2008年1月15日火曜日

あれから13年

今日、教育委員会の仕事で、成人式に出席してきました。
神戸での成人式なので、この時期は、勢い、震災関係の話題が出ます。

震災でお母さんをなくし、お母さんと一緒にプールや動物園に行ったたくさんの思い出をなくした。でも、震災後に設立されたあしなが育英会で、おなじ境遇の友だちに出会い、今では逆に、幼い子の世話をするようになり、子供らに元気をもらっている。そして最近、お母さんを知る人に、喋りかたや顔がお母さんに似てきた、と言われ、嬉しくなってお母さんに報告した。

震災のとき、おじいちゃんとおなじ部屋で寝ていて、自宅は突き上げるように揺れて全壊。気がつくと、目のまえに壁が迫り、がれきに囲まれて、すごく怖かった。でも、おじいちゃんがしっかり抱きしめてくれて、励ましてくれた。
正午近くになって救出されたけれども、おじいちゃんは、その日の夜に亡くなった。
おじいちゃんは和牛飼育の名人で、いつもかわいがってくれた。中学生のときに調理しになることを決め、魚好きのおじいちゃんに、得意の魚の煮付けを食べてほしかった。地域で慕われたおじいちゃんのように、信頼される料理人が目標。

そういうスピーチをね、いくつか聞いて、しんみりとしてました。

13年まえの1995年の1月17日、朝5時46分に、ドーンという、地の底から突き上げるような衝撃がやってきて、大阪から神戸の一帯は、グチャグチャにされました。

その日は、オレの誕生日でね。
でも、この日を誕生日だと思うことは、もうないですね。

当時、オレは、大阪の北摂は豊中というベッドタウンに住んでいて、建物の倒壊こそなかったですが、家のなかはグッチャグチャ、皿やらビンやらの大半が割れ、CDは散乱し、CDのプラケースは割れまくり、2台あったテレビの1台がひっくり返ってブラウン管が割れ、食卓のテーブルは部屋の端まで吹っ飛び、エアコンの室外機がぶっ飛んで壊れました。

普通の地震とはまったく違っていて、ドーン!と、下から突き上げるような衝撃だったので、最初は、爆弾かと思ったもんです。
南米のペルーに住んでいたときは、過激派の連中がよく爆弾を爆発させていて、そんときの衝撃とよく似ていたのですね。

オレはそのとき、ペルーで結婚した嫁さんと一緒に住んでいて、ふたりして、マジでテロか?って顔を見合わせたんです。
でも、もちろんテロなんて日本でそうそうあるもんじゃないから(相前後してオウム真理教がやらかしてくれましたが…)、テレビつけたら、えらいことに…。

あまりの出来事で、部屋中が散乱して足の踏み場もない状態なんだけれども、しばらくは、なーんにも出来なかったです。
そのあとも余震が怖くてね、そっから数ヶ月はエレベータに乗れなかったほどですわ。

でもね、翌日だったか翌々日だったかには、神戸に向けて走ってました。
幸いにしてオレの知り合いはほとんどが無事だったのだけれども、神戸には、嫁さんの知り合いの外国人がたくさんいて、彼らが、かなり深刻な被害に遭っていて、それを迎えにいこう!ってことになって。
電話がなかなか通じなくて、でも国際電話がわりあいと通じやすかったので、香港の知り合いをベースにして、そこに伝言を託けるかたちで連絡とってました。まだ、ネットもなかった時代のことです。

高速道路が波打って倒壊していて、あんな風景、あとにも先にも見たことがないです。
垂直に建っているはずのものが大きく歪んで建っているのを見ると、平衡感覚がおかしくなりますね。三半規管って、視覚からの情報があって初めて機能するんだな、ということを、そのときに実感しました。

迎えに行った外国人は10人以上で、皆、家をなくしてるから、オレの家に寝泊まりしてました。
最大で、11人がオレの家で寝泊まりしてました。広い家じゃないから、もちろん雑魚寝で、それこそ足の踏み場もないくらいだったけれども、なんだか楽しかったですね。
いろんな国の言葉が飛び交ってね。公用語を決めよう!ってなったんだけれども、英語とスペイン語とアラビア語以上に絞りようがなくて、誰かがスペイン語を英語に翻訳して、その英語をまた誰かがアラビア語に翻訳して伝えてって、伝言ゲームみたいになってました。話がね、よく食い違うんだよ(笑)

知り合いの外国人も、知り合いの知り合いの外国人も、何人もピストン輸送して、そうしているなかで、オレは、長田のオバァ連中と知り合うことになったのでした。

長田は、在日コリアンやらうちなんちゅーやら、いわゆる故郷を離れた人たちが住んでいる土地です。それも、住んでいたというよりは、そこに押し込められた、そこにしか住むことが出来なかった、という土地です。
水はけが悪くて、ようするに、下層の土地。

大規模災害というのは、皆が一様に被害を受けているように見えて、じつは、如実に格差が出るものでも、あるんですね。
持たざる人たち、ギリギリの生活を余儀なくされてきた人たちが、ひとたび災害に遭うと、悲惨です。欠けてしまったものを、自力で埋め合わせる余力は、もう、どこにも残っていない状況でしたね。

その状況に、一番怒りを覚えていたのは、嫁さんでした。
彼女は、格差があたりまえにあるペルーで生まれ育ってますから、持てる者が持たざる人と手を繋ぐのはあたりまえの環境で、生まれ育っています。
当時、ボランティアの意識が国中に芽生えはじめていたとはいえ、彼女の目から見て、長田のオバァたちの置かれた状況は、怒り以外の何者でもなかったのですね。

看護婦の資格を持っており、もともとボランティア精神も旺盛だった彼女に引っ張られるかたちで、オレも、長田によく行きました。
それから13年が経って、今もまだまったくおなじことを思うけれども、長田のオバァたちが生き延びるための最大の障害になっていることは、笑い、です。
身寄りがないので、そもそもが孤独です。そして、テレビは、長田のオバァのような年寄りには、笑いを提供してくれないのですね。
一日に、一度も会話がない。言葉を発することもない。あはは、と、笑うことがない。
これはね、やっぱり、生きる気力を萎えさせますよ。
孤独死は今もあるし、死ねばニュースになるけれども、死なないまでも、会話がない、言葉を発することがない、あははと笑うことがない、という生活は、死んでいるも同然です。そして、その生活は、なかなか一般には知らされません。
そのことの重要性を、オレは、当時も、そして今も、ずーっと痛感します。だからこそ、せめて、笑わせてあげられることでも出来たら、と、思って、オレは、長田に遊びにいってます。
ボランティアという言葉はどうでもよくて、オレは、遊びにいってるだけだなあ。

当時、嫁さんが、よく言ってました。
キリスト教には慈悲の精神があるけれども、なにも慈悲の精神でボランティアをやってるんじゃない。看護婦をやってきたんじゃない。そうではなくて、自分が必要とされる場所に身を置いて、それこそ、自分の働き如何で、誰かの生殺与奪を左右しかねないような、自分が強烈に必要とされる場所に身を置いていると、生きている実感を、これ以上ないくらいに感じることが出来る、と。
必要とされる場所に自分の身を置くことで、歓びを実感することが出来る。だから、私は、誰かのお世話をしているようでいて、じつは、その人たちによって生かされているんだ、と。

オレも、長田のオバァたちのところに遊びにいくようになって、近頃やっと、ぼんやりとそのことがわかってきました。

その嫁さんも、9年前に、アフリカのニジェールという国へ看護婦のボランティアに行ったきり、戻ってきませんでした。
内戦で欠けてしまった人々の身体と心に、某かを埋める作業をしに、彼女はニジェールに行ったのでした。
彼女が属していたボランティア団体は、災害地や紛争地にいち早く到着して、医療面からの適正なサポートを、政府や思想や社会体制によらずに、行なってきたところです。
そして、彼女が赴いた現場で、ゲリラ戦が起こりました。
そのゲリラ戦で亡くなったのは、数十人とも百人以上とも言われています。
今もって、正確な数字はわかっていません。



