2007年2月24日土曜日

魂とは、肉体を拒絶するなにかである

このニュースが胸に突き刺さっていて、しばらく頭から離れません。

2月6日午後7時30分ごろ、宮本巡査部長は、39歳の女性を助けようとして東武東上線池袋駅初小川町行きの急行電車にはねられました。女性は、自殺を図っていました。
7時ごろ、ときわ台駅近くの踏切から線路内に入った女性を見た通行人が、常盤台交番へ通報しました。死んだっていい!と大声を上げて抵抗する女性を、宮本巡査部長は線路から引っぱり出し、20mほど離れた交番へ連れていって説得していました。しかし、女性は、彼の制止を振り切って、交番を飛び出し、再び線路へと向かってしまったのでした。
遮断機が下り、警報機が鳴るなか、宮本巡査部長は、女性を線路の外へ引っぱり出そうとしたけれども、上手くいかない。電車は迫る。
彼は、電車に向かって手を激しく振りながら、止まってくれ!止まってくれ!と、大声で叫んだのでした。

李秀賢さんと、おなじです。
もう、5、6年ほどまえになるんでしょうか、新大久保駅で酔っぱらって線路に落ちた男性を救おうとして、電車に向かって立ちはだかり、両手をあげて、止まれ!と制したのでした。

万にひとつの可能性も、あったでしょうか?

踏切には障害物を報せるセンサーがあり、ホームには押しボタン式の非常通報装置が、数ヶ所設置されています。
しかし、2人の位置は、センサーから外れていました。警報装置は踏切の場所からは離れていて、咄嗟に気づけるようなものではないとのことです。

電車が、時速60kmで迫ってきます。
ところが、宮本巡査部長は、最後まで諦めなかった。せめて女性をホーム下の空間へ押し込もうとしました。

腰と両足首の骨を折る重症とはいえ、女性が一命をとりとめたのは、死に直面したなかでのギリギリの判断があったからです。
女性を救った宮本巡査部長は、頭の骨を折り、意識不明の果てに、1週間後の2月12日、病院で息を引き取りました。

鉄道事故は、年間に300も起きているといいます。
でも、この事故は、特別なものになったですね。
我がことのように、肉親の死のように、人々は泣いていました。

宮本巡査部長が命を救ったのは、ひとりの、行きずりの女性です。そしてまた、このニュースに接するオレもまた、行きずりの、なんの関係もない人間です。
貴重と献花の列が絶えない、と、いいます。



魂とは、肉体を拒絶するなにかである。
と、フランスの哲学者アランは、書いています。

たとえば、
身体が震えているときに、逃げるのを拒絶する、なにか。
身体が嫌がっているときに、諦めるのを拒絶する、なにか。

アランによって定義された魂とは、そうしたものです。
そのことを、このニュースに接したとき、オレは、不意に思い出したのでした。

これらの拒絶は、人間が人間たらんとする、営為です。
だから、卑しい魂などというものは存在しなくて、それはただ、魂を欠いているだけです。
宮本巡査部長も、李さんも、そういう魂を持っていました。

入念につくられたこの世界で、常に競争を強いられ、自分を守るだけで精一杯。あの、宮本巡査部長を襲った電車のなかでは、自分の席を確保するために他人のことなど一切考えることがありません。

誰が、他人を思いやるのか。
誰が、誇りと職業的責任感にかけて、電車を制止に走れるものか。
愛する人や大切な人になら、思いやることが出来るかもしれません。
そうしたいと願うことと実際にそうすることには大きな隔たりがあるけれども、出来るかもしれません。

そして、行いだけが、世のなかを変えます。

ときわ台駅の交番には、ありがとう、と、手を合わせる人が後を絶たないといいます。
この、ありがとう、は、とても奇異に映ります。映りますが、それでも、ありがとう、と、口を突いて出てしまう人たちの気持ちが、わからないでもありません。
宮本巡査部長が、この社会を少しはましなものに変えてくれたことに、オレたちは、感謝しているからです。
でも、そのじつ、感謝などしていても、仕方がありません。
行いだけが、世のなかを変えるのだから。
と、匕首をノド元に突きつけられたような気分に、今もまだ、なっています。
キレイごとであれなんであれ、そんな気分になっています。

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