2007年12月13日木曜日

高野第三住宅

京都は洛北、大原通を北に歩いていきますと、高野第三住宅という大きな公団住宅の団地があります。
明治40年にカネボウが紡績工場をこの地に建てたのですが、昭和56年に住宅公団が買い上げて住宅地としたのが、高野第三住宅。

当時の煉瓦建築がそのままでたくさん残っている、珍しい公団住宅ですわ。

ボイラー室を改良して集会所や管理事務所にしたり、煉瓦塀なんかが残されてます。
京都まで仕事に行った折り、ちょいと見物してきました。

まだ紅葉が残っていて、煉瓦とよくマッチしていますね。









昭和56年に住宅スペースが建てられ、そこは普通なのですが、当時の面影をそのまま残している集会所や管理事務所、煉瓦塀などに目を遣ると、いろいろなことが想像出来て楽しいです。

外塀と内塀があるのですが、外塀は、中と外をわけるだけでなく、逃亡防止用だったそうです。だから、ビックリするくらい、背が高い。

1920年代、ここで働いていた職工さんは3400人いたと言います。寄宿舎の清和寮には2500人の女工さんさんたちが高い塀に囲まれて暮らし、なかには映画館まであったそうです。この塀のなかだけで、職住のすべてが完結してしまう、独立した地域のようだったんでしょうね。現在では、隣接する場所にイズミヤがあるのですが、もとは鐘紡のグラウンドでした。
会社全体で職工さんの生活の面倒を見ていた、ということです。
ただ、そういえば聞こえはいいですが、逃亡防止を兼ねた高い塀だったということは、やはり、それだけキツい労働を強いていたということでもあるのでしょう。女工哀史なんかも、残っているかも知れません。

外塀をくぐると、ほどなくして内塀が現れます。塀の上部がのこぎり型のフォルムをしていて、この塀が工場の塀だったことが、すぐにわかります。





裏へまわってみると、塀の一角にお地蔵さんが祀られていました。煉瓦に囲まれたお地蔵さんも、なんだかいいもんですね。




部外者なので、そうそうなかには入っていられないんですが、住宅に引っ付いているかたちで、不思議なものを見つけました。どのように再利用されているんでしょうかね?






この、高野第三住宅は、「京都の近代建築を考える会」によって、明治期から戦前までの建物を表彰する「市民が選ぶ文化財」に選ばれています。
京都は、明治維新で皇族が江戸に移ってから、政府に見捨てられた場所です。
なので、これからはお上に頼るのではなく、自前でなんでもやっていこう!という気運が高まり、全国に先駆けて小学校を建設し、大学を設立し、企業を誘致して、盛り返していったんですね。
京都といえば、伝統や日本美といったものが真っ先に思い浮かぶけれども、今もむかしも、都というところは、新しいものを取り入れるのが大好きな、進取の気風を持った場所です。
だから、明治期にもたくさんの建築物が建てられ、それらだけをピックアップして巡っている人もいますな。

歴史ある建物も、放っておけば、知らず知らずのうちに容赦なく壊されていくもんですが、そのままのかたちで残すことが難しいのだとしても、せめて、こうやって一部を生かすだけでも、いっぺんに素敵なものになりますね。
なんといっても、むかしの建造物は、効率だけを考えてつくられたものではないから、様式美があります。
この煉瓦も、なんだか今の煉瓦よりも暖かみを感じるのは、どうしたことなんでしょうかね?

ここ、賃貸で、空き物件がいくつか出ていて、興味本位で調べてみたことがあるんですが、2DKでね、ちょっと狭いんですよね〜。もちょっと広かったら、住むことを考えるんだけど。。。


今日は、ゴキゲン・ジャズ・ファンクで☆

本日の1枚:
『j.t.q. theme』
james taylor quartet

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