2006年12月27日水曜日

ジェームス・ブラウンの思い出


この話は一回書いたかも知れんのですが…。

20年前の1987年、沖縄はコザで、ジェームス・ブラウンのコンサートが開かれたのでした。
このコンサートが、今思い出すだけでもゾクゾクするほど、素晴らしかったですな。ジェームス・ブラウンのコンディションは上々、そして米軍基地の黒人兵が大挙して聴きにくるという、時代も場所も最高のセッティングだったです、はい。

細野晴臣さんがこのコンサートをプロデュースしていて、そんとき、細野さんといえばYMOのテクノの人としか知らないオレには奇異に映ったのですが、そのコンサートをきっかけに、細野さんがいかにブラック・ミュージックを愛し、造詣が深いのかを知ることになるのでした。

コンサート終了後、市内のクラブ『なんた浜』に、嘉手苅林昌の琉歌を聴きに出かけたのでした。ジェームス・ブラウンをナマで観るためだけに沖縄までやって来たのだけれども、当時、ブラック・ミュージックに負けず劣らずで沖縄民謡に深く潜行しようとしていたオレにとって、嘉手苅さんやらの大御所をナマで観る絶好のチャンスでもあったわけです。
ジェームス・ブラウンのライブのあと、嘉手苅さんが毎日のように来ては歌っているお店で、騒いでいたのでした。午前2時過ぎ、夜更けもいいところだというのに、店内はコンサートから流れた客などでいっぱいでしたわ。このとき、オレは、嘉手苅さんの歌う八重山民謡を初めて聴いたのでした。普段、彼は八重山民謡ではなく、沖縄民謡を歌う歌い手さんだったし、沖縄民謡と八重山民謡は違いますからね。
嘉手苅さんが八重山の民謡『とぅばらーま』を歌ったとき、客席から、つんださや、つんだーさー、と、名調子の合いの手がかかったのでした。なんと、山里勇吉! 気づいて周囲を見てみると、いるわいるわ、照屋林助、国吉源次、登川誠仁など、琉歌の大御所各氏が。みーんな、ジェームス・ブラウンのコンサートから流れてきていたご様子で。
琉歌とジェームス・ブラウン、関係がないようだが、琉歌の各氏は、コンサートに感動し、対抗意識を燃やしたものと見えましたよ。そして、各氏を交えた琉歌ジャム・セッションは、夜が白むまで続いたのでした。いや、とんでもない夜だったな。
ジェームス・ブラウンと琉歌のダブル・メインのようなステージを体験したこの日は、今現在に至るまで、オレの音楽体験史上五本の指に入る体験でありますな。

このときの歌の多くは、八重山民謡だったのですが、今にして考えると、ジェームス・ブラウンのソウルに対抗しての八重山民謡だったに違いないのです。
八重山の音楽は、民謡と流行歌が未だ分化していない「原・うた」というような状態にあり、唄本来が持っている情感や躍動感を失ってはいません。だからこそ、ジェームス・ブラウンに対抗して、各氏が直感的に八重山民謡を選んで歌ったのだと考えたいのですね、オレは。

なんちゅーか、グルーブが荒削りで、全然ソフィスティケートされてなくて、でも、ちゃーんと、ショーアップされたものになっているという、じつにじつに、不思議な不思議な音楽。

死んだら皆聖人にされるのが常だけれども、ジェームス・ブラウン…、このオッサンはやっぱ、そんなところに収めてはイカンような気がしますよ。
粗暴でさ、独善的で、横山やすし的で、ジャンキーでアル中で、女好きで(笑)
その全部をひっくるめて、ファンキーだったんですよ。
公民権運動だとかグラミーとか、関係ないね。
正しく、どうしようもないロクデナシのためだけの、聖人でしょ。
享年73歳? 勝手に決めてんじゃねーよ。ずーっと、年齢不詳だったやん(笑)
嘉手苅さんも、そうでしたね。風狂人がまた一人、天に召されました。でも、クリスマスってところが、ジェームス・ブラウンらしいですな。

合掌。


本日の1枚:

James Brown /『Gettin' Down To It』

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