2007年8月14日火曜日

奈良旅5 高畑界隈編

さて、たかだか1泊2日の奈良旅日記、まだまだ続きます(笑)

春日大社からささやきの小径を抜けて、向かった先は、高畑界隈。
ここは閑静な住宅街でもあるのですが、志賀直哉の旧居や入江泰吉記念写真館があったりして、ちょっと文化的な香りのするところです。もちろん、神社仏閣もあります。

で、どっからまわろうかと思案していたら、この界隈を総なめに出来る共通入場券が発売されているのを発見してですね。4ヶ所なんですが、すべてまわると、数百円お得!というものだったので、購入してしまいました。この時点で、4ヶ所全部まわる気満々です(笑) すでに、かなりの数をまわってるんですけどね。。。

で、最初に行ったのが、志賀直哉旧居


「城の崎にて」や「暗夜行路」を著した明治の白樺派を代表する小説家ですが、この人の小説には、言葉の選びかたに無駄がないです。物語作家としては一流だとはオレは思わないですけれども(時代の変化に応じて、軍国主義者から平和主義者へ、無反省に節操なく転向した人ですから)、夏目漱石が発明した近代日本語を完成させた筆力というか、とにかく、言葉の選びかたがジャストで、厳しい審美眼を持っていたところがね、オレは好きです。そういう人が自ら設計して建てた家というのはどんなだろうか、と、ちょっとわくわくしながら訪れました。





基本は数寄屋造りですが、洋風あり唐風ありの、和洋折衷というよりも、いろんなところのいいとこ取りというかんじで、和魂洋才、文明開化の明治の気風がよく表れた家ですね。
ダイニングがあり、書斎があり、茶室があり、子供部屋や婦人の部屋まであり、さらには、サンルームにカフェまであります。
最大の特徴は、カフェと庭ですな。
ここで、当時の文豪が集まり、文学論や芸術論を語り合った。つまり、サロンです。どうやら、サロンとしての機能を、この家は果たしていたようです。
そういえば、志賀直哉は、京都から奈良、鎌倉と移り住んでいますが、どこもサロン文化の発達したところばかりです。
ただ、彼は、癇癪持ちで感情の起伏が激しく、普通の付き合いをするのには、少々面倒なタイプの人でもあっただろうことは、小説からも読み取ることが出来ます。
一介の小説家(この頃、小説家は著作物だけでは、まだ生活が成り立たない職業です)が、婦人の部屋をつくり、子供を不相応に溺愛しまくった痕跡を見ると、やはり、常人の神経の持ち主ではなかったのだな、と、再確認させられもし、そういう人がサロンを開くのだから、淋しさが根底にあったのかな、などと思ってしまいました。
これは、志賀直哉当人がそうしたのか、現在の管理者がそうしたのかは定かではないのだけれども、志賀直哉が「暗夜行路」を執筆したとされる書斎の本棚には、「志賀直哉全集」が飾られていました。自分が執筆する書斎に、自作を飾っておくという神経は、モノヅクリをする人の神経からすると、ちょっと異常です。どんなに出来がいいものであったとしても、自作にはなにかしらの不満があるもので、そこから出来るだけ目を伏せておきたいのが、モノヅクリをする人の普通の神経だし、そこから逃げずに対峙するなら、目の前の机に置いておきます。背後の書斎に飾っておくというのは、ナルシシズムの発露ですね。
果たして当人の趣味なのか管理人の配慮なのか、いつか、聞いてみたいものですわ。


さて、次に向かったのが、新薬師寺。このあたりで遅めのお昼ご飯を食べたのですが、新薬師寺の前だったか後だったか、もはや覚えてませぬ~(笑)
なので、お昼ご飯は割愛。。。
とっとと新薬師寺に行きます!

新薬師寺は、new薬師寺と解釈すると、ちょっと意味合いが違ってきます。
薬師寺なので、本尊は薬師如来さんなのですが、薬師如来さんといえば、左手に薬壷を持った、健康にきく仏さんです。
で、その仏さんの効き目が、「霊験あらたか」なので、新薬師寺。
えーっと、「あらたか」を漢字で書きますと、「新か」となります。
というか、「新しい」を「あたら・しい」と読むのは戦後になってからのことで、もともとは「あらた・しい」と読みます。意味は、普通に「new」でいいのですが、この「new」には、古いよりも新しいもののほうがいい!という意味合いが込められています。だから、「霊験あらたか」には、「これまで以上に効き目がある」という意味になります。そういう意味での、新薬師寺。今までの薬師さん以上に効き目があるお寺としての、新薬師寺、となります。



庭は京都、仏像の奈良のフレーズに違わず、新薬師寺さんにも、見応えのある仏像が目白押しです。
まず、本尊の薬師如来さん。台座の上に丈六以上のサイズの仏さんなのですが、なんと、一木造り! 仏像も大半は、手や足の各パーツを個別につくって、プラモデルみたいに組み立てていく寄せ木造りなのですが、ここの薬師さんは、一本の丸太を彫ってつくられてます。これだけでも、国宝になった価値がありますな!
切れ長の目に威厳があって、堂々たる体躯をしてます。どっしりとした、威厳のある、いい薬師さんです。

そして、その薬師さんを取り囲むようにして守護しているのが、十二神将。
もうね、ゴレンジャーの世界ですから! ウルトラ兄弟の世界ですから!
12人の大将が、それぞれ武器を持って、薬師さんを取り囲んでいます。これは、戦隊モノが好きな方には、たまらんですよ(笑)
で、12人いてるから、干支に対応しているのはなんとなくわかるんですが、それがね、干支の順番に並んでないんですわ。
バサラ大将(犬)→アニラ大将(羊)→ハイラ大将(辰)→ビギャラ大将(鼠)→コマラ大将(兎)→クビラ大将(亥)→ショウトラ大将(丑)→シンタラ大将(寅)→サンテラ大将(午)→メイキラ大将(酉)→アンテラ大将(申)→インダラ大将(巳)
って並びです。
不思議じゃないですか。
で、近くにいたお坊さんに聞いてみたら、十二神将が出来た当時、干支は日本に入ってきておらず、べつの考えで、配置されたそうです。その後、干支が入ってきて、それぞれの干支に符合する大将をあててみたら、配列がバラバラになってしまった、と。
ちなみに、こうしたことは全国で起こっていて、しかも、干支に符合する十二神将は、お寺さんによって、まちまちなんだとか(笑)
かなり、いい加減な話です(笑)
ちなみに、干支の十二支も、動物が現在の12種類に統一されたのは平安以降で、それまでは象がいたり猫がいたり(今でもベトナムあたりの干支では、猫が入っていたりします)したはずなのですが、そのあたりの兼ね合いはどうなっていたのか、と、思いましたよ。でも、ここのお坊さんは、そこまで詳しくなさそうだったので、それ以上は追求しませんでしたが。。

ちなみに、相方さんの干支である酉に呼応する「迷企羅(メイキラ)大将」が一番ファンキーでかっこよかったです☆

やっぱ、仏像の宝庫ですね。
で、まだまだお宝仏像がここにはありまして、ずいぶんまえの日記にも書いたのですが、おたま地蔵というのが、ここにはいらっしゃるのですよ。

これね、もともとは、とある地蔵菩薩さんがいらっしゃいまして、傷みが激しくなってきたから、修復することになったんですね。
んで、修復を担当したのが、当時、東京芸術大学に在籍していた彫刻家の藪内左斗司さん。

まず、X線で撮影して、この仏像がどのような技法で造られているのかを、調べます。
木造であっても、1本の木をくり抜いて一木造りもあれば、パーツごとにつくってそれを嵌め込む寄せ木造りもありますから。
撮影してみると、この仏像は寄せ木造りで造られていたことがわかり、どのようにパーツ分けされていたのかもわかったのですが、写真を見てみると、通常は内部が空洞になっているはずなのに、どうやら、なにかが埋まっているようなのですよ。しかも、それぞれのパーツのかたちも、従来の知られているかたちとは、少し違う…。

手なら手のパーツというよりは、タイル状につくられた木片を、なかにあるものに貼りつけるようにして、つくられているのですね。
で、おそるおそる木片をはがしていくとですな、なんと! なかから一体の裸形像が現れたのでした!
仏像のなかに、手のひらサイズの小さな仏像を体内仏として納めてある例はいくらでもあるのですが、外の仏像とほぼおなじサイズの仏像がその下に納められているなんてのは、前代未聞です。

これが、1984年のことで、当時、世紀の発見と呼ばれたらしいのですが、1984年といえば、オレが18歳のときのこと。大学をクビになって、渋谷のストリップ劇場で使いっ走りをしていたころのことですから、んなことに目を向けるなんて高尚な人間ではなかったのですよ…。

ですから、構造を説明すると、裸の仏像のうえに、それこそ衣を着せるように木片がペタペタと貼られていて、地蔵菩薩の姿が形成されている、と。
すごいです! 京都でいろんな仏像を見てますけど、そんなの聞いたことも見たこともありません。

ちなみに、裸の仏像というのは、結構あるんです。鎌倉時代にたくさんつくられてます。
新薬師寺さんからほど近い伝香寺というお寺さんにも裸の仏像がありまして、年に1度、7月の地蔵会のときに、本物の衣を着せてあげる行事があり、厚い信仰と功徳への感謝を表す行事として、今も続いています。
お地蔵さんというのは、本物の衣を着せると、ビックリするくらいに人間らしくなりますけどね。

だから、新薬師寺さんの裸形像も鎌倉時代につくられたものなのですが、この仏さんは、本物の衣ではなく、木片を着せられているわけで…、いや、ちょっとすごいな。ガンダムのモビル・スーツみたいなもんですから。

解体し、いろいろと調べてみると、この裸形像も、鎌倉時代のものだということがわかりました。
なかから出てきたのは、体内仏が多数、当時の通貨、願文など。
そして、裸形像を着装像にするために、裸形像にさまざまな改良が加えられていることも、わかりました。
たとえば、裸形像の手をとって、着装像に新たにべつのかたちの手を付け加えたり…。
でも、とっちゃった手や、削った木屑、木片など、ありとあらゆるものが、ひとつ残さず、このなかに納められていたそうです。

本来なら捨てられるようなものまで、納められていた、と。
つまるところ、裸形像から着装像につくりかえるとき、裸形像に対する思い入れが、強くあったってことですよね。

願文を読むと、
大僧正実尊という偉いお坊さんがいて、その弟子に、尊遍という人がいたということがわかりました。
どちらも、奈良の春日絵巻に登場するお坊さんで、実尊は、藤原氏の出身であり、晩年、藤原氏の寺である興福寺の住職を務めた偉いお坊さんです。

春日絵巻では、大法要の前日、ぜんそくに苦しんでいて法要でちゃんとお経が読めるかどうか心配している実尊のもとに鹿が現れ、お告げをし、ぜんそくが治った、という内容の絵が描かれています。
また、そんな実尊を案じる尊遍のもとにも鹿が現れる絵が描かれており、子弟でおなじ夢を見るほど2人は強い絆で結ばれていたことが、表現されています。

1236年、実尊が亡くなります。
そのとき、師の生前のありのままの姿を残したいとして、尊遍は、実尊像をつくるのですね。これが、発見された裸形像です。
願文から、そこまでのことがわかりました。

問題は、ではなぜ、その後、この実尊像は木片で衣を着せられ、地蔵菩薩につくり変えられたのか。

ここから先は、修復を行った藪内さんの推測となるのですが…、
尊遍は毎日、師である実尊を象った裸形像を熱心に拝むものの、やがて年をとり、老い先短くなってきた。
そのとき、自分が亡きあとも、実尊像が裸のままで残っていくことに、非常な抵抗感があったのではないか、と。
なんせ、裸形像ですから。オチ○チ○まで、ちゃんとついてますから。
だからこそ、お地蔵さんのかたちにつくり変えたのではないか、と。

そうやって、封印された裸形像が、800年の時を経て、日の光を当てられた、と。
そして、この裸形像は、新薬師寺の住職によって、おたま地蔵と名付けられました。
だから今、新薬師寺には、従来の地蔵菩薩とおたま地蔵の2体が安置されているそうです。

ということをね、オレはテレビで見たことがあって、これをぜひ見たくて、住職に言えば見せてくれるって話だったんですが、この日は住職がいらっしゃらないので、お見せ出来ない、と。
住職、いなくてもいいじゃん!って食い下がったら、いや、住職の解説がありますから、と。
でも、オレ、このお地蔵さんについては、こんだけのことを知ってるし、もはや住職に付け加えてもらうことはない! 足りないのは、現物拝見だけ!
…でも、頑に見せてくれませんでしたね。。。。

だいたい、このお寺さんは…、と、こっから悪口が出てくるのですが(笑)

ここの住職さん、ちょっと変わってまして、本堂に、ステンドグラスをはめてしまったんですよ~。
ったく、なにを考えてるんだか。。。
これ、サイズのわりにはそれほど違和感がなく、よく出来たステンドグラスでもあるのですが、やっぱ、本堂にステンドグラスをはめるというのは、いくらなんでも伝統と宗教心から外れ過ぎでしょ。
ほとんどのお寺は仏像を撮影させてくれませんが、それは、仏像が美術品ではなくて、宗教の対象だからです。オレたちは美術品として仏像鑑賞を楽しみますが、それでも仏像は、あくまで宗教の対象です。
本堂だってそう。宗教の対象だからこそ、外してはいけないところというものがあります。キレイだし似合っているから、という理由だけで、ステンドグラスをはめるというのは、ちょっとおかしいですね。


