

相国寺の承天閣美術館で開催中の『伊藤若冲展』、気がつけば、会期終了まで残り10日を切ってます。。
伊藤若冲は、メチャクチャ好きな画家というわけではないんですが、今回、最高傑作の『動植綵絵』全30幅が一挙公開だし、『釈迦三尊像』全3幅も出展されるし、こんなことは120年ぶりだということですから、もうね、ハレー彗星なみの邂逅のチャンスですよ。
これまでに、何枚かは実物を見たことがあるのですが、『動植綵絵』とは、なかなか不思議な作品です。
徹底的に写生でありながら、よく見ると、動植物のプロポーションや器官のかたちが不正確であるばかりでなく、想像上の動物である鳳凰までが描かれています。
蓮池を泳ぐ魚の絵は、水面を描いているはずなのに、べつの場所に目を移せば、いつの間にか水中になっているというような、空間のねじれまでが表現されてます。
彼が活躍した江戸時代、写生とは、生を写す、という意味で、風景をスケッチする今の写生と違って、動植物を観察して絵を描く、ということなのですが、いうまでもなく、表面にあらわれるかたちだけを写しても仕方ないわけで、まさに、「生」を写さねばならんわけです。
もちろん、伊藤若冲の『動植綵絵』も、そうした写生理論をふまえて製作されているのですが、そこを超えていくというか、「生」を表現するために、彼にとっては、現実をねじ曲げる必要があったんでしょうね。
その結果、伊藤若冲にしか表現出来ない、生の美しさが、ここにはあります。
確固たるリアリティがありながらも、幻想の世界なのですね。
エロチックな幻視の世界と言っていいかもしれません。
写実と幻想の不思議な交錯が、ここにはあります。
オレは、ファンタジーは冷徹なリアリズムに裏打ちされてこそ成立する、と思っているのですが、伊藤若冲の絵は、まさにそういう絵ですね。
おなじことを、マイミクさんのgoutさんが、いつだったか、べつの言葉で表現されてました。
神は細部に宿る。
伊藤若冲の絵には、細部に神が宿っているはずです。
で、見にいきたいんですけどね、なぜかそのチャンスはことごとく潰え、来月3日の会期終了まで、すでに10日を切りましたです…。今回の展示以降、当分はこの規模ではやらないらしいですから、今回が最初で最後のチャンスかもしれません。
そういうこともあって、どえらい人気で、連日押すな押すなの大盛況らしいのですが、それでも見たい!
行きたいです! 行きたいですぅ~(涙)
そうそう、相国寺で伊藤若冲展をみたあと、伏見の石峰寺に立ち寄って若冲の最晩年の作品である五百羅漢像を見る、というコースが、奨励されてるみたいです。
でも、『動植綵絵』のころの伊藤若冲は、基本的に唐絵。五百羅漢像のころは琳派、大和絵に大きく回帰しており、そのかんの隔たりは相当なもので、一足飛びのように思えて、よくこんなコースを勧めるよな、と思います。
で、案の定ですが、石峰寺の五百羅漢像は野ざらしなので、バカが持ち帰ろうして制止される、という事件が相次いでいるらしいです。。。
なんとなく怒りのパワーが沸いてきて、『動植綵絵』全30幅、画像をアップしてしまいました。。
↓
「芍薬群蝶図」

「老松白鶏図」

「南天雄鶏図」

「雪中錦鶏図」

「牡丹小禽図」

「芦雁図」

「雪中鴛鴦図」

「梅花皓月図」

「梅花群鶴図」

「棕櫚雄鶏図」

「桃花小禽図」

「菊花流水図」

「梅花小禽図」

「秋塘群雀図」

「紫陽花双鶏図」

「老松鸚鵡図」

「芦鵞図」

「蓮池遊魚図」

「老松白鳳図」

「向日葵雄鶏図」

「大鶏雌雄図」

「群鶏図」

「池辺群虫図」

「貝甲図」

「老松孔雀図」

「芙蓉双鶏図」

「薔薇小禽図」

「群魚図(蛸)」

「群魚図(鯛)」

「紅葉小禽図」

あ、この日記のトップの画像は、『動植綵絵』ではなくて、『鳥獣花木図屏風』。
じつは、『動植綵絵』よりもこっちを見たい!とずーっと思い続けているのですが、この作品は、近年、伊藤若冲が評価される以前(さらに言えば、現在でも伊藤若冲筆なのかどうかの真贋論争がありますが…)にアメリカ人コレクターのプライスさんが安価でお買い上げになり、現在、プライス・コレクションの一環に加わっております。見られるチャンスがあるのかどうか…。
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