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2008年1月22日火曜日

『スーパーサイズ・ミー』




さて、恐るべき人体実験ドキュメンタリー作品『スーパーサイズ・ミー』を、最近、DVDで観てしまいました。といっても、2004年の作品だけれども。

タイトルを直訳すると、「オレを巨大にしてくれ!」となりますな☆ なにをでっかくするのか?(笑)
ま、ブラックでシュールなドキュメンタリーですわ。

ある日、テレビでニュースを観ていた映像作家のモーガン・スパーロックは、太ったのはハンバーガーのせい!と、マクドナルド社を相手取り訴訟を起こした2人の肥満少女の報道に目をとめます。そしてその報道から、最高で最悪なアイデア☆を思いつくのでした。
それは、1ヶ月間ずっと、1日3食、ファストフード以外を食べない人体実験を記録する!というもの。しかも、その被験者は彼自身。で、この実験に選ばれたファストフード企業は、我らがマクドナルド社です。訴えられるぞ(笑)

モーガンは言うのです。
本作は、肥満と健康問題、そしてファストフードの世界を巡る、ある男の旅である。アメリカのライフ・スタイルとその影響力(これからを担う子供たちや、全世界にまで及ぶ)を探る調査だ!
そんなに栄養があってヘルシーならば30日間食べ続けても身体に害はないだろうと思い、だったら食べてやろうと、閃いてしまったんだ!
毎日、マクドナルドで食事なんて、ガキの頃の夢が叶ったみたいだ!

4人にひとりが毎日ファストフード店を訪れ、子供の半分、成人の60%以上(約1億人)が肥満、年間40万人以上が肥満による糖尿病や心臓麻痺で死亡しているアメリカ。そして、この四半世紀のあいだに肥満の子供が一気に倍増し、恐るべきことに、2000年に生まれた子供の3人にひとりが、将来糖尿病になると考えられているという…。

自らの身体を実験台にして、この人類史史上類を見ない恐るべき政治的食文化状況に切り込むモーガンはですな、無謀な自己人体実験と平行して、学校給食の裏側、食品業界の闇、企業の宣伝戦略、含有成分にみる中毒性などなどを、次々と明らかにしていくのですよ。だから、訴えられるぞ!(笑)
この1ヶ月にわたる最高で最悪な闘いの記録は、現代の麻薬=ファストフード文化を再考する最後のチャンスを、オレたちに与えてくれていまする。まさに、身体を張った決死の闘いですわ。結末がね、なかなか哀れなのですよ。。

「この映画を作ったそもそもの目的は、これを観た方々に改めて食生活を見直してもらうことだったんだ。でも、それ以上の反応があり、親たちが子供や家族の食事に気をつけるようになったり、子供のお手本となるように自らの食べ物にも気を配るようになったり、学校給食を見直す動きが出てきたりと広がっていった。これはまったく予想外の大反響だったよ」(モーガン・スパーロック)

とまあ、彼は、インタビューで語っているのだけれども、果たしてどうですかね?
オレは、マクドナルドでファストフードを食らってる人口って、全然減ってないと思うんですけどね。

さて、解決の方法? いたって簡単。買わなければいいのだ!


オレはね、旅をしていたころ、アジアからヨーロッパに抜けたばっかりのギリシャでの、あまりの宿代の高さに閉口して、駅のベンチに寝袋を敷いて寝ていたのですよ。
それで寝床は確保出来ても、洗濯物はたまっていきますわな。んで、洗濯をしようと思って、マクドのトイレに駆け込んで、ジャブジャブ洗濯してたらさ、店員に、出ていけ!と。。。
それ以来、マクドはオレの敵ですねん☆

本日の1枚:
『The Widow』
The Mars Volta

2007年12月4日火曜日

プニュエルの『嵐が丘』にフラメンコを重ねてみる




「あの、ヒースクリフですよ。覚えてらっしゃいますでしょう。ご主人。アーンショー家にいたあの人です」
「なんだと! あのジプシーが…。あの野良働きの小僧が帰ってきたんだって?」
「しっ! あの人のことをジプシーだの野良働きだのとおっしゃってはいけませんよ、ご主人」

行間からフラメンコの音楽が聞こえてきそうなこの文章は、エミリー・ブロンテの名作『嵐が丘』の一節です。
物語の舞台は、いうまでもなくイングランド、ヨークシャー地方の荒野です。でも、これを、スペインのアンダルシアに置き換えても特に違和感はなくて、むしろそのほうが似つかわしいのでは、とすら思ってしまいます。

ロマ(ジプシー)という存在がどれほど蔑視されていたか、スペインや東欧ではなくイングランドで書かれたこの物語にまでこのような記述が見られることからも、察してあまりありますな。

『嵐が丘』は差別された者の反逆を描いた作品だし、一般的には、西欧キリスト教社会に対するアンチテーゼだと解釈されると思うんだけれども、ロマ(ジプシー)の特異な民族性から発生した悲劇だという観点を重ねあわせるべきだと、オレは思います。

ヒロインの悲劇は、幼なじみのロマ(ジプシー)の青年に、「常にあたしの心のなかにある」「あたし自身として」とまで一体感を抱きつつも、家柄や身分を保証された裕福な家庭の男を選ぶところからはじまります。
キメのセリフは…、
「あまりに品が悪すぎて、いくらなんでもヒースクリフとは結婚出来ないわ」。

でもこれは、弱き者、汝の名は…、という次元の問題ではなくて、西欧キリスト教社会がロマ(ジプシー)を拒否した一例として考えるのなら、このイングランドの小説とフラメンコのあいだにも、ひとつの絆が見えてきます。
そういうふうに捉えて初めて、ルイス・ブニュエルが描いた『嵐が丘』の、それを描くに至った動機が、なんとなく理解出来るような気がします。

今日、仕事でですが、ルイス・ブニュエルの『嵐が丘』を観たのでした。
『嵐が丘』はさまざまな監督によって映画化されてますが、オレは、ブニュエルの『嵐が丘』が一番好きです。

『ビリディアナ』、『小間使いの日誌』、『昼顔』…、ブニュエルは一貫して婦女子さんの心のなかに潜む背徳的な魔性を描き続けたけれども、ひょっとしたら、その原点にあるのは、ロマ(ジプシー)の青年の血の魅力に感染し、やがて安定した日常との対立に引き裂かれて滅んでいった、『嵐が丘』のヒロインだったようにも思えます。

ブニュエルがその小説の映画化を決意したとき、当然、母国スペインでも目撃することが出来たであろう無数の「嵐が丘」に、思いを寄せなかったはずがありません。

さらに、そこに、ブニュエル自身の心理が投影されます。
シュールレアリズムの古典でもある『アンダルシアの犬』をサルバドール・ダリとともにつくったブニュエルも、その芸術性ほどに進歩的な人間ではありませんでした。
自分の息子が結婚したいと連れてきた婦女子さんが処女ではなかったと知って、怒り狂って猛反対したというエピソードが残っていたりもします。
あの、貴婦人然とした人妻が売春婦に変身する『昼顔』のような傑作を生み出した人にして、プライベートでは、そのように振る舞う。

ただ、この強烈な二面性こそが、フラメンコの成立と発展を可能にしたスペインの感性だとも、いえます。
キリスト教の厳しい戒律を理性のうえでは受け入れつつも、抑えきれない自然発生的な血の騒ぎを素直に表現する神経回路の一端がフラメンコに繋がっていった、と、考えることも出来るのだから。

ロマ(ジプシー)は、行く先々で自分たちの独自のアートを開花させたけれども、フラメンコほど、地元の民衆の共感を得て定着した例は、珍しいです。世界を敵にまわしても自由であろうとする血を常にたぎらせながら、自らの民族内部には強固な掟を課す、その二律背反性が、光と影の対立と両立を理解するスペイン人の許容範囲にあったのでしょうな。

ルイス・ブニュエルに話を戻します。
その容姿が、フラメンコの神さま、エル・ファルコにどことなく似ているのは、つまらない偶然なのでしょうか。
映画作家としては最後の作品となった『欲望の曖昧な対象』に、フラメンコを踊るコンチータというセビージャ出身の婦女子さんを登場させていることを、どうしても思い出してしまいます。この婦女子さんにズブズブとはまり込んでいく初老の男が、谷崎文学的なデカダンさで、老境にしてなりふり構わず己の血のうずきに身をまかせるさまがね、なかなかいいのですよ。
そこに、フラメンコがあった、
ってかんじです。

『嵐が丘』から『欲望の曖昧な対象』にいたるブニュエルの映画人生に、揺れ動く彼の心の光と影を追うとき、『アンダルシアの犬』の冒頭、婦女子さんの眼球を切り裂くカミソリの刃に、フラメンコを感じます。

「現実の背後にある現実世界より一層現実的なるものを発見し掘り起こすこと」。
ブニュエルの『嵐が丘』を観ていると、シュールレアリズムの定義が、そのまま、フラメンコの定義のようにも、思えますな。


そんなわけで、本日はパコ・デ・ルシアのギターを。


Paco De Lucía / 『Entre dos aguas』

2007年11月11日日曜日

語らいなき衝突の世界 / 『永遠の語らい』

最近忙しくて逃げていたのだけれども、ついに逃げ切れなくなって、仕事でDVDのレビューを書かされるはめになりました。。。
今が、一番忙しいんですけれどもね(笑)

今回観たのは、2003年にポルトガル、フランス、イタリアの合作で製作されたマノエル・ド・オリヴィエラ近年の代表作『永遠の語らい』。

ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラの作品をまえにして、なにかを口にすることなど恐れ多いことではあるのですが、まあ、やってみます。

だいたい、このオジィ、1908年生まれの今年12月で99歳ですよ!シネマトグラフ100年の歴史を体現しているオッサンですからね。サイレント時代(!)に監督デビュー作『ドウロ河』(1931年)を発表して以来。ずーっと、今もって現役。世界最高齢現役監督であることは、ほぼ間違いないでしょうな。ほかに誰がいる?(笑)

老いてますます盛んとはいいますが、80歳を越えてからのオリヴェイラの多作ぶりは目を見張るものがあります。ほぼ年一作の驚異的ペースはここ10数年しっかりと守られていて、しかも一作ごとに作風が違い、現在も新作を製作中って話ですから、どんだけ絶倫か!っちゅーことですよ。
オレは映画製作とはまったく関係ないところで生きてますから、こういうオヤジがいることの幸福を遠慮なく享受しますけれども、若手の映画監督とか、たまらんと思いますよ。はよ引退するか死ぬかしてくれんことには、イスを明けわたしてもらわれへんわけですからね。

さて本作は、オリヴェイラが95歳(笑)のときに発表した、円熟(笑)の作品です。

ざくっと言ってしまうとですな、リスボン大学の歴史学者の母と7歳の娘が、インドにいるパイロットの父と会うために、各地の歴史遺産を観光しながら、地中海からスエズ運河を抜ける船旅に出る、というストーリーですわ。
んで、そこにあるのは、キリスト教世界から見た歴史の源流、神話時代への旅、あるいは、喜望峰経由で新インド航路の開拓を目指したバスコ・ダ・ガマへの目配せです。
オリヴェイラには、ポルトガル人として、現代社会を形作った大航海時代・植民地時代への自省があるのだな、と、感じさせる作品ですな。9.11のアメリカ同時多発テロ以降、より露になった文明衝突の当節に向き合った、オリヴェイラなりの回答だと、オレは見ました。

無骨な長まわしのカメラが捉えるのは、コミュニケーションの手段としての会話である語らいです。
前半の、ゆったりと進行する船旅、繰り返される近似した史跡来訪シーンは、観る者に独特な酩酊感を与えます。
ポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、ギリシャ、トルコと、地中海を東方へ抜ける航路は、そのまんま、西欧文明にとっての帰郷でもあるのですが、カトリックである毋とギリシャ正教神父との会話、トルコの大聖堂がモスクに変わった中世トルコの話などを興味深げに聞く娘は、道中で幾度となく毋に質問します。

