2006年1月3日火曜日

なぜパンツが見えると嬉しいのか?





なぜパンツが見えると嬉しいのか。

プリーツスカートが強風を受けてめくれ上がったり、タイトスカートの女性が座ったはずみや足を組んだ瞬間に垣間見えたり、おつむテンテンの娘さんや気前がよくて善意溢れるおねーさんがどうぞどうぞとばかりに自らまくり上げて正面から観賞させてくれたりすると、人間の♂の大部分は歓喜の念をごく自然に覚える仕組みになっています。

その日一日、あるいは、その後2、3日はなんとなくほのぼのとしたホットな気持ちで過ごせたりもします。
それは、おみくじで大吉を引くことよりもはるかに御利益を感じるものでさえありますな。

それにしてもなぜ嬉しいのかと言えば、パンツがその下に隠しているものを自ずと想起させるものだからです。これ、自明の理。
剥き出されたそれと対面したときの驚きを予知させる、といってもいいですね。
でもそれは、あくまで思い描かせ予見させるものであって、ダイレクトなそれ、そのものではありません。
そこに、存在としてのパンツの奥ゆかしい美しさがあります。エッチであることは、イマジネイティブであればあるほど歓びも増すものなので。

かねがねオレは、グレイトフル・デッドの魅力は、ときに思いがけず出会う女性のパンツに似ていると、思っています。

たとえばほとばしるパッションよりも、ゆったりとした放熱。
激情を剥き出さずにそのエネルギーをスリリングに、しかしリラックスした状態で持続させる。けっして、モロに答えを求めたりしない。ある種の曖昧さを保ち続けることで、聴き手のイマジネイションを増幅させてしまう。そんな存在。
快楽を瞬間的に放出せずに、渦巻き状にして聴く者の周囲を取り囲むのが、デッドです。なんと、美しく奥ゆかしいことですか。

デッドは、友の背や肩を叩いて、がんばろう!などとはけっして言いません。
踊ろうぜ (古語!) 、とも、のってるかい (死語!) とも、絶対に言いません。
だから煮え切らなくてキライだという人もいます。
でも、そういう連中などハナから相手にしていないのです。
一見だらしなく見えるその空気のなかに、高揚がプカプカと浮遊していることに気がつけば、人の一生なんて緊張のみで出来ているのではないことがわかろうというもんです。
結論は、自ずと出ています。
それぞれのやりかたで気楽にやれば、とりあえずは上手くいく、と。
気楽にしていれば思いがけぬ歓びにも多く出会える、と。

正月徹夜麻雀で2万円負けた帰りの電車のなか、思わぬ眼の保養、僥倖にありついたオレは思うのでした。

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