2006年11月18日土曜日

いろんな人がいるからこそ豊かなのではないか?

昨日、大阪大学が、来春入学してくる新入生に、高校の教科書を使って未履修の世界史の講義を行うと発表しました。一般教養課程に組み込み、単位も認定するとのことです。文科省は、前例がないし(←こればっか)、世界史は高校で学ぶのが原則なので推奨はしないが、大学側の現実的な対応として注目する、とコメントしました。
大学側は、網羅主義や暗記の強要はせず、歴史のダイナミックな流れと最新の学説を教え、社会人として最低限の知識を習得することを目標とする、と発表しています。

こうなると、履修しなかった人は、ラッキーとしか言いようがないですな。高校の教師につまらない授業をされるよりも、大学の先生におもしろい話を交えながら教わったほうが、絶対におもしろいに決まってますから。

喫緊の問題は現実的な対処を考える、根本的な問題とは分けて考えるべきです。オレは、今回、大阪大学が発表した措置は、現実的な対処として、悪くないと思います。


さて、昨日の続き。

まず、オレと相方さんの話からです。
オレと相方さんを結びつけたのは、とあるバンドでした。

当時、オレは、そのバンドのブレーンのようなことをしていました。
大手のレコード会社に勤務するオレの友人がそのバンドを偶然見つけ、惚れに惚れ、自分が勤務する会社とはべつに自主レーベルを立ち上げ、そこから自主盤を発表する、そういう経緯のなかで、オレは、そのバンドのブレーン的な役割として、後方支援していたのです。

相方さんは相方さんで、独自のやりかたでニットをやっていたのですが、そのバンドのマネージャーと知り合い、バンドの女性ボーカリストの舞台衣装を担当するようになっていました。

そういう場所でオレと相方さんは知り合い、ま、そっから付き合うまではいろいろあったのですが、そんな話はキッパリと割愛するとして(笑)、まずは、そのバンドの女性ボーカリストのことを話します。

彼女は、中学時代、いわゆる不登校児童でした。
中学時代というよりも、小学校時代からですね。
みんなとおなじことをしなければならないことへの違和感と反発、イジメに消極的に加担している自分に対する怒り、そうしたことが遠因となって身体に影響を及ぼし、トランス状態になる…。
親は学校に行けと言うし、子は、学校には行かない、行きたくない、と、部屋の床に体育座りをしたままテコでも動かない。
そういう、壮絶だけれども、今となってはありがちな風景です。

彼女の精神的な不安定さが鳴りを潜め、トランス状態に陥るような身体的不調が改善されるようになるのは、彼女の不登校をご家族が受け入れ、彼女の人生なのだから彼女なりに納得するように生きればいいと、方針転換したことにはじまります。
それまでのご家族の格闘や右往左往ぶりについては、それこそ壮絶なものであったことも、誰しも、ある程度の想像はつくと思います。ええ、凄まじかったと思います。

そんなかたちで、彼女は小学校時代のある時期から学校に行かず、中学校には一度も行かず、親の商売の手伝いをすることで、少しずつ平穏な生活を取り戻していくんですけどね。このあたりの話、涙も笑いも怒りもてんこ盛りであるんですが、長過ぎるのでまたの機会にでも書いてみます。(じつは彼女に、生まれてから今までのことをすべて語ってもらうインタビューをしたことがありまして、オレ、18時間の超ロング・インタビューしたことがあるんです)

そして、彼女は、映画監督になりたい、という夢を見つけるんです。
その夢を叶えるのに高校は要らんな、というのが彼女の結論だったんですが、親としては、それでも高校くらいは行ってほしいと思うもんじゃないですか。ましてや中学すら行っていないのだから。

そこで彼女は、週3日しか通わななくていい通信制の高校を見つけてきて、そこを受験することにしたんですね。ある種、親御さんの希望に応えるための妥協案みたいなもんです。で、そこを受験して、受かったら、とりあえず3日だけ通ってみて、それで判断する、と(笑)

ムチャな話ではありますが、親御さんとしたら、高校に行く気になってくれただけでもありがたいもんで、受験勉強を手伝うんですよね。因数分解を親が汗ダラダラで子に教えたりするんです。
よく考えてみたら、この、通信制高校の受験が生涯で初めてのテストだったんですが、元来が頭のいい子ですから、合格するんですよ。
で、合格していざ学校に行ってみると、これがおもしろいのなんの!