さて、これはずっとあとになって気がついたことなのですが、震災の最大の悲しみは、名前が残らないことです。

大量死の最大の悲劇は、亡くなった人の名前がない、ということです。
どこそこで、誰それが、これこれの理由で亡くなりました。享年○○才。
とは、いかないのですね。
そうでなはなくて、震災のときは、こうでした。
○月○日現在、推定死亡者数○○人、まだ増える模様。
言うまでもないことだけれど、人にはそれぞれ固有の生があって、だからこそ、固有の死があるはずです。名前は、それを象徴しています。名前のある死があって初めて、その人は、それまでの人生、生きて存在したことになります。
それが、ない。

いろんな人生があるけれども、どんなにしんどくても、そして最期がどれだけあっけない死であったとしても、誰のもとにも知らされる死であったなら、そこには、そこには固有の生があったことが確認されます。
死が記録され、人々の記憶のなかに残ってこその、生です。

死が知らされない、ということは、一周忌も三回忌も七回忌も十三回忌も五十回忌もなく、なにもなく、思い出すきっかけもなく、やがて忘れ去られます。その人が生きたことそのものが、人々の記憶から忘れ去られます。

弔い、死を知らしめることによって初めて、その人の生が完結し、完結することによって、その人の生が、人々の記憶に残り、その人は、この世に生きたことになります。

それが、大量死を生む場所では、ない。
その人が、生きたことになっていない。
これ以上の悲劇は、ないですね。
自分が生きたことが、誰にも認められない。想像したら、ぞっとしますよ。
○月○日現在、推定死亡者数○○人、まだ増える模様。
ニュースでときどき耳にするフレーズだけど、死者に名前がないということは、そういうことなのですね。

幸いにして、オレは、嫁さんの亡骸を確認し、オレの手元に取り戻すことが出来ました。
彼女の死を無名の死にすることなく、名前のある、固有の死とすることが出来ました。

震災のとき、嫁さんがニジェールで亡くなったとき、その後、オレは、アメリカ軍によるイラクへの侵略戦争を取材しにいったのですが、そのときにね、やはり、無名の死ということを、つくづくと考えました。

嫁さんを殺してしまった戦争というものの正体を少しでもいいから知りたいと思って、オレは、さまざまな手を使って、戦時下のイラクへ行きました。取材のかたちをとったのは、そうしなければ入国が叶わなかったからです。それとて、取材という、仕事の体裁を整えるのに、ずいぶんと苦労しましたが。

イラクで見たことや感じたことをここでつらつらと書くのにはスペースが少なすぎるけれども、ひとつ、挙げるとするなら、ここにも無名の死がたくさんあって、やっぱりそれが一番悲劇だなあ、と思ったのですね。

あの戦争で亡くなったのは、イラク人だけではなく、アメリカ兵もです。
しかし、亡くなったアメリカ兵は、亡骸を回収され、それぞれが棺に納められ、星条旗に包まれ、家族のもとに戻され、○月○日○時○分、○○にて機関銃の一斉掃射に遭い、名誉の戦死、と、固有の死を与えられます。彼の死を知らしめることで、彼の生が、たしかに生きたことが、そこで確認されます。
ほかならぬ、メディアが実名を挙げて報道しました。
一方で、イラク人はどうだったか。イラク兵やイラクの民や草の死を、メディアは、個別に実名で報道したのか? してないですね。

イラクとアメリカとでは、国力も戦力も圧倒的な開きがあるのは承知しているとはいえ、アメリカによって殺された人々のために費やされてきた言葉は、殺されたアメリカ人のために費やされているそれに比べ、情けなくなるほど少ないですね。
アメリカ人の誰かの死を悲しみ、憤り、戦争や厄災そのものを憎しみとする言葉は、何万何億と紡がれてきました。でも、イラク兵やイラクの民草の死を悲しみ、憤ったりした言葉は、世界中で、どれほど紡がれたのか。
この彼我の差は、呆れるほど偏っていて、ほとんど、不当と呼んでいいほどです。
文学やジャーナリズムは、人の死は平等だと説くのだけれども、嘘ですね。ここには、言説の救いがたい非対称性が、あります。ほかならぬ、文学やジャーナリズムこそが、人の死を平等に扱いません。
国力や戦力の差というものは、とりもなおさず、人命の単価の相違、しかも、桁違いの価格差を生んでいるのだということを、文学やジャーナリズムが無自覚に、認めているに等しいです。

