2007年3月14日水曜日

神降臨!


マイミクさんののりっち☆さんが外部ブログで教えてくれたのでした。
な、なんと、オウムの上祐史浩が、mixiをはじめた、と!
ついでに、のりっち☆さんの件のブログ日記タイトルも、パクってきました(笑)
のりっち☆さん、もらった!(笑)

上祐クン、本名でmixiやってますから、検索かければ、一発で出てきます。

これが彼のトップページ


まだ加入して数日のはずなんですが、マイミクさんがすでに600人以上います。
おもろそうなので、あっつ~いメッセージをつけて、マイミク申請しました(笑)
24時間以上経ちますが、まだ返事は来ません。。。。

オウムについては、なんだかんだで思うところがあるんですよ。

上祐クンは44歳らしいですが、ということは、オレと同年代。彼に代表されるように、オウムの中核を担った世代というのは、オレの世代なんですね。
刺殺された村井は、面識はまったくなかったけれども、オレの高校の3年上の先輩でした。

10代の終わりくらいかなぁ。その年代特有の病気でしょうけれども、閉塞感とか、息苦しさがあったんですね。
世がバブルに突入する前夜で、あっちこっちで浮かれた狂躁が繰り広げられてる世のなかで、すんごい違和感を、オレは感じてたんですよ。
ディスコ(まだクラブって言葉はなかったのよね)は、婦女子さんを連れてないと入れてくれないし、それも小洒落た格好でないと入れてくれないし。。満席です、とか言われて、思いっきり選別されてましたから。
カネも力もなかったけれども、有り余る情念だけを持て余していて、バカヤロウ!って、あっちこっちで毒づいてました。

豪華な暮らし、豪華な格好、豪華な遊び、ノー天気な狂躁…、べつにそれが悪いことだとは思わないけれども、それだけだったんですよ。それ以外の価値が、キレイさっぱり忘れ去られて、バカなんじゃないか、こいつら、って思ってました。

死ね!
なにがわかる!
バカヤロウ!
つぶれちまえ!

尖った言葉をね、あっちこっちに、教科書の余白に、ノートの切れ端に、壁に、レコードのジャケットに、書き殴ってました。
何年かまえに、レコードの置き場所に困って売っぱらおうと整理したときに、そういうレコードが出てきて、そこに書き殴ってある言葉を何年かぶりに見たとき、笑ってしまいました。
今と、そんなに変わってないのよ。
そりゃ年もとって、いろんな経験もして、清濁併せ飲むようなこともやってきて、知恵もつけばついてきただろうけれども、本質的に、な~んも変わっていない自分がそこにいて、大笑いしました(笑)

いや~、あのころの自分に、授業サボって屋上に寝っ転がってタバコ吹かしてオレに会いにいって、大丈夫だ、おまえは!って、言ってやりたいな。

さて、そういうころですな、オウム真理教が身近にあれば、オレはフラフラと入信してたかも知れんなあ、と思うんです。
たまたま身近になかっただけで、あれば、フラフラと入信して、地下鉄にサリンを撒くなんてことも、やってかも知れんなあ、と思いますね。
だから、オウムが引き起こした一連の事件って、オレにとっては他人事じゃないんです。一歩間違えていたら、オレが実行犯だったかも知れん、という思いがありますから。

矛盾だらけのイヤな世のなかなんてぶっ壊してね、きちんと整合性も調和もとれた美しい世界を再構築するってのが、そもそものオウム真理教の金看板だったじゃないですか。
そういうものに対する憧れというのは、ありましたな。
入信した多くの人たちが読んでいた中沢新一の『チベットのモーツァルト』も、オレだって夢中になって読んでたし。
神秘系やスピリチュアル系への憧憬はまったくなかったけれども、絶対や不変への憧れは、強くありましたからね。

だから、オウムへ入信していった人たちの、入信に至るまでの心の変遷プロセスは、オレには、痛いほどわかるんです。
ただ、あの、俗物のかたまりのような麻原に惹かれるってところだけは、どうしても理解出来ないけれども。

