2006年11月5日日曜日

哀悼 白川静大兄


http://www.kenmin-fukui.co.jp/00/fki/20061102/lcl_____fki_____008.shtml

先日、10月30日、白川静大兄が96歳で天に召されたとの報を耳にしたとき、少しですが、いい知れぬ喪失感を感じました。

そして、若くして大兄の近しいところで過ごされた経験をお持ちのマイミクさん、久モさんは、この事態をどう受け止められるのだろうか、という、どちらかといえば下衆な部類に入ることに関心の目が移っていったのが、昨日、一昨日あたりのことです。

でも、一向に、それらしい日記がアップされてこない。
それとなく遠まわしに催促をしてみたら、思われるところ膨大にあるであろう心の裡のなかから、いくつかの断片を抜き出し、静謐で透明な文章を書かれたのでした。


それをつらつらと拝見しながら、オレは下衆だなあと思ったわけです。
書かれないのには、やはりそれなりの理由があったのでした。
考えるまでもなく、久モさんは、喪に服し、静かに泣いていたのでした。
書いて、誰かに見せびらかすことではない。
そこに考えが及ばず、久モさんはなにを思い…、と、遠まわしではありますが催促までしてしまったオレは、やっぱり下衆です。久モさん、ゴメンナサイ。

甲骨文字や金文などの文字を研究し、漢字の成り立ちについて、それまでの通説を180度引っくり返してしまった大兄の偉大な業績について、ここで書きたいのではありません。
その業績と、それを受け取ったひとりがどのように影響を受けていったのかということについての断片は、久モさんの上記日記に書かれています。

しかし、大兄の業績もさることながら、おなじくらいの畏怖を感じるのは、大兄の、モノを知り尽くすことへの欲求、執念のようなものです。

1910年、福井市内の洋服屋に生まれ、順化尋常小学校。
13歳に大阪に移り、大阪の法律事務所に住み込みで働きながら夜間学校に通う。
立命館中学教諭をしながら立命館大法文学部漢文学科を卒業。
同大助教授などを経て、1954年から教授を務めた。文学博士。
2005年、印税5000万円を寄付し、立命館大内に「白川静記念東洋文字文化研究所」を設立、名誉研究所長に就任。

この、大幅に省略された略歴だけを見ても、人間が持つ、知るということへの欲求の際限のなさが、わかるかと思います。

高橋和己が全共闘時代の大学紛争の風景について書いた小説のなかに、こんな挿話があります。
大学が次々と学生によって占拠されていくなか、S教授は、「オレの研究を邪魔する権利は誰にもない」と言い放ち、ひとり研究室に閉じこもって、紛争などどこ吹く風で、研究に没頭されていた。

オレは、世知に拘泥されることなく、頑固に自分のペースを崩さない人が大好きです。その、信念が好きなんです。
無頼とは、己のみを頼りにするということですが、自らに頼む、という姿勢を貫き通すことの困難さは、誰もが大兄のように出来ないをみれば、明らかです。

開高健がベトナム戦争に従軍して書いた渾身のレポートで、一番印象に残っているのは、銃撃戦が行なわれているさなかであっても、今日も釣りに出かけ、河岸から釣り糸を垂らす老人の話でした。

オレは、そういう自由が好きです。

大兄は、甲骨文や金文を含め、3000年を超える歳月のあいだに生まれたありとあらゆる資料を、自由自在に操って考察します。頭のなかは、常に、3000年のあいだを行ったり来たりしている。こんな人は、大兄を除いて、人類すべての歴史を眺めわたしてみても、稀なのではないですか。
殷や周についての学問的知識を伝授するだけでなく、そこから、今日の世界を深く広々と照射するところが、大兄の、なにものにもとらわれない自由さの凄みだったように思います。

『字訓』『字統』『字通』に、お世話になった者として、哀悼の意を表します。


今日は、静かに小玉さんを聴いてます。


こだま和文 / レクイエム・ダブ

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