2006年12月12日火曜日

ルミナリエの夜に思う


ルミナリエ、行ってきました。


去年同様、今年も長田のオジィやオバァを引き連れての、参戦ですわ。
改めて思うのは、年に1回の墓参りみたいなもんだなあ、ということ。

墓参りというのは、死者のためにあるのではなく、生き残った人間が、これからも生き残っていくために、死者と語らうためにあるのだと思うのですが、オレにとってのルミナリエというのは、そういう場になってしまってます。

もうあまり思い出すこともなくなってしまったけれども、震災と震災以降に亡くなってしまった長田のオジィやオバァたちと語らいながら、その一方で、今もまだ生きる気力を漲らせているオジィやオバァと、ボケとツッコミの漫才のような丁々発止のやりとりで、ワーワーキャーキャー言ってます。

鎮魂、といっても、湿っぽくならないところが、長田のオジィやオバァのいいところです。

コリアンのオバァは相変わらずウチナンチューの悪口言ってるし、沖縄は本土と島とで差別があるみたいで、その出身地によってデカい顔したり小さい顔したりしてますわ(笑)
くだらないからやめろ!と言っても、生まれたときから染みついてることだから、聞く耳を持ちません。。
そういう、剥き出しの感情を露にしながら、生き延びてきた人たちを目の当たりにするとね、もっともっと生きることを一生懸命にやらないとダメだなあと、思うのです。
オジィやオバァは、いくつか修羅場をくぐり抜けてきて、それこそ残りの人生はグリコのオマケみたいなもんだとうそぶいたりもします。そうなんだと思うんですが、オマケにしてはヴァイアル・メーターはいつも振り切れっぱなしです。

いつからか、生かされているのだという感覚が、自身の裡に芽生えてきています。
天に召されたオジィやオバァと語らうたび、生かされているのだと実感します。
愛らしくもうるさいオジィやオバァと触れ合うたび、この人たちはなんだかんだ言って、オレを生かしてくれているなあ、と思うのです。
力があるからこそ、触れる人に自然と力を分け与えることも出来るのでしょう。

ロックンロールは、そこへ向かう憧れの音楽であり、ベクトルの音楽ですが、ソウル・ミュージックは、ただそこにあるだけで成立してしまっている、存在の音楽です。タフですね。

この、オジィやオバァを見ていると、ソウル・ミュージックが聴きたくなってきて、仕方ありません。
ルミナリエの夜、そういえば、毎年、なにかしらのソウル・ミュージックを、どっぷりと聴いています。


そんなわけで、今、久しぶりにこれを聴いてます。
これもまた、そういう意味でのソウル・ミュージックですね。誰がなんと言おうと。


小沢健二 / 痛快ウキウキ通り

0 件のコメント: