2006年2月25日土曜日

『竹田の子守唄』

ソルウフラワーのチンドン別働隊、ソウルフラワー・モノノケ・サミットが、3枚目のアルバムのレコーディングを行なっています。『竹田の子守唄』を新たにレコーディングしなおすらしいですわ。


『竹田の子守唄』は、1960年代の終わりに、赤い鳥というフォーク・グループがヒットさせた美しい歌です。しかし、奇妙なことに、歌の出身が被差別部落であるがゆえに、また歌にそのような内容が織り込められているがゆえに、放送などのメディアでは疎外されてきたという歴史を持っています。

70年代初頭、『竹田の子守唄』、はギターを抱えた青年たちがよく取り上げた歌でした。と同時に、『イムジン河』や『チューリップのアップリケ』などとおなじように、公然とうたってはいけない歌だという風評も、ありました。
全国的にヒットした歌が表舞台では消え、しかし広く根強く一般の人たちは覚えている。『竹田の子守唄』は、そのような、一種独特のシコリを抱えながら現在にまで至っています。

いわゆる、放送禁止歌ですね。
放送禁止歌について、少し書いてみます。

ソウルフラワー・モノノケ・サミットが歌っている『復興節』がそうです。
『復興節』は、もともとが関東大震災のときにつくられた歌です。作詞は、演歌師として有名な添田唖蝉坊(そえだ・あぜんぼう)の息子の添田さつき。メロディは中国の『沙窓』という曲をもじったものです。家なんか焼けちまっても、オレたち江戸っ子の気持ちは塞いじゃいないぜ!という、なかなか勇ましくて感動的な歌ですわ。
これを、ソウルフラワー・モノノケ・サミットが、阪神大震災の直後に蘇らせました。
添田さつきのオリジナルから、リーダーの中川クンがつくった阪神淡路復興へのメッセージへと歌い繋がれるのが、新しい『復興節』の素敵なところです。
この曲が入ったCDは、今、リスペクト・レコードという独立系のレコード会社から出ています。しかし、本来、この歌は、大手のレコード会社から出る予定でした。
中川クンによると、はっきりとレコード会社から言われたわけではないが、やめてくれ、らしきお声がかかって、結局出すことが出来なかったらしい、とのこと。
「東京の永田にゃ金がある、神戸の長田にゃ唄がある〜♪」という部分が問題らしいですね。それと、「ナガタ ちんどん エーゾエーゾ」、このあたりもダメらしいのです。
震災でも一番に深刻な被害を受けた地域のひとつである長田には、被差別部落があったり、たくさんの在日コリアンが住んでます。そういう地域が歌い込まれている歌は、平たくいえば、どんな抗議を受けるかわからないから発売したくない、というのがレコード会社の本音ですね。
歌のラストには、「阪神復興 エーゾエーゾ 淡路復興 エーゾエーゾ 日本解散 エーゾエーゾ」とあります。
オレには、まったくそのとおりの立派な歌だと思えるのですが、これもマズい部分に触れているらしいです。
ただ、どこがどのように悪いのかは、はっきりと指摘さることはない。
そして結果として、歌を評価してくれた小さなレコード会社からCDが出ました。この歌が入ったアルバムは、思いのほか、よく売れましたね。評価も高く、あたりまえのことですが、抗議など一切来てないとのこと。

この、『復興節』のゴタゴタは、『竹田の子守唄』の背景とも密接につながっています。
『竹田の子守唄』は、かつて日本三大民謡のひとつとまでいわれた歌です。それが、次第に放送では流れなくなった。やめておいたほうがいいよという状態になっていきました。
歌の出身地が被差別部落であったからです。
言論・表現の規制というのは、初めから目に見えるかたちで、暴力的に、やめろ!などとはなりません。もっと巧妙ですよ。
この歌は市場に出さないほうがいいみたいだとか、歌わないほうがいいみたいだとか、本心を明らかにせずに遠まわしにゆっくりと締めあげていく。歌は徐々に隅のほうにおいやられていく。その典型が、『復興節』であったり、『竹田の子守唄』であったりします。