通信制の高校だから、年齢制限がなく、それこそいろんな人が通ってきているんですよね。
それこそ、92歳の人間国宝の浮世絵師のおじいちゃんがいたり、40代の普通の主婦の方がいたり。
同年代でも、やっぱりどっかしら傷を抱えている人が多くて、それでもみんな自主的に学校に来ているわけだから、真剣です。真剣だからこそでしょうけど、イジメがないんですよね。

こういう学校は、聞いているだけでおもしろいですね。
彼女は不登校時代に長唄を習っていたのですが、今、ボーカリストをしていることからもわかるように、長唄の師匠を目指しませんかと、教室で先生から誘いを受けているくらいの腕前なんです。才能があるんですね。
だから、通信制の高校でも、芸能の授業になると、先生の代わりに手本に指名される。浮世絵師の人間国宝が生徒にいるのだから、浮世絵についての授業は、当然、先生の出る幕はありません。人間国宝が、お話してくれるんですよ。で、体育の時間になると、92歳の人間国宝のおじいちゃんも混じって、短距離走ったりするわけです。まあ、死なん程度にでしょうけど(笑)


この話と昨日の日記に書いた夜間中学の話と重なるところはそれほどないんですが、夜の学校や通信学校には、昼間の学校にない豊かな側面があるなと思ったんです。

まず、誰しもが、学びたくて来ている点。
これについては、後述します。(今後、機会があれば)

次に、年齢も国籍も超えていろんな立場のいろんな種類の人が、ひとつの教室にいる点。
これは、案外と大きいなあと思いました。

いじめは、人間が生まれつき抜きがたく持っている性質のひとつなのかもしれません。
誰かを貶めることで、自分が優位にありたい、という感情は、程度の差はあれ、誰しも持っているのだと思います。人間の業であり、原罪の一種だと言ってもいいかもしれません。

でも、自分が優位に立ちたいという感情は、同質のグループにいるときにこそ起こるものだとも思うのです。
サッカー選手同士だと優劣をつけたくなる場面もあるでしょうが、サッカー選手とタクシーの運転手と花屋の店員さんで構成されている集団で、誰がなんの優位もへったくれもないと思うんですが、どうでしょうか。

じつは、通信制高校をいくつか取材したことがあるのですが、いじめがある印象は、オレにはなかったんですね。いくつか取材した先でその点は必ず訊いたのですが、どこも、「ない」と。
まず、老若男女入り乱れているので、競争原理があまり働きません。誰それよりもいい点をとったとか、ではなく、皆、知りたいことを知りたいからこそ通っているので、自分がそれを吸収出来たかどうか、興味の中心はそこなんです。なので、他人と競争するのではなく、自分との闘いです。
競争原理はある程度必要だと思うのですが、それはさておき、ないと、ギスギスした雰囲気もなくなります。

それと、幅広い年齢層の人が通っているということは、学力のあるなしにかかわらず、社会経験を積んでいる人が、そこにはいるということです。
いじめの風景は、いじめの標的にされている人、いじめている人、いじめに加担している人、傍観している人に分かれますが、社会経験を積んでいる人がそこにいれば、傍観しない人もいるでしょう。

そんなことをつらつらと考えていると、

バラバラの年齢でひとつのクラスを構成する方法はないのかなあ、と思うんですよ。
たとえば、ひとつのクラスに小学校の1年生~6年生までが混在しているような、そういうクラス編制は出来ないんですかね。過疎どころではない離島の小学校なんて、そういうクラスがあるじゃないですか。本当はそれだけじゃなくて、いろんな国籍、もっと上の年齢層の人も入れたらいいんでしょうが、それは現実的じゃないので、せめて、そういうクラス編制を、現実的なイシューとして俎上にあげるべきだと思います。

