2007年11月19日月曜日

金閣へ行く

よくある話、というもののひとつではあるのですが…、
「ここに金閣寺がなければ、どんなに素晴らしいものか」
「どうして?」
「オレが金閣寺を造る」
というものがあります。

大北山の麓。金があれば誰でもなにか大きなものを造ってみたくなる場所ですな。

むかし、ここは地方豪族の中資王の領地でした。これに目をつけたのが西園寺家の創立者、西園寺公経。公経は承久の乱のときに北条氏の味方となり、その功績を買われて太政大臣になった男ですから、政治の力量も相当にあったのでしょう。
政治力もあったけれども、生来の建築好きでもあり、ここに目が向いたらカーッとのぼせ、尾張にある荘園と交換してしまったのでした。
室町時代のことですわ。
スケールはだいぶ下がるけれども、先祖伝来の田舎の土地を売って都会の外れに建て売り住宅を買うサラリーマンのようなものですな。

念願叶って手に入れたこの土地に、公経は結構を極めた寺院兼別荘を造り、西園寺と命名しました。貴族としての自分の家名も、大宮から西園寺に変えてしまったのだから相当なものですが、もっとも、家名は家号(屋号)だと考えれば、どうということはないです。

西園寺の寺境はなかなかに広大なものでして、その北には公経の別荘が建てられ、北山殿と呼ばれるようになりました。
贅を尽くした貴族の邸宅としては藤原道真の法成寺殿が有名だったのですが、公経は、この法成寺殿に張り合うつもりだったのだといわれています。

法成寺が素晴らしいと世間はいうが、北山殿には山の景色というアドバンテージがある。都を離れた眺望のよさに叶うものはない。

と、『増鏡』にあります。まあ『増鏡』は、西園寺家のパンフレットという側面を持っていますから、そういうことが書いてあってもいいのですが、どこまでが本当なのかは、眉唾ですな。教科書に載っているテキストだからといって、簡単に信用しないように(笑)

法王や天皇がやってきて、滞在することもありました。
南朝勢に追われてしばらく近江に逃げていた天皇は、この北山殿に仮住まいしていたとか。

その後、西園寺の隆盛に衰えが見えはじめ、しばし、荒廃します。

3代将軍足利義満がここへ新しい北山殿を再建したのは、応永4年(1397年)。
で、その北山殿の舎利殿として造られたのが、金閣です。
将軍義満のすべては、この金閣寺に代表されるといっても過言ではないですな。

足利幕府を開いた尊氏は隆盛を見る間もなく没したけれども、義満は、いわば、生まれついての将軍であり、富と権勢をほしいままにするという、なんとも羨ましい境遇でね。

ただ、これほどのモノをつくる人物なのだから、野心に底がなく、常人には理解しがたい、破天荒そのものでもありましたな。
明国に対して、天皇を飛び越えて日本国王を名乗ったので、明の皇帝に臣従する礼をとったのはけしからん、ということになっています。しかし、義満にいわせれば、オレは将軍を超えた存在であり、将軍の権威は天皇によって授けられるが、将軍以上の存在であるオレが天皇を無視するのは当然だ、という論理なのですよ。
明の皇帝に臣従したのも、こうしなければ自分の権威を裏打ちするものが得られないからです。
要するに、天皇よりもでっかい存在をバックにつけて、日本国内では一番エラい存在を目指した、と。

明国貿易の利益を一手に収め、国内では守護大名の上に君臨する専制君主となったのが、義満です。
その明国では、黄金がなによりも尊重され、工芸品の価値は、黄金をどれだけ使っているかで決定される風潮でありましたから、義満が君臨する日本国も、黄金の世界に巻き込まれたわけです。
日本はエルドラドということになっていましたから、金閣は、金閣以外ではあり得なかったのですね。

義満以前にも金をふんだんに使った建築物はあります。
中尊寺もまた、古くから黄金郷と呼ばれたところですな。
義満がすごかったのは、金を直接召し上げるのではなく、金を流通させるシステムを構築し、流通経路のすべてから税を徴収したことです。これで、何倍もの富を築くことが出来るようになりました。

