2007年12月6日木曜日

あの夏のフラメンコ




この話は、いくつかのところですでに何度か書いているのだけれども…。

オレは、ちょうど20歳の秋から24歳の冬までの丸4年間、ずっと、世界中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり、ウロウロしながらほっつき歩いていてました。
東アジアを皮切りに、中央アジア、中東、イスラム圏、アラブ圏、ペルシャ圏、地中海沿岸ヨーロッパ、東ヨーロッパ、北海沿岸ヨーロッパ、北アフリカ、中央アフリカ、東アフリカ、西アフリカ、アラスカ、北アメリカ東部、北アメリカ西海岸、カリブ諸国、南アメリカ全域、南太平洋諸国……。
全部で107ヶ国、1日の生活費が宿泊費と交通費込みで5ドル前後というストイックな旅だったのだけれども、勉強も仕事もしないという贅沢の極みのような時間を、丸4年間、なにかに憑かれたような、そんな微熱を抱えて、ここでない、どこかを目指して、遙々と、未だ見ぬ土地に視線の先を据えていたのですね。

ピラミッドやアンコールワットの遺跡、あるいはルーブル博物館やNY近代美術館といった人類の偉大な先人たちが遺したお宝やガラクタを見たいとは、あまり思わなくて、ヒマラヤやナイル、アマゾンといった大自然の懐に悠然と抱かれるのも、なにやら退屈な気がしてました。

それよりも、日なが一日、道ばたで佇んでいるオバァやカフェで忙しく働いている婦女子さんと言葉を交わしたり、トラットリアやビストロでたまたま隣同士になった頑固そうな職人や生きることにしたたかな妙齢の婦女子たちとひと晩中話し込んだりすることのほうが、はるかに楽しかったですな。
オレは、さまざまな種類の雑誌をつくったり、音楽評論をしたり、アメ村文化から商工会議所までのさまざまなことがらについての文章を書き殴ったり、広告をつくったり、芝居の脚本を書いたり、翻訳をしたりしている、あえて言い切ってしまえば、一介のモノを書いてメシを食っている人間です。
モノを書いている人間などというのは、大半は、人間、に興味があるもので、オレも、興味の向く大半は、人間、だったりします。でも、旅をしている最中、人間に興味があったんだと言えばカッコいいのだけれど、それ以上に、誰かと繋がっていたいという、淋しさみたいなものがありましたな。

1987年、21歳の夏を、オレは、パリの下町、カルチェ・ラタンで過ごしました。ぶっ飛んだ若い連中や、目をギラつかせたアジアやアフリカからの移民、合法と非合法の境界線を綱渡りしながら歩いているような連中がたくさんいて、毎日が絵空事のように刺激的でした。
そんなとき、オレは、場末のビストロで、原形を留めないまでにドロドロに煮込んだタン・シチューを食べていて、とある妙齢の婦女子さんと知り合ったのですね。

ストリップ・ダンサーでね。
ちょうど、18歳の夏をオレは渋谷のストリップ小屋で住み込みバイトしてましたから、ストリップにはよくよく縁があります(笑)

ステージがはねたあと、彼女はきっとこの店で遅い夕食を摂っていると言っていました。オレも、ムール貝から子牛の胸腺までなんでも揃っているこの店が気に入っていて、何度か通っていたのでした。そして、2度目に見かけたとき、オレたちは、どちらからともなく話をするようになっていたのでした(タン・シチューを前にしながら!)。

オレは、極東の奇妙な国に覆う息苦しさから逃れたい一心で、アジアから中東を抜けて気がつけばこんなところまで流れてきていたんだ、みたいなことを話したように思います。
ベロニカ、というピカソのモデルになった女性とおなじ名を持つ彼女は、ハンガリー生まれのロマ(ジプシー)で、パリでストリップショーをやりながら生計を立てている、いろいろ辛いことはあるけれど、ダンスがあるかぎり生きていけるんだ、みたいなことを、訥々と話してくれました。
訥々とではあるけれども多くを語ろうとはしない彼女の話から透けて見える現実は、シビアな現実です。動乱のハンガリー現代史とロマのヨーロッパでの扱われかたを、オレはそれなりに知識として知ってはいたけれど、おそらくは、そんな生半可な知識では想像も出来ないような修羅場を、彼女はいくつもいくつもくぐってきたんだろうな、と、その場で僕は朧げながら感じとるのみでした。

