2006年5月9日火曜日

自分探しの旅

ITバブルが萎みはじめた2001年頃、ある経済新聞社を退職した女性記者に、なぜ会社を辞めたのかと聞いてみたことがありました。
そのとき、彼女は、ちょっと卑下するようにはにかんで、「自分探しの旅に出た」とおっしゃいました。
このときね、なんだか、「自分探し」という言葉に薄気味悪さをかんじたことを、今でも覚えています。

その頃あたりから、キャリアパス(キャリアデザイン)という言葉が流通しはじめたように思うのですが、この言葉も、おなじ病から生まれたような気がします。

真剣に自己を見つめ、自分が本来どうあるべきかを追い求めている人に向かって、病とはずいぶんとノンケンな物言いですけどね。

でも、ロビンソン・クルーソーのように旅に出て、世間を漂流をしても自分には出会えないです。修行僧のように教科書で学び、キャリアを描いたとしても、輝かしい未来はやってきません。
「自分探し」をする人間は、自分というものが、自己のからだのなかにリンゴの芯のように存在していて、それを自分はまだ探り当てられないでいると思っているようです。

どこで仕入れた言葉なのかすでに忘れましたが、「健全な肉体に狂気は宿る」という至言があります。
人間は、自分について知らないからこそ生きていける。自分自身の核について無知がない人間は、モノをつくることなど出来ないと、オレは思っています。
ほとんどおなじようなことを、『バカの壁』のなかで、養老孟司さんは言ってます。人生は万物流転であり、変わらないのは情報だけだ、と。
「自分探し」の先達といえばリルケが思い浮かびますが、彼もまた『マルテの手記』のなかで、自分が変わりつつあると、なんのために他人に言わねばならないのか。変わりつつあるのなら、ボクはもうかつてのボクではないはずだ、と。

創造の秘密とは、自分のなかの他者との出会いにあります。いつの時代にも、自分というものは、リンゴの芯のように確固としたものではなく、自分の外側から不意に到来してくる言葉によって確認されるものです。
人が成長するのは、自分が語っている言葉に、自分自身で啓発されるという体験を通過する以外に、方法はないと思います。

「自分探し」は、100年続けても、自分らしさという概念の核の周りをまわり続ける以外には、ありません。
キャリアパス、キャリアデザインなるものも、おなじだと思います。
自分の未来というものは、現在を生きていくことで初めて自分がここに来たのだということが理解することです。

未来を、今、決めようとする人たち。
キャリアパスに奔走する人々や、キャリアデザインという不可思議な学部をつくりだした大学に対して、なにか大きな考え違いをしているような気がしてなりません。
それは、未来というゴールのために、かけがえのない現在を絶えず手段化することに思えるからです。
将来のどこかに自分を自分らしく生かしてくれる約束の地があるとは、思わないほうがいいです。
今、ここ、こそが、オレが生きていかなくてはならない場所です。
その、今のプロセスこそが、ゴールです。

ということを、おそらくはこの日記を読むであろう、「自分探し」に奔走するあなたに向けて、オレが送る言葉です。



早川義夫 / 『サルビアの花』

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