2007年11月24日土曜日

広沢池の景観















えーっと、東京で会議しながらmixiやってます(笑)
ま、12時間以上の長丁場の会議なので、なんでもありなのですよ。


こないだ、クンパルシータに行ったことを日記に書いたのですが、そんときは、仕事で京都の嵯峨野に行っていたのでした。
あっちゃこっちゃの紅葉を撮影してまわって、まあ、来年のいろんな雑誌に使う用ですわ。
ほら、雑誌の紅葉特集は、もちろん紅葉がはじまるまえに出版されますから、前年に紅葉写真を撮っておかないとダメなのですね。
そんなわけで紅葉写真をいろいろと撮影したんですが、オレが撮影したわけじゃなし、カメラマンが撮影してますし、仕事用ですから、さすがにここにアップするわけにもいかず…。

でも、途中、広沢池を通ったときに、えらいことキレイな風景に出会ったので、ちょこっとだけ車を止めて、しばし佇んでました。

広沢池は京都の超メジャー観光地、嵐山のその奥にありまして、まあ、この時期ですから、観光客の皆さんも足をのばしてますけれども、それでも嵐山の喧噪に比べたら、全然マシでしたな。
このあたりは景観保存地区にも指定されてるんで、看板がほとんどなくてですな、風景がうるさくないんです。
ちなみに、瀬戸内寂聴サンの寂庵もこのあたりにあります。行ったことないけど(笑)

この広沢池は、それこそ京都に都が移ってくる以前の奈良時代に、コリアンからやって来た技術者集団、秦氏が造った溜め池です。
秦氏一族ってのは、当時の日本にはなかった治水技術や土木技術を持っていて、そのおかげで、京都も奈良もすっきりした都が出来ましたから、日本の礎を造った集団ですね。それでいて、お寺さんの造営したり仏像造ったりもしてますから、もうね、当時の先進的な技術は、ぜーんぶ、この人たちがもたらしたもんですわ。
もうね、あっちゃこっちゃでモテモテだったと思いますよ。
今でいったら、村上隆のアトリエ・グループか、少しまえだとビースティ・ボーイズのグランド・ロイヤルみたいなもんですよ。先端的なデザイナー集団。

さて、嵯峨野は、一番奥にある化野念仏寺(無数のお地蔵さんが祀られているところで有名なお寺さんですね)のあたりは京都の風葬の地でしたから、黄泉の国との入口だったわけです。んで、その手前が、嵯峨天皇の愛した土地。
風光明媚なこの地を嵯峨天皇が愛し、お墓まであるのですが、風光明媚な土地でもあるし、天皇家ゆかりの土地でもあるので、時代が下っても、ときの幕府政府が予算を組んで、景観維持に努めてきたのですね。
それこそ、剪定をしたり、道を整備したり、鎌倉幕府も室町幕府も江戸幕府も予算を組んで、景観維持に努めてきたわけです。

こういうことって、今もむかしもおなじですが、国家予算を組んで政府が景観維持に努めてるなんてことは、一般の人は気にも留めてません。なにもせずとも、景観は維持されてると、漠然と思っていたんだと思います。
明治維新が成ったときもおなじで、維新直後、この地はずいぶんと荒れたんですね。勝海舟が、幕末までにこの地で遊んでいたころのことを思い出して、晩年、ここへ立ち寄ったとき、嵐山も嵯峨野も、荒れに荒れていたそうです。
んで、勝海舟が、地元の人に、なんでこんなことになったのかを聞いたらですな、江戸幕府のころは、幕府が予算を組んで、景観を維持していた、と。でも、明治政府になって、その予算が組まれなくなり、この地は荒れるにまかせたままだ、と。

そんときに勝海舟は悟ったわけですね。国を維持するということは、そういうところにまでくまなく予算を分配することか、と。
それからですよ、再び政府によって予算が組まれ、以後、現在に至るまで、ここは連綿と景観保護地区に指定され、予算が組まれているわけです。

だからか、今も素敵な風景を残してますね。看板とか、いっこもないですから。

そーいえば、オレは旧共産圏の東ヨーロッパを、ベルリンの壁崩壊前と崩壊後と2度訪れているのですが、その街並の変わりように、愕然としましたですよ。
共産党の一党独裁のころは、国家予算を投じて、中世の面影を残す街並の維持に努めていたのですが、民主国家になって、数年で一気にスラム化しましたね。
今ごろになって世界遺産登録ブームを契機にかつての街並を復活させようとしてますけれども、一度壊れた風景を復活させるのは、しんどい事業でしょうね。

予算を投じることもさることながら、条例の整備、民意の形成、意識の啓蒙…、やらなければならないことはたくさんあるわけで、京都はその点、世界的に見ても、相当頑張ってるほうでしょうね。




サンセットといえば、ジャック・ジョンソンかな〜(笑)


Jack Johnson / Better Together

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