どうして戦争をするの?
と。

そしてトルコを越えたあたりで、歴史学者の母によるキリスト教史観の解説は、トーンを落としはじめます。そう、そこはアラブ世界。すでに西欧歴史学者の目前には「過去」ではなく「現代」が横たわっているのでね。まさか、アラブ世界で、キリスト教史観を展開して、アラブを断罪するのは、危険である以前にナンセンスです。

話は、こんなかんじです。
2001年7月(9.11の寸前という設定ですね)、7歳の少女マリアは母親のローザと、インドのボンベイにいるパイロットの父親と会うために、地中海を巡る船旅に出発する。
同時にこの航路は、歴史学者のローザにとっては、本のなかでしか知り得なかった「歴史」への出会いでもあります。ポルト、マルセイユ、ポンペイの旧跡、アテネ、イスタンブール、エジプトのピラミッド…。キリスト教圏の人間にとって、ヨーロッパ文明を遡る、遥かなる時空の旅でもあるわけです。
ある種、自分探しの旅ですな。

ポルトガル大航海時代の全盛を伝えるバスコ・ダ・ガマ像にベレンの塔。
フランス革命を伝えるマルセイユでの会話。
火山の噴火によって滅びたイタリア・ナポリの古代都市ポンペイ。
古代ギリシャの神殿や円形劇場。
中世、地中海を席巻したイスラム教徒によってモスクにされたイスタンブール(コンスタンティノープル)の聖ソフィア大聖堂。
カナンの民によって建設されたエジプトのピラミッド……。
寄港地の史跡をまえに、ローザは、マリアにオデュッセウスの物語やローマ神話を語って聞かせるのだが、7歳のマリアにとっては理解不能な戦争の歴史が、そこにはあるわけです。

人間ってどうして戦争をするの?
と。

アラブ圏に入り、紅海を抜け、イエメンのアデンを出港した船上のとある夜。
マリアとローザはアメリカ人の船長と知り合い、夕食の席へ招かれます。そこに同席するのは、起業家のフランス人(カトリーヌ・ドヌーヴ)、元モデルのイタリア人(ステファニア・サンドレッリ)、女優で歌手のギリシャ人ヘレナ(イレーネ・パパス)といった、異国籍のセレブの婦女子さんたちです。彼女たちは、各々自国の言語で喋り、かろうじて会話を理解し合える関係です。テーブルには、キリスト教圏に住む者同士の(EU圏でもある)、言語の壁を越えた愛や人生の語らいがあったのですがね。

でも、オレたち観る者は、船上での多国籍な進歩的文化人たち(好人物たちでもありますが)の微笑ましい交流に、決定的に欠落していたものがなにかに、思いを巡らさざるをえません。
たとえば、
アラブ圏を通過する豪華客船の客人のほとんどが白人であったこと。なおかつ夕食に同席した多国籍な人々が、各々の文明・西欧史を象徴していたこと。ギリシャ人=古代文明、イタリア人=ローマ帝国、フランス人=神聖ローマ帝国・革命、アメリカ人=現代のバビロン、ポルトガル人=大航海時代…。
マリアが客室へ取りに戻った人形(船長がアデンで買ったプレゼント)がアラブ衣裳を纏っていたこと。アデンでは毋娘の史跡巡りがなかったこと。キリスト教圏の船旅では船外中心で、アラブ圏以降の船旅では船内中心であったこと、などなど……。

そう、夜の紅海をひた走る船上の西欧人たちに、真っ暗闇のアラブ世界はついぞ見い出せなかったのですね。
文明を語るテーブル(永遠の語らい)から排除されていた者たちは誰だったのか?
と、問いかけるオリヴェイラは、自省も込めて、西欧リベラルの寛大なる理解の限界を巧みに突いていて、それはオレたち日本人にとっても人ごとではないですな。なぜなら、日本にだって民族問題や文明の衝突はあるのだから。

また、物語の最終寄港地がアラビア半島最南端イエメンであることも示唆的です。
地理的に、ヨーロッパ思想のマージナルな限界点を暗示してもいる。オリヴィエラは、ここがヨーロッパの終焉だと言わんばかりです。
語らいなき衝突の世界(9.11以降浮上してきた世界)を憂える、老功なるメッセージが、本作には込められています。

静謐で豊穣な地中海の旅も、あまりに唐突な結末も、周到に敷き詰められた伏線のうえに成り立っていたことが、よくわかります。
本作は結末からはじまる映画ですね。1世紀を生きた巨匠の問いかけ、危急のメッセージが、そういう映画を撮らせたのでしょう。

これまである一定の方向に進んでいた西洋文明が、9.11のテロ以降、べつの方向に向かい出したのではないだろうかと思います。9.11は、今まで続いてきた西洋文明に終止符を打つものではなかったのか。太古、中近東やインド、ギリシャから複雑に歩んできた西洋文明が、べつのシステムにとって代わる。西洋諸国にとってそれは簡単なことではありません。そんなことを考えながら本作品のアイデアを思いつきました…。

オリヴィエラはそのように語り、また、次のようにも語っています。

観客が、映画を観ながら感情だけではなく理性も動員しながら参加出来るような作品にしていきたい。つまり観客の感情だけではなく理性をも納得させたい。そういった作品を撮りたいと思っています。
派手な作品であれば人は振り向きますが、それらには、じつは魅力もなければ深さもありません。観客はおそらくそのようなものに値しない。観客とはもっと素晴らしいものに値すると思うのです。私の映画が、観客になにかそれ以上のものを伝えられるものであってほしいですし、
そして、そこでまた観客が、それぞれのアイディアや考えを付け加えていけるような作品でありたい。そのために作品はシンプルでなければならないと思っています。

と。

100歳を目前にしてなお、オリヴェイラは世界を認識しようとします。もう、これ以上認識する必要がないほど、この作品は、なかなかに刺激的です。



たとえば、こういう映画を観たあとは、フランスの元祖トイ・パンクとでも言うべき、パスカル・コムラートを聴きたくなります。

本日の1枚:
『Russian Roulette』
Pascal Comelade

2007年8月24日金曜日

『私の小さな楽園』


最近、仕事でDVDを観ることが減っていたんですが、今日、久しぶりに観ましたですよ。
やっぱ、定期的に観ておかないと、いろんな感覚が鈍ってきますね。
映画を観る、音楽を聴く、物語を読む、美味いものを食べる、なにかに触れ合う、人と出会う…、インプットするのは、もちろんその行為自体に目的があって、それ以上でもそれ以下でもないんだけれども、でも、自分の感受性やバランス感覚の現在地を知る、いい機会にはなりますね。
むかしはこんなもんで泣かなかったのに、とか。

そんなわけで、今回観たのは、ブラジル映画の『私の小さな楽園』。2000年公開の映画ですわ。

この映画を観て、オレはやっぱり情けない男が描かれている映画がとっても好き、人間が讃歌されている映画がとっても好き、ということを再確認しましたです、はい。

本作の舞台、ブラジル北東部ノルデスチです。
ここは、アフリカからの奴隷が陸揚げされた拠点、バイーアはサルバドールを含むエリアで、ブラジル音楽の故郷でもありますね。あの、重層であり複雑なブラジル音楽の源泉は、この地でアフリカン・ブラックが陸揚げされ、リオの洗練を受けて、完成します。
この地のカーニバルを見に行ったことがあるけれども、リオのカーニバルがバカっぽく見えるくらいに、ブラック・テイストが溢れてて凄まじいカーニバルですわ。
サンバもボサノヴァも、この大地がなければ、どれほど薄っぺらくて味気ないものになっていたことか。

そんな故郷の、広陵とした剥き出しの大地と、どこまでも広がる青空が舞台の映画。人々が旱魃に苦しむ、極端に降雨が少ない乾燥地帯でもあります。リオのスラムの殺伐とした対極にあるのだけれども、ここもまた厳しい大地です。
そんな厳しい自然環境を舞台に、女主人公・ダルレーニのおおらかな積極思考が、希有な物語を産み出してます。

ひとりの婦女子さんに、彼女を愛する4人の男。
生活能力もあれば、人生を楽しむ術も知っている婦女子さんダルレーニと性格のバラバラな男4人が、ひとつ屋根の下、絶妙な距離を保ちながら共同生活するわけです。
けっしてベッピンさんとはいいがたいダルレーニ(だからいい!)なんだけれども、彼女の持つ逞しく、得もいわれぬ魅力に、男たちは次々とノックアウトされていきます。
ブラジル社会は、同時にマチスモ(男性優位思想)の色が濃い社会でもありますが、正にイスラム社会の一夫多妻の逆をゆく、ダルレーニの痛快な実話がもとになっている映画でして、ジルベルト・ジルの軽快な音に乗せて、このフェミニズム映画は、男たちのありようの本質に迫ります。
男たちは家とメシと肉体を捧げ、婦女子さんは愛を捧げる。あぶり出されてゆく人間の性のオルタナティブ・サイドに、常識は木っ端微塵に粉砕されていきますね。いまだ日本にもあまた棲息する家父長信者(特に婦女子さん!)には、まず理解出来ない映画なんじゃないですかね
原題の「EU TU ELES」は、ポルトガル語で「私、あなた、彼ら」。この、関係性!

さて、物語は、ダルレーニが結婚式を挙げるところからはじまります。
結婚式には新郎が現れない。そんな新郎に背を向け、妊婦のダルレーニは、馬車で都会へと旅立ちます。
それから3年の月日が流れ、男の子を抱いたダルレーニが村へ戻ってきます。彼女は、初老の頑固者オジアスから「家を提供するから結婚しよう」と持ちかけられ、あっさりと結婚するのですね。
でも、蓋を開けてみれば、指図するだけでまったく働かないオジアス。家事も仕事も女まかせのグータラ亭主は、日がな一日、ハンモックの上でラジオを聴いている家父長野郎だったのでした。

ダルレーニは、朝6時から夕方5時までさとうきび畑で太陽に灼かれる重労働。そして、家へ戻ると家事と夫のお相手が待っている。
でも、元来が楽天的な気性のブラジル女。鼻唄を歌いながら家事をこなし、夜にはちゃんとパブで踊ってたりもします。大地のおおらかさに太陽の明るさを合わせ持ったダルレーニの、笑顔がじつにいいですわ。

物語が動くのはここから!
ダルレーニの天真爛漫な逆襲がはじまります。
黒人ではないダルレーニとオジアスとのあいだに生まれたはずの子供は、何故か黒人なのですよ(笑)

さらにさらに、同居することになったオジアスの義理の従兄弟のセジーニョの優しさに惹かれ、情交。またもや妊娠し、当然パパはセジーニョですわ。
ただ、フェミニストのゼジーニョは、ダルレーニに代わって家事をこなし、彼女の働くさとうきび畑まで毎日嬉しそうに弁当を運ぶような男で、オジアスからいつも馬鹿にされながら、秘かにダルレーニとの愛を育むのでありました。

で、それだけで終わるような映画ではなくて、次に登場するのが、若い色気を発散させるイケメンのシロ。季節労働者の彼を同居させたのが運の尽きです。
セジーニョの不安は的中して、いつも通り弁当を届けた折に、さとうきび畑の茂みでシロとセックスするダルレーニを見てしまうのでありました。そしてまたもや父親の違う息子の誕生(笑)

もう、めちゃくちゃ☆
でもね、男たちによる錯綜する嫉妬と牽制を尻目に、一家の稼ぎ手のダルレーニは、男たち、息子たちを平等に愛しながら、暢気に逞しく生きていくのですよ(笑) わははは。

娼婦なのか天使なのか。はたまた宿命の女なのかビッチなのか。
どれも、外れてる。
だってさ、ダルレーニを必要としているのは、男たちのほうだからです。打算などこれっぽっちもないダルレーニの愛のカタチに、じつは、男たちこそが、「楽園」を見い出しています。

人間誰しも、自己の欠落した部分を他者に補完してもらうことによって、生きることが出来ます。だから、絶妙な4人のバランスが生んだ相互扶助に、因襲もクソもないですね。
結局、ダルレーニがいい女なのだ!ってことです。

この自由をゆく情熱の女ダルレーニを演じたのが、ヘジーナ・カセー。彼女の好演なしでは、本作の説得性もクソも、なかったでしょうね。

家父長的で人種の混ざり合いがあたりまえのブラジルにあって、メスティーソ(混血)のことや、貞操感の違うブラジル社会の背景は、ブラジルを知らない人にとっては、やや、理解しがたいものになっているかもしれません。
なにしろ、妻が、夫以外の男の子を次々に産み、それがみな夫に似ていない混血児。でも、最後には、混血の子供たちの出生届けをして、めでたしめでたしという展開ですから。
暴力を振るわないダメ親父、女の機能をフル活用する精力絶倫おばさん…、もう、抱腹絶倒☆

今や世界第10位の経済規模を誇るブラジルは、また世界一激しい所得差、貧富の差を抱える社会でもあります。
苛烈な暴力とドラッグの一方で、燦々と降り注ぐ太陽の国が、ブラジルです。
この落差は、まじめに向き合うと目眩を覚えるほどクラクラするものだけれども、この落差が焙り出すのは、じつは、目映いばかりの生の充溢ですね。

アジアでは、生きたい生きたい!と、叫ぶ人がたくさんいます。
キリスト教的価値観のヨーロッパでは、死にたくない!と叫んでいる映画がたくさんあります。
ブラジルは、南米大陸は、どちらでもあり、どちらでもないですね。

死ぬまで生きることを楽しむ!というかんじ。
かつてオレが乗ったタクシーの運ちゃんは、70歳だか80歳だかでしたが、そりゃ教会に行ってるときは神のことを考えるけれども、それ以外は寝ても覚めてもサンバのことばっかりだな、と、のたまってましたわ。

楽しんで生きることの達人だけが讃歌される。

この映画を観ていると、そういうブラジルのオジィ、オバァ、婦女子さんのことを思い出したりもしたのでした。
人は、燦々とした太陽を浴びていると、みな、そうなるのですかね?




