2006年1月17日火曜日

震災の日、誕生日に思う





阪神大震災から11年目の1月17日がやって来ました。

オレの誕生日でもあります。
この日はロクなもんじゃなくて、
ロスで大地震があったり、湾岸戦争が開戦した日でもあります。
山口百恵と村田英雄と坂本龍一と平井堅とアル・カポネと大杉栄とオレのオヤジが生まれた日でもあります。
今年は、ヒューザーの小嶋社長の証人喚問? どーでもいいな。

震災についてはいろいろと書きたいこともあるのですが、
なにが悲しいといって、
亡くなっても名前が残らないことです。

大量死の最大の悲劇は、亡くなった人の名前がない、ということです。
どこそこで、誰が、これこれの理由で、亡くなりました。享年○○才。
ではないのです。
○月○日現在、推定死亡者数○○人、まだ増える模様。
なのです。
言うまでもないことだけれど、人にはそれぞれ固有の生があって、だからこそ、固有の死があるはずです。名前は、それを象徴しています。名前のある死があって初めて、その人は、それまでの人生、生きて存在したことになります。
それが、ない。

だから、震災の日に向けたここ何日かの新聞各種の特集なんかは、震災を軸としたいろんな人の人生が具体的に書かれてあるものが多くて、興味深く読んでます。

たとえば、娘さんの誕生日の1週間前に震災があり、娘さんを亡くしたお父さんは、それまで仕事中心の生活であまり娘さんをかまってやれなかったことを悔いています。フラメンコダンサーになりたかった娘さんの夢を少しでも理解しようと、お父さんは今、スペイン語を猛勉強して、娘さんが憧れたスペインを旅しようとしています。

たとえば、西宮で被災し、親を亡くし、家をなくし、大切な品をなくし、そのうえ、その後の土地問題で兄弟姉妹が縁をなくし、なにもなくなったうえにガンを宣告されて、現在も闘病中の方がいます。

いろんな人生がありますが、どんなにしんどくても、どれだけあっけない死であったとしても、そこには固有の生があります。
死が記録され、人々の記憶のなかに残ってこその、生です。

あの日、オレは妻と一緒にベッドに寝ていました。
我が家は家のなかの食器類が割れた程度でそれ以外はすべて大丈夫だったのですが、妻が一番心配したのは、神戸にたくさんいた、知り合いの外国人連中です。
妻は外国人です。当日に連絡をとりあって、神戸がエラいことになってると知り、車で外国人の知り合いを迎えにいきました。

それからです、妻のボランティア魂が点火したのは。
妻は、看護婦の資格を持っていたのですが、日本では、その資格が通用しないのですね。でも、神戸の惨状を目の当たりにして、なんとかしなければならない!と思ったのでしょう。他人事ではなく、被災した仲間がたくさんいたのだから。

オレも、神戸に通うようになりました。
そのなかで、長田のオバァ連中とも知り合いました。
亡くなったオバァもオジィも、生き残ったオバァもオジィも、みな、逞しいですね。
「死んだら全部終わりやな」
とオレが言ったら、
「死んで全部終わってくれんことには、借金がなくならんやんかぁ」
とか言ってますから。
あの人たちは、逞しいです。
どんだけ悲惨な状況に陥っても、その状況の中でなんとかかんとか楽しむ術というか、図太さみたいなものを、持ってますから。

妻は、もともと、ボランティア活動を熱心にしてきた人です。看護婦の資格を取ったのも、そのこととは無縁ではありません。
「現場に行くと、誰かの役に立ててる実感というか、誰かに必要とされてる実感が持てる。それは、自分が世の中に存在していいのだと、神さまに言われてるみたい。だから、私は、誰かのお世話をしているようでいて、じつは、みんなからパワーをもらってるの」
と、彼女はよく言っていました。

その妻も、7年前に、アフリカのニジェールという国へ看護婦のボランティアに行ったきり、戻ってきませんでした。
内戦で欠けてしまった人々の身体と心に、某かを埋める作業をしに、彼女はニジェールに行ったのでした。
彼女が属していたボランティア団体は、災害地や紛争地にいち早く到着して、医療面からの適正なサポートを、政府や思想や社会体制によらずに、行なってきたところです。
そして、彼女が赴いた現場で、ゲリラ戦が起こりました。
そのゲリラ戦で亡くなったのは、数十人とも百人以上とも言われています。
今もって、正確な数字はわかっていません。

このことが意味するところは…、
死者に名前がないことですね。
名前が報じられない。人々に知らされない。
ということは、誰にとっても、彼らや彼女らの人生は、全うすることなく、尻切れとんぼの記憶の断片で終わってしまっているということです。
幸いにして、オレは、妻の亡骸を確認し、オレの手元に取り戻すことが出来ました。
彼女の死を無名の死にすることなく、名前のある、固有の死とすることが出来ました。
でも、日本での報道は、死傷者数推定数十人、です。
これはもう、仕方がないかもしれません。
外国の地で、外国人が亡くなったことを、いちいち実名を挙げて報道していたらキリがないから。
でも、でも、死傷者数推定数十人のなかには、死亡を確認されていない人だっています。
大量死には、そんな側面があります。
震災のときだって、おなじです。

震災以降、その日がオレの誕生日なのだということを意識することが、あまりなくなりました。
妻のことを思い出します。
そして、長田のオバァたちのことや、神戸で出会ったりすれ違ったりした人たちのことを思っていることが多くなりました。

思い出しはするけれども、今は、かけがえのない彼女と出会って、オレも、新しい人生を歩いています。それもまた、固有の人生です。震災以降の、妻を亡くして以降の、オレの、新しい人生です。

そういう人と過ごした時間を持っているオレを、丸ごと受け入れて、一緒に歩いていってくれる彼女がいてます。
過去はどうであれ、今現在のオレは、そのことにとっても満足しています。感謝もしています。


あと何時間かで、時計の針が止まった時間がやって来ます。
また、神戸中にろうそくの灯がともります。

震災を機にね、素晴らしい歌が生まれたのをご存知ですか?
ソウルフラワーユニオンの中川クンがつくった、『満月の夕』です。
彼らは、震災を機に、活動の形態を大きく変えました。
エレキギターを三線に持ち替え、ピアノをアコーディオンに持ち替え、ドラムをチンドンのタイコに持ち替え、電気が復旧していなかったころから、長田の公園で、オジィやオバァを励ますために、流行歌の演奏会を、何度も何度もやって来ました。
そうやって、聴く者すべてを飲み友だちにして、一緒に生きていこうや!って、仲間の輪をひろげていきました。
中川クンとは、神戸で何度か顔を合わせましたね。
オレは、中川クンとはたいして連絡をとりあう仲ではないけれども、どういうわけか、節目節目で出会います。
17日の今日も、たぶん、どこかで出会うんでしょう。

『満月の夕』は、神戸の街で、多く人が口ずさむようになりました。
チャートにあがってこなくても、多くの人々の、記憶に焼きついた歌になっているようです。
ご存じない方がいらっしゃったら、聴いてみてください。
5分07秒、どんな歌か聴いてみたいと思った方は、どーぞ。ほんの、5分07秒です。オレにとっては、大切な、大切な曲です。

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