2006年11月1日水曜日

英語よりも公共道徳を学ぶほうが先


我が家は市場の真上にあるんですが、真南隣には、インターナショナル幼稚園というのがありまして。ん? インターナショナル・キンダーランドやったかな? スクールやったかな? 相変わらず適当な記憶で書いてますが、ようするに、外国人のお子がいっぱい通園していて、先生というか保母さんは皆外国人で、園内の公用語は英語で、日本語はまったく話されていないという、異国の空間が、あるんですよ。

出来たのが、1年前。
このあたりの地域は韓国人、中国人も多いですから、最初はそうした人たち向けの保育施設かいなと思ってたんですが、どーやらそんなことはなくて、入園しているのはパツキン・碧眼のアングロサクソン系ばっかり。オッシャレーな香りをブンブンに振りまいてくれてます。

ま、それはよろしい。

よろしいが、天満みたいな下町にアメリカン・スクールなんかつくっても仕方ないやろ!と思ってたら、パツキン・碧眼のお子らに混じってですな、結構な数の黒髪、大和男児・撫子園児もいてるんですわ。

そいつらがね、こんなところに!というような下町のゴチャゴチャした路地を、迷惑顧みずに車走らせてやって来る親の車に乗ってね、送迎されてるんですわ。

0歳児からの教育の一環か?
3歳児からの英語か?

親、必死なんでしょうね。
これからの時代、英語くらいは、ってことですか。
初日の知らないときならいざ知らず、こんな狭い路地に毎日毎日車で乗りつけてくる連中の公共性のなさから容易に推測出来ますが、幼いうちから英語を身につけさせて、その利点はなにで弊害はなにで、ってことなんて腑分けして考えてないんでしょうね。
教育産業から広告出稿してもらって書かれた記事もどき広告かなにかに感化され、また周囲の教育熱にも煽られ、盲目的に、英語くらいは!ってとこですかね。あたしゃ、お子の英語よりもその親に公共道徳を身につけさせることのほうが、先決だと思いますが。

ということもさることながら、オレは、日本語も覚束ないうちに英語を習うことはないと思いますよ。

言葉というのは、所詮は記号でしかないわけですが、たとえば、政治について考えるとき、そういう言葉を知っていないと、考えることが出来ません。
今、核保有の是非についての議論が勃発する気配にありますが、「核」「非核三原則」「集団的自衛権」といった言葉を知らない人にとっては、チンプンカンプンです。
どのような思考であれ、日本語を母語とし、日本語を日常的に使う日本人であれば、すべて日本語で物事を考え、理解します。
「非核三原則」という言葉を知らなければ、その人は、日本の核保有問題について考えることはない、ということです。

オレは印刷やwebにかかわる仕事をしていますが、業界の専門用語、「校正」「青焼き」(←古い!)「歯送り」(←これも古っ!)といった言葉を知らない業界の外にいる人は、あたりまえのことですが、言葉を知らない以上、その概念も知りません。

ああ、やっと言葉が見つかった。
その「言葉」を知らないということは、その「概念」を知らないということです。

高校生にもなれば、環境問題について一家言持つ人もいるでしょう。
「オゾン層」「温暖化」「水質汚染」…、そうした言葉を知り、言葉の意味を知ることで、はじめて、そうした問題について自分なりの意見を持つようにもなります。
環境問題について、幼稚園児と話しあってみようとは、誰も思わないでしょう。
誰しも、幼稚園児が、そうした言葉を知っているとも、言葉の意味を知っているとも、思わないからです。

つまりね、
自分が知っている言葉以上の概念や考えを、人は持つことが出来ないんです。

というようなことをつらつらと考えたのは、22歳のとき、必要に迫られてスペイン語を勉強していたときでした。
勉強すればするほど、自分が日本語をいかに知らないかということに、気づかされるんですよ。

こないだ時代祭に行ったので、それを例に引きますが、「十二単」という言葉があります。あの、豪華絢爛な衣装のことですね。日本語にしかない言葉です。ひとことでスペイン語に置き換えるのは不可能です。だから、説明的なフレーズを宛てるしかないんですが、その際、「十二単」というものの概念を日本語できっちりと理解しておかないと、翻訳出来ません。「宮中にいる女性が儀式の際に着る衣装」とでも説明するしかないのでしょうが、それとて、概念をきっちりと日本語で理解しておかなければ、他言語に翻訳することなど、到底不可能です。

だから、たとえ世界中に溢れている概念でも、その人がその言葉を知らなければ、その人にとっては、その概念は存在しないもおなじってことです。

で、幼児のうちから英語を学習させるということ。
日本語も覚束ないうちに?
母語が日本である以上、頭のなかは、日本語です。
なにごとも、日本語で考えます。
でも、その日本語が未成熟だったら? 英語も未熟なままですね。
日本語で深く物事を考えられるようになって初めて、英語でも同様のことが出来ます。
「集団的自衛権」という日本語を知らない人に、それに該当する英語を知る術はないんです。

帰国子女のダメな例は、そこですね。
どの言語も深く習得していないから、思考が浅いんです。
母語が覚束ないうちに外国語を習得することの弊害は、まさにそれですね。

公共道徳のない親を持った子が、公共道徳という日本語、概念を知らずして、いくら英語を学んだところで、それに該当する英語を理解する術はありません。

オレは、スペイン語を勉強したのが22歳でよかったと思ってます。
その年齢なりの日本語を理解していたから、同様のレベルのスペイン語を習得することが出来ました。
語学は早いうちからとはいいますが、自分の経験に即していうと、それは誇大広告の類いです。
語学の入口は、ひたすら覚えることですが、それは集中力があれば出来ることです。集中力を最大限に発揮するのには、強力な動機が必要ですから、それがあれば、つまり、必要に駆られる強力ななにかがあれば、出来ます。
24時間スペイン語に囲まれている環境と、寝る時間以外のすべての時間をテキストと向き合う集中力があれば、半年で不自由なく使いこなせるようになりますから。

もっとも、幼児期から外国語を学ぶ利点もそれなりにあるのですが、かなり長くなってきたので、それはまたの機会にでも。

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