2007年12月5日水曜日

フラメンコの誕生を夢想してみる


今年、スペインのマドリーで列車爆破テロがあって、政権がひっくり返りましたな。それまでの親米政権だった国民党が倒されて、社会労働党が政権に返り咲き、イラクからの早期撤退を決めて、ずいぶんと話題になりました。
労働社会党の政権奪還は1996年以来といいますから、20年ぶりの奪還です。
その間、もっとも長きにわたって首相の座に就いていたのが、アスナール。
盆栽が趣味で、庭いじりに劣らず熱心なのが、フラメンコでした。その熱を息子が引き継ぎ、官邸に当代きってのフラメンコ歌手、カマロンを呼んでは歌わせているらしいです。なんせ、アスナール一家は、フラメンコの本場、アンダルシアはセビージャの出身ですからな。南スペイン、1年に300日は灼熱の太陽が降り注ぐセビージャ。

翻って、今年の4月に新首相に就任した労働社会党のサパテロ首相は、北の人。バジャドリー出身です。サッカーの城彰二がリーガ・エスパニョーラに挑戦していたときに在籍していたクラブがここだから、それで名前を知ってる人多いかも知れません。9ヶ月が冬で3ヶ月が灼熱地獄の、苛烈な土地。

スペインの北と南は、大きく異なりましてね。

食べる肉は、北が牛で南が豚。
北の魚は種類が豊富で、炭焼きから鉄板焼きまでなんでもござれ。南は種類が少なくて、オリーブオイルで揚げる一辺倒。
北がリンゴで、南がオレンジ。
物語の『カルメン』は南の婦女子さんだけれども、北の生まれを装い、リンゴ畑が忘れられないわ!などとのたまって、北の男ホセの郷愁を誘います。

北と南。
気候が違い、地理が違い、社会の成り立ちが違いますねん。

8世紀初頭、キリスト教徒の国スペインに、アラブ人率いるイスラム教徒が侵攻し、1年でほぼ全土を制圧。キリスト教徒の貴族は北の海沿いに逃れ、反抗の準備に備えます。
他の、逃げる資金も術もなかった一般庶民はですな、イスラム教徒に改宗する人、しない人に分かれたのだけれども、いずれも生活習慣はアラブ風に改めます。

反抗は、スペインらしいおおらかさで進みまして、100年で川をひとつ越え、次の200年でもうひとつ、といった調子で、共存と闘いを繰り返しながら、南へ進んでいくのでした。
キリスト教徒の中心勢力であるカスティーヤ王国がイスラム最後の拠点であるグラナダを奪還するのが、1492年ですからね。800年近くかけての奪還ですよ(笑)
これはそのままスペイン語の普通名詞になってまして、レコンキスタ(失地回復)と呼ばれています。

グラナダにいたのは、イスラム教徒、ユダヤ教徒、キリスト教徒です。カスティーヤ王国は、これらすべてにキリスト教を強制し、これでやっと、スペインに、ひとりの王がひとつの法律で治める、ひとつの宗教で束ねる体制が出来たわけです。まあ、バスクの問題はあるのですが、それに触れると話がとめどなくややこしくなるので、ここでは一旦、除外ね。

その頃、東のピレネーの山の彼方から、スペインへ入る集団があったといいます。
それが、ロマ(ジプシー)。
インドに発した集団が枝分かれし、スペインへも入りました。
レコンキスタの戦勝景気に惹かれて、移動したといいますね。
異教徒の多くが国外へ脱出したあとの労働力の補充として、他のキリスト教諸国から植民が送り込まれていたころで、ロマ(ジプシー)も歓迎されたといいます。

16世紀、スペインは新航路を開拓し、交易を独占してヨーロッパ随一の強国となり、その基点であったアンダルシアにはヨーロッパ中から商売人が集まり、ロマ(ジプシー)にも定住者が増えて、農具なんかをつくっていたそうですわ。ま、ロマ(ジプシー)は、手先が器用ですからな。

が、しかしです。
人々をひとつの宗教で束ねようとする国家や教会の目に、イスラムやユダヤの習慣を捨てない人々や、異国語を使うロマ(ジプシー)のような人々は、不穏な分子でもあったのですよ。そもそも、古代インド語であるサンスクリット語を使い、服装も怪しい。
職人は職人、百姓はどこから見ても百姓、靴ひとつで身分や職業がわかってしまう社会にあって、宗教は、精神の領域である以前に、生活様式そのものだったのですね。だからこそ、教会は、この統一を重要視します。よくわからない人々の存在は、どこの国であっても、怖れられますからな。

定住しないことは、重罪。
監視がしにくいし、労働力にならない。
ので、住所不定、無職、無籍の取締令が出ます。
逮捕の1度目は百叩き、2度目は投獄と両耳落とし、3度目は終身奴隷にする、と。

アンダルシアはスペイン国土の約2割を占める、自然に恵まれた肥沃な土地なのだけれども、働く人々は貧しいままでね。レコンキスタのアンダルシアでの戦争は近代戦争であり、近代戦争であるからには莫大な戦費がかかるのですが、王家は、その莫大な戦費を多数の貴族から借金してまして、それは、奪還予定地との引き換えだったのですね。
その結果、アンダルシアの土地は、ひとにぎりの貴族のものとなり、北のカスティーヤが小規模自営農の土地であるのに対し、アンダルシアには大土地所有制が居座り続けて、それが今日まで続いています。
労働者、農民はすべて日雇いで、手配師が持ってくる仕事の口を求めて、人々は広場に集まるわけです。
だから、アンダルシアの都市は、どこも、大きいですよ。農民をそこに住まわせ、農作業の時期には畑地のなかの飯場に隔離したといいますから。

