2007年11月12日月曜日

グラナダ




ざくろをね、いただいたのでした。
気の早いお歳暮みたいなもんで、神戸の編集部の若い編集さんのおかあさんから、いただいたのでした。そんなところからモノをいただくのは、恐縮のかぎりですが。
ただ、雑誌の編集なんて仕事は、深夜にまで労働が及ぶことが多いですから、若い婦女子さんが入社されるときは、親御さんにもオフィスを見てもらって、いろいろとご理解を得ることにしています。
そういうご縁で。

ざくろ、好きでね。
高いから、滅多に買わないけれども。

スペインのアンダルシア地方はフラメンコの故郷でありますが、その、アンダルシアの首府であるところのグラナダは、ざくろの故郷でもあります。
なので、ざくろは、スペイン語、ポルトガル語、イタリー語では、グラナダと言いますな。granada。グラナーダ。英語だと少し訛って、Pomegranate。
グラナダの食堂でざくろを食べていて、これはスペイン語でなんというんだ?と、間抜けなことをグラナダの食堂のオッサンに聞いたことがあります。
グラナダ生まれのグラナダだ、と、言い放たれましたわ。

夕陽が真っ赤で、ざくろも真っ赤で、そこに、闘牛とフラメンコの情熱の赤が加わりますから、グラナダの秋は、赤一色です。

毎朝、カフェで、パンに生ハムとアボガドを挟んで食っていて、ざくろのジュースを飲んでいたのですよ。
カフェには、いろんなフルーツが積んであって、それを手に持ってカウンターに行くと、その場で絞ってジュースにしてくれるのですね。
でも、ざくろだけは、あらかじめ絞ったものが瓶に詰められていて、そこから注いでもらっていたのでした。どうやら、ざくろだけは、絞るのではなくてミキサーにかけて、ガーゼで漉してジュースにしていたらしいのです。手間がかかっているぶん、ほかのフレッシュジュースよりもほんの少しだけ高かったですな。

夜になると、フラメンコを観に、ペーニャへ出かけます。
遅いですよ。
夜11時くらいから。
グラナダのフラメンコはどこもレベルが高いので、高い店に行かなくても、安い店でもじゅうぶんに堪能出来ます。
踊り子の汗が届くくらいの距離でフラメンコを観るのが、オレは好きです。

悲しみや痛みは、人が持つ感情や感覚のなかでは、かなり正しいものだと、オレは思っています。
正しい、といういいかたは変だけれども、正しい、としか、いいようがないのですね。
歓びや怒りに比べて、悲しみや痛みは正鵠で、間違えようがないものだという意味で、正しい、と、オレは思っています。

その、悲しみや痛みが感じられる距離で、フラメンコをいつも観ていました。
それが感じられるかどうか、が、フラメンコの善し悪しを判断する、オレにとっての唯一の材料でした。
だから、フラメンコを観にいくということは、悲しみや痛みを求めにいく、ということにもなり、こうして言葉にすると、なかなか不思議な行動です。

ところで、悲しみも痛みも、不思議なものですな。
なぜ悲しいのか、ときどきわからなくなるときがあります。
それはきっと、孤独や、無理解や、不寛容や、無情であることへの悲しみであり痛みなのだと、今になって思うのだけれども、きっと、まだ固くて青いばっかりだった若いころのオレには、そういうものが必要だったのでしょう。

ざくろを食べると、あんなにも爽やかな果物なのに、あのころのことを思い出して、ホロ苦くもあります。




本日の1枚:
『アンダルシアに憧れて』
真島正利



もういっちょ。
フラメンコのなかなかよさげな動画を見つけたので。

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