『PALCO』 / Gilberto Gil

2007年7月4日水曜日

『アイデン&ティティ』


こないだ、深夜のテレビで、映画『アイデン&ティティ』をやってましてね。
これ、みうらじゅん原作のコミックもDVDも、見なきゃ見なきゃと思いながら、ずーっと見てなかった映画。録画して、やーっと見ました。

原作:みうらじゅん
監督:田口トモロヲ
脚本:官藤官九郎
音楽:白井良明、大友良英、遠藤賢司
出演:峯田和伸、中村獅童、大森南朗、麻生久美子、三上寛…

このメンツだけで、なにか、いろんなもんが保証されているような、とんでもないキャスティングですな。
ちなみに、チョイ役で、なにげに、大杉漣、ピエール瀧、浅野忠信、村上淳なんてところも出てます。

話はカンタンですよ。
バンドブーム吹き荒れる80年代後半の東京は高円寺が舞台。4人組のロック・バンドであるSpeed Wayも、ブームに乗ってメジャー・デビューを果たしたものの、その後はパっとしない活動が続き、メンバーの生活はなーんも変わらんまま。狭苦しいスタジオで練習し、居酒屋でロック談義に花を咲かせる日々ですわ。
で、理想家肌のギタリスト・中島(峯田和伸)は、売れる曲を書けと迫るボーカルのジョニー(中村獅童)と言い争うんだけれども、どうしてもいい曲が書けなくてね。
そんなとき、中島の枕元に、ロックの神さまであるところのボブ・ディランが現れ、中島はどんどん覚醒していく、というお話ですわ。

多彩な才能が集い、過ぎ去りし祝祭を回想する…、という触れ込みのだけれども、作品の印象は意外なほど正統派の青春映画です。熱病のようなブームの片隅で、自分を表現しようともがくロック青年の純粋さ、その裏側には、将来への不安や恋人とのすれ違いといった、誰もが共感出来る物語が転がってましてね。

ある夜、枕元に、ボブ・ディランが現れるんですよね。ロックの神さまね。
そいつがさ、悩める中島に、語りかけるんだけど、すべてハーモニカで語りかけるんですよね。ハーモニカを吹いているだけなんだけれども、ちゃんと言葉となって、メッセージを伴って、中島の耳に届くんです。
そのボブ・ディランは中島にしか見えなくて、つまり、本気で、ロックってなんだ?って思ってるやつにしか見えなくて、ロックを金儲けの道具にしたり、カッコつけだけのロックをやってるやつには、見えないんですよ。
で、
「やらなきゃならないことをやるだけだ。だから上手くいく」
って、ボブ・ディランは、シンプルな真理を伝えるんです。ハーモニカで、だけど(笑)

これ、もうひとりの自分だな。

オレにもね、16歳の誕生日の夜、寝てたら、部屋のドアを蹴破って、ズカズカ入ってきて、これ聴いてみ!って、1枚のレコードを差し出された経験があるんですよ。
そいつは、もうひとりのオレで、差し出されたレコードは、ジャニス・ジョプリンの『パール』だったんですけどね。
そのレコードにやられてね。その成れの果てが、今のオレですよ。
で、そんときからオレのなかに棲みついてるもうひとりのオレは、そんなんでいいのか?とか、そうそうその調子!とか、まあ、なにかあるたびに、オレの耳元でうるさく叫んでいるわけです。

みうらじゅんにとって、ボブ・ディランはそういう存在なんでしょうね。

そして、ジタバタしながらも少しずつ覚醒していく中島の役を、峯田クンは瑞々しい感性で演じきってます。
ミュージシャンって、演技の勉強なんてしたことないくせに、みんな、なぜか演技が上手いんですよね。
キヨシローにしても、泉谷にしても、鮎川誠にしても、ときどき芝居をするけれども、みんな上手いもん。

ロック小僧そのものという主演の峯田和伸と、終幕で神の真髄を聴かせるボブ・ディランの、世界に響きわたる彼らの切なく青臭い歌声は、じつに感動的だったなあ。純粋であることが難しくなった現代にあっても、この歌声は、なにかを語るに違いないですよ。

ラスト、峯田クンが暴走するライブは、完全に銀杏BOYZの峯田クンになってましたな。
というか、そうならなければ、この映画そのものが成立しないほど、この映画は、峯田クンの映画になっていた。もちろん、みうらじゅんの映画でもあったし、原作漫画が大好きな官藤官九郎の映画でもありました。

愛情がいっぱい詰まった映画だったな。
そういえば、滅多に原曲を貸し出さないボブ・ディランが、この映画には『ライク・ア・ローリング・ストーン』を提供してました。なにかが、通じたんでしょうな。

それにしても、あの、ロックの神さまであるところボブ・ディラン役は、誰がやっていたのだろうか?

調べてみたくて、公開当時の公式サイトに行ってみたら、なぜかアメリカのセックス・ショップのサイトに(笑)






『アイデン&ティティ 君がロック』
Speed Way

2007年6月17日日曜日

『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』


仕事で、今さらながらに、ゲンズブールの『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』を観るハメになったのですが、よく考えたら、ちゃんと観てなかったような気もして、ほいで、ちゃんと観てみたら、やっぱりちゃんと観ていないことが判明しました。

主人公の女は、ショート・カットにペチャパイの少年美、ジェーン・バーキン。で、監督・脚本・音楽が、セルジュ・ゲンズブール。
と来れば、当然これは、愛の物語以外にはありえませんな。

しかし、改めて観てみるとですな、本作における、ジェーン・バーキンは、目映いばかりの美しさを誇ってます。いわゆる、通俗的なエロチシズムからはほど遠いはずなんですけどね。
俳優の輝きが監督の愛によって磨き出される好例は映画の世界に数多ありますが、バーキンが単にゲンズブールのバービー人形であったならば、こうはいきまへん。ここにあるのは、彼女が後年、『ラ・ピラート』や『カンフー・マスター』でみせた円熟名演の萌芽です。うん、すでに萌芽がありますな。

といって、ゲンズブールにとって、本作は、初の映画監督作品。彼は、10年強の時間を私生活のパートナーとして共にしたバーキンの、内奥に秘めたる輝きを、銀幕狭しとちりばめてます。
そして、バーキンは言います。あんなに美しく撮られたことはない。そして、あんなに幸せだったこともない、と。
このひとことが、すべての言葉を粉砕していきます。まさに、映画、です☆

ある日、バスルームで鼻唄を歌っていたバーキンの擦れ声に、ゲンズブールは、以前、当時の恋人ブリジット・バルドーのためにつくったお蔵入り曲の存在を思い出します。それが、『ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ』。この映画は、ゲンスブールとバーキンによるエロティックな歌詞と喘ぎ声が物議を醸した、あの大ヒット・チューンがモチーフになってます。

「愛してる(Je t'aime)」
「オレ? さあね(Moi non plus)」

この映画は、無防備な女と、男しか愛せない男の、居場所のない者同士による「連れション」のような物語です。

カラスの死骸。
使い古された便器。
ゴミの山。
立ち小便の立ち上る湯気。
埃舞う大地。
マッチョな男同士のカップル。
醜女のストリップ。
アナル・セックス。

ゲンスブールの美意識は、活写する対象を選びません。スクリーンには、ただそこにあるものが映し出されるのみです。まるで、ゴダール。

ゴミ収集のゲイ・カップルが立ち寄った田舎町のカフェ。殺風景な店内をとり仕切るのは、痩せこけた少年のような美女、ジェーン・バーキンです。
男のうちのひとり、クラスキー(ジョー・ダレッサンドロ)は女と恋に落ち、同性愛の恋人パドヴァンは激しく嫉妬します。クラスキーは、女の外見のみならず、彼女に内包する「少年性」と恋に落ちる…。

いざ抱こうとしても不能になる男。
私を男だと思って!と言って、尻を差し出す女。
アナル・セックスの悲痛な叫びは生々しく痛いのですが、観る者は、愛し合う若い2人の無邪気な無軌道を祝福します。このね、満ち溢れていく、微妙な幸福感がいいんですよ。

ハイライトでもあるダンス・シーンの、永遠に続くかと思わせる官能的なキス・シーンを導き出すのは、ゲンズブールの食い入るようなカメラ、視線です。このあたり、エロオヤジ、ゲンズブールの真骨頂なのですが、単なるエロに堕していないのは、ゲンズブールが、官能に至情の美を見いだしているからでしょう。

それでも、幸福は続きません。
彼女の中のオンナが剥き出しになる瞬間、勝手なクラスキーはオンナを拒否し、同性愛の恋人パドヴァンと立ち去るしかないのでした。

このあっけない幕切れに、オレは、意味を求めようとは思いません。
この美しいフィルムに記録されたものが、愛に他ならないから。

ほら、抜けるようなさわやかな青空に、意味なんてないもん!

