2006年2月22日水曜日

伝説の芸人 舞天





仕事関係の人から、貴重な貴重なDVDをもらいましたよ。

沖縄の伝説の芸人、舞天(ブーテン)についてまとめたDVD。

皆さん、ご存知ないですかね、舞天さんのことは?

戦前から戦後にかけて、沖縄に現れた天才芸人です。昨年亡くなった照屋林助、現存する最高の三線弾きの登川誠仁ら天才中の天才に、決定的な影響を与えた、もう、大天才中の大天才芸人です。

戦後の沖縄を救った人と言われています。

太平洋戦争が終結に向かっていたころ、沖縄は、日本からは見捨てられた土地でしたね。
1945年4月、米軍艦隊1300隻が沖縄沖に集結し、上陸戦を展開しました。日本軍部の方針は、米軍にあえて沖縄を攻めさせて軍を消耗させ、本土決戦を少しでも引き延ばす、というものでした。沖縄は、最初から捨て石だったわけです。だから、日本兵は、ほとんど反撃してません。
負けることが折り込み済の戦争は、住民を巻き込んでの生き地獄となっていきました。そのあたりのことは『ひめゆりの塔』などに詳しく書かれていますね。

上陸した米軍は、沖縄を南北に縦断し、住民をことごとく捕虜とし、ちょうど沖縄本島の真ん中に位置する石川に収容所をつくり、捕虜となり難民となった沖縄住民を、収容します。
それまでは小さな村だった石川は、いきなり人口3万人の大きな町のようになったのですが、住民全員が捕虜であり、難民。

ひとつの屋敷に4、5家族。沖縄の家族は大抵が大家族ですから、その人数約100人が、押し込められたとか。

当時の様子を描写した民謡に、
「あなたもわたしも艦砲射撃の食べ残し〜♪」
なんてのが、嘉手苅林昌(彼もまた沖縄民謡界の大天才でした。沖縄の民謡界は天才の宝庫ですから)によって歌われています。

捕虜・難民となった住民は、昼、米軍が建設する日本本土爆撃用の飛行場の建設にかり出され、夜になると、亡くした親族を思い涙に暮れる日々です。
そんな収容所の町に、あるときから、不思議な噂が飛び交いはじめます。
夜になると、おかしな芸人が現れる、と。

その芸人は、夜、勝手に他人の家に上がり込んで、いきなり奇天烈な歌や踊りを披露しては、家中を爆笑の渦に巻き込み、やがて風のように去っていく…。

「お祝いをしましょう!」
そう言って、舞天は、お通夜のように静まりかえった家に勝手に入り込んでいくのです。
たくさんの人が死んで、みんな家族を亡くしたのに、なにがお祝いだ!もちろん、そう返されます。あたりまえです。そこで、舞天は言います。
「これから先、ずっと死んでいった人たちの年を数えて生きていくのか? たしかに、たくさんの人が死んだ。しかし、同時に、たくさんの人が生き残った。これからは、生き残った人たちが元気を出して楽しまないと、死んだ人たちが救われない」
と。
そして、
「ヌチヌ・グスージサビラ!(命の御祝いをしましょう!)」
と叫ぶのです。
そこからは、舞天の独壇場です。おかしな歌や漫談を披露し、みんな表情を緩めていき、最後は、爆笑の渦です。

その当時の舞天がつくり、歌った歌を、登川誠仁が再現しています。
みわたすかぎりの便所街〜、ドラム缶の近代便所〜♪
エッサエッサと、ドラム缶から汲み出す特攻隊〜♪
あとは靖国参るじゃないかいな〜♪

当時の収容所のトイレはドラム缶で、それがいっぱいになると、地中に埋めたんだそうです。すると、井戸水が臭くなって飲めなくなった、と。

舞天とは、そんなことを歌い、笑いをとり、一瞬にしてみんなを幸せにしてしまう芸人さんだったのです。

本名、小那覇全孝。
沖縄の今帰仁村に生まれ、師範学校を首席で卒業します。
その後、教員になるものの、歯科医を目指して上京。現在の東京歯科医大に入学します。
当時、東京では浅草を中心に大正ロマンの花が開き、無声映画や田谷力三の浅草オペラが全盛を極めた時代です。
この文化に触れたことで、全孝の才能は一気に開花します。
大学の文化祭で演じた『レ・ミゼラブル』での乞食役が受けに受け、彼は、舞台が病みつきになったのでした。
25歳、沖縄に帰郷した全孝は、嘉手納で歯科医院を開業すると、瞬く間に有名人となっていきます。ただし、それは、単なる歯科医としてではなく、なにをやらせてもプロ顔負けの芸達者な歯医者さんとして。
当時、消防団といえば、本職の劇団員並みに芝居が上手い人が揃っていたのですが、その人たちよりも全孝のほうがはるかに芸が上手い。しまいには、那覇のホンモノの役者が、先生!といって訪ねてくるくらいの有名人になっていました。
このあたりから、全孝は、舞天を名乗り、芸人としての活動を活発にしていきます。

