2006年5月18日木曜日

『ゲド戦記』を再読する





ジブリの新作『ゲド戦記』が、まもなく封切られますな☆

ジブリファン+『ゲド戦記』ファンとしては、これはたまらなく魅力的な組み合わせです。出来ることなら宮崎駿監督の手で映画化してもらいたかったですけどね。

オレは、高校生だったころに、岩波文庫の『ゲド戦記』全5巻に出会いました。
親のない少年ゲドが故郷を離れ、魔法使いになるための学校に入学し、やがて自分に秘められた大きな力の存在に気付き、大賢人となっていく、ゲドの一代記です。壮大なファンタジーです。

そう書くと、『ハリーポッター』に似ているように思われるかもしれませんが、『ゲド戦記』は、魔法に主軸が置かれているというよりも、自尊心や猜疑心に悩む若者の心理描写に重きが置かれている物語です。だからこそ、若いころに読むと、不必要にハマってしまう(笑)おそろしい物語でもあります。

今回久しぶりに読み返してみて思ったのですが、かつて圧倒的に共感した第1巻の若年期のゲドよりも、第2巻以降の、青年期、壮年期、そして老年にいたるゲドに、共感を覚えました。
オレも、それだけ年をとったということですね(笑)

第2巻以降、ゲドは大賢人と呼ばれる魔法使いになっているのですが、それに反比例するかのように、物語の中での魔法の比重は小さくなっていきます。最終的には、ゲドは、魔法の力を失ってしまいます。
今のオレは、魔法が使えなくなってからのゲドに、圧倒的な共感を覚えます。
悩み、伏し、疲労困憊し、無力な姿を見せる人間臭いゲドは、それでも立ち上がり、自分の老いや無力さ加減に立ち向かおうとします。そして、若い世代に語りかけ、おなじように苦しみ悩む人間として、若い世代と心をひとつにしようとします。

自由は、それを担おうとする者にとって、じつに重い荷物です。
自由は、与えられるものではなく、自ら選択すべきものであり、しかもその選択は容易ではない。

年老いたゲドが、語る言葉は、とてつもない重力を伴って、オレの腹にズシリとのしかかってきました。

自由という日本語は、freedomやlibertyといった英語を、福沢諭吉が日本語にあてはめて出来た言葉だといいます。
自らを由(よし)とする。
基準は自分にある、故に基準である自分を徹底的に律しなければならないのが、自由です。
容易ではありません。

オレは、ロックンロールを聴き続けることによって、そのことをだんだんと理解してきました。


まもなく発売される挿入歌『テルーの唄』も、好きです☆



手嶌葵 / 『テルーの唄』

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