2007年6月14日木曜日

好きということの凄まじさ

院長と仲よしになってしまったので、接骨院に毎朝通ってます。
阪神タイガースの話しかしないですけどね(笑)

さて今日、30過ぎの青年がですな、松葉杖をつきながら、奥さんに付き添われて治療に来てました。
電気をあてているとき、隣同士だったので、少し話をしたのでした。治療はカーテンで仕切られたスペースで個別に行うんですが、電気をあてているときは、いろんな人と一緒なので。
じつは、この彼とは、3日連続で一緒になっていて、よく話をしてます。

彼、右足の指が、親指から外に向かっての3本が、ないんですね。
山をやっていて、ヒマラヤのどこだったかの山に登った際に、ブリザードに遭って、野宿するハメになり、凍傷でやられたんだとか。
で、補助的な義足を使っているんですが、ほら、足の親指がなくなると真っ直ぐに立つのが難しくなるから、身体のバランスを崩すみたいなんですね。それが腰にきたらしく、治療。

でも、また山をやりたいんだって。
奥さんは、嘆いてはりました(笑)
サラリーマンだから、何ヶ月もまとめて休むこと自体が無理だし、ただでさえ危険な山に、死ぬ可能性すらあるのに、なんでまだ登りたいのか…、と。

もちろん、この彼は、奥さんがいらっしゃる立場をじゅうぶんに理解していて、もう山に登ることはないんだろうな、というこれからの生活を、しっかりと受け止めているふうでもありました。

オレは、この彼に言わなかったけれども、本当は、次のようなことを言いたかったのでした。

他人だから言えることだけれども、と、前置きをして…、
好きなことをやって、仮にそれで命を落とすことがあったとしても、それは幸福な人生だと思いますよ、と。

あくまで、他人だから言えることとしてね。

オレは山男ではないけれども、旅をしていたころは、いろんな山に登ったんですね。
で、いろんな山男を見てきました。

長く山をやっていると、誰もが、友人の何人かを山の事故でなくしていて、ときには、その現場に自分がいるケースも少なくないようですね。さらには、なお、そのとき死んだのが友人であるのは運命のようなものであって、それが自分であってもまったく不思議ではない時間を、彼らは持っています。
よく、山での遭難事故にたいして、
「山を甘く見た」
と、簡単に書くメディアがあります。
でもそれは、少し違う。
それは、そう簡単にいえる問題では、ないですね。甘さゆえの事故が起こって死ぬ場合もあるけれども、彼らの多くは、山のベテランです。ひとくちに甘さというけれども、どんな人間であれ、甘さ、弱さは、持っていて、その弱さを、常にねじ伏せておけるように、人間は出来てはいません。

オレの知っている山男たちは、山では、大変な努力家です。死なないために、出来うるかぎりの努力をし、考えられるかぎりのことを考えています。
でも、それでも、なお、運命としかいいようのない気まぐれで、ホロリと、甘さが出るのですね。それが、人間だ、としかいいようのない気まぐれさで。
うっかり、
安全と思って、アンザイレンなしで行くときもあります。

本当に自分の生を安全に生きるのなら、山に行かなければいいのですよ。
しかし、人は、ついつい、危険を承知で頂きを目指してしまうものだしね。山の事故というのは、つい、山を甘く見てしまう瞬間もあるという人間の弱さをも含めた、巨大な不可抗力のなかにおいて、多くは起こるものです。

そういうことは、山をやったことがない人には、わからないかもしれないですね。

でも、好き、ということは、そういうことなのではないかと、オレは思うんですよ。

オレだってさ、1日に15時間とか20時間とかPCのまえに座って、せっせとモノつくってます。
おかげで、肩やら首やらの凝りに長年苦しめられて、病院通いですよ。
のめり込みすぎて、メシを食べるのも忘れて、吐くことだってありますわ。
このままだと体力が蝕まれていくのはわかるんだけど、でも、それで死ぬんだったら、それはそれでいいかな、という気分は、どこかでありますね。


病院で会う彼は、底抜けに明るくってね。
好きなことを存分にやってきた満足感が、足の指をなくしたダメージよりも、はるかに上回ってるんですよね。
好きなことをやるってことは、そういうことですよ。
彼の奥さんが、そのことを理解出来ないふうなのは、仕方がないことなのかもしれないけれども…。




何年かに1回の、シオン・ブームがオレのなかで去来しておりましてね…。今年は本当によく聴いてるわ。


SION / 好きで生きていたい

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