生活の役に立たないからやらない、と、キッパリと割り切っているところにあります。
この文章の意味だとか、意図だとか、文法はどうだとか、テストで答えるためのものを教えても、彼らの人生には役に立たない、というところから、教育プログラムの作成がスタートしているところです。

これは、学ぶことの、根本ですよね。
これを、昼間の義務教育が少しでも取り入れてくれたら、と思います。

34歳の、建築現場の下請けで働いている男性は、計算が出来ず、そのせいで材料の見積もりが出せず、あまり仕事がパッとしなかったそうです。結婚して子供も2人いるんですが、生活費もかかってくるし、奥さんが男性の尻を叩いたんだそうです。計算くらい出来るようになって、もう少し稼いでくださいな、と。
そうやって、この男性は、奥さんに引っぱられて、夜間中学にやって来た。しぶしぶ、しかも、一杯引っかけてきたんですけどね。

その男性は、卒業するころには、宮沢賢治を読むようになり、宮沢賢治の作品から、大きな感銘を受けたと言うんですね。

夜間中学の行事で、運動会がありました。男性は、運動会のマラソンで1等賞をとることを決め、夜、仕事が終わってから学校に通うのに、それまで自転車で通っていたのを走って通うようになり、運動会に備えて脚力をつけようと頑張るんですよ。
結果、彼は運動会のマラソンで1等賞をとりました。
そのことをね、彼は、作文にしたんです。

当日、駆けに駆けた。
でも、得たものは大きかった。
それは、無報酬の報酬でした。
自分でやらなければ
この喜びはつかめない。
そういうことがわかりました。

そういう作文です。
生活のために計算が出来るようになりたいと夜間学校に通い、そこで学ぶ人たちの姿に心を打たれ、宮沢賢治と出会い、宮沢賢治のひたむきさに心を惹かれ、彼は、「無報酬の報酬」と呼ぶべきものを得たんです。
その彼の作文を見て、先生は、宮沢賢治のすごさについて、改めて教えられたんです。

オレのこれまでの人生のなかで、
無報酬の報酬を得たと実感出来るほど豊かな日が1日でもあっただろうか、と、思わずにはいられませんでした。
オレは、宮沢賢治の作品を何冊も読んできたけれども、この男性ほど、宮沢賢治の作品から宮沢賢治の本質を得ただろうか、と、考えざるをえませんでした。

夜間中学というところは、とても豊かなところですね。
これがすべてではないと思います。もちろん、負の遺産もたくさんあるでしょう。
でも、こんなにも真剣に学びを求める人が、今の普通の学校にいるか? そういう人たちがいるだけでも、夜間中学という場所は、とても豊かなところです。


じつは、連日のように報道されている、イジメとイジメ苦による自殺の連鎖について、自分なりになにか考えたい気はあるんです。そのことを何度も書いたのですが、どうしても暗澹たる気分になって、最後まで書き切ることなく、日記にもアップせずじまいでした。
でも、この番組を見て、少し希望を見た気がしたんですよ。
少なくとも、解決のためのヒントがここにはあるなあと、思いました。

それを、明日書きます。

2006年11月16日木曜日

「記憶のスパイス」


昨日今日と、高山なおみさんの『記憶のスパイス』を読んでおりました。

オレが高山なおみさんの存在知ったとき、彼女は『クウクウ』で腕をふるってらっしゃったのですが、なにせ場所は東京、行くこともなく…。一度は行ってみたかったお店です。
今、独立独歩の料理家になられてますね。

彼女の魅力的なところは、スローライフを実践しながらも都心を離れることもなく、忙しいときは手抜きでいいやん!と、肩肘張らない生活を、送ってるところだと思います。

スローライフだ!ロハスだ!と、そのことに血眼になるような本末転倒な姿をときどき目にしますが、べき論でものごとに取り組むと、やっぱりロクなことはないですね。いかに自分のペースをキープ出来るか。オレは、それしか考えてません。

だから、
正しい/間違ってる
で、生きたいとは、ほとんど思わないんですよね。

それよりも、

好き/嫌い
居心地がいい/居心地が悪い
happy/unhappy
stop!/go!

ってかんじです。

高山なおみさんは、そういう感覚で日々歩いてるように思われるし、その歩く姿が、端正なんです。
端正で凛としているのだけれども、同時に、ダメなところもいっぱいある。そして、そんな自分を受容しつつ、地に足をつけて歩いてる。酔っぱらって大立ちまわり!なんてのもあるし(笑)
そのかんじがね、オレにはとってもキュートに映ります。

上記の本は、全日空の機内誌『翼の王国』に連載された旅行料理エッセイをまとめたものです。
ペルー風オレンジジュースってのがあるんですが、オレンジを絞り器で絞っただけなんですよ。どこがペルー風なのやら(笑)

読んでみればわかるのですが、ペルー風と名付けられているのには、意味があるんです。
彼女の料理は、料理が主役になってない。料理や素材に最大限のリスペクトを払っているのはもちろんなのですが、主役は、あくまで生活なんです。
ペルーでの生活、風景のなかでの、オレンジジュースですから。
生活の風景のなかのひとつとして、料理がある。
だから、彼女のエッセイも、料理が主役になることなく、風景が描かれ、そのなかに料理が登場しているかんじです。あるいは、思考の触媒の役目を、料理が果たしています。

フィッシュマンズやクラムボンを愛していることも、オレにとってはたまらなく素敵です。
ご主人のスイセイさんとのやりとりは、羨ましいくらいに微笑ましいです。

我が家では、彼女の著作はすべて、トイレの書棚に置いてあるのですが(笑)、また1冊増えました。

ブログがこれまたよろしくて。

2006年11月15日水曜日

鍋輪廻


湯豆腐。
豚しゃぶ。
あんこう鍋。
鱈ちり。
カキの土手鍋。
鶏つくね鍋。


毎日毎日、なんかしらの鍋がローテーションで夜の食卓を飾ってます。
メインの具をちょこっと入れ替えるだけですんでしまうので、安くすむし、お手軽やからいいんやけど、ちょっと飽きてきました。

まだ寒くなったばかりやというのに、もう飽きてきました(笑)

飽きたとはいえ、もはや鍋以外のモノをつくるのは、面倒でなりません。

次、何鍋がいいですかね?



