2007年12月18日火曜日

『エレクション・テスト』

坂本龍馬でもチェ・ゲバラでも誰でもいいのだけれども、歴史の年表に画鋲を撃ち込んでいるような偉人さんたちは、ほぼ例外なく、存命中は毀誉褒貶のただなかに晒されていたらしいですな。

ときを経て、そうした凸凹が磨かれ、決定的な評伝とともに評価が定まり、後年に偉人さんとして確定されていくのでしょう。

偉人さんだけではなく、表現者の評価というのは、そういう側面がより濃くあるのかも知れません。

真の表現者は、革命的で新しい表現を携え、そのことで既存の表現を殺すことでしか、世に出ることが出来ません。そうでなければ、新しく世に出る意味が、社会の側にはありません。
過去の手法をなぞっているだけの表現というのは、当人には某かの意味があるのだとしても、社会にとっては、あまり意味がないですな。過去の手法で表された表現は、それこそアーカイブを繰ってみれば、いくらでも素晴らしいものが収められていますから。

そう考えると、革新的な表現を携えて出現する真の表現者というのは、論争の的、それこそ毀誉褒貶の嵐に晒されることになるのは、必然ですらありますね。

だから、いくらベストセラーを連発して、その時代に受け入れられたとしても、そこに侃々諤々がないのだとしたら、その人はきっと、後世に名を残しません。

たとえば、戦前から戦後にかけて、和田芳恵という小説家がいました。ベストセラーを連発していて、全集も出版されています。オレは、彼が描く当時の風俗描写が好きなのでたまに読むのですが、まあ、今となっては、研究者レベルでないと知らない作家です。一般には、残っていない作家ですね。
やっぱね、当時からしても、革新的なところが、どこにもなかったんだと思うのです。

革新的、というか、不穏な空気といったほうがいいのかもしれないですが、そういうものを纏っている表現者は、それゆえに、存命中は毀誉褒貶に晒されるけれども、時代が変わっても残るし、何度でも蘇ってくるのだと、オレは思います。


最近、野坂昭如を読んでまして、この人はそういう作家なんだろうな、と、思ったりしました。

野坂昭如といえば、参院選に出たり知事選に立候補したり、歌を歌ったり、一方で『火垂るの墓』なんていう珠玉の掌編をモノにしている、マルチな表現者。で、コトを起こすたびに、毀誉褒貶の渦を巻き起こしてきた人。

ある資料本を目にしていたときにハタと気づかされたのですが…、
この人の文体は、博覧強記の饒舌ぶりをして井原西鶴に似ていると誤解されるのだけれども、ご本人は、井原西鶴はほとんど読んでいない、と言います。
それよりも、自分の文学的原点は、少年時代に読んだ猥本にある、と。
猥本ねえ、と、ずーっと思っていたのですが、べつのことで資料にあたっていて、ハタと目に留まったのが、告白タイプの投稿手記集なのですよ。

大阪にはそのむかし、『性生活報告』という告白本があったのですが、饒舌ではあるけれども主語が抜けていてときどき誰のことかわからなくなるような、彼の文体は、その告白本に出てくる、ひそひそ声に、よく似ているのです。体言止めの多様や、息継ぎをしながら畳み掛けるような口調…、ああ、これか!と、ここに辿り着いたときは、ひとりごちたもんです(笑)

日記のタイトルは、最近読んだ彼の短編。

近未来、超高齢化社会を迎え、国力が落ちた日本を救う起死回生の一手として、ET法なる法律が制定されたのですね。
男子65歳になったら、むかしの徴兵検査よろしくエレクション・テストを国家がやり、「現役」として合格しなかった男は死刑! 役に立たない高齢者はこの世から退場してもらうってことです。そうするとですな、仕方ないからそれまでに残った金をじゃんじゃん使う老人ばかりが出現して、消費拡大、景気回復間違いなしっ!ってお話(笑)

大笑いしながら読んでました。
筒井康隆が似たような仕事をしているけれども、筒井康隆よりも、野坂昭如のほうが、嘘のつきかたが上手いですな。嘘にリアリティを持たせるためには、具体的な名前をいっぱい出さないとダメなのですが、その点、野坂昭如の引き出しは、相当深いです。



最近聴いているモダン・グルーヴ・シンジケート。うねりがね、なかなかヤバいです☆

本日の1枚:
『Courthouse』
Modern Groove Syndicate

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