2006年1月29日日曜日

ファンクバカ一代






で、今日は徹夜続きであまりに疲れているので、ファンカデリックです。

そういうときは、ファンクを聴くにかぎるのですよ。

ファンクは人のうえに人をつくらず、流行の新旧を問わず、ビートの硬軟を問わず、バカとリコウを差別せず、カネのあるやつからもらい、団結は各自の意に任せてはいるものの、団結を妨げるやつを許さないのでした。

だいたい、音楽で平和がもたらされると思ったら大間違いで、古今東西、音楽は戦争及び国威発揚にどれほど利用され、加担してきたことか。
大体、歌は世につれ世は歌につれ♪なんて、半分は嘘っぱちで、歌が世につられることはあっても、世が歌につられたことなんて、いっぺんもないですから。

でも、ファンクは、違います。
団結の音楽ですから。

音楽の良し悪しはエネルギーの量と質の問題であって、楽理的正確さや知識量や理性などどうでもいいのだと教えてくれるのがファンクでもあるのは、ファンクがキーワードではなく実践であり行為そのものだからなのですよ。

言葉ではありません。
気配、力としての気、充満し放出される風のような、熱の玉やアドレナリン高濃度の状況とか、真夏のアスファルトの路面とか、まさに射精する寸前の男根、潮吹く女陰、紅潮した目尻、晴天下の嵐、襖を開けたらそこは真っ赤な夜だったり、井戸の底でプランクトンが輪になって踊っていたり、山奥で熊が自ら木彫の熊を彫っていたり、金ラメの褌、素手で薪を割ったり、素っ裸で選挙演説をしたり、逆立ちで富士山登頂、85歳で初産、101歳で15歳の娘を妊娠させたり、ボンナイフ1枚でカジキマグロを活け造りにしたり、指一本でキャッシー中島を持ち上げたりすることなのですよ、ファンクは。

そう、ファンクは、豪気なのですな!

優れたミュージシャンはすべからくシャーマンですが、ジョージ・クリントンは動物のように見える無邪気なオヤジだが脳の芯はものすごくクールです。クールであるから我を忘れてバカになったまんまということはないと思うのですが、ステージ上で飛び跳ねているあの姿は、ウソか?なんてことを言っちゃうと、シラケちまいます。演技であって演技ではありません。ファンクとは、プロレス技にも似た、芸なのですから。だから、見せることに関しての責任者として、ジョージ・クリントンは冷静なのですよ。この点、ビル・クリントンとは大違い!

そう、ファンクは、プロレスなのですよ!

で、冷静だからジャンキーじゃない、というのは、冷静に対する差別です。
ファンカデリックはドラッグやんなきゃ本当のよさがわからないと思っているやつらがいるらしいが、そんなやつはデタラメです。ドラッグやんなきゃわからないような、バカですね。アメリカの黒人、という漠然としたイメージは誰にでもあるのでしょうが、アメリカの黒人=貧乏人=弱者というふうに考えているやつらが今でも日本にいるから呆れます。
差別はいけない=弱者をいたわろう!だと。ふざけるな。アフリカン・アメリカンは弱者か?被差別者だ。差別する側の姿勢というものはよほどのことがないかぎり、変わりはしません。死んでまでも差別し続けますから。差別を支えているものは社会構造そのものであり、その構造に組み込まれていることに無自覚なひとりひとりです。右の頬を打たれたら左の拳で殴り返せ?暴力にさえ訴えられない状況だってあるじゃないですか。

ファンカデリックは、万人に参加を施す盆踊りと、異議申し立てのアジテーションと、前衛表出の3本立てですから。

だから、ファンカデリックは血判状であると同時に、お笑いなのです。
シリアスでドロドロでハードでも、その横にはいつもギャグがそっと寄り添っています。

今回は、ジャケットを大判で3枚もアップしちまったです☆

ファンカデリックは、この、ペドロ・ペルのイラスト世界そのままに、ドロドロでベチャベチャな攻撃を繰り広げますから。
ゴスペル? 闇夜の鉄拳のごとき合唱です。
結束とはけっして裏切らないということですが、その道がラクではないということを伝えています。
同時に、その塊となったボーカルのひろがり、ヘラヘラしたギターは、バラバラなようでいて、浮遊しながらグルグルと聴く者を巻き込んで結局は仲間化してしまう術の怖さを持っています。

まったくもって、妖しい。そして、怪しい。
猫の尾を踏んずけてしまったような、毒入りキケン食べたら死ぬで!と貼紙がついているような間抜けな美しさがあります。


さあ、みなさん、今宵はファンデリッ〜ク☆
すんません、わけわからん日記になってしまいました…。




Funkadelic / Red Hot Mama

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