2006年11月17日金曜日

夜の金八先生

この半年ばかり、TVの最大の楽しみは、NHK教育で月~木の22:25から放送されている『知るを楽しむ』だったりします。もっとも、録画しておいて一気見、というパターンばっかりですが。

番組のサイトはこちら。


曜日毎にテーマがあって、そのテーマに沿って月4回程度のシリーズで構成されてます。
たとえば、今だと、
月曜は『この人の世界』というテーマで、江戸の絵画の傍流にある曾我蕭白や伊藤若冲なんかを、美術評論家の辻惟雄さんが紹介してくれます。
火曜は、パーソナリティが影響を受けた人物を紹介していくもの。今だと、人類学者の中沢新一が民俗学者の折口信夫を紹介しています。この欄は、過去に、美輪明宏が寺山修司を紹介し、リリー・フランキーが松田優作を紹介したりしています。
水曜は、『人生の歩き方』と題して、1人の人が4回にわたってインタビューを受けています。岸恵子、赤瀬川原平、萩本欽一など。
木曜は、『歴史に好奇心』の名のとおり、主に江戸時代に焦点を当てて、ひとつのテーマを掘り下げてます。武士の家計簿とか、江戸の教育など。今、西洋料理と日本人というテーマでやってます。

どれも丁寧につくられていて、しかも切り込み方がスリリングで、見ていて飽きません。

えーっと、べつに『知るを楽しむ』のアフィリエイトをしたいわけじゃないんです(笑)

今、この番組の水曜日『人生の歩き方』に出演しているのは、見城慶和さん。夜間中学の先生を停年までの42年間を勤め上げた人です。
山田洋次監督がつくった映画『学校』のモデルになった先生らしいのですが、オレは、その映画もこの先生も、どちらも知りませんでした。

夜間中学と聞いてイメージすることは、高度経済成長の時期、さまざまな事情で義務教育を受けるべきときに受けられず、それでも大人になってから学びたいという人が通っている場所、といった程度のものでした。
あるいは、今だと、不登校児童が通うディアスポラ的な場所、というイメージです。

そういう一般的なイメージは持っています。で、そのイメージは、あながち大きく外れてもいなかったのですが、番組を見、詳細を知るにつけ、ここは素晴らしい現場だなあ、と思ったのでした。かなり、感動的ですよ。

まずね、60歳を過ぎた人が、読み書きを習っているんですよ。それも、小学校高学年レベルの国語の読み書き。その年になるまで小学校高学年レベルの読み書きを身につける機会がなかった不幸はさておき、その年齢になり、人生も晩年に差しかかり、それでもなお、学びたいのだなという姿勢は、感動的です。

そういう風景が、いくつか流されるのですが、でもそれは、言っちゃあ悪いが、オレが持っていたイメージの範疇を超えるものではありませんでした。

あるとき、
20代の青年が学校の門を叩きました。
で、当然のことですが、まず、氏名と生年月日を書いてください、と、先生は彼に言います。
すると青年は、
「氏名ってなんですか?」
と。
70年代の高度成長時代のころのことです。オレはすでに生まれています。オレが生きはじめた時代に、識字率がどの程度だったのか知りませんが、95%以上はあったんじゃないかなと、なんとなく想像します。
でも、「氏名」の意味がわからず、自分の名前も生年月日も書けない20代の青年が、いたんですね。
それだけでもかなりびっくりしましたが、おもしろいのは、ここからです。
大人にひらがなやカタカナを教えるというのは、案外と難しいものなんですよね。教えるほうだって、お手本になるようなキレイな字を書かなくちゃならない。
まずね、
黒板に○を描いて、○のかたちと似た字を、○の円周をなぞるように書いて教えるんです。
あ、お、の、ぬ、ね、などのひらがなを、そうやって教えます。
次に、卵形の楕円を黒板に描きます。楕円を横にして、円周の両サイドをなぞるようにして、「い」のかたちを教えます。横にした楕円の円周の上下をなぞると、「こ」が出来ます。楕円を斜めにして、「ひ」を教えます。
そういう教えかたなんですね。
オレたちが習った教わりかたと、全然違います。そして、こういう教えかたは、もちろん、文部省のプログラムにはないし、現場の教師が、試行錯誤しながら現場でつくりあげた教育プログラムなのだそうです。
20代の青年は、いわゆる職人さんです。でも、いくら腕1本で食べていける職人さんだといって、読み書きがまったく出来なければ、生活が出来ません。作業日誌だって書かないとダメだろうし、図面や仕様書を読むこともあるだろうし、生活の場に基本的な読み書きは絶対に必要です。
だから、ひらがなとカタカナだけでなく、漢字だって必要になってきます。でも、当用漢字を小学1年からやってる余裕は、ないんですよね。取り急ぎ必要なのは、生活に必要な漢字です。
そこで、生活の場面を想定し、そこで登場する漢字をピックアップする作業からはじまります。病院に行ったとき、銀行に行ったとき…、という具合に。海外旅行に行く際に持っていく、現地の言葉の場面別の想定問答集みたいなものです。
その、必要最低限の生活漢字を、381文字、現場の先生たちはピックアップしたのだとか。
そこには、「履歴書」なんて難しい漢字も入ってます。当用漢字の枠組みではなく、生活漢字という視点でピックアップしたら、そういう漢字も入ってくるラインナップになります。

一、二、三でとびおきて
四の五の言ってるひまはない
いつも朝めし六、七分

こうやって覚えていくんだそうです。

こうやって、20代の、自分の名前も生年月日も書けなかった青年が、給与明細を読めるようになったり、学校の帰りにいつも見る看板の文字が読み取れたりするようになり、生活に直結する力を身につけると同時に、知る喜びを体感することになります。

夜間中学に通う生徒は年齢も国籍もバラバラなのですが、共通しているのは、皆、劣等感を持っていることです。義務教育を受けるべきときにさまざまな事情で受けられなかったことで、そのことが原因で、社会に出て劣等感を持つようになります。
実際、ヒドいことを言われたこともあっただろうし、ヒドい扱いを受けたこともあったんだろうと思います。
でも、彼らは、実際に生活をしてきたのだから、生活力はあるし、技術力だってあるのだから、劣等感を持つ必要はまったくないですよね。そのことに気づいてもらい、顔を上げてもらえなければ、夜間中学に来る意味なんてない、と、現場の先生たちは考えるんだそうです。

そのことに気づいてもらうために、国語の文法を教えます。
使う言葉によってその人の生きる姿勢が変わるというのは、オレのようなものを書いてメシを食っている人間にはよくわかる話なのですが、それが、教育の現場で実践されているとは、思ってもみませんでした。

みんなが私をバカにする。

この、「みんな」っておかしくない? 「あの人が」「彼が」というのはあるよ。でも、どこの誰だかわからない「みんな」なんていうのは、文法上おかしいんだよ。実際、世のなかの全員があなたのことをバカにしているわけはないでしょ。
そうやって、文法を教えることで、意識を変えさせようとするのです。
でも、みんながそういうふうにオレのことを見てるって思っちゃうんだよなあ、と、50代くらいの男性の生徒が言います。そこで、それこそクラス全員が、私も、とか、でも本当はそんなことないんだよな、とか、ワイワイ話がはじまるんですよね。すごく、自由です。

こういう番組を見ていて、理念だけが語られるのはイヤだなあと、最初思っていたんです。
でも、実際の現場は全然そんなことはなくて、実践に則したプログラムが、いくつもいくつもあるんです。そして、それらはすべて、現場の先生たちが試行錯誤しながら、手づくりでつくっていったプログラムなんですね。

学校の、最終的な教育目標は、読み書きが出来るようになり、生きる力を与えてくれるような文芸作品を読む力を身につけ、在学中に1冊でもいいからそういう本を読み切り、卒業後も、そういう本を読む力を身につけさせること、に、あるんだそうです。

