2007年6月20日水曜日

人間ポンプ


今日、桂米朝さんの『一芸一談』を読み進めていたら、人間ポンプの安田里美さんとの対談があって、嬉々として読んでしまいました。
こんなところで安田里美さんの名を目にするとは思っていなかったので。だって、人間国宝が、人間ポンプと対談してんですよ。国宝vsポンプ(笑)

安田里美さんは、いわゆる見世物小屋を活躍の場とした見せ物芸人なのですが、桂米朝さんがそうした人物と対談しているのだから、米朝さんって懐が深いなあと。
板の上の芸人が、土の上の芸人の、そのまた下の下に追いやられている芸人と対談してるのは、やっぱ、米朝さんの視野の広さというか、自由な精神の発露というか。。。

安田里美さんとは、オレが劇団に出入りしていたころに、1回だけ、小屋を見にいったことがあります。
まだ、見世物小屋が全国を巡業しているころで、無気味なオバチャンが生きたまま蛇を食いちぎって鼻の穴に入れて口から出したり、熔けた蝋を口に含んで炎を吹いたり…。そういう芸のオンパレードでしたな。
あと、小人さんの芸とかね。
河童の木乃伊やシャム双生児の標本、手品、セーラー服姿の婦女子さんたちによる蝋燭踊りと火吹き…。

そんななかで安田里美さんは出色の芸を見せてまして、それが人間ポンプ。
金魚を飲み、釣り糸を喉に垂らして釣りあげ、碁石を飲み、白と黒を胃のなかで識別して吐きわけるんですよ!そのたびに手で腹をさする仕草がとても奇妙でね。
ほかにもいろんな芸がりました。ガソリンを飲み、噴き出して火をつけ、炎上させる。裏方さんたちが舞台前方に集まって、消火器を持って身構えてるんですね。ぼっ、と炎があがった一瞬、肌に直接熱気が刺さってきたのを覚えてます。

なんちゅーかね、一種、異界ですね。フリークスの集まりですから。
やがて時代はくだり、清潔で気持ち悪い倫理が世を覆い、見世物小屋は姿を消しましたな。
小人プロレスを指して、残酷だ!と罵った潔癖性の人たちは、じゃ、小人さんたちの食い扶持をどう考えているんでしょうかね。
だいたい、小人さんを異形だというんだったら、超人的な動きを売りものにするアスリートたちは、皆、異形だし、それこそ残酷のそしりを免れないんでないか?(笑)

プロレスはきっと、見世物小屋の力比べが起源でしょうな。K1は漂白されすぎちゃって、虚実皮膜の部分が、ないからダメです。

ブルース・リーがいて、大山倍達がいて、アントニオ猪木がいて、梶原一騎がいて、みんな時代を背負ってギラギラしてたように思いますわ。
彼らもきっと、禅とかヨガなんかとおなじで、対抗文化の一翼を担っていました。
今から考えると、みんな虚構を背負った、こしらえもののヒーローでした。オレたちは、時代という巨大な見世物小屋のなかにいて、呼び込みの声にダマされて、それでもそこで繰り広げられる出来事に、目を輝かせてましたな。

サブカルチャーなんてぬるいもんじゃなくて、そんなもんは、アングラの終端が資本によって飼いならされたあとの姿で、論じる価値なんてなくてね。
富樫雅彦や山下洋輔のジャズ、唐十郎や瓜生良介の芝居、若松孝二や足立正生の映画、赤塚不二夫のギャグ漫画、ハイレッド・センターの美術、暗黒舞踏、布川徹郎や豊浦志朗のルポ、そして筒井SFと風太郎忍法帖……等々、みんな、時代を背負ってギラギラしてたじゃないですか。

今じゃ、辛うじてサーカスがありますかね。

日本のサーカスの起源でもある、見世物小屋自体は、江戸時代に隆盛を極めて、細工、動物、軽業、生人形に分化していきます。
なかでも、軽業は、幕末に活躍した、軽業師の早竹虎吉を中心に、江戸で爆発的な人気を誇っていたんだとか。で、いち早く海外で興業した彼の芸が、歌舞伎の題材を取り入れ、物語性を持っていたんだとか。
なんだか、サーカスとバレエ、演劇などがそれぞれのジャンルを越え、新しいパフォーマンスが次々に生み出され、サーカスにとって新しい時代の分岐点となっている「今」の視点から見て、非常に興味深いものがありますな。

どいつもこいつも、病的潔癖性おばさん連中によって、消されちゃったけれども。

あ、でも、考えてみれば、大スポ・東スポなんて新聞は、思いっきり見世物小屋的感覚か。小屋という形態は滅んでも、こうしたいかがわしいものを見せる場は、必ず、どこかに存在するのだな。

ああ、久しぶりに、小沢昭一がまとめた『日本の放浪芸』が観たくなりました。

0 件のコメント: