2007年8月19日日曜日

だるましかない…

1週間以上奈良旅日記を書き続けてきましたが、オレの神社仏閣巡りのホームグラウンドは、京都☆
ちゃんと、京都にも行ってますぜ。でも、この夏、初めてのラリーかもしれません…。

で、今回行ったところは、北野天満宮付近。なかなか行きにくい場所にあるお寺さんばっかりでして、ちょっと後まわしにしていたんですが、ようやく行ってきました。
行ってみたら、あたり☆というか、ワンダーランド!みたいなお寺さんばっかりで、ヤバいです(笑)

今回は、そのなかのひとつ、だるま寺を。

京都は円町にある、だるま寺。一応、法輪禅寺という名があるのですが、観光マップにすら、だるま寺とだけ書かれております(笑)

だるまといえば、禅宗の開祖、達磨大師。
達磨大師は中国の少林寺で修行したインドの高僧ですが、壁に向かって9年間、座禅を組んだお坊さんです。その過酷な修行は、座禅を組みすぎて手足を腐らせるほどでね。だから、だるまには手足がないんですが…。
そうやって開眼した悟りの境地って、あまりに狂気すぎてオレには想像すらつきません。禅の精神を表した枯山水の石庭も、あそこまで世界を抽象的に見るって、やっぱ、狂気の沙汰だと思いますわ。よく、禅とわびさびを重ねる人がいますけれども、わびさびの境地を体得するまでの過程は、やっぱ、狂気ですよ。
だって、手足が腐るまで座禅組んで、9年目にして開眼ですよ。そんなもん、常人には無理でしょうが。ましてや、禅の修行って、今でも過酷だし。まあ、宗教から狂気を抜き去ると、宗教は宗教でなくなりますが。

仏教は、もともとが、人々の救済なんか目的としていなくて、個人が解脱するための身体的精神的な鍛錬のマニュアルを説いたものですが、そこに大乗の考えが入り、救済が目的となり、仏像という偶像も出来、教典という教科書というか権威のようなものも出来てくるわけです。
そういうものの一切合切を拒否して、修行の中にこそブッダが説いたものの真髄がある、原点に返れ、と、実践したのが、達磨大師ですね。
つまり、仏教のルネサンスを行ったのが、達磨大師。

ただ、そういう禅を爆発的に広めたのは、中国に慧能というお坊さんがいたからです。
この人は、人間にはもともと仏性が備わっているのだから、ただ座禅を組んで、自らの裡にある仏性に気づけばいい、と。
この教えのおかげで、禅は一気に爆発的に広がり、今や、ヨーロッパのキリスト教寺院ででも座禅を取り入れる始末です。
念仏を唱えるだけで極楽に行ける、と説いた、法然さんに似てますね。

というような、禅についてのあれやこれやを知ることが出来るのかな、と、淡い期待を抱いて行ってみたら、そんなことは全然なくて、ここはどう見ても、だるまマニアのお坊さんの拠点にしか見えません(笑)

とにかく、ありとあらゆるところに、いろんな種類のだるまが置いてあって、まさに、だるまワンダーランドですわ(笑)
一応、禅を学ぶ達磨道場の拠点、などと縁起には書かれてますが、絶対に、だるまマニアのための博物館ですから(笑)
だるまマニアの方は、ぜひ☆


















あ、おもろいソフトを手に入れたので、だるま寺のプロモ・ビデオなんざ、つくってみました(笑)

『だるま寺』
luis

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