んで、本日もレゲエ。


イスラエル・ヴァイブレーション / Rudoboy Shufflin

YouTube

2006年11月13日月曜日

相方さんのサイト(after)


はい、昨日の日記で予告したとおりですが、サイト、リニューアルしました☆

昨日、13日の今日の夜にリニューアルします!って宣言しちゃったあと、最後、少しばかりトラブルもあり、結構、焦りましたよ。
でも、やっぱ、どーせなら13日にアップしちゃいたかったんですよね。これは昨日気がついたことなんですが、そもそも、サイトがオープンしたのが、相方さんの誕生日でもある5月13日。で、今月の13日が図らずもジャスト半年ですわ。まったく知らなかったんですが、昨日、日記を書いたあとにふと気がついて、これはなにがなんでも13日に!ってことです。

やるぞ!と思い立ってから、なんだかんだで1週間足らずの作業日程。。。
といっても、かなりかなり大変な作業をやっとりまして…、ソースがおわかりになる方はご覧になっていただきたいのですが、もう、とんでもないです(笑)複雑すぎて、自分でもわかりません(笑)よくこんなソースを書いたな(笑)

そもそもですね、winのブラウザで表示される文字が大嫌いなんですよ~。なんであんなにダサイんでしょうか。ダサイだけならともかく、読みにくいです。見にくいです。

なので、macのブラウザで表示される文字を再現したかったんですよ。それで、荒技を。。更新が面倒になってくるので、仕事じゃ絶対にやらないけれども、なにかの機会があればやってみたかったので、今回、実現させてみました。winでネットをご覧になっている方には、これまでになく見やすくなっているかと。

あ、だから、普段からmacでネットをご覧になってる方にとっては、あんまり関係ない話です(笑) 普段、見ている文字に近いので。。。

デザインは、これまでのほんわかしたイメージから、少しお仕事チックに、少し大人モードにしました。
教室はじめたり、取扱店が増えていったり、雑誌で紹介されたりと、少しずつお仕事も増えつつあり、そんななかでポータルサイトの果たす役割も重要度を増していっているので、あんまり趣味モードのサイトもなぁ、って思っていたのです。

かなりかなりあっさりめのつくりになりましたが、あとはちょこちょこいじりながら、小ネタを増やしていこうかと思っています。

どんなかんじですかいな?
また、感想などお聞かせくださいませ~。
辛辣なの、忌憚のないのが参考になりますので、そっちをよろしくです☆

2006年11月12日日曜日

相方さんのサイト(before)


を、オレがここで紹介してもしゃーないんですが、サイトオープン時に、みなさんに強制的に感想を求めたことでもあるし(笑)、お知らせです。

じつは現在、リニューアル中です。

オープンして半年ですが、ほら、オレはサイトの制作を担当してるから、毎日見てるわけですよ。

で、毎日見てると、さすがに飽きるんですよね。
で、つくってるオレが飽きてるんだから、見にきてくださってる方も飽きてるだろう、と、勝手な理由をつけてですね、リニューアルしちゃうことにしました(笑)

ほとんど、自分で自分の首を絞めてます(笑)

といっても、オレが一方的に進めていることなので、相方さんにしたら寝耳に水!
なので、特にコンテンツが増えることもなく(むしろ統合されてページは減ってる!)、デザインのみを大幅に変えることにしたのでした。
デザインについてはね、今となっては、不満に思う点がいろいろあるんですよ。

で、リニューアルもいよいよ大詰め☆
たぶん、明日の夜にはリニューアル・オープンです。
すごいな、1週間以内でやっちゃってますから。

そんなわけで、現サイトも今晩が千秋楽と相成りました。
名残惜しい方は、最後にもっかいご覧になっておいてくださいませ(笑)



という、宣伝というか、お知らせ(笑)
で、明日の日記は、リニューアル・オープンのお知らせ日記(笑)

2006年11月11日土曜日

「何度でも夢を見せてやる、世界が平和だったころの夢を」と、彼は言った。


昨日の夜中、サッカーの日本代表20歳以下のアジアユースを観ていて、そのままなにか観ようと思い、HDDレコーダーの録画リストを眺めていたのでした。
HDDレコーダーって悪魔ですね。100時間以上は余裕で録りため出来るから、観るか観ないかわかんないモノまで、とりあえず録画予約しちゃう。結果、未視聴の録画ファイルのたまることたまること!
んだもんで、時間もないし、きっと観ないだろうと思われるものはゴミ箱に行ってもらって消えてもらおうと、整理してたんですよ。

そしたら、です。比較的新しかったので、たぶん今週か先週の番組だと思うんですけど、キヨシローが先月に発表したアメリカ・テネシーはナッシュビル録音のアルバム『夢助』の制作ドキュメンタリーがあるじゃないですか! んなもん、放送してたことも知らないし、録画予約した覚えすらなかったんですが、さすがオレ! ちゃーんと、番組表から無意識のうちにピックアップして、録画予約ボタンを押していたんですね。
これだから、人生はやめられません。青少年及びうら若き女子諸君、自殺なんてしてる場合じゃないんだよ☆