やはり、というべきか、当時、露悪趣味と酷評を浴びた本作を絶賛したのはフランソワ・トリュフォーで、私の映画なんかわざわざ観に来る必要はない。暇があったらゲンズブールの映画を観ろ。あれこそ芸術だ!と、小気味いいことを言っています。

バーキンの小動物のような躍動美は、稀代のナルシスト、ゲンスブールとの関係においてのみ見い出されたものだったろうし、逆に、バーキンなくしてはゲンスブールもこの魅力的な名品を作り得なかったでしょうね。ラヴ・アンサンブルの完全勝利(笑)

ゲンスブールの没後も、彼の作品のみを歌い続けるジェーン・バーキン。アラビックにリアレンジされたゲンスブール曲を歌う彼女の、瑞々しさに溢れた逞しい唄声に、連続する人生の再生と唄の強さを思います。





『Je T'aime... Moi Non Plus』
Jane Birkin & Serge Gainsbourg

2007年5月21日月曜日

『赤ちゃんに乾杯』


3月に、DVDで『女はみんな生きている』を見て、監督のコリーヌ・セローがいたく気に入ったオレです。

その、コリーヌ・セローの出世作でもある『赤ちゃんに乾杯!』が、こないだ、深夜のテレビで放映されてましたな。録画したのを、昼間、観てました。
1985年度セザール賞の最優秀作品賞、脚本賞(監督自身)、助演男優賞(ミシェル・ブージュノー)受賞に加え、本国フランスではそれまでの映画興行記録を塗り替える大ヒットとなり、社会現象にまでなったという触れ込みの喜劇作品です(パリだけで600万人動員!)。

独身貴族生活を謳歌していた男3人がいきなり赤ん坊の世話を押しつけられ右往左往するという、てんやわんやの爆笑子育て奮闘記なのだけれども、なによりも、ジェンダーの役割分担を幼いころから教育されてきている男たちに、本来あるべき「母性本能」が目覚めてゆくという設定は、ありそうでなかなかないですな。
というか、コリーヌ・セローという監督は、ジェンダー間の差異をコミカルに浮き彫りにさせる手法をとらせたら、右に出るものがおらんです。

日々の心情の変化、表情の機微が、巧妙にきめ細やかに描き出され、滑らかなストーリー展開もじつに絶妙で、男たちの愛らしい姿、輝きを捉える人情味溢れる監督の視座は、フェミニズムのひとことで片付けることは出来ません。
愛すべき人間たちの洒落たやりとりと、素敵なばかばかしさが、ここにはあります。
コリーヌ・セローって、やっぱりただ者ではないですよ。視点がね、単視眼的ではなくて、びっくりするくらいに複眼・重層的で、かつ、ユーモアに溢れているところがね。

舞台はパリ。
国際便の男性乗務員ジャックと、広告代理店勤務のピエール、漫画家のミシェルの3人は、高級マンションで部屋をシェアし、優雅な共同生活を満喫しています。誰にも束縛させない、仕事とオンナとパーティの独身貴族生活。
ある日、ジャックは、友人のポールから、日曜日に部屋へ届けられる小包を誰にも言わずに木曜日まで預かってほしいと、頼まれます。

日曜日。
ジャックは早朝の東京行きの便でパリを発つんですが、小包の件を聞いていたピエールとミシェルの元へ、なんと生後6ヶ月のかわいらしい赤ん坊、マリーが届けられます。マリーのバスケットには「ジャック、私たちの愛の結晶です。6ヶ月間ニューヨークへ行っているあいだ、面倒を見てください」と、モデルのシルヴィアがしたためた手紙が添えられています。
でもジャックは、日本で仕事を終えたあと、タイで休暇旅行。勝手がわからず思案に暮れるピエールとミシェルに、こうして悪戦苦闘の子育ての日々がはじまるのでした。

当然、男たちは子育てのことなどあずかり知らず、まったくの無知。ミルク、哺乳ビン、オムツ、育児書などを買い込み、互いに押しつけ合いながら、試行錯誤の連続。否応なく、マリーとの眠れない日々ですよ。それを他人事のように観ているオレは、というかこちら側は、爆笑(笑)

仕事を休み、デートもキャンセルし、「オムツ」も「授乳」も「寝かしつけ」も「お風呂」も板に付いてきた木曜日、ついに、2人の元へ小包を受け取りに、男たちが訪ねてきます。でも、この男たち、かぎりなく怪しい。。。
2人はいったん彼らにマリーをわたすも、日曜日にもうひとつの小包を受け取っていることを思い出したピエールは、その中身がヘロインであり、そちらが男たちの目当てであることに気づきます。大慌てでマリーを取り返しにいくんですが、その騒動の際、ピエールとミシェルを怪しんだ警察が動きはじめてしまうのですよ。
ヤクの売人たちの急襲と警察のガサ入れ…。
なんとか難を逃れた2人のもとへ、ジャックが帰ってきます。そっから先も、マリーに振りまわされる3人の、昼夜交代のドタバタ育児生活は続くんですけどね。

そんなこんなで6ヶ月が過ぎ、ニューヨークから戻ってきたシルヴィアが、マリーを引きとりにきます。育児から解放された3人は、仕事とオンナとパーティーの独身貴族生活に舞い戻るんですが、なぜかマリーのいない生活に、仕事にもオンナにも気が入らず、消沈の虚ろな日々を送ることに。ピエールなんか体調まで崩し、ベッドに突っ伏す始末ですわ。
そう、彼ら3人は、育児の大変さと幸せのなか、マリーを心から愛していたのでした……。

生後6ヶ月の赤ちゃんをマンションの部屋のドアのところへ置きっぱなしにしたまま6ヶ月も海外へ行く母親というのは、なにやら例の事件を想起させるものがあり、この時期にテレビ放映されたのはシンクロニシティの妙を感じないでもないのですが、封切り時、監督はこんなふうに言ってます。
「今まで男性は女性に対してああいう仕打ちをしてきたのです」
そう、モデルのシルヴィアは、もちろんニューヨークで仕事があるということもあったのでしょうが、自分勝手なジャックに対する仕打ち、という意味合いでジャックに育児をさせたかったのではなかったか。
もちろん、玄関に赤ちゃんという行為は推し量りかねるものがあるんですが、世の男たちが育児と家事を押しつけ、女性が育児ノイローゼになるという図は、昨今の日本でもよく見受ける光景ではないですか。

右往左往しながらも、次第に育児の大変さのなかに幸せを見出してゆく男たち。
男のみならず婦女子さんまでもがジェンダーの役割分担に納得している現状に、少なからず風穴を開けようとする監督の狙いは、この映画では大成功してます。

破顔の、ジェンダー解放歌ですね、この歌は。

なお、この映画は、ハリウッドがリメイク版をつくってます。『スリーメン&ベイビー』と、その続編の『スリーメン&リトルレディ』。
あと、『赤ちゃんに乾杯!』って、日本のドラマのタイトルにもあったような気がするので、それもリメイクなのかも。どれも観てませんが(笑)

で、肝心の本家『赤ちゃんに乾杯!』の続編『赤ちゃんに乾杯 18年後!』があるのですが、これは日本に入ってきてるんですかね? 未確認です。観たいのですがね。



そんなわけで、本日はフランスから、オレの大好きなレ・ネグレス・ヴェルトを。
ラテン伊達男のアホアホが堪能出来ます☆


Les négresses vertes / Voilà l'été

2007年5月11日金曜日

『ナチョ・リブレ』


GW中の相方さんとの唯一のデートは、まったりと DVD鑑賞ですた。。。
戎橋のTSUTAYAはきっと大阪で一番デッカイと思うんですが、なんか、すごいことになってますな。DVDレンタルのフロアで、DVDプレイヤーまでレンタルしてましたよ。
オレと相方さんは、DVDプレイヤーを持ち歩いているときがあるので、これならレンタルしたほうが、全然ラクですわ。次からそうしようっと。

んで、なにを観たかといいますとですな、『ナチョ・リブレ』。
オモロかったですぜ、ダンナ。
というか、封切りのときに散々レビューを読んでるので、オモロいのは観るまえからわかってたんですけどね。

舞台はメキシコ。教会の修道院で育てられたダメ男・ナチョが、覆面レスラーとしてリングに上がり、修道院の孤児たちに美味いものを食べさせようと奮起する爆笑コメディですわ。
だから、ナチョはヒーローのはずなんですが、こいつがね、腹は出てるし、まあ味はかなりあるんですが、まーったくいけてない男でして。第一、どんくさいし(笑)
で、あろうことか、同僚の修道女に恋なんぞするから、話はややこしくなる一方で。。。

でも、
ドタバタ加減が楽しくて、笑えます。
しかもナチョは、ちょっと熱くて抜けてて、このキャラクターは憎めません。
脇を固める人たちもそれぞれいい味を出してました。
試合の最後で繰り出されるフライング・ジャンプ・アタックなんて、5mくらいは飛んでるし、マンガチックで笑えるんですよ。
んで、最後は、すべてが上手くいって、ハッピーエンドで終わる。ハート・ウォーミングなコメディ。
泣きあり笑いありの、なーんも考えんで楽しめる、いい映画ですわ。

ところで、孤児院出身で孤児を育てるために覆面レスラーになるといえば、どうしたって『タイガーマスク』を思い出します。
んで、ちょっと調べてみたら、この映画は実話が元になっていて、『タイガーマスク』も、じつは、その実話をもとにつくられたらしいですな。
でも、こっちはラテンだけあって、お笑いの要素がふんだんに入ってるわけです。
ラティーノの基本は、ライフ・イズ・パーティですからね☆
オレがブラジルで出会った80歳のタクシードライバーは、そりゃ教会に行ってるときはキリストのことを考えてるけど、それ以外は寝ても覚めてもサンバのことしか考えてない!と、言い切りましたからね。

ただ、アメリカ映画なので、スペイン語があまり使われてなかったのは、個人的に残念でしたな。
ちなみに、スペイン語でプロレスのことをルチャ・リブレといいますから、このタイトルの『ナチョ・リブレ』というのは、プロレスと主人公のナチョをかけてるわけです。
だいたい、ナチョって名前からして、わけわかりませんわ。きっと、ナシオって名前だったのが、太ってるもんだから、ナチョってあだ名にかわってるんだと思うんですけどね。スペイン語の場合、太ってると、~チョって、語尾変化しちゃいますから。

この映画の舞台になってるところは、きっと、メキシコのオアハカ。
オレ、行ったことあるんですよね。もうね、アメリカから行くと、一気にラテン的いい加減さに出会える場所で、かなりかなり気に入ってる場所ですね。
婦女子さんを口説くのに、バラの花とか持って片膝ついて、大げさな口説き文句を並べるのが、すんごく似合う場所(笑)

ところで、メキシコ・シティの安宿ペンション『アミーゴ』で管理人をしながらプロレスラーをしていた小林さん、今もルチャ・ドール(プロレスラー)として、ご活躍されているのかな?


さて、この映画、それこそファンクからマリアッチ(メキシコの歌謡曲ね)までゴッタ煮のBGMが流れるんですが、どれもこれもやたらとカッコよくて、タワレコ・サイトで調べてみたら、おったまげました。
ベックからカエターノ・ヴェローゾ、ロス・ロボス、エディ・サンティアゴまで、チカーノ&ラティーノ関係のとんでもないメンツがごっそり参加してるじゃないですか!


で、そんなかから、ミスター・ロコの曲があったので、そちらを。

2007年4月22日日曜日

『アーリャマーン EPISODE 1 帝国の勇者』


深夜にテレビでやってる映画をHDDに片っ端から録画しておいて、気に入ったやつを時間があるときに見るってのを、ずーっとやってます。

これやってると、思わぬ拾いものがありますね。
最近の大ヒットだったのが、『アーリャマーン EPISODE 1 帝国の勇者』!(笑)

タイトルから想像出来るとおり、スターウォーズのパロディというかオマージュというか、そーゆーのです。

えーっとね、インド映画です。
なんでもインド史上最高視聴率を叩き出したスペース・マサラ・ムービー!というか、スターウォーズのパクリなんですが、おもろすぎます!
オープニングの銀河系を俯瞰するような映像は凝ったCG(といっても、ふた昔ほどまえのファミコン・レベル)なんですが、そっからgoogle earthの起動直後ようにカメラが地表にパンしていって、いきなり地上での戦闘シーン…、こっからウルトラマン並みの特撮に変身します(笑) あまりの落差に、クラクラするぅ~。

どっからどー見てもかっこよくない中年太りの主人公の、まったくスムーズではないワイヤー・アクション、口が裂けても華麗とはいえないスローなチャンバラ、低予算の悲哀が滲み出ている手作り感漂いまくりのロボットたち…、もうね、なにからなにまで素晴らしすぎます(笑)

こんなもん、狙ったって出来ないですよ☆

ちなみに、クライマックスになると、アーリャマーンによる、マトリックスばりの背中をそらせた避けアクションも見られます(笑)

あ、ストーリーは…、
地球が誕生する10万年前――。
アリアナ銀河系で最強と謳われた剣士・ホーシンが、自分を超えた若き剣士に対し、隠し続けていた自らの素性を語りはじめるところから、お話ははじまります。
そのお話とは…、
遙か彼方の銀河系でたったひとり巨大な悪の帝国に立ち向かった最強の戦士、アーリャマーンの冒険物語!

