2007年4月23日月曜日

国際語としての英語を話すということ


安倍首相が、アメリカのニューズウィーク誌のインタビューに応じて、従軍慰安婦問題に言及したことがニュースになってます。

一部、英語で受け答えしたらしいですね。
やめておけばいいのに、と思いました。

以下、オレが、特に政治家が英語を話すことについて思うことです。

自分の国に生まれ、そこで大人になっていくというかなり長いプロセスのなかで、母国語の構造と性能を、その精緻で微妙な隅々にいたるまで、人はほとんどなんの苦労もなしに身につけていきます。
そしてその母国語を使うときには、自分を守りつつその自分に出来るだけ多くの利益をもたらすことを目的に、きわめて主観的に、利己的に、自由自在に、母国語の性能を駆使します。

そのような駆使が出来れば出来るほど、人は母国語の性能の内部に、閉じ込まれていきますね。

その構造や性能の特徴的な傾きの内部深くに、もっとも強くその人を囲い込み呪縛するものが、母国語です。だから、人は、母国語からだけは、逃げることが出来ません。

外国語を知らない人は母国語も知らない、という有名な言葉があります。
誰だったか忘れたけれども、むかしのヨーロッパの文豪のような人が、残した言葉です。
母国語しか知らない人は世界というものを知り得ない、という意味に解釈することが出来ます。世界を知るとは、いくつもある外国となにごとかを目指して関係をつくり、その関係を発展的に維持させていくことです。そのためには、人は、母国語の外へ出なければならない、と、その文豪は言っています。

外国の人を相手に外国語を使うということは、母国語によって自分の頭のなかに精緻に構築された世界、つまり発想や思考そして表現の仕方のすべての、外に出るということです。
きわめて当然の、しかも基本中の基本のようなことだけれども、オレがテレビで見る英語を話す日本人たち、特に日本の政治家には、この基本的な認識や理解が、ごっそり抜け落ちているように思えてなりません。

英語は、国際語だと言われています。
でも、イギリスやアメリカの国内で使用されている、それぞれに固有の文化的歴史的な背景を持った言語を、そのまま国際語などにすべきではないと、オレは思います。
第1、国際語という言語は、どこにもありません。
今、世界中でもっとも多くの情報を乗せ、もっとも広く、そしてもっとも数多くの人たちのあいだを飛び交っているひとつの言語という意味では、英語、特にアメリカ寄りのそれは、たしかに国際的に通用する言葉です。国際、という視野のなかでとらえた日本は、否応なしに、英語のうえに乗っかっています。
日本人が学習によってある程度まで身につけた外国語としての英語の性能や機能の仕方という、1本の細い柱によって、国際という世界のなかの日本は、かろうじて支えられています。

世界に対してアメリカがこれまで維持してきた影響力、アメリカが保ってきた人材の質や量、アメリカという国の基本的な性格、たとえば異質なものを多く受け止めては自国の力に変えつつ、自由や民主あるいは市場経済などを世界へ広げていったことなどが、複雑に重層的に作用した結果として、アメリカの英語は世界中に広く普及しました。
特に、アメリカの英語が国際語のようになり得たもっとも本質的な理由は、その英語が基本的な性格として持っている、開かれた抽象性だと、オレは思っています。
開かれた、とは、英語という言語の正用法の全域をきちんと学んで身につけ、それ以後の努力と現場での修練を積むなら、どこから来た誰であろうとも、自由に出入りして活用することの出来る言語世界がそこにある、という意味です。

そして抽象性とは、アメリカ国内のネイティブ文脈の外で、そのような文脈とは無関係でありながら、おなじ言語によるおなじ論理を誰もが駆使することが可能な世界、というものを意味しています。

ネイティブな母国語としてではなく、学習して身につけた外国語、つまり汎用性や共通性が極めて高い言語のひとつとして、世界のどこにおいても機能させることの出来る特性が、英語にはあります。
日本も含めて、世界の全体を今支えているのは、このような英語です。日本の人たちがこれからも英語の学習を続けていくのなら、学ぶ英語は、このような開かれた抽象性のある英語であることが、もっとも望ましい。

ネイティブの閉じられた文脈のなかへわざわざ囲い込まれるために、出来るだけネイティブに近い英語を学ぼうとする作業は、ちょっと変わった個人的な趣味の位置へ降ろすといいと、オレは思うのですよ。

固有の文化的なそして歴史的な背景を強固に持つ言語、つまり母国語は、その文脈のなかで生きる人たちの言葉として持たざるを得ない基本的な性格のひとつとして、母国語の文脈の外にある異質なものすべてに対して、閉じられた防衛的な機能を発揮します。自分たちの文脈の外にある数多くの異質なものすべてに対して、自らの正当性を可能なかぎり強く主張するための言葉、それが母国語です。

母国語によって長い年月をかけて培われた思考や発想の外に出ることは、ごく控えめに言っても、至難の業です。その難しさや面倒さに比べたら、思考や発想は母国語のまま、それを薄皮一枚の英語にくるんでしゃべったり書いたりするほうが、はるかに容易いですな。
外国語を習いはじめたときの、わずかな単語とごくかぎられた構文しか自由にならないもどかしい苦さの次の段階には、多少は使えるようになった英語で母国語の思考と発想を包み込むという、落とし穴が待っています。この落とし穴は案外と魅力的なのですね。
なぜなら、自分の側の論理をいくらでも主観的に利己的に自在に表現し抜く母国語の、かりそめの代用品になり得ますから。

母国語の呪縛の外に出るためには、母国語の教育を初等から高等にいたるまで、徹底的につくり替えなければなりません。この、途方もない作業のあと、今度は英語なら英語の抽象性、つまり論理の筋道のつくりかたやその提示の仕方や受けとめかたを学ぶ作業へ、入っていかなければなりません。
国際、と呼びうる領域のなかで、英語に自分を託するとは、きわめておおざっぱにいって、そのようなことです。

この大変な作業を引き受けて身につけないことには、外国という異質なものとともに公共の場に立つという、最初の第1歩が踏み出せません。

そのような英語はいったいどんな英語なのかと問われたら、オレは、ダライ・ラマの英語が印象に残っている、と、答えます。
日本の首相、政界や財界の高い位置にいる人たちが、ダライ・ラマのような英語を駆使したなら、そうでない場合に比べて、日本の運命は大きく違ってくるに違いない、と、オレはにらんでいます。
英語の開かれた抽象性をきっちり学んで自分のものとした、誰とでも共通の場に立てるという意味において、大変にインテリジェントな、したがってどこまでも機能してやむことのないグローバルな言葉としての英語を、ダライ・ラマの英語からは感じます。

安倍さんの英語は、そうではありません。



今日は雨が降っていたので、木漏れ日系の音楽を…。
変わってるけど、すっごく好きです☆



avey tare & kria brekkan / 『Pullhair Rubeye』

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