ふぅ~、高畑編だけで4ヶ所なのですが、まだ2ヶ所しか書いてません。
あと2ヶ所☆

次に行ったのは、白毫寺
ここは、goutさんに紹介されたところではなく、高畑の共通入場券についていたので、行ってみました。高畑エリアといっても、ここだけは少し離れていて、かなり歩くんですけどね。
でも、ここ、当たりでした☆
山寺ですね。
道中、畑と住宅が入り組んだのどかな風景のなかを、緩やかな勾配のついた道を歩いていくのですが、道の辻という辻にお地蔵さんがいて…。
路傍にひっそりとお地蔵さんがいて、ちゃんとお供えものが供えられてあって、世話も手入れもされている風景というのは、見ていて気持ちがいいですね。
宗教心がどうということではなくて、人の心の、優しくも素敵な部分が、表れているような気がします。こうした風景を見ていると、心に、気持ちのいい風がひと刷け吹いた気分になります。どうしようもなくね、ニコニコっとした表情を浮かべてしまいますね。

そうした風景のなかに溶け込むようにして歩き、道は徐々に勾配を高くしていきます。
ここからの道がね、結構、きつい(笑)
山寺はどこもそうですが、最後の道って、勾配がきついうえに、いつ果てるとも知れない道が多いのですよ。で、ここもそう…。
もうね、えんやこらさっさ!って気分でのぼってましたよ。






でも、しんどい思いをして登っただけのことはありましたね。
ここの境内から、奈良市内が一望出来ます☆
この風景を見ただけで疲れも吹っ飛ぶ…、ってことはないですが(笑) それでも、この景色を見るためにここまで来る価値は、ありますな。
山の木々に囲まれて、その真ん中に奈良市内の風景があって、そこから下に目を転じれば、ついさっき登ってきた参道が糸を引くように、下に延びています。
なんというか、俳味があるんですね。
意味も企てもないですが、そこにあるだけで、言葉を紡いでしまいそうな、そんな魅力のある風景です。


境内には、立派な椿があります。今の時期、椿はこの暑さをしのぐだけですが、冬になれば血の滲むような鮮やかな花を咲かせるのでしょうな。椿好きのオレには、想像しただけでたまらん光景です。
京都の山寺と非常に似ているのですが、違うのは、やはり仏像です。








やっぱ、さすがですね。もうね、めちゃくちゃ見事な閻魔大王がいらっしゃいましたよ。もともと閻魔堂があったみたいですな、このお寺さんには。
憤怒の表情がね、そこらへんの四天王よりも全然おっかない(笑)
鎌倉時代の作らしく、リアリズムが追求された閻魔さんで、顔の表情をかたちづくっている筋肉の造形が、素晴らしいです。

このお寺さんは、冬にまた来てもいいですね。これからも何度も訪れそうなお寺さんです。

さて、すでに夕方に差し掛かる時間になっていたのですが、この時期、やっぱ、夕立ですよ。
境内から奈良市内を一望していると、暗雲がみるみるうちに迫ってきてですな、これはヤバい!と。
急いで山を駆け下りて、次にいく、入江泰吉記念奈良市写真美術館へ行って、雨をしのごう!と。

こっから先、入江泰吉記念奈良市写真美術館までは、暗雲と鬼ごっこみたいになってましたな。
で、なんとか雨に降られず、暗雲にも追いつかれず、入江泰吉記念奈良市写真美術館に到着です。





受付で共通券を出したとき、ここが最後だったので、全部まわられたんですか?すごいですね~、と、受付の人に言われてしまいました。
いやいや、全部まわらんと、割引のある共通券を買った意味がないだろうが(笑)

で、写真館は、こんなところです。


入江泰吉という人は、奈良を愛し、奈良の風景を写真に収め続けた偉大な写真家です。
日本は単一民族じゃないから、大和路にこそ日本の原風景がある、という言いかたは好きじゃないし、むしろ嫌いですが、彼の写真を見ていると、すでに失われてしまった、あるいは失いつつある風景を、じっくりと味わうことが出来ます。
そこに、清々しい気持ちや平和な気持ちが沸き上がってくるとしたら、それは、彼が、奈良を愛していたからでしょう。
彼の写真を見ていると、奈良を愛した者だけが見ることの出来る風景、というものが、たしかに存在することがわかります。
そうした彼の写真が約8万点、所蔵されているのが、この美術館。常設だけでも、かなりの数の彼の写真を見ることが出来ます。

常設で展示されている写真は、奈良の風景に溶け込んだ路傍のお地蔵さんを写した写真が多くてですね、ほっこりした気分になりましたですよ。
べつの作家による企画展は特に興味がないので、願わくば、もっともっと入江さんの写真の展示を!

これで、高畑界隈の散策終了。
どんだけ歩いたことか(笑)
相方さんは、オレのタオルをぶんどって、首からぶら下げたままついぞ離しませんでしたな(笑)

このあと、奈良の七不思議と言われている奇怪なピラミッドの頭塔を、通りすがりにチラッと眺めて、いよいよメインイベント、東大寺二月堂へ。(←まだ続く! 笑)

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