さらに、放送禁止扱いを受けた歌をもう少し。
今ではエア・プレイ出来るようになってきましたが、『ヨイトマケの唄』がそうです。
美輪明宏、当時は丸山明宏と名乗ってましたが、その美輪明宏が1960年代に歌っていた歌です。胸に迫る、すごい歌です。
ヨイトマケというのは、建築現場で地ならしをするための重労働、あるいはその人、掛け声をいい、多くは女性が従事する仕事、のことです。
肉体労働を厭うことのなかったお母さんの歌ですね。
ヨイトマケのお母さんが自分を育ててくれた、自分が今あるのはヨイトマケをやってくれたお母さんのおかげだという素晴らしい歌なんですが、そういう職種の人たちを歌っているからダメだと、放送ではかからなくなりました。
オレには、それがなぜダメなのかまったく理解出来ないのですが、しかし、自主規制というか、組織として、やめておいたほうがいいようだ、という、暗黙の規約にひっかかった代表的な曲です。
「父ちゃんのためなら、エンヤコーラ、母ちゃんのためなら、エンヤコーラ〜♪」ではじまるこの歌を、40代より上の方であれば、一度は聴かれたことがあるかと思います。美輪明宏はシャンソンの人ですね。シャンソンは、日本では、おフランス趣味みたいに成金を競いあうような音楽だと思われがちですが、本来は、大衆の苦しみや笑いをストレートに描き出す音楽です。美輪明宏はホンモノのシャンソン歌手なので、『ヨイトマケの唄』が書けて、今でも歌っている、というわけです。

『ヨイトマケの唄』では、土方、という言葉が問題になるらしいんですね。
でも、この歌は、土方を卑下しているのではない。誇らしいものとして描いているんですね。額に汗して働く土方の姿は、どこも悪くないはずです。でも、土方とは汚らしい呼びかただとか、働いている人から抗議が来るんではないかという身勝手な思惑が、じゃあやめといたほうがいいな、という判断につながるらしい。『復興節』や『竹田の子守唄』とおなじですね。
『ヨイトマケの唄』というのは、日本を代表する60年代の大名曲だと思うのですが、これも放送という舞台から消されていく歌となりました。最近、ようやく放送でもかかるようになりつつありますが。

60年代は、政治の季節でもありました。
フォーク・ミュージックがその代表的ですが、大衆のための音楽を、ときに政治的に、前向きに意識的に歌っていこうという時代でした。
体制側と、学生たちなり活動家なりが、厳しく対立しました。後者の立場にあった多くのシンガーたちは、自分たちには、それまでの規制や常識を取り壊して歌うべきだ!と、主張しはじめます。当然のように体制側との衝突が起きます。60年代に、いわゆる放送禁止歌がずいぶんと現れたのは、こういう時代背景も無視するわけにはいきません。

美輪明宏の『ヨイトマケの唄』の少しあとに、岡林信康の作品である『手紙』と『チューリップのアップリケ』も放送禁止になりました。 
どちらも、ある程度の年代の方であったらご存知だと思いますけが、部落差別をテーマとした歌です。
『手紙』は、深い仲となった「みつるさん」と「私」が結婚の約束をし、「みつるさん」はおじいさんから店を譲られることになります。でも、妻となる「私」が部落の娘であったことがわかり、「みつるさん」は店を継ぐことが出来なくなった。だから「私」は、身を引きます。
という歌。
岡林信康というミュージシャンは、デビュー当時から、わかりやすいメロディと歌詞で歌をつくるのが、じつに上手な人でした。団結歌『友よ』などは、その代表例です。
しんみりと歌われる『手紙』にも、彼の個性がよく出ていると思います。
『手紙』の歌詞は、部落の女性が差別と直面し、身を引いてしまう歌です。この点については、解放運動を進める側から批判された歌でもありました。歌は、歌詞の内容を追うだけでは理解出来ないはずなのですが、それよりも先に、歴史的に意義ある歌にちゃんとスポットライトが当たるようにしてから、批判なり評価なりをすべきでしょう。部落の結婚問題にしても未だに解決しているとは言いがたいので、『手紙』の文面は、今も生きているはずです。

