2007年11月11日日曜日

語らいなき衝突の世界 / 『永遠の語らい』

最近忙しくて逃げていたのだけれども、ついに逃げ切れなくなって、仕事でDVDのレビューを書かされるはめになりました。。。
今が、一番忙しいんですけれどもね(笑)

今回観たのは、2003年にポルトガル、フランス、イタリアの合作で製作されたマノエル・ド・オリヴィエラ近年の代表作『永遠の語らい』。

ポルトガルの巨匠マノエル・ド・オリヴェイラの作品をまえにして、なにかを口にすることなど恐れ多いことではあるのですが、まあ、やってみます。

だいたい、このオジィ、1908年生まれの今年12月で99歳ですよ!シネマトグラフ100年の歴史を体現しているオッサンですからね。サイレント時代(!)に監督デビュー作『ドウロ河』(1931年)を発表して以来。ずーっと、今もって現役。世界最高齢現役監督であることは、ほぼ間違いないでしょうな。ほかに誰がいる?(笑)

老いてますます盛んとはいいますが、80歳を越えてからのオリヴェイラの多作ぶりは目を見張るものがあります。ほぼ年一作の驚異的ペースはここ10数年しっかりと守られていて、しかも一作ごとに作風が違い、現在も新作を製作中って話ですから、どんだけ絶倫か!っちゅーことですよ。
オレは映画製作とはまったく関係ないところで生きてますから、こういうオヤジがいることの幸福を遠慮なく享受しますけれども、若手の映画監督とか、たまらんと思いますよ。はよ引退するか死ぬかしてくれんことには、イスを明けわたしてもらわれへんわけですからね。

さて本作は、オリヴェイラが95歳(笑)のときに発表した、円熟(笑)の作品です。

ざくっと言ってしまうとですな、リスボン大学の歴史学者の母と7歳の娘が、インドにいるパイロットの父と会うために、各地の歴史遺産を観光しながら、地中海からスエズ運河を抜ける船旅に出る、というストーリーですわ。
んで、そこにあるのは、キリスト教世界から見た歴史の源流、神話時代への旅、あるいは、喜望峰経由で新インド航路の開拓を目指したバスコ・ダ・ガマへの目配せです。
オリヴェイラには、ポルトガル人として、現代社会を形作った大航海時代・植民地時代への自省があるのだな、と、感じさせる作品ですな。9.11のアメリカ同時多発テロ以降、より露になった文明衝突の当節に向き合った、オリヴェイラなりの回答だと、オレは見ました。

無骨な長まわしのカメラが捉えるのは、コミュニケーションの手段としての会話である語らいです。
前半の、ゆったりと進行する船旅、繰り返される近似した史跡来訪シーンは、観る者に独特な酩酊感を与えます。
ポルトガル、スペイン、フランス、イタリア、ギリシャ、トルコと、地中海を東方へ抜ける航路は、そのまんま、西欧文明にとっての帰郷でもあるのですが、カトリックである毋とギリシャ正教神父との会話、トルコの大聖堂がモスクに変わった中世トルコの話などを興味深げに聞く娘は、道中で幾度となく毋に質問します。

どうして戦争をするの?
と。

そしてトルコを越えたあたりで、歴史学者の母によるキリスト教史観の解説は、トーンを落としはじめます。そう、そこはアラブ世界。すでに西欧歴史学者の目前には「過去」ではなく「現代」が横たわっているのでね。まさか、アラブ世界で、キリスト教史観を展開して、アラブを断罪するのは、危険である以前にナンセンスです。

話は、こんなかんじです。
2001年7月(9.11の寸前という設定ですね)、7歳の少女マリアは母親のローザと、インドのボンベイにいるパイロットの父親と会うために、地中海を巡る船旅に出発する。
同時にこの航路は、歴史学者のローザにとっては、本のなかでしか知り得なかった「歴史」への出会いでもあります。ポルト、マルセイユ、ポンペイの旧跡、アテネ、イスタンブール、エジプトのピラミッド…。キリスト教圏の人間にとって、ヨーロッパ文明を遡る、遥かなる時空の旅でもあるわけです。
ある種、自分探しの旅ですな。

ポルトガル大航海時代の全盛を伝えるバスコ・ダ・ガマ像にベレンの塔。
フランス革命を伝えるマルセイユでの会話。
火山の噴火によって滅びたイタリア・ナポリの古代都市ポンペイ。
古代ギリシャの神殿や円形劇場。
中世、地中海を席巻したイスラム教徒によってモスクにされたイスタンブール(コンスタンティノープル)の聖ソフィア大聖堂。
カナンの民によって建設されたエジプトのピラミッド……。
寄港地の史跡をまえに、ローザは、マリアにオデュッセウスの物語やローマ神話を語って聞かせるのだが、7歳のマリアにとっては理解不能な戦争の歴史が、そこにはあるわけです。