まあ、ストーリーは、どうでもいいですけど(笑)

でも、
エピソード1とあるくらいだから、続編があるんでしょうね。
ググってみたら、DVD発売されてます(笑) エピソード2は、存在があるとかないとかの未確認情報が飛び交ってます(笑)
続編、見たいな(笑)

2007年4月18日水曜日

永遠のモータウン


日曜の深夜、映画『永遠のモータウン』をやっていて、仕事をしながらチラチラ見ていたのだけれども、ダメ。仕事になりゃしない。もう、画面を見入ってしまって見入ってしまって(笑)
この映画、劇場で見て、ビデオでも見て、今回で3回目ですけど、何回でも観たいです。

この手の映画は説明しても虚しいだけなんですが、少しだけ説明しますと…、

60年代、アメリカのデトロイトに、モータウンというブラック・ミュージックを専門に扱うレーベルが設立されたのです。
スティーヴィー・ワンダー、ダイアナ・ロス(シュームリームス)、テンプテーションズ、フォートップス、ジャクソン・ファイブ、スモーキー・ロビンソン、ミラクルズ、マーヴィン・ゲイ…、もうね、キラ星のごとく輝くブラックの天才たちが、このレーベルによって見いだされ、デビューし、あるいは通過していったという…、そういうレーベルのお話。

ただ、そうしたモータウンの栄光の歴史を伝えるだけのものではなくて、その影の立役者、ファンク・ブラザーズにスポットを当てた映画なんです。
ファンク・ブラザーズとは、先に挙げたスーパースターたちに楽曲を提供し、バックで演奏していた、つまり、ハウス・バンド(レーベル専属のバック・バンド)なんです。
オレね、この映画を見たときにはすでにモータウン・サウンドにどっぷり浸かって10年以上が経っていたんですが、このバンドの存在すら知らなかったし、そういうバンドのことを想像したことすらなかったんです。いやー、初めてこの映画を見たときは、我ながら自分の不明さ加減に、呆れました…。

そう、この映画は、モータウンの影の立役者である、ファンク・ブラザーズの功績を称える、という映画なんです。
だから、前提として、モータウンがどれだけ素晴らしいレーベルだったのかということを知っていなければ、もしかしたら、この映画の面白さは半減するかもしれません。
だから、原題は『Standing in the Shadows of Motown』となっていて、彼らがいかに影であったかを強調する原題となっています。もっとも、この原題自体が、フォートップスの『Standing in the Shadows of Love』に引っ掛けてあるので、やっぱりある程度の基礎知識を持っていないと、その面白さが半減するかも…。
でもでもですな、次々と繰り出されるヒット曲は、どれもこれも、誰しもが一度は耳にしたことのある曲なので、それを聴いているだけでも楽しめるものだと、オレは信じています。

モータウンの繰り出す音楽は、徹底的にボーカルとダンスに焦点を絞った音楽だったので、本当に、バック・バンドと作曲者に思いを馳せることがありませんでした。
オレの音楽への造形はハンパでないと自負していますが、そのオレですら、この体たらくです。
彼らが、いかに、その貢献ほどの恩恵に与ることが出来なかったか!

そういう彼らを褒め称えるための映画なのですが、映画自体は、メンバーによる回想と、再結成された現在のライブを交互に織り交ぜながら進んでいき、ファンク・ブラザーズというバック・バンドの正体を多面的に伝えていきます。

そういう目と耳でこの映画を見ると、彼らがどんだけファンキーでどんだけとんでもない存在だったのかということがわかります。
1日で4曲作曲なんて、ざら。それも、全部が全部ヒット曲になります。ちょっと、とんでもないです。
彼らが世に生み出したヒット曲の総計は、ビートルズやストーンズのヒット曲の総計を凌駕してますから。でも、無名!

同時期、アトランタではスタックスという、やはりブラック・ミュージック専門のレーベルがあり、そちらもオーティス・レディングやパーシー・スレッジなどのスーパースターを輩出した名門レーベルなのですが、こちらのバック・バンドであるブッカー・T&MG’sは、彼ら名義のアルバムも出しているし、名前も知られています。
それに比べて、ファンク・ブラザーズのなんと無名なこと!

と、マニアックな話は尽きないのですが、ご安心を!
回想と交互に織り交ぜられた、再結成された現在の彼らのライブが、これまた素晴らしいです。

ボーカルを務めるのがね、
のっけから、見た目マーヴィン・ゲイまんま!のベン・ハーバー。そして、黒い魂を持った白人ジョン・オズボーン、そしてなんとなんとブーツィー・コリンズ! 若手随一のスピリチュアルな雰囲気を漂わせるミシェル・ンデゲオチェオ! 最後は説明不要のチャカ・カーン!
もう、これでもか!というメンツです☆ ああ、素晴らしすぎます…。
大丈夫! モータウンのことなんてなんも知らなくても、このライブだけでじゅうぶんに元がとれますから!
ブーツィー・コリンズなんて、モータウンと縁もゆかりもないし、スタイルもおよそ違うのですが、それでも、誰がボーカルをとったところで、モータウン・サウンドとして成立してるんですね。それだけ、楽曲に力があるということです。


と、こういう映画が、日曜深夜に放送されていて、仕事そっちのけで見てしまっていたのですが、
じつは、それに付け加えるかたちで、どうしても書いておかなければならないことがあります。
もしかしたら、こっからが本題かもしれません(笑)

さて、モータウンは、なぜ、それほどヒットしたのか。
そのまえに、アメリカのブラック・ミュージックの歴史についての講釈を垂れなければなりません。。。(笑)

50年代の半ば、白人のカントリー&ウェスタンと黒人のリズム&ブルーズがひとつになり、白人による水増しではないブラック・オリジナルが、白人の世界に、コマーシャリズムの力を背景として、入っていきました。
エルヴィス・プレスリーが、あらゆる意味で、ホワイトとブラックの中間に、そのときはいたんですね。

ブルーズがリズム&ブルーズにまで進展しながら、そのときどきの時代のなかで白人に受け入れられていく歴史は、ブルーズが白人に真似されていく歴史でもありました。
リトル・リチャードの『トゥティ・フルッティ』をもっとも真似しやすい体質を持っていたのが、エルヴィス・プレスリーであり、プレスリーを真似することは誰にも出来ませんでした(スローなナンバーで、エコーの助けを借りて、エディ・コクランのみが、上手くやっていました)。
当時、白人が黒人を真似るのは、白人にとって商売になることだったし、黒人が、たとえばモータウン・サウンドのように、白人向けにもなるようにソウルのポップ版をつくることも、またおなじように、商売になることでした。
そして、モータウンとは、まさに、そういう音楽だったんですね。
黒人が、白人向けに、ソウル・ミュージックのポップス版をつくった。結果、それがヒットした。それが、モータウンです。
ものすごくわかりやすい卑近な例でいうと、歌謡曲寄りのロック、ということです。端的にいうと、ニセモノです。それが、モータウン。

そういう風潮に、アメリカ全土がなっていっていたんですね。

あらゆるもののホンモノと、そのホンモノに新しい意義を与えていく前衛との中間に、コマーシャリズムという怪物がいて、そのコマーシャリズムは、ホンモノや前衛が社会と接するときのクッションになり、ショック・アブソーバーの役目を果たしました。
同時に、ホンモノをひろめ、前衛を前進させる推進力に、コマーシャリズムはなっていきます。
だから、コマーシャルでしかもつまらないものは、罪深いというよりもむしろ、みっともないものとして捉えたほうが妥当でしょうね。
たとえば、アーティスト個人の例でいうと、1959年にABCに移ったレイ・チャールズが、『愛さずにはいられない』というようなカントリ-&ウェスタンを歌った事実は、レイがなにを好き好んで歌おうと勝手なのですが、それはやはりみっともないことです。そして、そのみっともなさと引き換えに、レイは、ロサンゼルス市に制定された『レイ・チャールズの日』を手に入れることになるわけですが。

モータウンとは、そういう流れのうえにある音楽です。

ただ、モータウンは、ヒットとはラジオで頻繁に放送されることであるということを知っていて、カー・ラジオで出来るだけ多くの人たちに聴かれることを目標に、ある方程式に則って、ヒットをつくっていきました。
そして、ここが重要なんですが、そうやってつくられた楽曲が、天才たちによってつくられた楽曲であったゆえに、そしてまた天才たちによって歌われたがゆえに、ポップの水準からいくとほかのヒット曲よりもよく出来ているという事実を持っていました。

そしてそして、このような数多いヒットは、人々をモータウンのあとで、ホンモノに目覚めさせる役目すら、果たしました。
誰かの外側をただ真似するだけであれば、白人が黒人を真似ても、黒人が白人を真似ても、出来の悪いジョークにしかなりません。
でも、アメリカのポピュラー音楽のなかでは、白人が黒人的な音をつくる作業が、歴史の中心のひとつになっています。トミー・ドーシーという白人、そして彼のジャズ・バンドは知っていても、ロイヤル・サンセット・セリネイターズという、黒人のジャズ・バンドのことは誰も知らない。トミー・ドーシー楽団のヒットのひとつ『マリー』は、このフィラデルフィアの黒人バンドのレパートリーの、コピーでした。こういう例は、いくらでもあります。

さて、どうしてこんなことを長々と書いているのかというと、今でこそ、好きは音楽は?と聞かれて、モータウン!と答えておけば、それなりに音楽通でセンスのいい音楽が好きなんだな、というふうに受け止めてもらえます。
でも、オレがブラック・ミュージックを聴きはじめた時代、モータウンが好き!なんていうと、あんな白人化された黒人音楽もどきのなにがいいのよ?もっと本物を聴け!と、言われたもんです。

モータウンって、じつはそういう音楽なのですね。

ああ、やっと、本題というか、本当に書きたいところまで辿り着きました(笑)

で、オレは、自分でも責任を持って断言しますが、音楽通です。
音楽を聴くという行為は、オレにとってのライフワークですら、あたりまえのように思っています。

そういう人間が、臆面もなく、モータウンが好き!と、堂々と公言出来るようになるのには、ちょっと時間がかかったんですよ。オレは、モータウンが、本物でないということを、否定はしません。でも、あの音楽が好きです。たまらなく、好きなんです。
『ヒート・ウェイブ』なんて、たまらなく好きです。きっと、生涯の5本に入ると思います。

以前、どこかで書いたことがありますが、
一番好きなミュージシャンは、誰がなんと言おうと、シンディ・ローパーです。
そして、ブラックのなかでは、モータウンのサウンドが一番好きです。

そういうラインナップをバカにする人は、すればいい。
そういうものを、好きでいる自分が、ここにいるだけです。
昨日の日記と同じようなことを書いているけれども、そういうことです。



YouTubeは、オレの大好きな大好きな『ヒート・ウェイブ』☆

漁ってると、映画のフィルムがまんまカットされて、YouTubeにアップされてました。ジョン・オズボーンが歌う『ヒート・ウェイブ』☆





あ、おまけの桜は、今日、家の近くで咲いていた、満開の遅咲き桜。造幣局の通り抜けが終わった今、遅咲きは満開ですわ(笑)

2007年3月12日月曜日

『女はみんな生きている』


久しぶりに、お仕事でDVDを観る。
いや、爽快! スッキリしました! まさにまさにまさに、こんな映画が観たかったのでした!

ハリウッド映画や日本映画の、その細部に宿るさりげないジェンダーの保守性に、どうにも辟易することが多いんです、オレ。
男の役割とか、女の役割とか。きらいなんですわ、そんなん。名作やヒット作といわれる映画に往々にして見受けられる、ステロタイプな役割に甘んじる男女…。それって、単なるアホやん!といった類いのヒーローやヒロインが多過ぎるんですよ。まあ、音楽同様、観衆が安心出来るところにカネはついてくるということですかね。サラリーマンと専業主婦、子供2人の「健全な家庭モデル」を頑なに保ち続けるためには、あまり刺激や毒が強過ぎてもダメってことですか(笑)
安寧秩序どこ吹く風のブニュエルやアルモドバルが日本でさほど売れないのも、むべなるかなです。

でも、人生も世界も、そんな具合に簡単には出来ていません。

原題は『chaos』。
名付けられた邦題は『女はみんな生きている』なんですが、むしろ、「男はみんな死んでいる」とでも言いたくなるような、男どもの堂々たる情けなさっぷり、バカっぷりが描かれてます。
こう書くと、世の大方の男どもは尻込みするやもしれませんが、非日常的悲劇的事件を描きながらも、喜劇的な、あるある、この感じ~☆のオン・パレードです。
偶然の出会い、笑い、涙、スリル、アクション、先読み不能な展開、感動…。いや、全部詰まってるなあ☆

子育て奮闘記の名作『赤ちゃんに乾杯!』や、黒人掃除婦と白人実業家の滑稽な愛の行方を描いた『ロミュアルドとジュリエット』など、女性喜劇監督のコリーヌ・セローが描く物語は、どれも極上の人間讃歌です。
人生に同居する悲劇と喜劇が、バビロンのカオスを洗い出してゆく、えもいわれぬ痛快な小気味よさに、男のオレは断然拍手を送りたいですね。マチズモも自称フェミも、全部粉砕してくれ!