そのむかし、スタックス・レコードというアメリカ南部のブラック・ミュージックを代表する名門レーベルがありまして、オーティス・レディングだパーシー・スレッジだといった偉大なソウル・ミュージシャンを輩出したレーベルなのですが、そこに所属するアーティストのほとんどのバックをつとめたのがスティーブ・クロッパー率いるブッカー・T&MG’sなのですね。RCサクセションは、彼らに憧れて、どこまでも彼らに近づこうとしたんですが、結果、RCは世界のどのバンドにも似ず、RCはRCです。そこがすごい!
で、今回、清志郎がメンフィスに乗り込んで、スティーブ・クロッパーと共同作業でアルバムをつくる、と。そういうドキュメンタリーです。ちなみに、このコンビでの共同作業は2度目。10年ほど前にはMG'sを引き連れて、清志郎は日本でツアーやってますからね。オレ、それは観てますから☆

ああ、時間がない!
清志郎とメンフィス・サウンドの繋がりを書くのは、今回の日記の本意ではないのですよ。いや、それについても思いっきり書いてみたいんですが、今回は、違うんです。

えーっとね、今回のアルバムのなかに、『激しい雨』というナンバーがあるんです。

盟友のチャボさんが、言い出しっぺです。
ニール・ヤングが、30年以上も前の、自身のキャリアの出発点となったバンド、バッファロー・スプリングフィールドというバンド名を、最近、歌詞のなかにしのばせたんですね。
それを聴いたチャボさんが、長い年月を経て、そういうことが出来るのはいいなあと思い、清志郎に、やってみなよ!って提案したんだとか。

みんな、清志郎の声は大好きじゃないですか。あの声でね、「RCサクセション~」ってフレーズの歌詞を歌われて、それがたまたまラジオから流れてきて、それも一発で本人だとわかる声で…、それって、ちょっと素敵じゃないですか。そういうことが、発端だったらしいのですよ、テレビによると。

そういうことが発端となって出来た曲が、『激しい雨』。
でも、ただの懐古ソングになってないのが、清志郎のすごいところですよ。この人は、全然現役ですから。

季節外れの、激しい雨が降ってる、

というフレーズではじまるこの曲は、
クロッパーらしいタイトなリズムを刻みながら、

あちこちで起こっている厄災や悲惨な出来事を嘆いたり悲しんだり怒ったりするんです。

そして、最後、やはり彼の詩の世界は個人的な出来事に帰結していきます。

お前を忘れられず、世界はこの有様、


そしてそして、
必殺のフレーズが、出てくるんですよ。

oh 何度でも夢を見せてやる
oh この世界が平和だったころの夢を
RCサクセションが聞こえる
RCサクセションが流れてる

ねえ、こんなふうにRCサクセションって言葉を使うのって、すごいですよ。
もう20年も前のことだけどさ、あの時代は、今よりもよっぽど平和だったんですよ。
そんときの夢を、いつでも何度でも見せてやるぜ、って、この強烈な自負。
時代のことなんかじゃないんですね。あの年齢の頃、若かった頃、ジタバタしてたし息苦しかったし、上手くいかないことのほうが多かったし、なんにもいいことなんてなかったけれども、それでも、今、いろんなことを諦めたり妥協してきたりして辿り着いた今に比べたら、なんぼかマシだ! それに、あんときは、RCがあったじゃないか!
そういう曲。
平和だったの頃のこの世界というのは、いうまでもなく、清志郎が見ていた世界のことです。オレが見ていた世界のことです。

平和というのは、政治的な定義を持ち出すと、「戦争が行なわれていない状態」でしかありません。飢餓が起ころうが大地震が来ようが、戦争が行なわれていない状態なら、それは、政治的な、「平和」と呼ぶ範疇に入る状態です。

歌が、ロックがそれに対抗するには、清志郎のように歌うしかないんですね。
「夢を見せてやる」と。
それは、清志郎が、あの声でもって、「RCサクセション」と叫ぶことで現出する夢です。その夢を見る、それが、政治に対する、音楽の、歌の、ロックの対抗手段なんです。

音楽は、つくづく歌詞じゃないよな、これを聴いていると思います。
だって、清志郎が、あの声で、『RCサクセション!」と叫ぶだけで、マジックが起こるんですよ。発語の快感以外のなにものでもない。

ナッシュビルでクロッパーが集めたバック・ミュージシャンは、皆、凄腕だけど、清志郎のことを知る人なんて、いないんです。それがね、一発で、あの声とあの歌いかたとあの立ち居振る舞いとあの面構えとあのオーラで、みんながみんな、一発でやられちゃう。皆が皆、「偉大なソウル・シンガーだ」と、興奮してます。

つくづく、音楽は、言葉ではないな。



忌野清志郎 / Otis Taought

2006年11月10日金曜日

何年かぶりに哲学の道を歩いたのだが…

なんか今月は、妙に忙しくて、日記を書くのもままならず…。
先々月から先月にかけて割り込んできたイレギュラーの大バカヤロウな仕事のせいで、今、しわ寄せが来てるんですわ。
しかも、息抜き&気分転換にはじめた相方さんのサイトのデザイン・リニューアルがおもしろくなってしまって、そっちにも深入り中…。いや、そんなことをやってる場合じゃないんですけどね。まあ、かくも人生は、ままなりませんな。

さて、そんな折り、こないだの日曜日にですな、銀閣寺から南禅寺にかけて、いくつかのお寺さんを参りながら、哲学の道を歩いてきたのですよ。
といっても、いつもように相方さんが同行しているわけではなくて、オレをとりまくご一行さまは、妙齢の、トウの過ぎたオバァばかりが20人強(笑)
いろいろとわけあって、とある婦人会のご旅行を引率するハメになってしまったのですよ。