人間ってどうして戦争をするの?
と。

アラブ圏に入り、紅海を抜け、イエメンのアデンを出港した船上のとある夜。
マリアとローザはアメリカ人の船長と知り合い、夕食の席へ招かれます。そこに同席するのは、起業家のフランス人(カトリーヌ・ドヌーヴ)、元モデルのイタリア人(ステファニア・サンドレッリ)、女優で歌手のギリシャ人ヘレナ(イレーネ・パパス)といった、異国籍のセレブの婦女子さんたちです。彼女たちは、各々自国の言語で喋り、かろうじて会話を理解し合える関係です。テーブルには、キリスト教圏に住む者同士の(EU圏でもある)、言語の壁を越えた愛や人生の語らいがあったのですがね。

でも、オレたち観る者は、船上での多国籍な進歩的文化人たち(好人物たちでもありますが)の微笑ましい交流に、決定的に欠落していたものがなにかに、思いを巡らさざるをえません。
たとえば、
アラブ圏を通過する豪華客船の客人のほとんどが白人であったこと。なおかつ夕食に同席した多国籍な人々が、各々の文明・西欧史を象徴していたこと。ギリシャ人=古代文明、イタリア人=ローマ帝国、フランス人=神聖ローマ帝国・革命、アメリカ人=現代のバビロン、ポルトガル人=大航海時代…。
マリアが客室へ取りに戻った人形(船長がアデンで買ったプレゼント)がアラブ衣裳を纏っていたこと。アデンでは毋娘の史跡巡りがなかったこと。キリスト教圏の船旅では船外中心で、アラブ圏以降の船旅では船内中心であったこと、などなど……。

そう、夜の紅海をひた走る船上の西欧人たちに、真っ暗闇のアラブ世界はついぞ見い出せなかったのですね。
文明を語るテーブル(永遠の語らい)から排除されていた者たちは誰だったのか?
と、問いかけるオリヴェイラは、自省も込めて、西欧リベラルの寛大なる理解の限界を巧みに突いていて、それはオレたち日本人にとっても人ごとではないですな。なぜなら、日本にだって民族問題や文明の衝突はあるのだから。

また、物語の最終寄港地がアラビア半島最南端イエメンであることも示唆的です。
地理的に、ヨーロッパ思想のマージナルな限界点を暗示してもいる。オリヴィエラは、ここがヨーロッパの終焉だと言わんばかりです。
語らいなき衝突の世界(9.11以降浮上してきた世界)を憂える、老功なるメッセージが、本作には込められています。

静謐で豊穣な地中海の旅も、あまりに唐突な結末も、周到に敷き詰められた伏線のうえに成り立っていたことが、よくわかります。
本作は結末からはじまる映画ですね。1世紀を生きた巨匠の問いかけ、危急のメッセージが、そういう映画を撮らせたのでしょう。

これまである一定の方向に進んでいた西洋文明が、9.11のテロ以降、べつの方向に向かい出したのではないだろうかと思います。9.11は、今まで続いてきた西洋文明に終止符を打つものではなかったのか。太古、中近東やインド、ギリシャから複雑に歩んできた西洋文明が、べつのシステムにとって代わる。西洋諸国にとってそれは簡単なことではありません。そんなことを考えながら本作品のアイデアを思いつきました…。

オリヴィエラはそのように語り、また、次のようにも語っています。

観客が、映画を観ながら感情だけではなく理性も動員しながら参加出来るような作品にしていきたい。つまり観客の感情だけではなく理性をも納得させたい。そういった作品を撮りたいと思っています。
派手な作品であれば人は振り向きますが、それらには、じつは魅力もなければ深さもありません。観客はおそらくそのようなものに値しない。観客とはもっと素晴らしいものに値すると思うのです。私の映画が、観客になにかそれ以上のものを伝えられるものであってほしいですし、
そして、そこでまた観客が、それぞれのアイディアや考えを付け加えていけるような作品でありたい。そのために作品はシンプルでなければならないと思っています。

と。

100歳を目前にしてなお、オリヴェイラは世界を認識しようとします。もう、これ以上認識する必要がないほど、この作品は、なかなかに刺激的です。



たとえば、こういう映画を観たあとは、フランスの元祖トイ・パンクとでも言うべき、パスカル・コムラートを聴きたくなります。

本日の1枚:
『Russian Roulette』
Pascal Comelade

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