夜間学校にとって、国語力というのは、そういう力を身につけることなんだそうです。

たとえば、
中野重治の『菊の花』が題材に取り上げられます。
無実の罪で投獄された主人公が、差し入れられた菊の花に励まされて逆境を乗り越えていく話です。

花の心、ありったけの力で、生きていく。

そういう一節があります。
「ありったけ」って、どういうこと? 精一杯ということ。あるだけ全部の力で生きていく。それが花の命、花の心だと言っています。
そこから、
どんなに環境が悪くても、花は自分の力で生きていく、負けずに生きていく、
という、中野重治が比喩で込めた真意を、生徒が導き出していきます。先生は、その助けをします。そして、その真意を、生徒自身の言葉として身体に入れ、生活の糧となるようなものとして、生徒の心に植え付けていきます。
取り上げる題材の選定に、じつに細かな計算がなされているんですよ。

作品を読み、そのことでどのように考え、生きる力がどのように励まされるかを、どれだけその作品から汲み上げられるか。
そのことが、授業で使う作品の題材選定の尺度になってます。

夜間中学のおもしろいところは、知識の量とか、誰がどんな作品を書いたとか、そんなことをいくら覚えても喫緊の生活の役に立たないからやらない、と、キッパリと割り切っているところにあります。
この文章の意味だとか、意図だとか、文法はどうだとか、テストで答えるためのものを教えても、彼らの人生には役に立たない、というところから、教育プログラムの作成がスタートしているところです。

これは、学ぶことの、根本ですよね。
これを、昼間の義務教育が少しでも取り入れてくれたら、と思います。

34歳の、建築現場の下請けで働いている男性は、計算が出来ず、そのせいで材料の見積もりが出せず、あまり仕事がパッとしなかったそうです。結婚して子供も2人いるんですが、生活費もかかってくるし、奥さんが男性の尻を叩いたんだそうです。計算くらい出来るようになって、もう少し稼いでくださいな、と。
そうやって、この男性は、奥さんに引っぱられて、夜間中学にやって来た。しぶしぶ、しかも、一杯引っかけてきたんですけどね。

その男性は、卒業するころには、宮沢賢治を読むようになり、宮沢賢治の作品から、大きな感銘を受けたと言うんですね。

夜間中学の行事で、運動会がありました。男性は、運動会のマラソンで1等賞をとることを決め、夜、仕事が終わってから学校に通うのに、それまで自転車で通っていたのを走って通うようになり、運動会に備えて脚力をつけようと頑張るんですよ。
結果、彼は運動会のマラソンで1等賞をとりました。
そのことをね、彼は、作文にしたんです。

当日、駆けに駆けた。
でも、得たものは大きかった。
それは、無報酬の報酬でした。
自分でやらなければ
この喜びはつかめない。
そういうことがわかりました。

そういう作文です。
生活のために計算が出来るようになりたいと夜間学校に通い、そこで学ぶ人たちの姿に心を打たれ、宮沢賢治と出会い、宮沢賢治のひたむきさに心を惹かれ、彼は、「無報酬の報酬」と呼ぶべきものを得たんです。
その彼の作文を見て、先生は、宮沢賢治のすごさについて、改めて教えられたんです。

オレのこれまでの人生のなかで、
無報酬の報酬を得たと実感出来るほど豊かな日が1日でもあっただろうか、と、思わずにはいられませんでした。
オレは、宮沢賢治の作品を何冊も読んできたけれども、この男性ほど、宮沢賢治の作品から宮沢賢治の本質を得ただろうか、と、考えざるをえませんでした。

夜間中学というところは、とても豊かなところですね。
これがすべてではないと思います。もちろん、負の遺産もたくさんあるでしょう。
でも、こんなにも真剣に学びを求める人が、今の普通の学校にいるか? そういう人たちがいるだけでも、夜間中学という場所は、とても豊かなところです。


じつは、連日のように報道されている、イジメとイジメ苦による自殺の連鎖について、自分なりになにか考えたい気はあるんです。そのことを何度も書いたのですが、どうしても暗澹たる気分になって、最後まで書き切ることなく、日記にもアップせずじまいでした。
でも、この番組を見て、少し希望を見た気がしたんですよ。
少なくとも、解決のためのヒントがここにはあるなあと、思いました。

それを、明日書きます。

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