震災をきっかけとして、オレは、大量死というものについて、ずっと考えてきました。
また、考えざるを得ない時間を歩いてきたようにも思います。

あれから13年。
毎年、神戸の成人式では、震災のことが語られ、1月17日には、あちらこちらで、追悼集会が開催されます。
あのときの体験を血とし肉とし、今も伝え続けている人が、たくさんいます。

それはきっと、亡くなっていった無名の死、固有の死を与えられなかった匿名の死に、名前を取り戻し、そうすることで固有の生を、その人がたしかにこの世に生きたのだという証を取り戻す作業なのだと、オレは思っています。

長田のオバァたちは、それこそ、櫛の歯が欠けるように、ひとり、ひとり、と、亡くなっていくのだけれども、この人たちの死を無名のものにしてはいけないなあ、と、この時期、毎年思いますね。
オレも忙しいからさ、そんなことをしょっちゅう考えているわけではないけれども、この時期はね、どうしても、そういうことを思います。

あのとき、神戸で出会ったりすれ違った人たちのことやら、嫁さんのことやら、我が家で団体生活を送った外国人たちのことやら、長田のオバァのことやら…、いろんなことを、思い出しますね。

もう、13年かあ。

今、相方さんがいてくれてよかったなあ、と、つくづくと思うんですよね。
そういう人たちと過ごした時間を持っているオレを、丸ごと受け入れてくれてね、一緒に歩いていってくれる相方さんがいるというのは、とても幸福なことです。
今現在のオレは、そのことにとても満足しているし、感謝もしています。

13年という時間は、決して短い時間ではなく、それぞれがそれぞれの固有の生を歩き続けているのだとしても、この時期だけはね、神戸の人たちは皆、おなじようなことを思うんだろうなあ。

人というのは、つくづく、ひとりでは生きていないもんですね。


あと2日もすれば、また、時計の針が止まったあの時間がやって来ます。
また、神戸中にろうそくの灯がともります。
オレの誕生日はね、今では、神戸中で、ろうそくの火が灯る日となっているのですよ(笑)

震災を機にね、素晴らしい歌が生まれたのをご存知ですか?
ソウルフラワー・ユニオンの中川クンがつくった、『満月の夕』です。
彼らは、震災を機に、活動の形態を大きく変えました。
エレキギターを三線に持ち替え、ピアノをアコーディオンに持ち替え、ドラムをチンドンのタイコに持ち替え、電気が復旧していなかったころから、長田の公園で、オジィやオバァを励ますために、流行歌の演奏会を、何度も何度もやって来ました。
そうやって、聴く者すべてを飲み友だちにして、一緒に生きていこうや!って、仲間の輪をひろげていきました。
中川クンとは、神戸で何度か顔を合わせましたね。
彼はいつも、理念なんかよりも先に、具体的なアクションを起こしてますわ。

音楽というのは、パンにも塩にもならないけれども、人の、手と手を繋ぎますね。そうやって、どれほどの人の心の、欠けてしまったなにかを埋めてきたことか。そうすることで、彼こそが元気をもらってきたことか。
17日の日にも、たぶん、どこかで出会うんでしょう。

18日の夜20:00〜20:45、NHKで、『かんさい特集 そして、がれきの街に歌は流れた…。阪神大震災から13年』という番組が放映されます。ソウルフラワー・ユニオンの『満月の夕』が、どうやって生まれてきたのかが、紹介されるみたいです。
大阪以外の番組表がどうなっているのかわからないけれども、機会がありましたら、ご覧になってみてください。


さて、15日と16日は、オレのマイミクさんの関西チームで新春大カルタ大会&きりたんぽ鍋宴会☆
そして、17日は、長田のオバァたちと一緒に、オレの誕生日と震災追悼にかこつけて、宴会☆

宴会が続きます〜。


ソウルフラワー・ユニオンの『満月の夕』はYouTubeに落ちてなかったので、今回は、渋谷毅バンドにいたジャズ・シンガーの酒井俊のライブ映像を。

本日の1枚:
『満月の夕』
酒井俊バンド

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