2006年9月11日月曜日

終戦の年1945年(昭和20年)の世界の音楽の潮流を探る


自民党の総裁選がはじまりましたね。
安倍で決まりみたいですが。。
安倍で決まれば、初めて戦後生まれの首相が誕生するわけで、戦後生まれの首相らしく、憲法改正するんですかね?

これからしばらく、「戦後」という言葉が、蒸し返されるような気がしています。

ということが関係しているわけでもないんですが、今、終戦直後、昭和20年、1945年あたりの世界の音楽の潮流を研究していて、今回はそれの中間報告を。

昭和20年、1945年あたりの世界の音楽は、どーなっていたのか?

えーっと、久しぶりだとは思うんですが、相当にマニアックです(笑)

戦時下にある兵士にとって、大きな憩いとなるのが、芸能人たちによる慰問団ですね。
かつての日本でも漫才や歌手など、多くの人たちが戦地に赴いたことが知られています。
有名なところでは吉本興業の慰問団「わらわし隊」、『青い山脈』『長崎の鐘』など戦後の大ヒットで知られる藤山一郎らが参加した南方慰問団…、このほか各地の芸妓さんたちにも声がかかり、彼女ら彼らは慰問隊の一員となりその芸を披露しました。
米軍にも同様の慰問があります。1954年に、日本から帰国の途中のマリリン・モンローが、米・極東司令部の求めに応じて在韓米軍駐屯地を10箇所以上も巡演したのは有名な話ですな。

第2次大戦中、アメリカにはV-DiscというSP盤シリーズがありました。生身の慰問団ではないんですが、海外にいる兵隊たちを大いに喜ばせた、音楽の慰問です。
V-DiscのVは、もちろん、ビクトリーの頭文字。
アメリカ政府からの依頼により、ジャズからクラシックまで、トップ・クラスのミュージシャンが所属レコード会社の垣根を越えて、数々の名セッションを、この、「海外にいる兵士のための特別レーベル」に記録しました。
そういうことなので、ジャズの世界でV-Discといえば、今でも貴重な音源として有名です。
このレーベルでは、トミー・ドーシーやらグレン・ミラー、カウント・ベイシーなどと、白人黒人問わぬ人気者がずらりと顔を揃えて素晴らしい演奏を録音したことでも知られていますが、この録音にはもうひとつ重要な側面があります。
じつは、この時期というのは、アメリカでは有力な音楽家組合による歴史的な大ストライキと重なっているのです。ストライキが決行されたのは、1942年から44年。足掛け3年間ですが、この間、米軍が、海外にいる兵士のためだけに録音させてほしいと申し出たことが、V-Discの発足に繋がりました。

やがてストライキが終わり、アメリカの音楽業界はさらに再編され、世界的に大変な影響を及ぼすにいたります。つまり、V-Discがなかったら、20世紀アメリカン・ミュージックの重要な部分がスッポりと抜け落ちていた、ということになります。
なにしろ1940年代といえば、20世紀におけるアメリカ音楽がいよいよ充実してきた極めて重要な時期ですから。
…しかしですな、世界的な大戦争をしている真っ最中に、米国内では4大メジャーのレコード会社に向かって、オレたちミュージシャンの要求を呑まないとレコーディングなんかしない! と言って長期にわたる実力行使に出る人たちがいたという事実が、まずすごいですな。
そりゃ、戦争に負けるよ!


1944(昭和19)年。
太平洋戦争においては、南方における日本軍の一大拠点だったトラック島がアメリカ軍によって攻撃され、多くの戦艦や戦闘機、そして人命を失った年です。2月17日、18日の、しかし太平洋のまっただなかではうだるような暑さだった日のことですな。
トラック島空襲のあと、サイパン、テニアン、グアムなどで次々に日本軍が玉砕することになるから、ここが太平洋戦争の転換点です。

で、南洋で日本軍が追い詰められていたこの時期、フランスはどうだったか?
フランスにとっての1944年は、パリ解放の年でもあります。
1940年、ナチス・ドイツの侵攻によってパリが陥落し、花の都はジャズすらも禁止されました。
それが、1944年6月6日のノルマンディ上陸作戦開始、8月25日、市民のレジスタンスと自由フランス軍の手によってパリ解放。
この、抵抗の時期、フランスを初めとして多くのヨーロッパ人が口ずさんだのが、ロマンチックで甘酸っぱいメロディの『雲』でした。
『雲』は、ロマ(ジプシー)のギタリストでパリを拠点のひとつとした、ジャンゴ・ラインハルトの代表作です。
オレの相方さんは高校時代にすでにジャンゴを愛聴していたという驚くべきおませさんですが、それはともかくとして、ジャンゴは驚異の早弾きプレイヤーでもありました。
が、驚くべきことに、その左指は、ロマ・キャンプでの出火によって大怪我を負ったため3本しか使えない。
ナチス・ドイツによってユダヤ人とおなじように徹底した弾圧を受けたロマですが、その哀切を、(禁止されていた)ジャズの手法を借りながら、独自の世界を切り拓いたのが、この才人でした。
『雲』は、そうした背景があったからこそ、ヨーロッパの多くの国の人々の口の端に乗ったのでした。

