2007年10月15日月曜日

詩のボクシング


亀田余波ってすごいですな。
mixiの日記キーワードランキング、ずーっと1位やん。
まあ、見てないし、興味もないし、どうでもいいですけど(笑)

あーんなレベルの低いボクシングを見せられるくらいなら、詩のボクシングを見ていたほうが、よほどいいです。

10月20日に東京で全国大会があるので、取材に行くことにしました。
公式サイトは、こちら。



7、8年前に一度見たことがあるのですが、今年で10周年を迎えて、結構、あちこちで盛り上がってきてますね。

ボクシングのようにリングを用意して、青コーナーと赤コーナーから入場した詩人が、ひとりずつ、リングの真ん中で詩を朗読します。で、勝ち負けをつけます。1ラウンド3分で、ちゃんと、ゴングも鳴らすしね。
詩に勝ち負けをつけるとはなにごとか!との異論もあるのだけれども、現実には賞だってあるのだし、賞があるんだから勝ち負けくらいつけてもいいだろうと、異論にはどこ吹く風の、鮮やかな活動を続けています。

そもそもが勝ち負けは余興なので、どうでもいいのですよ。
といっても、ねじめ正一と谷川俊太郎がタイトルを争ったり、サンプラザ中野がタイトルマッチに挑んで負けたり、勝負もまた、それなりに楽しいものではあるんですけれどもね。

や、そうではなくて、詩というものは、もともとが言葉の重さを賭ける行為ではあるけれども、リングに立って朗読することで、そこには存在を賭けざるをえない、行為の重さ、が、加わります。

口を突いて出る言葉は、なにも聴衆にのみ向けられているのではなくて、ほかでもない、言葉を発する本人に、刃を向けます。オレは、そんな詩人の言葉が好きです。

最近、むかしっから愛読している茨木のり子さんの詩集を、読み返しています。



ばさばさに乾いてゆく心を

ひとのせいにするな

みずから水やりを怠っておいて


気難しくなってきたのを

友人のせいにするな

しなやかさを失ったのはどちらなのか


苛立つのを

近親のせいのにはするな

なにもかも下手だったのはわたくし


初心消えかかるのを

暮らしのせいにはするな

そもそもが ひよわな志にすぎなかった


駄目なことの一切を

時代のせいにはするな

わずかに光る尊厳の放棄


自分の感受性くらい

自分で守れ

ばかものよ


けっしていい詩だとは思わないけれども…、強い意志が、まるでキリキリとよく引き絞られた矢となって、重くよどんだ大気を切り裂いてびゅんと彼方に向かって飛び去っていきそうです。
感傷や悟りには逃げず、詠嘆に流れず、冷笑もなければ、嗤笑もない。あるのは、乾いた意思だけです。それが言葉として、詩として結晶しているダイナミズムは、とっても美しいと、オレは思います。

最近、茨木のり子さんの、この詩が気になって仕方がありません。
よく、口に出しています。
『自分の感受性くらい』という詩です。
まるで、ボクシングのような詩ではありませんか。

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