そのころですね、オレが旅に出たのは。
オウムに入信した人たちと、おそらくはおなじような動機で、オレは旅に出ました。
オウムが旅にすり替わったのは、これはもう、まったくの偶然としか言いようがないです。
つくづくね、オウムじゃなくて旅を選んでいてよかったと思いますよ。
無差別殺人の実行犯にならなくてすんだということではなくて…。

あのね、
インドに行くと、空港を出た瞬間に、数十人に取り囲まれました。
全員が、オレに手を差し伸べて、カネくれ!って言ってるんですよ。乞食です。
ビビって、もっかい空港に引き返して、考えましたね。自問自答しましたね。
あの人たちは、明日にも飢え死にするかも知れん生活だ。どーせわずかなカネだし、喜捨すれば生き延びられるかも知れん。でも、これから先、おまえはすべての人にそれをするのか、と。

道を歩いているとね、両手両足がない子供が、壁にもたれかかってるんです。壁に立てかけてある、という表現のほうが正確かもしれません。
インドにはカーストがあるから、乞食に生まれたら、ずっと乞食です。そっから抜け出すことは、奇跡が重ならないかぎり、無理。
母親が、我が子が乞食として憐れみを買いやすいようにと、親心で、我が子の両手両足を切るんです。
それを聞いたときにね、やっぱ、絶句しましたよ。

オレの旅は、そういうことの連続だったです。
なんのために生きてるのか、とか、生きる意味とか意義とか、そんなことをね、観念をいじくりまわしているような暇は、まったくなかったです。そうする暇もなく、現実が次々とやってきて、さあどうすんの!って、のど元に匕首を突きつけられてました。
絶対への憧れも美しい調和もへったくれもなく、さあどうすんの!って、オダギリジョーよろしく、ライフカードを突きつけられてましたよ。

そういう環境に身を置くことによってね、生きる意味だとか意義だとかということよりも、生きる手段のほうに、いつしか、オレの視線は移っていったんですね。図太さというか、耐性も、いつしか身についてましたね。

ガンジスのほとりで、洗濯をして、川岸に何枚もの洗濯物を干してるオバァがいます。
洗濯はヒトの汚れを扱う仕事だということで、カーストの順位では下のほうにあるんですが、そうやってゼニを稼ぐ方法もあるんだな、と、オレはその光景を、穏やかに見ていたのでした。

オウムの修行と違って、旅をすることには、具体的な現実がありました。
押しても引いても手応えのある、具体的な現実がね、目のまえになんぼでもあったんですよ。矛盾や!とか、おかしい!とか言ってるひまもなく、さあどうすんの!と、その対処だけで精一杯でした。

おかげで、観念をいじくって、自分のオナラにむせってるような自家中毒にならずにすんだんですね。
オウムのやらかしたサリンによる無差別殺人は、観念を観念で処理しようとして観念のダンゴ状態になった、自家中毒の果ての仕業ですから。

そうはならんでよかったと、腹の底から思いますわ。

のちに、ラテン社会にずぶずぶと足を踏み入れていったとき、
「博打ででもいいから手を使え」
という諺を知りました。
身体を使ってないと、ロクなことを人間は考えないから、サイコロを振るのでもいいから手を使え、身体を使えって意味です。

我が身に照らしてみて、そうやな、そのとおりやな、と、腹の底から思ったもんです。

ラテンの国々というのは、これまたいい加減の極北みたいなところでしてね。
人間はどうしようもないし、いやらしいところもたくさんあるけれども、だからこそ楽しいし、愛すべき存在なんでしょ!と、100人いたら100人がそういうふうに思ってますわ。

上祐クンとね、マイミクになれたら、そんな話をしたいなあと、思ってるんですけどね。
まだマイミク申請の返事が来ませんわ。

はよ承認しろや~(笑)

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