2007年12月4日火曜日

プニュエルの『嵐が丘』にフラメンコを重ねてみる




「あの、ヒースクリフですよ。覚えてらっしゃいますでしょう。ご主人。アーンショー家にいたあの人です」
「なんだと! あのジプシーが…。あの野良働きの小僧が帰ってきたんだって?」
「しっ! あの人のことをジプシーだの野良働きだのとおっしゃってはいけませんよ、ご主人」

行間からフラメンコの音楽が聞こえてきそうなこの文章は、エミリー・ブロンテの名作『嵐が丘』の一節です。
物語の舞台は、いうまでもなくイングランド、ヨークシャー地方の荒野です。でも、これを、スペインのアンダルシアに置き換えても特に違和感はなくて、むしろそのほうが似つかわしいのでは、とすら思ってしまいます。

ロマ(ジプシー)という存在がどれほど蔑視されていたか、スペインや東欧ではなくイングランドで書かれたこの物語にまでこのような記述が見られることからも、察してあまりありますな。

『嵐が丘』は差別された者の反逆を描いた作品だし、一般的には、西欧キリスト教社会に対するアンチテーゼだと解釈されると思うんだけれども、ロマ(ジプシー)の特異な民族性から発生した悲劇だという観点を重ねあわせるべきだと、オレは思います。

ヒロインの悲劇は、幼なじみのロマ(ジプシー)の青年に、「常にあたしの心のなかにある」「あたし自身として」とまで一体感を抱きつつも、家柄や身分を保証された裕福な家庭の男を選ぶところからはじまります。
キメのセリフは…、
「あまりに品が悪すぎて、いくらなんでもヒースクリフとは結婚出来ないわ」。

でもこれは、弱き者、汝の名は…、という次元の問題ではなくて、西欧キリスト教社会がロマ(ジプシー)を拒否した一例として考えるのなら、このイングランドの小説とフラメンコのあいだにも、ひとつの絆が見えてきます。
そういうふうに捉えて初めて、ルイス・ブニュエルが描いた『嵐が丘』の、それを描くに至った動機が、なんとなく理解出来るような気がします。

今日、仕事でですが、ルイス・ブニュエルの『嵐が丘』を観たのでした。
『嵐が丘』はさまざまな監督によって映画化されてますが、オレは、ブニュエルの『嵐が丘』が一番好きです。

『ビリディアナ』、『小間使いの日誌』、『昼顔』…、ブニュエルは一貫して婦女子さんの心のなかに潜む背徳的な魔性を描き続けたけれども、ひょっとしたら、その原点にあるのは、ロマ(ジプシー)の青年の血の魅力に感染し、やがて安定した日常との対立に引き裂かれて滅んでいった、『嵐が丘』のヒロインだったようにも思えます。

ブニュエルがその小説の映画化を決意したとき、当然、母国スペインでも目撃することが出来たであろう無数の「嵐が丘」に、思いを寄せなかったはずがありません。

さらに、そこに、ブニュエル自身の心理が投影されます。
シュールレアリズムの古典でもある『アンダルシアの犬』をサルバドール・ダリとともにつくったブニュエルも、その芸術性ほどに進歩的な人間ではありませんでした。
自分の息子が結婚したいと連れてきた婦女子さんが処女ではなかったと知って、怒り狂って猛反対したというエピソードが残っていたりもします。
あの、貴婦人然とした人妻が売春婦に変身する『昼顔』のような傑作を生み出した人にして、プライベートでは、そのように振る舞う。

ただ、この強烈な二面性こそが、フラメンコの成立と発展を可能にしたスペインの感性だとも、いえます。
キリスト教の厳しい戒律を理性のうえでは受け入れつつも、抑えきれない自然発生的な血の騒ぎを素直に表現する神経回路の一端がフラメンコに繋がっていった、と、考えることも出来るのだから。

ロマ(ジプシー)は、行く先々で自分たちの独自のアートを開花させたけれども、フラメンコほど、地元の民衆の共感を得て定着した例は、珍しいです。世界を敵にまわしても自由であろうとする血を常にたぎらせながら、自らの民族内部には強固な掟を課す、その二律背反性が、光と影の対立と両立を理解するスペイン人の許容範囲にあったのでしょうな。

ルイス・ブニュエルに話を戻します。
その容姿が、フラメンコの神さま、エル・ファルコにどことなく似ているのは、つまらない偶然なのでしょうか。
映画作家としては最後の作品となった『欲望の曖昧な対象』に、フラメンコを踊るコンチータというセビージャ出身の婦女子さんを登場させていることを、どうしても思い出してしまいます。この婦女子さんにズブズブとはまり込んでいく初老の男が、谷崎文学的なデカダンさで、老境にしてなりふり構わず己の血のうずきに身をまかせるさまがね、なかなかいいのですよ。
そこに、フラメンコがあった、
ってかんじです。

『嵐が丘』から『欲望の曖昧な対象』にいたるブニュエルの映画人生に、揺れ動く彼の心の光と影を追うとき、『アンダルシアの犬』の冒頭、婦女子さんの眼球を切り裂くカミソリの刃に、フラメンコを感じます。

「現実の背後にある現実世界より一層現実的なるものを発見し掘り起こすこと」。
ブニュエルの『嵐が丘』を観ていると、シュールレアリズムの定義が、そのまま、フラメンコの定義のようにも、思えますな。


そんなわけで、本日はパコ・デ・ルシアのギターを。


Paco De Lucía / 『Entre dos aguas』

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