舞台はパリ。主婦エレーヌ(カトリーヌ・フロ)は、夫のポール(ヴァンサン・ランドン)とわがままなひとり息子ファブリスから、ほとんど家政婦扱いされている毎日。
ある夜、エレーヌとポールがディナー・パーティへと車を走らせているとき、通りを血塗れの娼婦ノエミ(ラシダ・ブラクニ)が必死の血相で駆けてくるんですわ。ノエミは殺気立った数人の男たちに追われ、殴打されてます。開けて! お願い! 車の窓ガラスを叩き、助けを求めるノエミ。でも、筋金入りのことなかれ主義者のポールは、即座にドアをロックし、救急車を呼ぼうとするエレーヌを制止、血の付着した車を洗車するために走り去るのでした。

翌日エレーヌは、病院をしらみつぶしにあたり、ノエミの行方を突きとめます。集中治療室で瀕死の危篤状態にあるノエミの凄惨な姿を見たエレーヌは、どうしても立ち去ることが出来ず、家庭も仕事も放棄して、そのまま病院に泊り込みで介護をはじめるのですよ。

で、病院の周辺をうろつく売春組織……。

一転、エレーヌの不在に怒りわめくダメ亭主とドラ息子……。

エレーヌの献身的な介護により回復してゆくノエミは、次第に、アルジェリア移民である自らの複雑な生い立ちを語りはじめます。政略結婚からの逃亡。売春組織との出会い。ヘロイン浸けの娼婦の日々。大富豪から騙し取った莫大な遺産。その遺産を横取りしようとする組織……。

そしてついに、ノエミとエレーヌの宣戦布告、全面戦争がはじまるんですけどね♪

平凡な主婦であったエレーヌは、会社経営者である夫と何不自由のないリッチな生活を送っていたわけです。でも、すべてを持っているようで、なにも持っていない空虚な生活。
その空白を埋めるがごとく突然現れたノエミによって、エレーヌがいよいよ自らのために人生を生きようと思い立つんですわ。

自分勝手で無感動な仕事人間、しかもその厄介さにまったく気づいていない間抜けな男たち。常に解放されるべきは男たちであることを、声高に訴えるでもなく、絶妙なストーリー・テリングのサスペンス・コメディ・タッチでさりげなく提示してみせるセロー監督の、切っ先鋭いセンスが、じつにじつに冴えてます。要するに粋なんですね。しかも演出の上手さか、ダメ亭主が、どこか憎めない(笑)

「こういう男性は、とにかくいっぱいいます。忙しそうにしていて、実際はなにもしていない。私は彼らを描くだけでジャッジしているわけではありません。私は、男性をかわいそうだと思うことがあります。男らしくしろ、強くなれと言われて……。(中略)女性のなかの男性的なところは仕事で出すことが出来ます。ところが、男性が女性的なところを出すことは認められない」
「私たちが生きている社会のいろいろな状況の一部を切り取りたい。そのうえで、娼婦の問題、家庭の問題、移民の問題、マフィアの問題などといった社会的な意図も込めたかったのです」

監督のコリーヌ・セローは、そんなことを言ってます。

娼婦ノエミ役のラシダ・ブラクニの、知的で凛とした美しさやスタイル、俊敏なアクション(なんと陸上のフランス代表!)も魅力なんですが、なんといっても、主婦エレーヌ役のカトリーヌ・フロの、悲喜こもごもあわせ呑んだ演技に目が行きっぱなしでした。彼女が主役でキャスティングされた映画を、ぜひぜひ観たいです!

静かな余韻たたえるラスト・シーンの力強さ。
気持ちのいい苦味。
再生への希望。

もっかい観ます! 3回は観れます☆

公式サイト(なんちゅーURLや! 笑。)
関西より東は、終わっちゃってます…。。。




super junkey monkey / Bucking A Bolt



睦美ちゃんが亡くなって、もう何年になるんかなぁ。。。

2007年2月6日火曜日

『ダーウィンの悪夢』


外来肉食魚のブラックバスやブルーギルなどの放流が巻き起こす生態系破壊への警鐘は、関西では琵琶湖があることもあって、かなり以前から響いてます。もっとも、ブルーギルは、現天皇が皇太子時代に日本へ持ち帰ったことは、ほとんど顧みられませんが。

この映画、昨年12月にすでにDVDで観たんですが、なんだかなぁ、と、思ってて、レビューを書かずじまいでした。
でも、この2、3日、マイミクさん数人が立て続けにレビューを書いたこともあって、やっぱ、書いとくか、ということで。

ドキュメンタリー作品でして、主役は、人類発祥の地であるアフリカ・タンザニアが英領であった1954年、ヴィクトリア湖に放流されたバケツ一杯の外来肉食魚のナイルパーチ。このナイルパーチは、成長すると全長2メートルにも達する巨大魚でして、わずか数十年のあいだに湖の固有種は壊滅、食物連鎖のトップに立ち、その旺盛な繁殖力によって、暗躍する多国籍企業を潤わすこととなるわけです。

グローバル経済のなか、飽食の欧州や日本の食卓へと膨大に運び込まれてくる白身魚の多くは、まさにこのナイルパーチですわ。「白スズキ」の名前で日本に大量輸入されていて、ファミレスやらマクド、学校給食やら弁当の材料、スーパーの安もんの味噌漬けや西京漬けなどに使われてま。

んで、本ドキュメンタリーの調査が訴えるのは、生物多様性の破壊にとどまらなくて、ナイルパーチの移入による飛躍的な漁獲量やスポーツ・フィッシングなどが生み出す大きな経済効果は、その裏で悪夢のようなさまざまな悲劇を呼び込むことになってます。
急激な商業的開発による伝統的零細漁業の衰退、ナイルパーチ加工用燃料を得るための森林伐採、酸素不足が生む藻やユスリカ繁殖による湖の赤潮化、地域社会の荒廃、戦争の恒常化などなど…。本作は、湖の生態系のみならず、人間の生態系をも喰い尽くしてゆくグローバル資本主義のロジックを暴露してます。
映し出されてゆく環境破壊、戦争、極度の貧困、飢餓、暴力、レイプ、ストリート・チルドレン、売春婦、HIVエイズ感染者、ドラッグ、地元漁師、政治家、実業家、欧州委員……。外来魚産業による地域経済の活性化を強弁する為政者の姿もありますわ。

ウクライナ人の操縦する巨大な航空貨物機が数日毎に到着し、二束三文で買い叩かれた55トンもの切り身を欧州へ持ち帰る。貧困に喘ぐ地元民が口に出来るのは腐敗しかけた「アラ」のみ。超低賃金で雇われた労働者の足にウジが這うナイルパーチ処理場はアンモニア臭の煙に燻され、そのアンモニア・ガスによって片眼が腐り落ちた女性の告白は、目を覆いたくなるほど強烈です。暴力の恐怖や空腹から逃れるために、魚の梱包材を火で溶かして麻薬代わりに吸い込むストリート・チルドレンたち……。
1日1ドルで国立魚類研究所の夜警を務める男ラファエルは、元兵士。貧困に喘ぐアフリカでは兵士の高給が魅力であり、多くの者が戦争を待望していることを、殺気立った、諦観に満ちた表情で語り上げます。

そして恐るべきことに、魚を運ぶ航空貨物機が欧州から持ち込むものとして、アンゴラやコンゴ、ルワンダなどへ流れてゆく武器弾薬の疑惑が浮上するんですよ。「北」へ送られる魚。「南」へ送られる武器。強者の論理に則って「最前線」には絶望的貧困と戦争が放置され続けます。「アンゴラの子供達はクリスマス・プレゼントに銃を贈られ、ヨーロッパの子供達はブドウを貰う」(ウクライナ人パイロット・セルゲイの友人の言葉)って、あなた…。

アフリカで広がる飢餓。先進国による経済援助ビジネス。得た資金で購入される武器。先進国へ持ち帰られる資源・産物。貧困を温床にした戦争……。用意されたかのようなこの悪のスパイラル、絶望的連鎖の真っ只中に、今、オレたちはいるということが、よーくわかる映画。

ここにあるのも、ダーウィンが言うところの「弱肉強食の生存競争」「適者生存の自然淘汰法則」なんですかね?
違いますね。先進国の人為的な行為であるこのメカニズムを、つくり上げるのも、壊すのも、消費者民主主義を謳歌する「北」に住むオレらの、これからの生きかたに重くかかってます。

生き血を吸いながら肥え太るグローバル資本主義。そして本作は、贅を尽くす先進国の営みを貧者に奪われんと存在するのが軍隊である、ということを、まさにズバリ言い当ててます。あまりにも悲しい、当節人類社会の縮図が、ここにはありますわ。

「『ダーウィンの悪夢』で私は、ある魚の奇怪なサクセス・ストーリーと、この最強の“適者”である生きものをめぐる一時的なブームを、新世界秩序と呼ばれる皮肉で恐ろしい寓話に変換しようと試みた。だから同じ類の映画をシエラレオネでも作ることが出来る。魚をダイヤに変えるだけだ。ホンジュラスならバナナに、リビア、ナイジェリア、アンゴラだったら原油にすればいい。ほとんどの人は現代のこの破壊的なメカニズムについて知っているだろう。しかし、それを完全に描き出すことが出来ないでいる。それは、知ってはいても本当には信じることが出来ないからだ。例えば、最高の資源が見つかった場所のすべてで、地元の人間が餓死し、その息子達が兵士になり、娘たちは召使いや売春婦をしているなんて、信じがたいことだ。しかしこのような話は、何度も繰り返され、私は気が滅入ってくる。アフリカ大陸の人々にとって、市場のグローバル化は、数百年に及ぶ奴隷制度と植民地化に続く致命的な屈辱だ。全世界の人口の四分の三を占める第三世界に対する富裕国の横柄さは、私達全人類の未来にとって計り知れない危険を生み出している。この死のシステムに参加している個々の人間は、悪人面をしていないし、多くは悪気がない。その中にはあなたも私も含まれている」
(フーベルト・ザウパー)

この映画のレビュー、なぜ書くことを躊躇っていたかというと、こうした内容は、みんな知ってるもん。
みんな、知ってるでしょ。ぼんやりとでもね。
オレは、仕事柄、詳しく知ってるし、今さらなあってのもあるし、なによりも目を覆いたくなるような惨状をこれでもかと見せられてね、気が滅入ってくるんですよ。

安倍政権は、なにがなんでも京都議定書を守るなんてこと言ってるけど、今のペースだときっと無理だし。
オレはとりあえず出来ることをやろうと思って、目のまえの現実と格闘していくだけなんですけれどもね。

ましてやオレは、表現者でもあるわけなので。

ブルーハーツが、デビューしたとき、言ってました。
ブラウン管の向こうの出来事と自分の半径5メートル以内の出来事は、等しく重要だ。
でも、それを等しく重要にさせるのには、想像力が必要だ、と。

ロックの素晴らしいところは、聴いた次の日に、聴いた人にナイフを持たせる、言葉の機関銃を持たせるところにありますな。
オレは、そういうふうにロックと付き合ってきました。

2006年6月7日水曜日

『ライフ・イズ・ビューティフル』





 仕事先で素敵なDVDがまわってきたので、仕事の手を止めて思わず見てしまいました。

 『ライフ・イズ・ビューティフル』。
 喜劇俳優ロベルト・ベニーニの監督・脚本による、言わずと知れた世界的大ヒット作ですね。欧米であまた量産され続ける「ナチスもの」のなかでも、極めて異彩を放つ戦争喜劇です。