もうひとつだけ。
『涙の王将』という、語りものがあります。
河内音頭の五月家一若という、今、一番上手い音頭取りのひとりですが、その一若が1997年に発表した音曲です。
『涙の王将』は、将棋の天才と言われた坂田三吉をテーマにしています。
通天閣の下の貧しい長屋で育って、無学で、将棋しか頭にない男。かつて北條秀司という高名な劇作家が、『王将』という物語のなかで、坂田三吉をこのように描きました。北條秀司の『王将』は、新国劇の舞台にはじまり、同名の映画シリーズになり、村田英雄も歌にし、これらのことごとくが大当たりとなりました。一若の『涙の王将』は、こういった一連の「王将もの」の最新作です。
しかし、この、『涙の王将』は、これまでに知られてきた「王将もの」とは、ずいぶんと違います。生まれからして違う。なにしろ、堺なので。

 坂田三吉 生まれた家は傾く軒の屋根瓦
 四畳一間の板敷に子共6人枕を並べ
 眠る夜さ夜さ母親は
 草履おもての手内職
 喰わんがための夜なべする

坂田三吉は、1870年、堺の、かつて舳松と呼ばれていた村に生まれます。
将棋が好きで、近所の賭け将棋で負け知らずの存在になって、それだけに留まらず棋界へ乗り込み、自力で天才棋士という栄誉を勝ち取った人物です。
『涙の王将』のなかの坂田三吉は、学校へはほとんど行けなかったかもしれないが、苦悩しながらも将棋だけで人の道を切り開いた人物であると語られます。
北條秀司が描いた新国劇の『坂田三吉』も素晴らしいのですが、もはや時代が違います。史実を改めて調査し直し、実像を捻じ曲げないで語られる新しい物語、その典型的な一例が、『涙の王将』です。

河内音頭では、「王将もの」は、かつてから語られてきました。
鉄砲光三郎という、昭和30年代に大変な人気だった音頭取りも『王将物語』をやってます。
鉄砲さんの名唱でもある『王将物語』は、おそらく1960年代初頭の録音だと思うのですが、当時の全国区的な人気者としては、ある意味で画期的な内容を盛り込んでいます。
坂田三吉は、宿敵であり一生の友でもある関東の関根金次郎が日本一となった祝いの席で、彼は草履の鼻緒を贈るのです。自分で編んできた鼻緒を、おめでとうございます!と、手わたす。鉄砲光三郎の声も、このシーンでは特に燃え上がっています。
坂田三吉は、堺の被差別部落の出身です。それを暗示するのが鼻緒なのです。草履おもてなどの仕事の多くは、部落の人たちが担ったものでした。
部落、といった言葉は使ってはいないものの、わかる人にはわかる、わかってもらいたいというメッセージが、鉄砲光三郎の熱唱に出ているのです。
ヒトはカネじゃない、心だ、と考える坂田三吉が、自分が出来うるかぎりの心づくしを畏友である関根金次郎へ贈ろうとしたとき、そこには彼のこれまでの人生が映し出されます。もちろん部落民であることも。
『王将物語』を書き下ろした鉄砲光三郎は、坂田三吉を単なる将棋の上手な男ではなく、差別をも乗り越えて将棋に生きようとした男として描こうとしています。だからこそ、鼻緒が必要だった。