ま、その顛末と詳細はここに書くには問題がありすぎるので省くとして、今回は、普通に京都の神社仏閣巡り日記を。

思い起こせば、京都の神社仏閣を巡るスタンプラリーは、たしか、南禅寺から哲学の道を北上して銀閣寺に至るルートを歩いたのが、最初だったのでした。
それが7年か8年か前のこと。
そんときに見た銀閣寺のあまりのしょぼさが目に焼きついているせいもあって、今さら銀閣寺なんてどーでもいいんです、本当は。


えーっとね、肝心要の観音殿(銀閣)がね、しょぼいんですよ。建設当時に銀が塗られていたのかどうかについて諸説あるとして、すくなくとも漆は塗られていたのははっきりしているんだから、それくらいは修復すればいいのに、と思います。まさか、敗者のモニュメントってわけでもないでしょうに。観光用の写真じゃ、そこそこ見栄えがするように撮影してますが、実物はね、ただのボロ屋ですからね(笑) あんなの、ほんとにどーでもいい。
ただ、ここには銀閣以外に見どころがいくつかありまして、今回、オレとしてはそっちをメインに見てました。
ここは、やっぱり庭ですね。庭に尽きると思います。
まず、銀沙灘。花崗岩が風化した白川砂を使って、湖面の波打つさざ波が表現されているのですが、はっきりいって日本美術史上に残る前代未聞のオブジェだと思いますよ。
禅の精神である極限までの抽象化でもなく、自然の模倣でもない。入口までの銀閣垣といい、とっても人工的な匂いのするオブジェなのですが、それにしても異様な迫力があります。
むかし、写真で、月明かりに照らされる銀沙灘を見たことがあるんですが、それはそれは幻想的な風景でして。だから、一度はナマでそいつを見たいと思ってるんですが、銀閣は夜間拝観をやってないんですよね。なんとかならんのかな…。



銀閣の庭は、この銀沙灘からはじまって、池と池を包むようにして背後にある小山を縫って歩くように設計されているのですが、このプロセスは、わび・さびそのもの。山茶花があり椿があり紅葉があり、南天がある。いかにも、という風情があります。京都と聞いて一般の人が思い浮かべるイメージは、ここに集約されているといってもいいかもしれません。

ただ、これはもうどうしようもないですが、人が多すぎですわ。
人が多すぎると、ところかまわずおしゃべりに夢中になる集団はどこにでも現れますから、もう、風情も鑑賞もへったくれもありません。それさえ解消されるのなら、年に1度くらいは訪れてもいいんですけどね。


で、次に行ったのが、銀閣寺から哲学の道を南下してしばらく歩いたところにある法然院




山寺になっていて、いいお寺さんなんです。ここの本堂から庭を眺める濡れ縁で、まだ無名だったころのつじあやのちゃんが、よくウクレレを弾いてました。そういう、ノンビリした雰囲気を堪能出来る、オアシス的な場所なんですよ。なんですが…。

さすが、哲学の道のすぐそばにあるだけのことはありますわ。それにくわえて日曜日。もうね、ここもやはり、わびもさびもへったくれもなにもないですよ。
雑踏とおしゃべりで、全部、台無し。やっぱ、お寺さんは日曜に来るもんじゃないですわ。
ところでここの住職さん、結構、メディアに出てますね。境内でライブやったり、そういうのがお好きみたいで。進歩派っていえばいいのかな。今回も、ある画家の油絵展が境内で行なわれてました。
えーっと、山門をくぐってすぐのところに、銀閣の銀沙灘をもじった白い盛り砂がありました(笑) ご丁寧に波模様まで真似たうえに、紅葉の絵まであしらう念の入れよう(笑) そこまでやると、進歩派でもなんでもなくて、単なる商売人ですわ(笑)

ま、法然さんはどう思っているのか知りませんが、時代を経ると、いろいろあります。
ちなみにここ、庭を観るだけなら、拝観料がいらないんですよね。山門をくぐるとすぐに拝観料を徴収するのが一般的ですが、ここは、本堂に入らないかぎり、無料。善意に解釈してもいいんですが、イベントやって儲けたり、檀家で儲けたりしてるんでしょうか?(笑)

最後に行ったのが、安楽寺



これも、法然院から哲学の道を少し下ったところにあるのですが、ここ、アタリでしたわ。
普段、一般公開してないお寺さんです。なので、あんまり知られてないんでしょうね。今回まわったお寺さんのなかで、唯一、閑散としてました。
山門に至るまでの道は、両脇を紅葉が彩っていて(…って、オレたちが行った時期は紅葉に早すぎるので、まだ青々としてましたが)、絶妙のわびとさびの雰囲気を醸し出してます。いや、まじでここはいいです。
そう思っていたら、けっこう、商業用にその写真が使われているのでした。どーりで見覚えがあると思った。
でも、普段は参拝付加のお寺。なので、この時期、一般公開されていても、あんまり人が来てないです。普通、こういう場合は特別公開となるので、人がわんさと来るもんですが、ここはなぜか閑散としてます。あんまり宣伝してないんでしょう。
あ、でも、夏の風物詩でもある、中風マジナイの鹿ヶ谷カボチャ(瓢箪型のカボチャですね)の炊き出しは、このお寺さんで行なわれてますから、知ってる人は知ってるんでしょうね。

松虫姫と鈴虫姫の出家物語など、いろいろと興味深い縁起を持っているお寺さんではあるのですが、それについてはサイトを参照していただくとして、ここは庭がいいですね。
本堂の奥から見る、障子戸に切り取られた庭は、もう、一幅の絵です。椿が全面に配されている枯山水の庭なのですが、今の時期でもじゅうぶんに楽しめます。千両や山茶花が咲き乱れていて、何時間でも眺めていられます。