マシな暮らしを求めてよそに移ろうとすれば、浮浪者取締法で、牢獄か鉱山か港湾に送られます。逃亡者は、山賊になるしかないですね。アンダルシアは陸のなかに点々と島があるといわれるほど隔絶された土地でもありますから、山賊になるのにはうってつけです。スペインを北と南にわけるシエラ・モレナの山々やグアダルキビル川の流域に、山賊が跋扈しました。

そんな状況から涌いてきたのが、フラメンコです。

ロマ(ジプシー)には音楽の芸を身すぎ世すぎの足しにしてきた人々がいて、彼らは日常の粋や恋を歌ったのだけれども、そこに、この世の不条理が魂の叫びを誘ったのでした。
アンダルシアの特殊な運命とその重圧を共有する人々を代表して、ロマ(ジプシー)が、呻いたのでした。やり場のない訴え、聖母マリアにしか縋るところのないせつなさが声になり、フラメンコは誕生しました。




バルセローナのオリンピック・スタジアムやミロ美術館、カタルーニャ美術館は、すべて海沿いの丘にあります。つい20年ほどまえまで、この丘には1万戸以上の掘っ建て小屋がありました。手を伸ばせば届く高さで、ベッド2台がようやくという狭さで。外壁は漆喰の白で塗られたこの建物は、チャボラと呼ばれ、4万人が住んでいると、当時、いわれていました。アンダルシアからの、流民ですわ。
今は亡き香港の九龍かマニラのスモーキー・マウンテンさながらの、一度迷い混んでしまえば脱出不可能の、迷路ですな。
迷路ではあっても、通りには名前も番地もちゃんとあって、郵便も届いていてました。でも、市の地図では、丘は空白。
夜は、野良犬の天下。スタジアムは、当時はサッカー場の廃墟、カタルーニャ美術館は見捨てられた離宮だったのですが、どちらにもロマ(ジプシー)が住みついて、物乞いの拠点にしてました。

そのころね、19歳のロマ(ジプシー)の少年と、知り合ったのですよ。

アンダルシアで豚の世話をし、バルセローナに出てきてからはレストランでコックの見習いをしてました。3食付きで、社会保険付きで、月5000円ほど。
この少年の家族も丘に住んでいて、オレたちはなぜ姿勢がいいかわかるか?地べたに寝ているからだ!なんてことを言って笑ってました。
カルメン・アマージャが主演する『バルセローナ物語』は、ここで撮影されています。
そのチャボラもすでに消え、人々は工場群の近くのマンモス団地に移っていきましたが。

おなじく20年まえ。
マドリー駅から線路沿いに3kmも4kmも延々と続く、不思議な風景がありました。
廃品の捨て場と見間違えるほどの、廃物利用のチャボラ。もうね、スモーキー・マウンテンさながらですわ。ここもまた、アンダルシアからの流民の仮住まい。
こちらは、マリソルが主演する『太陽の朝』に、この風景が出てきます。

やっぱり、20年近くまえ。
マドリーの劇場で、珍しく、ロマ(ジプシー)ばかりが出演するフラメンコのステージがあって、オレは、いそいそと出かけたのでした。
客はさまざまで、途中、2階から人が降ってきましたですよ(笑)
ロマ(ジプシー)とそうではない人がケンカをして、どちらかが突き落とされ、両方が落っこち、劇場内は殺気立ったのでした。
そのとき、舞台にはバイラドール(踊り手)のエル・グイトがいて、
私たちの歴史は共存を願う年月ではなかったのか! こんなことで、出来かけた関係を台無しにしてもいいのか!
と、叫んだのでした。

オレは、その日、トマティートやチケテテよりも、グイトのひとことを聞きにいった思いがしたのでした。

ヒトラーは強制収容所でロマ(ジプシー)を50万人は殺したといわれているし、そのヒトラーの支援を受けてスペイン内戦に勝ったフランコは、第2次大戦中に、ナチス支援のための兵を6万人送っています。その、フランコの時代、ロマ(ジプシー)は、アウシュビッツを思って息を潜めていたことを想像するのは、そう難しいことではないですね。

15年くらいまえかな。
グラナダのシエラ・ネバダ山中で、秋祭りが行われていて、教会の境内には輪投げや射的なんかの屋台が出ていたのでした。この屋台をやってるロマ(ジプシー)たちと仲よくなりましてね。
ある晩、一家を率いる男が歯痛で七転八倒し、オレは見かねて、薬局を叩き起こしたのですよ。ロマ(ジプシー)が行っても、相手にしてくれないからね。
痛みが治まり、それからはおなじ釜の飯を食べ、おなじ屋台の下で寝て、輪投げや射的の客のポケットから財布を抜く技なんてのも、教えてもらいましたわ(笑)
この一家は、グラナダ郊外のチャボラに住んでました。

おなじころ、
オリーブの生産量が世界一というアンダルシアのマルトスで、住民200人がロマ(ジプシー)の住まうチャボラを放火し、2人が逮捕されました。
これに抗議して住民20人が決起し、やったのはオレたちみんなだ!と、共犯を名乗り出たのでした。
スペインでは、責任を全員で被るとき、やったのはフエンテオベフーナ!と、言います。むかし、フエンテオベフーナという町で悪代官を殺した人がいて、住民が彼をかばい、やったのはフエンテオベフーナ!と言い張ったことに由来する、と、教えてもらったことがあります。
のちに戯曲化され、アントニオ・ガウスは、これをもとに『アンダルシアの嵐』をつくったのでした。

昨日から聴き入っている、フラメンコにまつわる話を、つらつらと。。。
長くなりましたな(笑)


今、フラメンコ界で若手ナンバーワン、ニーニョ・ホセレを☆


『Paz』 / Niño Josele


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