しかし、『ヨイトマケの唄』が土方をテーマとしているというだけで放送されないのが、日本です。『王将物語』を録音した60年代初め頃のことを考えると、発売禁止、放送禁止のギリギリ手前を鉄砲光三郎は狙ったのだろうなと思います。
五月家一若の『涙の王将』は、そういった事実を踏まえながら、物語を編みなおしているわけです。
『涙の王将』には、故郷へ帰ってきた老境の主人公に向かって、幼なじみが、あなたは私たちの星である、輝き続けてほしい、そして一緒に闘おうではないか、と、挫けそうになっている坂田三吉に勇気を与えるシーンも出てきます。
河内音頭は、河内家菊水丸が今もやっているように、もともとは新聞詠(しんもんよ)みとも呼ばれていました。つまり新聞でありジャーナリスティックな批判精神を備えた音曲です。だから、歴史的にいろいろなメッセージを盛り込んできたという特色があります。

やっと、本題。
『竹田の子守唄』は、非常にヒットしながら、ヒットしたのちにラジオ、テレビでかからなくなったという、不思議な名曲です。
赤い鳥が歌う『竹田の子守唄』は、こんな歌詞です

 守りもいやがる 盆から先にゃ
 雪もちらつくし 子も泣くし

 盆がきたとて なに嬉しかろ
 帷子はなし 帯はなし

 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りも一日 やせるやら

 はよも行きたや この在所こえて
 むこうに見えるは 親の家

京都に、竹田という地区があります。その竹田のなかに被差別部落があります。
『竹田の子守唄』は、そこに生まれた子守唄です。
正しくは、守り子唄ですね。子守りをする子どもが赤ちゃんを抱きながら、あるいは背負いながら歌っていた歌。これが、いわゆる原曲です。
竹田の守り子唄が、村を出ることになったのは、次のようなことがきっかけでした。
関西を中心に活躍されているクラシックの作曲家で尾上和彦(当時は、多泉和人)が、青年時代、うたごえ運動が盛んだった60年代に、竹田地区の隣保館へ合唱団を連れ出かけました。そこで知り合ったのが地域の「はだしの子グループ」という一団で、尾上和彦は彼らと一緒に地域の歌をつくろうということになりました。
彼はこの交流のなかから、竹田に伝わる古い歌をよく知っている女性と知り合いになります。彼女は「はだしの子グループ」のメンバーのお母さんでした。
彼女はたくさんの歌を尾上和彦に教え、そのなかのひとつが、『竹田の子守唄』だったのです。
尾上和彦はすぐにテープを家に持ち帰って、一晩で楽譜に移し変えました。
当時の尾上和彦は、『橋のない川』という東京芸術座の舞台の音楽の依頼を受けており、すぐに『竹田の子守唄』を舞台に上げます。舞台のための音楽なので、メロディだけ。これが、この歌が村を出た第一歩です。
そしてその後、尾上和彦は、件のお母さんにもうたごえ運動のサークルに入ってもらい、歌ってもらいました。
これを聴いたフォーク・シンガーの大塚孝彦が高田恭子と一緒に歌いはじめます。さらに、この2人の歌を聴いた赤い鳥のメンバーが、素晴らしい歌だからと、自分たちのレパートリーにも加えました。
そして、赤い鳥の『竹田の子守唄』が入ったシングル盤は1969年に出て、大ヒットになったわけです。

『竹田の子守唄』は、ヒットするにつれて、歌のルーツがそれなりに知られるようにもなっていきました。
たとえば、在所、という言葉が出てきます。在所とは、京都地方では被差別部落を指します。
『竹田の子守唄』は、『復興節』や『ヨイトマケの唄』とおなじように、歌の出身が京都の被差別部落の歌らしいぞというところから、テレビ・ラジオでは流さないほうがいいみたいだと、そういうような風潮になっていきました。人間を貶めるような歌ならいざ知らず、『竹田の子守唄』は、差別を告発する歌でもあるのにもかかわらず。