 ざっとストーリーを要約するとですな、
 舞台は1937年、イタリア・トスカーナ地方の小さな町アレッツォ。陽気なユダヤ系イタリア人のオレフィッチ・グイド(ロベルト・ベニーニ)と美しい小学校教師ドーラ(ニコレッタ・ブラスキ。ベニーニの公私にわたるパートナー)の運命的な出会いから物語ははじまります。いちいち思いもよらない滑稽な方法で自分の面前へ登場するグイドに、ドーラの心は奪われ、やがて2人はめでたく結ばれるんですけどね。
 が、しかし、ときはムッソリーニによるファシズム政権下。一粒種のジョズエ(ジョルジオ・カンタリーニ)に恵まれた幸せな生活も、ひたひたと迫り来るユダヤ人迫害の嵐に巻き込まれていきます。そしてジョズエの5歳の誕生日の日、一家はユダヤ人強制収容所に連行されてしまいます。
 絶望的な収容所の生活。しかし、ここからが本作の白眉なんですよ。
 グイドは、幼いジョズエに悲惨な現実を悟らせないために、この収容所生活は「ゲーム」なのだ!と、決死の嘘をつきます。とにかく、生き抜いて「得点」を稼げば戦車がもらえるのだと、グイドはジョズエに吹き込み続けるのです。
 「軍服を着た悪者に見つからないようにかくれんぼをするんだ。最後まで見つからなければ、ご褒美に本物の戦車がもらえるんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、千点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗ってお家に帰れるんだ」
 ガス室へと送り込まれ、所内から減ってゆくユダヤ人たち。連日の肉体労働と空腹。絶望の日々が続きます。でも、グイドは、ひたすら笑顔で明るく振る舞い、幼いジョズエにこれが「ゲーム」なのだと固く信じ込ませるのです……。

 ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を、ユーモアを交えながら告発する本作のベニーニのやりかたは、リアリズム追求の論点から、多くの批判を呼び寄せもしました。でも、弾圧迫害される側が、なにも想像せず、抵抗もせずに死んでいったわけじゃないではないですか。
 そこには、人間がいます。恋をし、季節を感じ、笑い、呑み、歌い、踊る、あまたの人間がいます。父親が強制収容所体験を持つベニーニは、ややもすればとっぴないと思われるシナリオをもってして、人間主義と国家権力を明瞭に対置させ、ひとつの物語を、観る者の心に深く刻み込ませる戦法をとったのでした。
 極限状態の絶望のなかで、何度でも再生される積極的人間性のありかは、まさに愛の人、ベニーニであるからこそ触れえる世界です。そしてなによりも、ベニーニ自身による演技が素晴らしい。ユーモアとペーソス、そして想像力が導く人間讃歌に乾杯したくなります。

 ベニーニは、インタビューでこんなことを言っていました。
「僕のようなコメディアン的な男が強制収容所という極限状況に置かれる。このアイデアには自分でもびっくり仰天した。クラクラしたよ。怖くなったぐらいさ。大量虐殺の現場にコメディアンがいるなんて、なんとも逆説的だ。だからといってひるむわけにはいかない。そんな映画をつくる勇気はない、なんて言いたくなかった。それほど魅了されたんだ」
 と。

 うん、いいものを観ました☆

2006年3月10日金曜日

『炎のジプシーブラス 地図にない村から』





いや、素敵なDVDを観ました。ずっと前から観たかったのだけれども。
『炎のジプシーブラス 地図にない村から』ってやつです。
オレと彼女の大好きなルーマニアのジプシー音楽集団ファンファーレ・チョカリーアのドキュメンタリー映画です。2年くらいまえに、上映したのかな。

ルーマニアの、それこそ地図に載ってないくらいの小さな村を訪れたドイツ人の音楽プロモーターが、チョカリーアと出会うところから、話ははじまります。

ルーマニアを含む東欧、バルカンのジプシー音楽というのは…、
19世紀のはじめ、バルカンがトルコの支配下にあったころ、そこを北上してきたオスマン・トルコの軍楽が、この音楽のルーツです。トルコの軍楽は、太鼓と大量の笛で構成されており、それがバルカンのジプシーたちによって、トルコの笛からヨーロッパのブラスへと切り替えられ、音楽の意味も、軍楽から冠婚葬祭のための音楽という日常性のなかへと変化していきました。そこにバルカンのさまざまな民族の伝統音楽のメロディ、リズムが、このブラス・サウンドには混ざりあっています。

そんな彼らを、ドイツ人の音楽プロモーターが、まさに、発見するわけです。で、彼らの音楽の素晴らしさを、ヨーロッパ中、果ては世界中に知らしめようと奮闘するわけです。
ただし、チォカリーアの面々はといえば、降ってわいたような儲け話をきっかけにどんどん強欲になり、ギャラの釣り上げ交渉から、CD発売のリクエスト、移動の待遇、スタジオ代を誰が負担するかとか…、関心の先は、そんなところばっかりです。そりゃそうだ。文化のために音楽をやっているのではなく、生活のために音楽をやっているのだから、要するに、金儲けなのですよ。だから、カネの話にうるさい。もう、カネと待遇の話ばっかりですから。

このドキュメンタリーの素晴らしいところは、ベルリンでのコンサートや東京での路上ライブ(警官と交渉しながら!)の素晴らしさもさることながら、そうした彼我の意識の違いが、くっきりと隠すことなく描かれているところかなぁ。
ある程度の小金があって、生活の心配が一応は払拭されて、次は文化でも、って人と、食うために音楽をやってる貧乏人とでは、音楽に対する意識の差があります。それが、ちゃんと、それもあからさまに描かれてる。その意識のズレがね、ユーモラスを醸し出してるし、リアリティを与えてもいました。

でも、なにかに似てるなぁと思ってチョカリーナの演奏を聴いていて、ふと思い出したのは、飲み屋の風景。よく考えてみるとそれは毎晩飲みにいくような、飲み屋の風景なのでした。
毎晩来ている常連さんたちがいて、その常連さんたちは仕事も育ちも違っているけれども、みんな仲よくて、話は途切れない。ある人が話し出せば、みんなでその話に花を咲かす。たまには言い合いもする。そんな普通の会話が、彼らの演奏のなかには、あります。長年一緒にやってるメンバーだからこそ、の、呼吸ですね。

そういう映画をDVDで観ながら、どこにも行かずに、晩ゴハンも弁当を買い込んできて、彼女と2人でホッコリしてました。

夜が明けて、昼頃から、いよいよ今年も京都の神社仏閣巡りをはじめました。
今年一発目は、龍安寺と等持院。
龍安寺は、例の石庭と、「吾、唯、足るを知る」のつくばいで有名な禅寺。ここ、ものすごく崇め奉られてますが、初めて行ってみて、それほどすごいところとは思いませんでしたな。まあ、石庭があんまり好きじゃないというのもありますが。
等持院は、室町幕府歴代足利将軍の木像とお墓が祀られているところ。ここの夢窓国師作の池泉廻遊式庭園のほうが、彩りがあって好きですね。鶯張りの廊下もあって、歩くたびにピヨピヨと音がしてましたよ。

ほんとはね、彼女と2人でもっともっとノンビリしたいのですが、貧乏ヒマなし、です。
もうすぐ、お寺さんの庭にも花がたくさん咲いて、彩り鮮やかになります。そんときは、も少し、のんびりホッコリしたいものです。




ファンファーレ・チョカリーア / 『Maue Ca Voca』

2006年3月3日金曜日

逆アフィリエイト! こんな映画観るもんじゃないよ





今日、仕事がらみで『レジェンド・オブ・ゾロ』のDVDを観たのですが…。
なんじゃこら? って映画でしたよ。

スティーブン・スピルバーグ総指揮、アントニオ・バンデラス&キャサリン・ゼタ・ジョーンズ主演です。

カリフォルニアが無事にアメリカ領になれるように「無法者たち」と闘う「貴族
の」ゾロを描いた映画としては、アクション満載で面白いのですが、しかし、史実とは、まるっきり正反対の物語になっとるではありませんか。

えーっと、アクションも面白いし、キャサリン・ゼタ・ジョーンズはキレイだし、なにより、この人、運動神経抜群でトレーニングも積んでいるので、アクションシーンが決まっています。
で、アントニオ・バンデラス。この人、いちおう2枚目なんだけど「女に翻弄される男」を演じさせたら当代一流ですね。『ポアゾン』では、アンジェリーナ・ジョリーに財産丸ごと奪われて、『ファム・ファタール』ではレベッカ・ローミン・ステイモスにぼろぼろにされる…、というわけで、映画としての出来はおもしろい。というか、娯楽作品として、2重丸。

ただし、さすがにハリウッドだけあって、完璧に史実を無視したものとなってますわ〜。ちょっとヒドい。

アメリカのカリフォルニア併合を、諸手を挙げて賛美する内容で、カリフォルニアのメキシコ系住民は、アメリカ併合を心から賛成しており、併合反対派は悪のならず者集団…。あのなあ!

ところで、ゾロといえば、もともと『怪傑ゾロ』として、50年代に大ヒットした映画ですね。じつは最初の映画化は20年代なので、これは数度目。
ここでは、スペイン貴族の血を引くディエゴ・デ・ラ・ベガが、圧政を敷く悪い市長と闘う勧善懲悪ものですが、このゾロ自体が実在の人物をモデルにしています。

実在のゾロは、本名ホアキン・ムリエタ=オロスコ。
ゴールドラッシュの時代、1840年代の終わりから50年代にかけて、カリフォルニアで活躍し、「エルドラドのロビンフッド」とも呼ばれた伝説的な義賊で、その狡賢く神出鬼没なところから出たあだ名が、ゾロ=zorro。スペイン語でキツネ。カリフォルニア在住メキシコ人のあいだで英雄視され、 1853年にハリー・ラブ大尉によって射殺されたことにはなっていますが、その後も生存説がずっと残っていた伝説的人物です。

ちなみに、映画では、前作の『マスク・オブ・ゾロ』では、アンソニー・ホプキンス演じる貴族のディエゴ・デ・ラ・ベガ(ゾロ)が年老いて、後継者となる2代目として、バンデラス演じる盗賊の青年アレハンドロ・ムリエタを教育するという設定になっています。
この主人公(バンデラス)の兄(同じく盗賊)の名前がホアキン・ムリエタ。この兄ホアキンを殺し、弟アレハンドロが2代目ゾロになることを決意する重要な動機となる人物がハリソン・ラブ大尉なんですが、もちろんこれは偶然の一致ではないでしょう。

史実はといえば、元々メキシコ人が住むメキシコ領であったカリフォルニアで、19世紀初頭に金鉱が発見されたために、この地を米国領にするべく米国政府があらゆる謀略を尽くした挙げ句に、フランス軍からも侵略され、国内混乱していたメキシコの弱みを突いて火事場泥棒のような戦争(米墨戦争)を仕掛けて強奪。そして、カリフォルニアには、金鉱を見つけての一攫千金を目指して白人の無法者たちが一気に押しかけ、本来の住民であったメキシコ人を2級市民に落とし、簒奪のかぎりを尽くしたという背景のなか、(だから、そういう意味で映画『レジェンダ・オブ・ゾロ』は、史実とはまるで逆)、カリフォルニアのメキシコ系住民の抵抗運動のシンボルとまでなったのが、ホアキン・ムリエタだったわけです。

本物のゾロ、つまり、ホアキンは、1820年代後半に、フアン・ムリエタとフアナ・オロスコの子供としてソノラ州トリンチェラに生まれます。ここには、彼のお墓もあって、毎年10月23日には彼を称えるチカーノ(カリフォルニア全域に住むヒスパニック)のお祭りもやっています。
もともと温厚な性格だったといわれるホアキン・ムリエタが義賊になったのは、妻のカルメン・フェリスが白人の黄金採掘者にレイプされて殺されたから、と言われています。だから、彼の盗賊団は金に飢えた白人採掘者や黄金輸送車を襲い、カリフォルニアの(メキシコへの)奪回を唱えて、メキシコ系住民からは、愛国者と称えられました。ちなみに、この当時のメキシコの大統領は、フランス軍を撃破して、インディヘナ(オアハカ州のサポテコ族)出身として初めて大統領の座についた(今でもメキシコの最高の大統領のひとりと称えられる)ベニート・フアレスです。