どこかでシンクロすところがあったのか、なにかの波長が合ったのかは定かではないのだけれども、結局、その夜から、オレは、ベロニカの家に転がり込むことになりましてね。若さにも流れにも身を委せて、その年の夏の2ヶ月を、オレは、ベロニカとともに、彼女の家で過ごしたのでした。

ノー・ミュージック・ノー・ライフ、ってなくらいに音楽にのめり込んでいたオレにとって、ベロニカと過ごした日々は、煌めく宝石のようなものでしたわ。

サルサ、サンバ、スコットランド民謡にアイリッシュ&ケルト民謡、オキナワ民謡(!)、フラメンコ、ミュゼ、ルンバ、チャチャチャ、マンボ、ブーガルー、ガンボ、カッワリー、そしてロックンロールとブラックミュージック、レゲエ、スカ、ダブ、ロックステディ……。ベロニカは、世界中のありとあらゆるダンス・ミュージックに、その身を浸していたのでした。

まだ青くて堅いばっかりのパンク小僧だったオレには、それらはとても新鮮で、ピカピカに磨かれたおろし立てのブーツみたいに、魅力的なものに感じられたのですよ。いや、あのころは、触れるものなにもかもが新鮮でしたね。

いろんな話を、したのでした。
音楽について、音楽の未来について、ダンスについて、リズムについて、リズムの未来について、快楽について、感情と理性の揺らぎについて、ロマについて、共産主義について、資本主義について、自由について、不自由について、民族について、国家について、人が人を愛することについて、人が人を愛することのバカバカしさについて、交わることについて、男と女について、すれ違うことについて、旅をすることについて、旅をしながら生活をすることについて、流れていくことについて……。ホント、いろんな話をしたのでした。いろんなことを、ベロニカからは教わったような気がします。

旅をしていてよかったなと思う瞬間は、そういうときですね。
触れれば火傷をしてしまうような、熱い真実に出会うことがたしかにあって、まさに、そういう時間だったように思います。

夏の陽差しが心なしか柔らかくなってきた晩夏のある日、オレはベロニカの家を出る決心をした。次の旅をはじめる、再び流れていく決心を、オレは、したのでした。
目的のない旅の悪い癖でね、予定がないもんだから、居心地さえよければ、ダラダラといくらでもそこにいついてしまうのですよ。
だからね、ひと夏を費やしたけれども、えいやっ!と決心をしてですな、旅の続きをはじめることにしたのでした。

そのことをベロニカに告げたとき、
「旅をするんだったら、いろんなことを見て、聞いて、感じなさい。いろんなことを知りなさい。そして、知り得たことのすべてを、他人の立場や環境をリアルに想像するための手助けにしなさい。他人の立場をディテールまでリアルに想像することが出来たら、戦争や諍いはなくなるわ」
彼女は、オレにそう言った。

おそらくは個人の力ではどうにもならない巨大な力に翻弄され続けてきたであろう彼女は、そして自らの出自と生業に対して謂われのない悪意しか示さなかった人が圧倒的だった環境を生き抜いてきたであろう彼女は、それでも、なお、個人と個人は繋がることが出来るという希望を捨てずに、オレに、「人間は想像することが出来る」と、言うのでした。

そのときのベロニカの視線のオクターブの強さ、意志を持ったクチビルの動き、適度に緊張した力を漲らせた指先は、否応なく、オレの胸の奥の深いところに刺青のように刻印され、今でもまだくっきりと残っています。

今、ベロニカがどこでなにをしているのか、オレには知る由もありません。
1998年の夏にワールドカップを観に久しぶりにパリを訪れた際、かつてのベロニカの住んでいた場所に行ってみました。でも、すでに彼女はそこでは暮らしていないようでした。きっと、どこかの空の下で、オレが見上げれば広がっているのと同じ空の下で、彼女は今もきっとダンスしているのだろうと思っています。

年をとると、そういう思い出が澱のように溜まっていって、なにかの拍子にふと思い出して、言いようのない気持ちになりますな。

ベロニカには、よく、フラメンコを踊ってもらいました。


以上、3日間にわたったフラメンコ3部作、終了(笑)



最近よく聴いているのが、これ。オホス・デ・ブルーホ。彼を聴けば、フラメンコが遠くインドと地続きで繋がっているのが、よくわかります。

本日の1枚:
『Todo tiende』
Ojos de brujo


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