2006年12月8日金曜日

庭を掻く



初めて石の庭に対面したのは、10代の終わりころのことでした。

夏の夕方で、今よりはずっと監視が緩やかだったから、オレは、ひとりで、長い廊下に座ったまま白い庭のモノクロームが暮れなずむのを眺めていたのでした。退出を促す若い僧侶がやがて現れ、オレが立ち上がるのを見届けると庭に降り、白い小石の表面を整えにかかりました。
それをゆっくりと拝見することはそのときのオレには許されなかったのだけれども、竹の道具で掻く、という文様のつくりかたを垣間見たことが、ひどく心に残ったのでした。

それからずいぶんと時間が経って、アフリカ・ザイールのクバのテキスタイルを見た折りに、はからずも、その石庭の印象がよみがえってきました。

クバ族はアフリカの優れた染色の仕事のなかでもとりわけ独創的な文様をつくり続けてきたことで知られ、画家のマチスがそのコレクションを愛蔵していたことが、写真家アンリ・カルチェ・ブレッソンのカメラ・アイに収められています。
クバ族のテキスタイルは、草ビロードと呼ばれるカットパイルの布と儀式用の礼装から成り立つのですが、いずれも驚くべき幾何学的なパターンを表現しています。とりわけ葬式の供えものであるカットパイルの四角い布に捉えられた図柄の抽象性は、彼らが、世界を幾何学的な記号の組み合わせとして解釈する、という研究家の言葉を如実に表していますね。

その研究家、メアリー・ハント・カレンバーグが、興味深いエピソードを披露しています。

かつて宣教師がクバの王へ贈りものとしてオートバイを持参したが、王はなんの関心も示さなかった。そこでオートバイを引き上げようと動かしたとき、王の眼が輝いた。タイヤの残した模様が、新しいパターンとして取り入れられることになった…。

この話は聞く者をさまざまに触発しますが、オレは小躍りして、ひとつの持論を出したのです。文様は、まず、動詞がつくってきた、と。
平面あるいは表面に、彫ル、刻ム、などの動詞がかかわって生まれる文様について、古代からの文化遺産の例を引くまでもありません。仏像のまとう布は、畳ムことによって生まれる襞の文様の神々しい例です。
そぎ落トス、削ルなどの意味を持つ、ハツルという動詞もあります。
1988年のヴェニス・ビエンナーレでフランスを代表したダニエル・ビュランは、自国のパビリオンでの建物の肌を見せることを作品としましたが、それはほぼ1世紀前に建築家が残した文様、すなわち石壁のハツった面と、動作を加えない面とが構成する、美しい縞模様の素肌を剥き出しにして見せることでした。

水紋、風紋は、自然が仕掛けた動詞のつくりだす文様と言えるのではないか?

では動詞でなく名詞で文様を見るなら、これまた花、鳥、草、樹、動物。自然界を模したものだけでも無限に存在しています。

そこでまたオレだけの定義になるのですが、名詞からは模様が生まれていきます。

バラの模様、つる草の模様、鯉の模様、ライオンの模様、のこぎり、かんなの模様、サムライの模様、子供の模様。すなわち、かたちと名のあるものたちの模様。

枯山水もまた、自然を模したものではあるのだけれども、そこにある文様の力は、ほとんど謎です。
小石の海の表面を掃くことで水の流れを現出し、小石を円錐形に積み上げることで山を表すと、初めに案出した人は宇宙の再構築を無意識のうちに行っています。日本の庭園で心が静まるのは、プリミティブ・アートを前にするのとおなじと言ったら突飛すぎるかも知れないけれども、根源的な力を捉えた文様、という共通項があります。

クバ族は自然の事物を単一の記号に省略し、抽象化します。
オレが見た一枚は、村落や田畑と思われるものが線による幾何学文様として地面をつくり、その随所に一段と厚みのあるモノリスのような長方形のパターンが浮き出たもので、それは、東福寺光明院の印象を思い起こさせるのでした。

四角いクバの布は死者の霊に捧げるものなので優れたデザインでなければ昇天出来ない、と、クバ族は図案を競い合います。成果をあげた文様は、未来的なイメージさえかき立ててくれます。

12月に入ったばかりのころ、急遽、仕事で早朝の東福寺に行くことになったのですが、その折、超がつく名庭の、文様を掻かせてもらいました。

寺院の庭の文様にも、鎮魂の思いは込められています。
無心にそれを掻く人になりたいと、その後、場所を重森三玲の作庭した昭和の名庭に移し、眺めながら、ずーっと思っていました。

いい体験をしました。

写真(左)オレが掻かせてもらった、東福寺方丈前庭です。
写真(右)重森三玲が作庭した昭和の名庭、東福寺方丈北庭、市松の庭です。

東福寺

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