2005年12月12日月曜日

『黒猫白猫』





今日は、久しぶりに、仕事をしながら、『黒猫白猫』の映画のサントラを聴いてました。
サントラの話よりも、映画の話ですな。

ユーゴの天才エミール・クストリッツァが引退を撤回してつくった作品です。
解説から抜粋するとですね、
「ドナウ川のほとりに暮らすロマの一族に起こる若者の恋愛や石油列車強奪計画といったエピソードを、陽気にストレートに描いたコメディ。自称ダマしの天才、マトゥコはロシアの密輸船から石油を買うが、見事に騙されて大金を失う。金に困ったマトゥコは、息子のザーレと共に“ゴッドファーザー”グルガに石油列車強奪の計画を持ちかけ資金援助を乞うが…。」
って話で。
とにかくね、主役・脇役の強烈なキャラ(柱に打ち込んである五寸釘をケツで抜くオペラ歌手!)もさることながら、悪人が誰一人として出てこないところが、すごく好きなんですよ。強欲で狡猾で粗暴で…、悪いヤツはいっぱい出てくるけど、悪人として描かれてるヤツは、一人もいてない。みんな、フリークスではあるけど、愛すべきキュートさを持ち合わせてて、その人間臭さが、好きなんですよ。
クストリッツァのさすがなところは、世界は複雑ゆえに、容易に善悪など決めることは出来ない、ということを前提にしてることですよ。
善悪なんて立場や視点によっていくらでも変わるし、そのことを前提にしてないと、今の時代、表現なんて成り立たへんと思うんですけど、残念ながら、そうではない表現ばっかりなんで、余計にクストリッツァのすごさが際立ちます。

善悪とか正義とかいう概念が、『黒猫白猫』を観て以降、オレの中からは、すっかりなくなってしまいました。それこそ立場や視点によって、そんなもんは、どのようにも変わるわけで。正義も善悪も、絶対的なものではなくて、どのようにも変わる、相対的なものでしかない、と。
だから、今では、正義=融通のきかん頑固な理屈、と、オレは翻訳してます。イラクもアフガンもパレスチナもイスラエルも東ティモールも、オレは、そういう視点で見てます。
そういうことを、クストリッツァは、悲劇ではなくて喜劇で表現したところがすごいんですよね。ヘビィなテーマを糖衣にくるんで、甘くして、食べやすくしてくれてる。それが、エンターテイメントの神髄です。あの、ことごとく強烈なキャラたちは、あんなんじゃなくてもいいはずやのに、でも、あれくらいの個性である必然が、あの映画には、あるんでしょうね。
結局のところ、あの映画は、『寅さん』なんです。強烈なキャラは、生命力の強さの表れで、正義だの善悪だのよりも、生命力が旺盛なことのほうが、どれほど魅力的か!ってことを、クストリッツァは言ってるような気がします。

サントラも素晴らしいけれど、今回は映画の話になってしまいました。




Emir Kusturica & The Smoking Band / 『Unza Unza Time』

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