ま、それでも悲しき引率者の身。オバァの面倒見てばっかりで、そんなゆとりはこれっぽっちもありませんでしたが。ここは次回、もっかいゆっくりと攻めます。問題は、次の公開を見逃さんことですわ。


それにしても…、
哲学の道は、もう、どうしようもないですな。人が多すぎ。その人を当て込んだ出店も多すぎ。
疏水沿いを歩きながら思索を巡らせた西田幾多郎は、もはや、ここにはいません。

2006年11月5日日曜日

哀悼 白川静大兄


http://www.kenmin-fukui.co.jp/00/fki/20061102/lcl_____fki_____008.shtml

先日、10月30日、白川静大兄が96歳で天に召されたとの報を耳にしたとき、少しですが、いい知れぬ喪失感を感じました。

そして、若くして大兄の近しいところで過ごされた経験をお持ちのマイミクさん、久モさんは、この事態をどう受け止められるのだろうか、という、どちらかといえば下衆な部類に入ることに関心の目が移っていったのが、昨日、一昨日あたりのことです。

でも、一向に、それらしい日記がアップされてこない。
それとなく遠まわしに催促をしてみたら、思われるところ膨大にあるであろう心の裡のなかから、いくつかの断片を抜き出し、静謐で透明な文章を書かれたのでした。


それをつらつらと拝見しながら、オレは下衆だなあと思ったわけです。
書かれないのには、やはりそれなりの理由があったのでした。
考えるまでもなく、久モさんは、喪に服し、静かに泣いていたのでした。
書いて、誰かに見せびらかすことではない。
そこに考えが及ばず、久モさんはなにを思い…、と、遠まわしではありますが催促までしてしまったオレは、やっぱり下衆です。久モさん、ゴメンナサイ。

甲骨文字や金文などの文字を研究し、漢字の成り立ちについて、それまでの通説を180度引っくり返してしまった大兄の偉大な業績について、ここで書きたいのではありません。
その業績と、それを受け取ったひとりがどのように影響を受けていったのかということについての断片は、久モさんの上記日記に書かれています。

しかし、大兄の業績もさることながら、おなじくらいの畏怖を感じるのは、大兄の、モノを知り尽くすことへの欲求、執念のようなものです。

1910年、福井市内の洋服屋に生まれ、順化尋常小学校。
13歳に大阪に移り、大阪の法律事務所に住み込みで働きながら夜間学校に通う。
立命館中学教諭をしながら立命館大法文学部漢文学科を卒業。
同大助教授などを経て、1954年から教授を務めた。文学博士。
2005年、印税5000万円を寄付し、立命館大内に「白川静記念東洋文字文化研究所」を設立、名誉研究所長に就任。

この、大幅に省略された略歴だけを見ても、人間が持つ、知るということへの欲求の際限のなさが、わかるかと思います。

高橋和己が全共闘時代の大学紛争の風景について書いた小説のなかに、こんな挿話があります。
大学が次々と学生によって占拠されていくなか、S教授は、「オレの研究を邪魔する権利は誰にもない」と言い放ち、ひとり研究室に閉じこもって、紛争などどこ吹く風で、研究に没頭されていた。

オレは、世知に拘泥されることなく、頑固に自分のペースを崩さない人が大好きです。その、信念が好きなんです。
無頼とは、己のみを頼りにするということですが、自らに頼む、という姿勢を貫き通すことの困難さは、誰もが大兄のように出来ないをみれば、明らかです。

開高健がベトナム戦争に従軍して書いた渾身のレポートで、一番印象に残っているのは、銃撃戦が行なわれているさなかであっても、今日も釣りに出かけ、河岸から釣り糸を垂らす老人の話でした。

オレは、そういう自由が好きです。

大兄は、甲骨文や金文を含め、3000年を超える歳月のあいだに生まれたありとあらゆる資料を、自由自在に操って考察します。頭のなかは、常に、3000年のあいだを行ったり来たりしている。こんな人は、大兄を除いて、人類すべての歴史を眺めわたしてみても、稀なのではないですか。
殷や周についての学問的知識を伝授するだけでなく、そこから、今日の世界を深く広々と照射するところが、大兄の、なにものにもとらわれない自由さの凄みだったように思います。

『字訓』『字統』『字通』に、お世話になった者として、哀悼の意を表します。


今日は、静かに小玉さんを聴いてます。


こだま和文 / レクイエム・ダブ

2006年11月4日土曜日

男はコンプリートを目指す!

日本KFC、MM地区に若返ったカーネルおじさんロゴ導入1号店 らしいです。


カーネル・サンダースおじさんといえば、85年の阪神タイガース20年ぶり優勝のとき(そのときまでオレは、優勝を知らない世代と呼ばれていたのです。ダメ虎ぶりを散々見てきました)、たしか、道頓堀にカーネル・サンダースおじさんもダイブさせられたんですよね。おじさんの意に反してのことでしょうけれども。

さて、オレの知り合いの家には、じつは、カーネル・サンダースおじさんがいます。無論(というのも変な話ですが)、おじさん自らやってきたのではなく、その知り合いが拉致してきたんですがね(笑)
というのは嘘で、買ったんだとか。どこで買ったんだか知らないですが、で、売ってるのかどうかもどう考えても首を傾げざるを得ないんですが、本人は、買った!と言い張る(笑)