多様性を学ばせるのは今の教育の喫緊の課題だと思うのですが、ならば、画一的なクラスではなく、出来うるかぎりの多様な人が混在するクラスを編成するのは、悪くない方法だと思うのです。
もっとも、それに則した授業を進めなければならないので、科目別にそうしたプログラムをつくらなければならないのは、言うまでもないです。
でも、昨日の日記で書いた夜間中学の先生のように、現場で試行錯誤しながら教育プログラムをつくっている人は、いるんですよね。
公務員は独創的な仕事を常としていないでしょうが、どんな仕事でも個別の問題があり、それに対する解決策を考えなければならないわけで、誰でもがそれをしています。だから、学校の先生にも、そうした新しい教育プログラムの創造を、なんとしてもやってもらうしかないじゃないですか。

いじめやいじめ苦による自殺(これはひとつの問題として捉えるべきではありません。別個の問題です)が発生すると、学校はきまって、
「再発防止に努めます」
と、言います。
でも、
なにをするのか、具体的なプログラムを持っているとは思えないんですよね。生徒の信号を注意深くキャッチすると言いますが、どんな信号がそれで、仮にキャッチしたとして、クラス運営を行なううえで、どのように対処するべきなのか、教師が、具体的なプログラムを学んでいるとは、まったく思えないんです。ほとんど、教師個人の人間性に頼っているのが実情じゃないですかね。

いじめなんてね、いくら注意されたところで、やりますよ。見つかれば、次は見つからないところでやる。どんどん陰湿になる。
だから、いじめが起きない環境をつくるしかないと思いますけどね。

そのために、教室に多様な人間を混ぜること。
オレが考えているのは、それなんです。

もうひとつ。
いじめ苦による自殺です。
いじめ予告を文科相に送りつけたりと、浅ましすぎる出来事も多発しているし、もう、なにからなにまで暗澹たる気分になります。みんなのまえでズボンを下ろされたから自殺、教師もいじめに加担していた…、あまりのひ弱さ、あまりの常識のなさにも、暗澹たる気分になります。
でも、
ほとんどは、誰かに相談することで解決するんじゃないかとも、思うんですよ。
今の子供って、人間関係のチャネルが少なすぎる気がします。
学校、家、塾。それだけじゃないかな。
本当は家でなんでも話せるのならそれに越したことはないけれども、それはそれぞれの家庭の親御さんに頑張ってもらうとして、それ以外のチャネルがもっとたくさんあればいいなあ、と思います。
むかしは、社会がありましたね。近所のおじさんとかおばさんとか。今、そーゆー人はいないでしょ。
学校をね、カルチャーセンターのように、大学の社会人対象の授業のように、市民講座のようにできないですかね。
いろんな人が学校に出入りする。そして、クラスと交流するんです。そうすることで、失われた子供のチャネルを増やしていく。避難所をね、いっぱい用意してあげるといいとオレは思うんですけどね。
学校にいろんな人が出入りすることで、新たな問題が発生することはあるでしょう。ロリコンもヘンタイも多いしね。でも、どっちのリスクが大きいか天秤にかけたとき、オレは、いろんな人が学校に出入りする環境のほうがいいのでは、と思います。犯罪予防は、それこそ監視カメラを置くなどして、監視を強化することで予防出来るところも大きいですから。

なんかね、
今の教育問題をメディアを通して見ていると、
教師の質の低下、
クラス運営における問題解決のためのプログラムの不足、
生徒の精神力の低下、
親子のコミュニケーションの不足、
学校と社会の隔絶、

問題が山積しているように感じるんですよ。どれから手をつけていいやら、と思ってしまいます。
途方に暮れますが、とりあえずは、こんなことをぼんやりと考えています。
じつは来月、神戸市の教育委員会の人と会うんですが、こういう話をぶつけてみようと思っています。

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