で、この神出鬼没のホアキン・ムリエタへのアングロサクソン系住民の恐怖はかなり大きなものだったらしく、当時、消息を知らせただけでも500ドル、首にかけられた懸賞金は10,000ドルですから。

もちろん、人間ホアキン・ムリエタが実在したのは事実だけれど、実際には、同じようにゲリラ的に抵抗活動を行うメキシコ人は他にも何人もいて、その集大成としての擬人化が、ホアキン・ムリエタでもあったと考える方が自然です。
だから、ホアキン・ムリエタは神出鬼没で、死んだとされているあとでも、現れたわけですた。

こうして、伝説はさらに尾鰭がついてひろがっていきます。

彼はなかなかのハンサムで、黒い馬に乗った姿が絵になったので、愛国者として熱狂的に支持するメキシコ系住民だけではなく、彼を恐れたアングロサクソン系白人たちからさえ、メキシコ系だが貴族の血脈に違いない、と噂され、それが、のちの物語としての、正体は貴族の息子、へと繋がっていきます。
ちなみに、彼を射殺したハリー・ラブ大尉は、米墨戦争のアメリカ側の英雄でもあります。

このゾロを下敷きに、ジョンソン・マッカレイが冒険小説を発表したのが、1919年。ここで、ゾロは、スペイン貴族の血を引く義賊になりました。

こんなことは、アメリカ西海岸で隆盛を誇っているチカーノ・ミュージックをかじっていれば、普通に知っていることです。それを、スピルバーグがなぁ…。彼は、本当に、いつもいつも史実をねじ曲げてくれますね。それも、アメリカにとって都合がいいように。彼は、というよりも、ハリウッドは、というよりも、アメリカは、いつもいつも、そんなかんじですが。

そのゾロが、2006年に及んで、カリフォルニアをアメリカに併合するべく奔走していると知ったら、本物のゾロは墓石の下で嘆くでしょうなぁ…。。

本日は、アフィリエイトならぬ、逆アフィリエイト。
観るな、こんなもん!


そんなわけで、今日は、チカーノ・ミュージックの珍品を聴いております。かっこいいんだ、これが。
ラ・バンバ♪でおなじみのロス・ロボスの変名ユニットで、めちゃくちゃ先鋭的なのに、どっかゆるいです。たまりません!



Latin Playboys / 『Fiesta Erotica』

2006年2月5日日曜日

『愛よりも強い旅』





やーっと、トニー・ガトリフの新作『愛より強い旅』を観てきました。
もう、公開も4日まで。ぎりぎり、滑り込みセーフです。しかも、朝10時からのみ。これ逃したら、アウトですから。

各地のレビューで絶賛されていたし、カンヌでも最優秀監督賞をかっさらった映画ですから、観るまえから傑作だということは、わかりきっていました。なによりも、ガトリフの映画なのですから。

これは、アルジェリア出身でロマ/ジプシーの血を引くガトリフ監督の、自伝的要素を含んだ作品です。ストーリーは単純。
アルジェリア移民の子でパリでの生活に違和感を感じ続けていたザノは、アラブ風の名前を持つが出自を隠している恋人のナイマを連れて、未知の故郷であるアルジェリアへと、自らのルーツを探す旅に出ます。
パリにはじまり、スペインのアンダルシア、モロッコ、アルジェリアを、音楽を携えて放浪する2人の、ロードムービーです。音楽とロードムービーとガトリフ、もう、オレのためにつくられた映画だとしか思えんくらいで。。

自らのルーツに深い関心を持つザノと、自らの出自を忌み、そのことに蓋をしてきたナイマの2人は、旅のなかで、放埒な性を謳歌する一方、心をすれ違わせていきます。

2人がアルジェリアへ向かう際にとったルートは、スペイン・アンダルシア地方を通って、ジブラルタルの海をわたり、北アフリカへ入る方法。
途中、ロマたちやアルジェリアからの不法労働者たちに出会い、歩き、野宿し、無賃乗車を繰り返す旅をするなかで、2人は今まで知らなかったお互いのことを知るようになります。
ザノは、革命の後のアルジェリアから引き上げてきた両親のもとに生まれるが、のちに交通事故で両親をなくしている。それ以来、アルジェリアへ行くことも、自ら音楽を奏でることもどこかで避けていたことなど。
ナイマは、アルジェリア移民の両親を持つが、自らはアルジェリアにいたことはなく、自らが何者であるかという問いに蓋をし、精神的な根無し草になっているということなど。

全編を支配しているのは、まさに、音楽でした。

2人はそれぞれにソニー製のMDウォークマンを持ち、ドラムンベースやブレイクビーツを聴きながら旅を続けます。しかし、音楽は共有されていません。共有されていないところに、2人の、自らのルーツへの向き合い方が違うということが、すでに暗示されています。

辿り着いたアンダルシア、セビリアで、2人はフラメンコと出会います。フラメンコは、アンダルシアを通り過ぎていったアラブ、スーフィー、ユダヤ、スペインの文化が、その血に住み着いた貧しいジプシーたちの元で発酵した音楽ですが、このフラメンコで、一見、2人は音楽を共有したかに見えます。が、心がすれ違ってしまうのです。

モロッコでは、夜露をしのぐバラックで、ライの演奏に聴き入ります。ライは、アラブのブルーズです。このとき、2人は音楽を共有していました。けれど、2人は歌には加わらない。2人と音楽が、一体化していないのです。

このあたり、音楽が隠喩の役割を負っています。
自らのルーツを巡る旅で、2人は、さまざまなルーツ・ミュージックに出会うのですが、どれも、傍観者としてしか、接することが出来ない。その音楽と、一体化することが出来ないのです。フランス化してしまった2人にとって、ルーツとは、望郷的なものではあっても、すでに喪われてしまったもの、なのだということです。事実、2人のウォークマンに収められている曲は、相変わらず、ブレイクビーツでありドラムンベースであり、テクノ・ミュージックなのです。

2人が辿り着いたアルジェリアは、大地震の爪痕が残る、無惨な街に変わり果てていました。実際、2003年にアルジェリアは大地震に見舞われているのですが、そのこと自体が、都市生活者にとってのルーツ=失われてしまったもの、という事実を、象徴的に表しています。

最後、アルジェリアに辿り着いたとき、そこでナイマを待っていたのはよりいっそうの疎外感、落ち着かなさでした。
両親が住んでいた場所を訪れ、両親を知る人々と出会い、涙を流し、過去と折り合いを見せたかに見えるザノに比して、神経症的な様相をよりいっそう増していくナイマ。その様相は、しきりに爪を咬むしぐさや、肌を覆い隠す布を乱暴に脱ぎ捨てる動作に端的に表されていました。

そんななか、2人はスーフィーの儀式に参加します。
霊媒師の女性から、ナイマは告げられます。あなたの魂は居場所がない状態だ。自らのルーツを、祖先を見出さねばならない、と。
それこそ、まさにナイマが常に求めつつもいつも逃げてきた、自らのアイデンティティを探る行為です。
霊媒師はスーフィーの儀式で忘我の状態になることにより、自らを見直すきっかけをナイマに与えます。
今まで辿って来た実際の放浪の旅ではなく、ある意味、本当の旅、精神の旅へとナイマは旅立つ…。

最後の、スーフィーの儀式は、10分以上も長まわしが続く、圧巻のフィルムでした。
ループされるスーフィーの音楽によって2人はやがてトランス状態に陥っていくのですが、これこそ、2人が常日頃から聴き続けてきたテクノ・ミュージック、つまり、ループ・ミュージックなのです。テクノ・ミュージックという都市生活者のための音楽と、スーフィーの儀式で使用されるルーツ・ミュージックのなかのルーツ・ミュージックが、じつは同じループ・ミュージックであるという事実!そして、どちらもが、トランスするための音楽であるという事実!
過去を探ることで、未来を見つけだす、端的な好例が、ここには描かれていました。

ストーリーは単純であっても、そこに詰め込まれている情報量は、ハンパではありません。
フランスにおける移民の問題、都市生活者のアイデンティティの確立の問題、汎地中海音楽を横軸とし、現代音楽と民族音楽を縦軸とし、それぞれがハイブリッド化しているという事実、音楽の聴かれかたの違い…、アクセス出来るポイントがいくつも用意されている映画です。

あぁ、これだけ書いても、まだ書き足りません。というか、なにも書いていない、なにも伝わっていないような気すらします。
まだ、この映画を観たあとの興奮が収まっていないのです。
そして、圧倒的な情報量を前にして、まだ消化しきれていないのです。

DVDが出たら、即買いです。サントラはすでに売り切れ状態。再出荷を激しく待っています。

今回は、マニアックに好き放題書いてしまいました。
じつは、まだまだ全然書き足りないのですが、いったんは、このあたりでお開きにします…。




Tony Gatlif / 『愛より強い旅 (EXILES) 』

2005年12月12日月曜日

『黒猫白猫』





今日は、久しぶりに、仕事をしながら、『黒猫白猫』の映画のサントラを聴いてました。
サントラの話よりも、映画の話ですな。

ユーゴの天才エミール・クストリッツァが引退を撤回してつくった作品です。
解説から抜粋するとですね、
「ドナウ川のほとりに暮らすロマの一族に起こる若者の恋愛や石油列車強奪計画といったエピソードを、陽気にストレートに描いたコメディ。自称ダマしの天才、マトゥコはロシアの密輸船から石油を買うが、見事に騙されて大金を失う。金に困ったマトゥコは、息子のザーレと共に“ゴッドファーザー”グルガに石油列車強奪の計画を持ちかけ資金援助を乞うが…。」
って話で。
とにかくね、主役・脇役の強烈なキャラ(柱に打ち込んである五寸釘をケツで抜くオペラ歌手!)もさることながら、悪人が誰一人として出てこないところが、すごく好きなんですよ。強欲で狡猾で粗暴で…、悪いヤツはいっぱい出てくるけど、悪人として描かれてるヤツは、一人もいてない。みんな、フリークスではあるけど、愛すべきキュートさを持ち合わせてて、その人間臭さが、好きなんですよ。
クストリッツァのさすがなところは、世界は複雑ゆえに、容易に善悪など決めることは出来ない、ということを前提にしてることですよ。
善悪なんて立場や視点によっていくらでも変わるし、そのことを前提にしてないと、今の時代、表現なんて成り立たへんと思うんですけど、残念ながら、そうではない表現ばっかりなんで、余計にクストリッツァのすごさが際立ちます。

善悪とか正義とかいう概念が、『黒猫白猫』を観て以降、オレの中からは、すっかりなくなってしまいました。それこそ立場や視点によって、そんなもんは、どのようにも変わるわけで。正義も善悪も、絶対的なものではなくて、どのようにも変わる、相対的なものでしかない、と。
だから、今では、正義=融通のきかん頑固な理屈、と、オレは翻訳してます。イラクもアフガンもパレスチナもイスラエルも東ティモールも、オレは、そういう視点で見てます。
そういうことを、クストリッツァは、悲劇ではなくて喜劇で表現したところがすごいんですよね。ヘビィなテーマを糖衣にくるんで、甘くして、食べやすくしてくれてる。それが、エンターテイメントの神髄です。あの、ことごとく強烈なキャラたちは、あんなんじゃなくてもいいはずやのに、でも、あれくらいの個性である必然が、あの映画には、あるんでしょうね。
結局のところ、あの映画は、『寅さん』なんです。強烈なキャラは、生命力の強さの表れで、正義だの善悪だのよりも、生命力が旺盛なことのほうが、どれほど魅力的か!ってことを、クストリッツァは言ってるような気がします。

サントラも素晴らしいけれど、今回は映画の話になってしまいました。




Emir Kusturica & The Smoking Band / 『Unza Unza Time』