ところで、『竹田の子守唄』には、もうひとつあります。
いわゆる原曲のひとつなのですが、これは、かつて件のお母さんが尾上和彦のために披露した歌とは、違うものです。
明治から大正、昭和の初めにかけて、守り子に出された少女は、竹田にかぎらずたくさんいました。彼女たちは、それぞれが『〜の子守唄』の作者だったわけです。
そんな、生き証人のひとりの肉声を録音したものが、存在していたのですね。
その曲は、赤い鳥の『竹田の子守唄』とはずいぶん違います。
歌詞は、こんなのです。

 こんな泣くぅ子よ 守りしぇと言うたか
 泣かぬ子でさい(さえ) 守りゃいやにゃ
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 この子よう泣く 守りをばいじる
 守りは一日 やせるやら
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 来いや来いやと 小間物売りに
 来たら見もする 買いもする
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか
 寺の坊んさん 根性が悪い
 守り子いなして 門しめる
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 久世の大根飯 吉祥の菜飯
 またも竹田のもん葉飯
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

 盆がきたぁかて 正月がきぃたて
 なんぎな親もちゃ うれしない
 どうしたいこーりゃ きーこえたーか

特に、赤い鳥の歌には出てこない「どうしたいこーりゃ、きーこえたーか」というフレーズは、なかなか説得力溢れる文句です。彼女たちは赤ん坊を背負ってますから、このくだりは、赤子の顔でも見ながら、私のメッセージが聞こえたか?というようにも受け取れるし、あるいは、当て歌というのか、守り子をさせる主に向かって、ツラ憎い!私をこんなふうにこの寒空で!と、訴えているようにも聞こえます。

これが竹田に伝わる元歌です。
かつての守り子唄なり、その周辺の歌というのはずいぶんリアリティのある歌が多いです。そして、悲しいことも、楽しいことも、怒っていることも、即興的にどんどん歌のなかへ盛り込んでいきました。
現在のような、歌といえばCDとかテレビの音楽番組、あるいはカラオケのように、メディアが発信している情報を享受するのが大半という生活と、かつての生活の現場とは、おなじ歌といっても、まるで違うのです。
「寺の坊んさん、根性が悪い、守り子いなして、門しめる〜♪」という文句が出てきますが、これもリアリティのある内容です。
この歌の主であるオバァは、
「子ども、背中で泣くやろ、泣いたらやっぱしぬくいとこへ連れていて、ほんでお寺のとこへ連れていて、手をこうやってゆすくって寝やそ思てお寺のかどへ遊びに行くね。そしたら、お寺のぼんさんが怒ってお寺の門閉めてしまうね。それを歌にしたんや」
と。
机の上で想像で書いた歌ではなくて、本当に現実として自らが体験したものを少女が歌にしているわけですね。若くちっちゃい女の子がこれをつくっているんです。こんな歌をつくり、歌ったのが、明治、大正の若い小さな子どもたちだったということです。

そういうふうにイメージを膨らませてみると、『竹田の子守唄』は、一見、寂しい歌のようでいて、ずいぶん違う景色が見えてきます。
たしかに、赤い鳥の『竹田の子守唄』にしても、風景は寒々としています。でもそれを歌うという行為は、凍えてしまいたい、死にたいと訴えることと、おなじではないですね。
寒空に向かって声を出すことで、身体にエネルギーを復活させる、あるいは、笑ってしまうやん!みたいな皮肉めいた力、密かに、バカヤロウ!と叫ぶエネルギー、そういうようなものも裏に秘めているからこそ、歌となります。
オレは自殺したい!といった曲を歌うロック・バンドがたまにいます。これを言葉どおりに捉えることはナンセンスなんです。歌を歌うという行為は、オレは生きたい!という感情の発露でしかないですから。
こんな状況を打ち破ってオレは生きたい、私は生を求めている、という心の叫びが、歌の原点ですから。

この、これまでに知られてきた『竹田の子守唄』とは違うヴァージョンを、今、ソウルフラワー・モノノケ・サミットがレコーディングしています。春か夏には、CDストアに並ぶらしいです。




赤い鳥 / 『竹田の子守唄』

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