こやつの家には、その他、ゲーセンにあった初期型のインベーダー・ゲーム、そのむかし薬局の店頭などに置いてあった、幼児用の象やらアニメのキャラやらに乗って遊ぶムーバーの遊戯具、散髪屋さんの店頭にある赤白青の3色が螺旋状にまわってるポール…、なんかしらんのですが、その手のモノがわんさと置いてあり、狭い部屋をさらに狭くしてるんですわ。あと、等身大のダースベイダーとか…。

なんでも、コンプリートせんと気がすまんらしいのですよ。コンプリートって、なにをどこまで集めたらコンプリートしたことになるのか、さっぱりわかりませんが(笑)

でも、数年前に、そいつらを元手にして、新大阪で店を開きましたわ。古物商ってことになるんでしょうけどね。

彼にかぎらず、男の子は、大体、コンプリートしたがる傾向にあるようです。
オレだって、京都の神社仏閣全制覇!とか、やってるし(笑)
完全制覇!に、ロマンを感じるんでしょうね。

ちっこいころは、一升ビンのキャップやら牛乳瓶のキャップやらをコンプリートするのが流行りました。
牛乳瓶は、給食のときに、みんなのを片っ端から奪って。
一升ビンのキャップは、酒屋の裏口に積んであるケースをあさって。

切手やコインとか、そういう正統派のコンプリートを目指している人って、オレの周りにはいませんでした。
JRの全路線完全乗車。
アクリルガッシュの絵具全色制覇。
…そんなのばっかり。

で、みんな、夢は博物館の開設なんですよね(笑)
ま、それで博物館なんて出来た試しはないですが。だから、知り合いの古物商開店なんて、かなりの快挙の部類に入りますね。食えてるのかどうか、知らないけれども(笑)


で、カーネルおじさん、ロゴが若返ったということは、あの、等身大人形も若返るんでしょうかね?
そうなったらそうなったで、またまたどこか怪しい市場で取引されるんでしょうか?


そうそう、フランク・ザッパは1回のライブを材料にアルバムを4枚も5枚も平気でつくっちゃう人でしたから、公式盤だけでも何枚あるのやら、ってかんじです。彼の全アルバムの解説だけで、電話帳みたいな本が出てますからね。海賊盤も含めて、完全コンプリートを目指す☆ これが、オレの、老後のコンプリート目標です。


Frank Zappa / Bobby Brown

2006年11月3日金曜日

ジャグ・バンドに首ったけ☆


昨日、寧楊さんから、Travis Trittなんちゅう激渋ミュージシャンのこれまた激渋PVを紹介していただき、久々にジャグ・バンドがマイブームになりそうな今日この頃のルイスです。

いや、Travis Tricttは、ジャグ・バンドではないんですけどね。ま、アーリー・アメリカン・ミュージック繋がりということで。

ジャグ・バンドといっても、あんまり馴染みがないでしょうが、といって説明するのもちょっと難しいジャンルではあります。

はい、今日はマニアックです☆

えーっと、
なんと言えばいいのか。
ほら、楽器って、いざ買うとなると高いじゃないですか。ほいで、楽器の代わりに、身近にある日用品を楽器に見立てて、音を出し、それで演奏してしまおう、と、そーゆーことが原型になってるんですわ。
だから、ジャグ・バンドのジャグっていうのは、アメリカで使われている業務用の薬瓶のことでして、これを使ったから、ジャグ・バンド。
ひと抱えもある大きな薬瓶の口のところにクチビルをあてて、笛を吹く要領で吹いてみれば、内部で共鳴して低音が出るんですよ。ベースやチューバを買うカネのなかった黒人が考えた生活の知恵ですね。
あと、洗濯板を使ったり、スプーンを2本組み合わせて打楽器にしたり…。

要するに手づくり楽器集団がジャグ・バンドということになるんですが、
みんながこれをやるもんだから、音楽的にはごった煮なんですね。
オリジナルは黒人なんですが、インテリ白人がそれを発見して、アメリカでは1920年代に大流行、60年代に一瞬リバイバルがあり、その後イギリスにも飛び火…、ってかんじでひろがっていくんですが、といっても手法の話なので、その音楽性は、そのときどき、場面場面で、好きなように好きにやるというかんじで。

それが、いつしかひとつのジャンルとなって、楽器を変なふうに演奏して、笑わせる、でも、基本はカントリー。なので、なぜか必須楽器はバンジョー。で、なぜかバカ上手☆ というジャンルになってしまったのでした。

日本だと、今、バンバンバザールとかリトル・ファッツなんかがこの系譜を継いでますね。ちなみに、高田渡で有名な武蔵野たんぽぽ団は、日本で最初のジャグ・バンドだったとオレは踏んでおりますが。

ほいで、ジャグ・バンドの魅力は、やはり楽器の運動会というかドンチャン騒ぎのようなかんじで、愉快痛快に演奏してくれるところにあるのですよ。瓶や洗濯板(今はそれを使わなくてもジャグ・バンドなんだけど)をいくら使おうとも、お通夜のようなどよ~んとした演奏は断じてジャグバンドとはいえんのです。これはある種、東欧ジプシー・ブラスのバンドに通じるもんがあります☆

そんなわけで、本日聴いていたのが、アサイラム・ストリート・スパンカーズ。
ザクザク正確に刻まれるギター・リズム、バッチリなうえに楽器演奏のテクニックも達者で言うことなし。それと、わけのわからんパワーを放つボーカル(笑) 結構いいかんじのエンターテイメントとアレンジ、そして雰囲気を提供してくれるのですよ。

5、6年前の初来日のときに観た彼らのステージは、オレのなかでは伝説コーナーに収まってますから(笑)

で、さっきちょっと調べてみたら、今年、来日してやんの! しかも、もうツアーが終わってる(笑)
惜しいことをしましたわ。
ちなみに、マイミクさんの眠眠さんが行かれた狭山のフェスにも出てた模様。眠眠さん、観た?


