2007年3月3日土曜日

恋慕とストーキングを分かつものは


ここ何年も、小説は、単行本ではなく文庫本が出るのを待ってから読みます。
文庫化されるスパンが短くなってきているし、良質の小説もガンガン減ってきているので、文庫本でじゅうぶんだと思うからです。
ただし、新人作家のデビュー作は出来るだけ単行本で読むようにしています。フレッシュさが命ってところはあるから、文庫化されるまで待っていたら、色褪せてしまいます。
それでも、読んでみたいと思わせる新人作家のデビュー作もあまりなくて、ましてや、本棚に残しておきたいなあと思う新人作家のデビュー作なんてのはもっとなくて、ほとんどは、読後すぐに古本屋行きです。

昨日、森見登美彦という新人作家のデビュー作『太陽の塔』を、読みました。
文庫本です。
3年前に単行本が出たとき、本屋さんで手にとり、かなり触手を動かされたんですが、ギリギリで買いませんでした。きっと、アンテナが違う方向を向いていたんでしょうね。
で、今、文庫本が出ているのを見つけて、ちょうどアンテナがピピッと鳴ったので、買いました。

作者がモデルらしい主人公の森本クンは、京大5回生です。
この本、京都が舞台になってるんですわ。
そこが、アンテナに引っかかりました(笑)

北白川別当交差点では角にあるコンビニエンスストアが二十四時間光を投げ、本屋は午前三時まで立ち読み客でいっぱい、山中越えに向かう御蔭通りはへんてこな改造車がびゅうびゅう通る。

私の立っている場所から右を見ると、叡山電車の線路が北東へ延びている。少し先で東大路通と交差し、一乗寺方面へ向かうのである。市街地の中を突っ切るので、半ば路面電車のように見える。あてもなく街をうろついているとき、ふいに目の前の夕闇を叡山電車が駆け抜けることがあった。それはまるで、ごたごたと立て込んだ暗い街の中を、明るい別世界を詰め込んだ箱が走っていくように見え、私はひどく気に入っていた。

こんなかんじ。
京都の街を描写したエッセイは1日1冊くらいのペースで世に出ているような気がするんですが、小説は、そんなにないですな。
具体的に場所がイメージ出来るのがね、きっとそこがアンテナに引っかかったんでしょう。

んで、読み進めるうちに、これ、アタリでしたわ☆

京大生であるところの主人公「私」の独白で物語は進んでいくんですが、この青年は、水尾さんなる2個下の法学部婦女子学生さんの追っかけを日課としていて、それを研究と称してレポートにまとめてるんですわ。

彼女の家に愛車の自転車まなみ号で駆けつけ、「素早く携帯電話を出して、待ち合わせしているのに相手が十五分も遅れているのでむしゃくしゃしている二十歳すぎの若者を巧みに演じ」ながら、彼女の帰宅を待ち伏せるんですよ。

ストーカーですわ(笑)

はい、ストーカー日記です(笑)

でも、「私」は、これをストーカー行為ではないと、断言します。

私の日常は、かつての恋人・水尾さんの日々の行動を観察することに費やされている。
誤解してもらっては困るのだが、これは決して「ストーカー行為」などではない。
私のように頭脳も人格も性格もずば抜けて優秀な人間が、
なぜ彼女ごときに袖にされたのかという疑問を、客観的かつ科学的に解明するための「研究」なのである。
今日も私は愛車・まなみ号(自転車)にまたがり、京都の街を走り抜ける。

と、この調子ですな、あらゆる行動が、彼の頭のなかでは正当化されているんですわ。それがまた、豊富なボキャブラリーとイギリス文学的な凝った言いまわしで、展開されるんです。

男子大学生なんてのは、根本的にダサイですな。
理屈っぽくて、情念を持て余していて、カネがなくて、力もなくて…、京大生でも京大生でなくても、そのへん、変わりませんな。

独り者にとっては憎悪の対象でしかないクリスマス・シーズンに、頭でっかちの「私」のモノローグは炸裂し、自我がうねりをあげて旋回します。さらに大言壮語、文士的なモノ言いが…、結局のところ、この物語は、大好きだったのにふられてしまった水尾さんを巡る、四畳半の自室と京都市内を舞台にした、小さな冒険譚であり、とどのつまり、降られた男の冴えない真冬の独白小説に過ぎないのですが、古色とした清潔感があり、「私」は、どこまでもダサイです。ただし、そのダサさがこれ以上ないくらいに正しいダサさであるゆえに、読後、爽やかな気分を残します。

禁欲的生活。
この言葉を聞いて、まず思い浮かぶのは、かつての僧坊であるが、そんな彼らも禁欲的生活を維持するために様々な手を弄した。ためしに手を弄することを止めてみれば、途端に世界は輝きに満ち、あまりにも眩しすぎてそれはもはや正視に耐えず、上求菩提下化衆生などと言ってはいられない。かえって手を弄することに夢中になって、本道を忘れる者もいたろうが、我々は彼らの轍を踏むこと避けたいと願っている。あくまで理性を保ち、我々がジョニーを支配するのだ。決してその逆であってはならない。
この美しくも涙ぐましい禁欲的生活を支えるために、欠くべからずものがビデオ店である。隙あらば理性の頸木を逃れようとするやんちゃなジョニーのご機嫌をとり、つねに静謐な心を保つためには、連日のごとく新鮮な具材が必要だ。

ビデオ店でアダルトビデオを借りるのに、これだけの言い訳を要し、そうする自身を正当化して納得しようとするこの情熱と頭でっかちさ加減!

このダサさは、男子大学生の正しきダサさなのだけれども、今、見る影もないような気がします。
このダサさを失ったことと引き換えに、この世のなかは、恋慕を失い、ストーキングにとって代わられたんじゃないでしょうかね。

この小説は、オモロいですよ☆
ハッピーモードの恋愛小説が横行するなかで、救いようのないダサさで展開される妄想モード炸裂の抱腹絶倒モノローグは、異色です。異色ですが、大好きですね、こういうの。
しかも、舞台は京都。その京都の風景が詩的に描写されます。

ま、笑いたい人は読んでみてください。
amazonで「森見登美彦」「太陽の塔」と検索かければ、一発で出ます。

桃の節句の日、男の子は、こんな日記を書くのです(笑)

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