総工費は百万貫を超えていたといいますから、現在の価値に直して、どれくらいのものですかね? 昭和62年には総額7億5千万円をかけて漆の塗り、金箔の貼りが行われています。だからそのあたりの金額になるかと思ったら、ところがどっこい、これが大間違い。往時の金閣は、今の何倍もの領地を誇っていましたから。

造営工事を分担させられた大名たちは泣く泣く協力し、その名残は鏡湖池に点在する巨大な細川石・畠山石の名に伝わっています。もっとも、大内義弘はただひとり、工事分担を拒否。
武士なのだから弓矢(戦)で仕えるのみ、と、なかなか威勢のいい啖呵を切ったのですが、この反抗が災いの元となりまして、まもなく滅亡させられてしまいます。
しっかし、自分のいうことを聞かないからといって、一族もろとも滅ぼしてしまうようなトップって、商売人からすれば、あり得ませんけれどもね。このへんも、義満の破天荒っぷりが見てとれますが。

応永8年(1401年)、義満は北山殿に日本国の政庁を置くことを宣言。
すでに7年もまえ、義満は将軍職を息子の家持に譲っていて、将軍の政庁は室町にありましたから、室町と北山の2元政治になってしまいはせぬかとも危惧しないわけではないのですが、室町との競合など、起こるはずもありませんでした。それほど、義満の権勢は凄みがあったのですね。

でもですな、義満が亡くなると、広壮華麗な北山殿を維持する力は、幕府にはありませんでした。
財政もさることながら、義満のような桁外れのスケールを持った政治家など、何代もおなじ家から続いて出るわけがないのですから。

金閣寺は正しくは北山鹿苑寺といいますが、その鹿苑寺というのは、義満の菩提を弔うために金閣を中心にして建てられた寺院全体を指します。勘違いしている人も多いですけれども、金閣が先で、鹿苑寺が後なのですね。

北山殿の金閣以外の建物は解体されて、南禅寺や建仁寺などの禅宗寺院に移築されました。
したがって、義満に直接のかかわりのあるのは金閣だけになってしまったのだけれども、それでも庶民からすれば、キンキラキンの建物は人気がありますから、江戸時代には早くも料金を納める者には拝観を許すようになっていました。
京都と大阪に旅した江戸時代後期の物語作家、滝沢馬琴が、
「1人から10人までは、銀2匁を寺僧に渡せば庭の門を開けて、入れてくれる」
と、書いています。他の寺院については、なんとも書かれていないのにね。

ま、その金閣も、1950年にはひとりの僧によって放火され、炎上してしまいます。
このあたりのことは、三島由紀夫の『金閣寺』、水上勉の『五番町夕霧楼』や『金閣炎上』に詳しいですな。


ということをですな、このクソ忙しいさなかに日本にやって来たブラジル人のオッサンを接待せねばならぬことになりまして、金閣に案内して説明せねばならんかったのですよ。
ブラジルの公用語はポルトガル語なのですが、ポルトガル語なんて一切喋らんからな、スペイン語しか喋らないから、それでもちゃんと理解しろよ!と、釘だけは刺してですな、ややこしい説明をしてましたですよ(笑)
ま、ポルトガル語とスペイン語なんて、大阪弁と標準語程度の違いしかないね。

以下、今年の金閣をアルバムから抜粋。
ここの紅葉は早くから赤く染まる種類なので、なかなかいい感じです。でも、人が多すぎて、やっぱ、この時期はどうにもなりませんな(笑)

奈良の春日大社を見たときにも思ったし、秀吉がつくらせた黄金の茶室を見たときも思ったのだけれども、黄金と漆の赤というのは、並みの神経では調和させることなど出来ませんが、力のある人間が圧倒的なスケールでこれをやると、美の極致とでも言いたくなるほどの艶やかなものが出来上がります。

なので、紅葉の時期の金閣は、一見の価値があります。
































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