本日の1枚:
『サイド・ショウ』
アサイラム・ストリート・スパンカーズ / サイド・ショウ

2006年11月2日木曜日

1年☆


ちょうど、昨年の今日、11月2日からmixiの日記を書きはじめたのでした。それから、丸1年が経ちました。

atricotさん誘われてmixiに入会したのが、10月の初め。最初は日記を書かずに、いろんなコミュを覗いたり、いろんな人の日記を拝見したりしてました。
売文屋なので日記を書けといわれたらなんぼでも書けるんですが、なんかね、信じてなかったんですよ。
2ちゃんねるもそれほど見るほうではなかったし、いろんなサイトの掲示板も、まず書き込みなんてしない人間ですから。そもそも、知らない人同士、顔も見えない人同士が、web上でまともな交流なんて出来るのか?って思ってました。

だからね、最初は、興味があるコミュを検索して、覗いてばっかりだったんですよ。
天満在住で天満と天神橋筋商店街が好きだから、そういうコミュ。
フィッシュマンズが好きだから、フィッシュマンズのファンが集ってるコミュ。
mac使いだから、macの情報交換してるコミュ。
京都が好きだから、京都情報が飛び交ってるコミュ。

多くても数百人、ほとんどが数十人規模のコミュです。
でね、なんかいいかんじで盛り上がってるんですよね。オレもたいがいマニアックですが、世のなかにはオレ同様にマニアックな人もたくさんいて、オレの知らないようなことをご存知の方が、これまたたくさんいらっしゃるんですよ。
しかも、どーやら、皆が皆、顔見知りってわけでもなさそうで。
それで、これは楽しそうだな、って思って。ちょこちょこ書き込みなんざするようになって。

でも、オレは40歳で、周りでmixiをやってる人なんていなくて、最初は誰もマイミクさんなんていなかったんですね。

でも、検索かけて、同年代の人とか、おなじ趣味の人とか探して、コミュの人にも声かけて、そーやって少しずつマイミクさんを増やしていったんです。
初期のころは、いきなりマイミク申請して、「マイミクになれや~」って押しかけてました(笑) 1年前あたりにマイミクになってくださった皆さん、その節は、いきなりですんませんでしたm(__)m

そっからかな、日記を書くようになったのは。

ありがたいことにね、素敵な人たちばっかりです。
音楽の話を書けば、じゃこんな音楽は?って返してくれる人がいて。
天満のお店や京都のお寺の話を書けば、こーゆーのもあるよ、と返してくれる人がいて。
晩ご飯のメニューが思い浮かびません!と書けば、レシピを教えてくださる人がいて。
サッカーの話を書けば、あの試合はよかったよね!と返してくれる人がいて。
あそこのオバァがね、と書けば、ウチのオバァもさ!と話を転がしてくれる人がいて。
あのコミュがね、と書けば、どんなんどんなん?と興味津々の人がいて。
読書の話で盛り上がったり、グチ言いあったり。
マイミクさんがそのまたマイミクさんを紹介してくれたり。

そうやって、話は転がっていく一方です。輪が広がっていく一方です。

mixiもネットだから、顔が見えません。でもね、こうやって毎日のように触れ合ってると、その人となりがわかってきます。リアルで付き合うのと、そう変わらない。
よくネチケットという言葉が飛び交いますけど、そんなの、リアルで付き合う場合だっておなじことだし。

この年になると、利害関係なしで誰かと知り合う機会は、滅多にありません。
でも、なんの利害関係もない、なにも気にせずに言いたいことを言いあえる関係なんてね、滅多につくれないんですよ。
それがmixiだといっぱいつくれちゃう。
これ、すごいことだと実感してます。
mixiで知り合って、実際にお会いした人も何人かいます。
それまでに散々mixiで言葉を交わしてるから、会っても、初対面ってかんじじゃないんですよね。
あれ、不思議ですね。なんて言えばいいんですか? 「初めまして」でもないし、「お久しぶり~」でもないし(笑)

ネットに詳しい人から見れば、毎日書いた日記がバックナンバーとして残っていって、それを見にきてくれる人が毎日何人もいて、コメントもついて、それってすごいコンテンツだよ!って、言ってくれました。
上手くやると、カネになります。でも、換金出来ない財産が、そこにはいっぱい詰まってるんですね。換金出来ない財産こそが得難い財産だから、それを大切にしていきたいと思っています。

今日、また新しくマイミクさんになってくれた人がいます。
増えたり減ったりしているけれども、今、52人です。

hit数は、今現在、23691hitになりました。
ありがとうございます。


一番最初に書いた日記は、オレの大好きな大好きなミュージシャン、仲井戸“チャボ”麗市さんについてでした。
あの頃はYouTubuがなかったので、動画のリンクを貼ることが出来ませんでした。
今回、貼っておきますので、興味がありましたら、オレが世界で一番好きなミュージシャンの音楽を聞いてみてください。彼の大好きな、京都は磔磔でのライブ映像です。


本日の1枚:
『DADA』
仲井戸“チャボ”麗市 / 今夜R&Bを

2006年11月1日水曜日

英語よりも公共道徳を学ぶほうが先


我が家は市場の真上にあるんですが、真南隣には、インターナショナル幼稚園というのがありまして。ん? インターナショナル・キンダーランドやったかな? スクールやったかな? 相変わらず適当な記憶で書いてますが、ようするに、外国人のお子がいっぱい通園していて、先生というか保母さんは皆外国人で、園内の公用語は英語で、日本語はまったく話されていないという、異国の空間が、あるんですよ。