しかし、そんな舞天の人生を狂わせたのは、戦争でした。

1941年、真珠湾攻撃、太平洋戦争突入。
すでに舞天が団長を務めていた消防団は警防団と名を変え、舞天は、バケツリレーや竹槍訓練を指導する立場に立たされていました。
そんななかでも、彼は舞台に立ちます。
そして、大胆にも、戦争を皮肉るネタを披露するのですね。しかも、当時は禁止されれていた沖縄方言を、あえて使って。

たとえば、「世界漫遊」というネタがあります。
「その国の一番大将は変わった名前〜。ヒットラーと言うんだよ。なんでそんな名なのかと聞くと、あの国をひっ盗る、この国もひっ盗るから、ヒットラーと名付けたんだよ〜。とても変なやつだった〜。乱暴者に違いない〜♪」

「三毛猫の歌」は、こんなのです。
私は近ごろ近所で評判のかわいい三毛猫よ〜♪
表からみんなが私を覗いてるの〜♪
この、三毛猫というのは、沖縄の若い女性を隠喩したもので、みんなとは、日本兵のことです。恋人が戦場に行ってしまった沖縄娘を誘惑する日本兵のことが歌われているわけです。

面白い歌詞に乗せて、相手を批判することで、自分たちのアイデンティティを守ろうとしていたんですね。

やがて、米軍の沖縄上陸。名護に避難した舞天も捕虜となり、1945年5月末には石川の収容所に連行されてきます。
そのころ、米軍は、占領地沖縄の組織化を進めていました。
臨時政府を打ち立て、石川は突如として沖縄の首都となり、戦後初の沖縄の行政機関である沖縄諮詢会が組織されます。
米軍は、沖縄を上手く統治するには芸能が欠かせない要素だと分析し、収容所でも評判になっていた舞天を、文芸部芸術課長に任命します。
収容所内に舞台をつくり、生き残った芸人を組織し、舞天は、沖縄芸能界のリーダーとして、ステージを取り仕切っていくのです。
そのころです、舞天が、夜の見まわりと称して、悲しみに暮れる家をまわっては、押しかけ、「命の御祝いをしよう!」と、家中を爆笑の渦にしてしまっていたのは。

後に、登川誠仁は、こう語っています。
下から上を笑え、と。一般の庶民が権力者を笑う、弱い者が強い者を笑う、戦争に負けたものが戦争に勝ったものを笑う、舞天さんの芸は、そんな芸だった。なにからなにまで影響を受けた。
と。

ワダブーショーを確立させ、笑いと音楽をミックスさせた巨人・照屋林助は、舞天の直接の弟子でもありました。彼は、舞天について、こう語っています。
とにかく人を分け隔てしなかった。そして、あらゆることを八方丸く収めることの天才だった。芸の達者さもさることながら、その資質があったからこそ、舞天師匠は、悲しみに暮れる家に入り込んでいっても、最後は爆笑の渦を巻き起こすことが出来た。あらゆる意味で、天才です。
と。

昨年亡くなった照屋林助といえば、沖縄民謡界では、笑いと歌の神さまです。
林助の息子林賢は、りんけんバンドで沖縄民謡をコンテンポラリーなものにしようとしています。
御年76歳の登川誠仁は、「ナビィの恋」にも出演し、今なお、芸の幅を広げようとしています。
竹中労に風狂唄者と絶賛された嘉手苅林晶の独立独歩の姿勢は、明らかに、舞天の影響を受けています。

沖縄芸能界の巨人、至宝、天才と呼ばれる人たちのすべてが、舞天を手本に育っています。
今まで、話に聞くしかなかった舞天の映像と歌を、やっと観ること聴くことが出来ました。
ゲラゲラ笑い転げること必至! しかも、その根底に流れているものは、反骨です。とてもとてもパンクなスピリッツなのです。

歌は世につれ世は歌につれ、と、いいます。
この言葉の半分は正しくて、半分は間違っています。
歌が世に連れることはあっても、世が歌に連れたことは、ただの一度もありません。
でもね、音楽は、人個人を、幸福にすることが出来ます。
そして、ユーモアは、人が生き延びるために必要なものです。
小那覇舞天は、その両方を、天賦の才でもって表現した人です

その姿を観て聴いている今日は、至福です。

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