このジャンゴ・ラインハルトと並んで、ドイツの占領下にあったフランスのパリを沸かせた人物を、もうひとり挙げなければなりません。
モロにアメリカン・ジャズ・エイジをイメージさせた舞台で大センセーションを巻き起こした男、イブ・モンタンです。そう、あの、シャンソンを代表するシンガー、イヴ・モンタンですね。

すでに有名な伝説ですが、1944年2月18日、彼は、パリのミュージック・ホールに出演したとき、テンガロン・ハットで格子柄のシャツという出で立ちで舞台に立ち、観客に向かって「ヘイ、ボーイズ!」と英語で呼びかけました。
ナチス・ドイツの睨みがきくパリで、よくもまあこんな大胆な行動に出られたもんですが、それこそが、このやんちゃなオッサンのすごいところです。
ちなみに若き日のイヴ・モンタンは、「ザズー」(ジャズかぶれ)と言われたそうですが、その後、庶民派、労働者階級のために歌うシンガーとして、さらに大きなステップを踏み出すことになるのです。そもそも、シャンソンというジャンルは、もともとが、そうした労働者階級のための大衆歌ですから。


次に、長崎を見てみます。
1945年8月9日は、歴史上、実戦で核兵器が使われた2度目の日です。投下時刻、午前11時2分。
1度目は、もちろんその3日前の8月6日、広島への原爆投下。投下時間は午前8時15分。
長崎では、当時、約24万の人口のうち、約14万8000人の人々が死傷したとされています。そして、昨年の8月9日の時点で、原爆死没者名簿に載った方々の総数は、13万7339人。

その長崎の被爆者のひとりに、永井隆という医学博士がいました。永井博士が被爆したのは、彼が在籍していた長崎医科大学ででした。奥さんは自宅で即死。博士も重傷を負いました。しかし自分自身の状態も省みず、博士は学生たちとともに救護活動に入ります。
敬虔なクリスチャンでもあった永井隆博士(長崎市名誉市民)の命を賭けた活動は、長崎から発信される「核兵器廃絶」「世界平和」の大きな起点ともなりました。

長崎原爆資料館のホームページには、永井博士について、次のように紹介しています。
「永井隆は、助教授をつとめる長崎医科大学附属医院で被爆した。自らも重い傷を負ったその直後から、負傷者の救護や原爆障害の研究に献身的に取り組んだ。やがて、彼の思いは医師としての役割から、長崎の町の文化の復興、そして平和の願いへと広がっていく。被爆以前から患っていた白血病が次第に悪化するが、病床についてからも、執筆活動を通してその実践を貫いた。被爆から6年の命だったが永井隆の足跡からは、平和への切実な祈りが聞こえてくる」

この永井博士が、重い病に苦しみながら書き上げ、1949(昭和24)年に出版したのが『長崎の鐘』でした。長崎の鐘とは、原爆によって廃墟と化した東洋一の大聖堂、浦上カトリック教会の天主堂にあった鐘のことです。
この本は瞬く間にベストセラーとなり、これをもとに、同49年、戦前からのスター・シンガーだった藤山一郎による『長崎の鐘』が発売され、これも大ヒット、翌50年には映画化もされました。

ヒット曲『長崎の鐘』を作詞したのは詩人のサトウハチロー。彼も戦争で3人の兄弟を、そして広島では原爆投下によって2つ年下の弟も亡くしています。サトウはこの詞の依頼に際して、神さまが書けと命じているんだ、という運命めいたものを感じたそうです。
平和を望む歌、戦争を憎む歌は、日本でも数多くつくられ、歌われてきましたが、『長崎の鐘』は、戦後最初の、日本の、平和を望む歌でしょうね、たぶん。
 

1945年、昭和20年というのは、世界でも日本でもいろんな意味で転換期の年になってるわけですが、同時に、ポピュラー・ソングもその潮流に飲み込まれているとしでもあるわけです。ま、歌は世に連れるので、あたりまえと言っちゃあたりまえなんですが。(そのわりには、その視点で見た考察が皆無に近い状態だというのはどういうこと?)