出来たのが、1年前。
このあたりの地域は韓国人、中国人も多いですから、最初はそうした人たち向けの保育施設かいなと思ってたんですが、どーやらそんなことはなくて、入園しているのはパツキン・碧眼のアングロサクソン系ばっかり。オッシャレーな香りをブンブンに振りまいてくれてます。

ま、それはよろしい。

よろしいが、天満みたいな下町にアメリカン・スクールなんかつくっても仕方ないやろ!と思ってたら、パツキン・碧眼のお子らに混じってですな、結構な数の黒髪、大和男児・撫子園児もいてるんですわ。

そいつらがね、こんなところに!というような下町のゴチャゴチャした路地を、迷惑顧みずに車走らせてやって来る親の車に乗ってね、送迎されてるんですわ。

0歳児からの教育の一環か?
3歳児からの英語か?

親、必死なんでしょうね。
これからの時代、英語くらいは、ってことですか。
初日の知らないときならいざ知らず、こんな狭い路地に毎日毎日車で乗りつけてくる連中の公共性のなさから容易に推測出来ますが、幼いうちから英語を身につけさせて、その利点はなにで弊害はなにで、ってことなんて腑分けして考えてないんでしょうね。
教育産業から広告出稿してもらって書かれた記事もどき広告かなにかに感化され、また周囲の教育熱にも煽られ、盲目的に、英語くらいは!ってとこですかね。あたしゃ、お子の英語よりもその親に公共道徳を身につけさせることのほうが、先決だと思いますが。

ということもさることながら、オレは、日本語も覚束ないうちに英語を習うことはないと思いますよ。

言葉というのは、所詮は記号でしかないわけですが、たとえば、政治について考えるとき、そういう言葉を知っていないと、考えることが出来ません。
今、核保有の是非についての議論が勃発する気配にありますが、「核」「非核三原則」「集団的自衛権」といった言葉を知らない人にとっては、チンプンカンプンです。
どのような思考であれ、日本語を母語とし、日本語を日常的に使う日本人であれば、すべて日本語で物事を考え、理解します。
「非核三原則」という言葉を知らなければ、その人は、日本の核保有問題について考えることはない、ということです。

オレは印刷やwebにかかわる仕事をしていますが、業界の専門用語、「校正」「青焼き」(←古い!)「歯送り」(←これも古っ!)といった言葉を知らない業界の外にいる人は、あたりまえのことですが、言葉を知らない以上、その概念も知りません。

ああ、やっと言葉が見つかった。
その「言葉」を知らないということは、その「概念」を知らないということです。

高校生にもなれば、環境問題について一家言持つ人もいるでしょう。
「オゾン層」「温暖化」「水質汚染」…、そうした言葉を知り、言葉の意味を知ることで、はじめて、そうした問題について自分なりの意見を持つようにもなります。
環境問題について、幼稚園児と話しあってみようとは、誰も思わないでしょう。
誰しも、幼稚園児が、そうした言葉を知っているとも、言葉の意味を知っているとも、思わないからです。

つまりね、
自分が知っている言葉以上の概念や考えを、人は持つことが出来ないんです。

というようなことをつらつらと考えたのは、22歳のとき、必要に迫られてスペイン語を勉強していたときでした。
勉強すればするほど、自分が日本語をいかに知らないかということに、気づかされるんですよ。

こないだ時代祭に行ったので、それを例に引きますが、「十二単」という言葉があります。あの、豪華絢爛な衣装のことですね。日本語にしかない言葉です。ひとことでスペイン語に置き換えるのは不可能です。だから、説明的なフレーズを宛てるしかないんですが、その際、「十二単」というものの概念を日本語できっちりと理解しておかないと、翻訳出来ません。「宮中にいる女性が儀式の際に着る衣装」とでも説明するしかないのでしょうが、それとて、概念をきっちりと日本語で理解しておかなければ、他言語に翻訳することなど、到底不可能です。

だから、たとえ世界中に溢れている概念でも、その人がその言葉を知らなければ、その人にとっては、その概念は存在しないもおなじってことです。

で、幼児のうちから英語を学習させるということ。
日本語も覚束ないうちに?
母語が日本である以上、頭のなかは、日本語です。
なにごとも、日本語で考えます。
でも、その日本語が未成熟だったら? 英語も未熟なままですね。
日本語で深く物事を考えられるようになって初めて、英語でも同様のことが出来ます。
「集団的自衛権」という日本語を知らない人に、それに該当する英語を知る術はないんです。

帰国子女のダメな例は、そこですね。
どの言語も深く習得していないから、思考が浅いんです。
母語が覚束ないうちに外国語を習得することの弊害は、まさにそれですね。

公共道徳のない親を持った子が、公共道徳という日本語、概念を知らずして、いくら英語を学んだところで、それに該当する英語を理解する術はありません。

オレは、スペイン語を勉強したのが22歳でよかったと思ってます。
その年齢なりの日本語を理解していたから、同様のレベルのスペイン語を習得することが出来ました。
語学は早いうちからとはいいますが、自分の経験に即していうと、それは誇大広告の類いです。
語学の入口は、ひたすら覚えることですが、それは集中力があれば出来ることです。集中力を最大限に発揮するのには、強力な動機が必要ですから、それがあれば、つまり、必要に駆られる強力ななにかがあれば、出来ます。
24時間スペイン語に囲まれている環境と、寝る時間以外のすべての時間をテキストと向き合う集中力があれば、半年で不自由なく使いこなせるようになりますから。

もっとも、幼児期から外国語を学ぶ利点もそれなりにあるのですが、かなり長くなってきたので、それはまたの機会にでも。