2007年11月1日木曜日

夜の




最近、夜に遊びで出歩くことはなくなっていて、まあ真面目におとなしくやってるんですが、昨日、日付が変わってから打ち合わせをしてまして、久しぶりに、その足で飲みに出かけましたな。
といっても、オレは飲まないけれども(笑)
といっても、スーパー銭湯行って、お好み焼き屋で騒いでただけですけど(笑)

一緒に行った編集者は、夜が大変に好きなやつで、もう、夜に遊びまわっとりますな。
昼間は昼行灯みたいになってまして、夜になると、いきいきするので、普通の時間に仕事を依頼するのが怖くて、いっつも夜に…。

キャバクラなんて小便くさいところには行かずに、ラウンジかクラブに行って、そのままちっこいスナックで頭にネクタイ巻いて大騒ぎする!という、なかなか古典的な行動パターンを好むやつなのですよ~。
といっても、オレも、スナックは大好きだし、だいたい、カフェブームかなんか知りませんが、そういうヘルシー志向はクソくらえで、オレは断然、深夜の穴蔵のスナック派ですから☆
といっても、最近は全然ご無沙汰だけれども(笑)

それでもね、月末も夕方5時を過ぎると、飲み屋のおねーちゃんが、支払いが終わったのを見透かしたかのようなタイミングで、連絡を入れてきますな(笑)
といっても、カネもないし、めったなことで行きませんけど。

そんなわけで、昨夜、ひさしぶりに夜も更けまくってる時間に、仕事ではなく、外をうろうろしてました。
夜はやっぱり、いいですな☆
オレは、やっぱり夜が好きなんだなあ、と、改めて思いました。

なんでもいい。
試しに、夜の、を頭につけてみてください。

「夜のmixi」
「夜のルイス」
「夜のおとりよせ」
「夜の賞味期限偽装」
「夜の赤福」
「夜のNOVA」
「夜の亀田親子」
「夜の防衛省」

どんなにキレイな言葉でも、たちまちのうちに、淫美で妖しい雰囲気を醸し出すじゃないですか☆

いずれにしても、夜は、どこかに後ろめたさと大胆さと投げやりなかんじとぬくもりと残酷さを想像させます。

もしも夜がなかったら、と思うと、ゾッとするのですよ。

寝れないし。
遊べないし。
思えないし。

夜の、と冠してしっくりくるモノあるいは人というものは、もとより夜を所有出来る素養を持っているのであり、物事を裏表両面から見ることを普通にやっているというのが、オレの印象です。

そういえば、オレのマイミクさんたちは、夜、それもハンパではない夜に日記を更新されている方が多い。


夜の音楽いうジャンルがあると、オレは思っています。

夜の静けさのなかで着想された、夜の感覚で音を表現した、夜の孤独者にふさわしい音楽、というほどの意味です。ショパンやフォーレが、そういう微妙な音楽をよく書いたように思うのですよ。マーラーの第7交響曲も夜の音楽としてつくられているし、バルトークは、ルーマニアの山村の深い夜のしじまのなかに聞いたカエルの声から、神秘的な彼の夜の音楽を作曲したというではないですか。

夜の音楽は、不思議なジャンルです。

人々が寝静まって、あたりは深い静けさに包まれてます。人間の意思や欲望が掻き立ててきたノイズが消え去ると、代わってそこには、べつの種類のノイズ、自然の内部から湧き上がってくる、たくさんの微妙で、豊かな音楽が、聞こえてくるようになります。
でも、夜のなかでは人は眼が見えないから、それがどこから、また誰からやって来る音なのか、わからりません。そのために、夜のしじまの全体が、この複雑で微妙な音を奏でているような気がするのですね。
人はその体験をもとにして、夜の音楽をつくるのではないか?
かすかな震え、いつまでも続くかと思われる反復のなかから発生する、微妙なうねり、最小限度の要素だけから生み出される、宇宙にも匹敵する複雑さ、みたいなものを、音にするのではないですかね?

たとえば、夜の京都の庭で聞こえてくるのは、このような夜の音楽です。

京都には、なまのままの自然は存在していなくて、どんな小さな自然であっても、人間の精神によってたわめられ、手を加えられなかったものは、ありません。庭園の設計者たちは、なまのままの自然から、最小限の要素だけを取り出して、それで宇宙と生命のすべてを表現してみようとします。

銀閣寺の庭が一番わかりやすいですね。

一面に敷きつめられた砂、その砂の表面に、反復する模様だけが描かれている。月明かりのもと、その反復のなかから、微妙で、豊かな音楽が発生し、静かに、渦が巻き起こり、空気がうねっていくような、眼に見えない動きをはじめます。そうすると、さらさらの、抽象的な砂だけでつくられた庭が、精妙な生命を持つもののように、感じられてきます。

あるいは、べつの庭では、地面を覆い尽くす苔が、あたりをふかふかの緑に変えています。隠花植物である苔には、花がなく、そこでは、生命の花は、眼に見える植物の表面にはあらわれては来ず、見えない生命の内部空間に咲きます。
そのとき、夜の庭園にいて、無数の苔に囲まれた人は、生命のあでやかな花を見るのではなく、まず、聴くのですね。表面のはでやかさは否定され、そのかわりに、植物の内部からは、生命が華麗な夜の音楽に姿を変えて、庭園のすみずみまでを充たします。

もしも都市が、人間の意思や感情だけで造られているとしたら、京都のような狭い空間に開かれた都市は、すぐに息が詰まってしまっていたことだろうと思うのです。少なくとも、大阪は息が詰まりますなあ。まあ、息が詰まる大阪が好きだったりするのですけれども。
ところが、京都では、いたるところに庭があり、そこでは抽象的な砂だとか、植物の見えない内部空間から発生する微妙だとか、家屋の中空にうがたれた無だとかから、夜の自然の音楽が、生まれてきます。

夜とエロが単に直結しているとしか考えられぬバカ者どもには、夜の豊かさを知ることがないでしょうね。

夜の豊かさを知る件の編集者は、夜のタネ銭を得るため、今日も仕事してますわ。



リトル・フィートは、なんだかんだいって、夜の音楽をやっているのだと、オレは思っています。というか、サザン・ロックの本質は、夜の音楽ですな☆

本日の1枚:
『Spanish Moon』
Little Feat

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