次は、日本以外のアジアに視線を移します。

テレサ・テンらで有名な『何日君再来』(ホーリー・チュン・チャイライ)と並ぶ東南アジアを代表する名曲『ブンガワン・ソロ』が、インドネシアで流行した年でもあります。

『何日君再来』(最初の流行は昭和15年=1938年ころ)も、のちの台湾&中国本土とのあいだの政治的な軋轢にもまれた名作だけれども、『ブンガワン・ソロ』もまた、も単なる流行歌ではなく、インドネシアの独立とともに歩んだ歌でした。

この歌が生まれたの1940年。
ソロ(現在のスラカルタ)に生まれたグサン・マルトハルトノによって作られました。題名はジャワ島最長のソロ河のことで、この河の流れを美しいメロディで歌い上げてるんですが、ここにはインドネシア独立への願いが込められており、オランダの植民地であった同国で広く口ずさまれたといわれます。

面白いのことに、地元の文化にさほどの興味を示さなかったオランダと違い、1942年、この地域(オランダ領東インド=現在のインドネシア)に侵攻してきた日本軍は、音楽を「割合に大切にした」(評論家・中村とうよう)そうです。この歌をつくったグサンも、インドネシアを巡回した日本兵の慰問団に加わっていたそうで、こういうことが縁となり、『ブンガワン・ソロ』は、藤山一郎、松田トシらによって日本語で録音されます。そしてついには、アジア諸国から取り入れられた歌としては、日本最大のヒットとなっていきました。残念ながら、レコードの出荷枚数が不明なので、どこまでのヒットだったのかは、オレにはわからんのですけれどもね。


中米・南米に目を向けると、ここは完全に戦争特需の時代ですね。
ブラジルやアルゼンチンでは、第2次大戦中、特需が起こり、その後押しで音楽も活況を呈したといわれています。

ブラジルでは、ショーロというエレガンスなシティ・ミュージックが完成されたのが、1940年代の半ば。ちなみに、ショーロは、サンバやボサノバの土台を成す重要な音楽です。

アルゼンチンでは、ブエノス・アイレスで生まれたタンゴが、「黄金の40年代」「タンゴが一番に幸せだった時代」と言われるまでに成長します。
第2次世界大戦中、ヨーロッパが戦場と化したために、両国から鉱山資源や食料がたくさん輸出されたことが背景にあります。
経済的な余裕が、音楽に発展を促したってわけです。
ブエノス・アイレスのような都市では、ダンスホールに毎晩、懐具合のいい人たちが大挙して詰めかけるようになり、ラジオでは連日、高名な楽団や歌手がたくさん登場して優れた音楽を披露しました。

フアン・ダリエンソ、アニバル・トロイロ、カルロス・ディ・サルリなどの新進のタンゴ楽団が登場してきたのもこのころ。
往年のタンゴブームを経験している日本のオジィやオバァは、このあたりの名前に懐かしさを覚えるんじゃないですかね。

おなじころ、アメリカでは、チャーリー・パーカーやディジ・ガレスピーらによる、ジャズのバップ革命が起こっていました。
その隣りでは、のちのソウル・ミュージックの母体となるブルーズや、リズム&ブルースが一大勢力となり、彼らを支える小さな独立系のレコード会社もたくさん生まれきます。今、どこもかしこもインディーズ云々と言っているそのルーツも、ここにあります。

アメリカの白人ボーカルの筆頭に名乗り出たのが、フランク・シナトラ。彼は、今ではどこでもあたりまえのようになっている、いわゆるソロ・シンガーという存在を確立した歴史的な人物です(その前の歌手とは、楽団のお付きや、ラジオだけで歌いかける、といったスタイルが普通なので)。

そしてキューバ。スパニッシュ・ラテンの牙城だったキューバでは、世紀のダンス音楽、マンボが生まれます。
マンボはキューバのハバナからニューヨークへ、メキシコへと伝播し、あっという間に日本にもやってくるのでした。マンボを世界的にした有名にした功労者としては、ペレス・プラード(あ~ウッ、の掛け声の人)、そしてザビア・クガートがいます。


ふう。結構中途半端にいろいろと書き殴ってしまいましたが、ま、今調べていることの中間報告ということで。
『本日の1枚』で、エラそーに音楽を紹介しているくせに、音楽ネタについての日記をまったく書いてないじゃないの、という声が出てくるまえにですね、それらしいことを書いておこうかなと、そういう姑息な意図が見え見えの日記です(笑)

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